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2018年1月16日 (火)

バッハ研究史略年表

19世紀がバッハ復興の世紀だったことはよく知られているし、また語られている。それらとブラームスの動きを整理するために略年表を作成しておく。

  • 1750年 バッハ没
  • 1802年 フォルケル「バッハ伝」出版。
  • 1829年 メンデルスゾーン 「マタイ受難曲」蘇演。
  • 1833年 ブラームス出生
  • 1848年 ブラームス初演奏会 バッハのフーガを演奏
  • 1850年 バッハ協会発足
  • 1851年 旧バッハ全集第一巻刊行
  • 1862年 ブラームス、ウィーンデビュウの演奏会でBWV540を弾く。
  • 1855年 クララ ブラームスに旧バッハ全集第一巻を贈る。
  • 1873年 シュピッタ「バッハ伝」第一巻刊行
  • 1875年 ブラームス、ブライトコップフ社から「旧バッハ全集」の校訂者のオファーを固辞。
  • 1877年 シャコンヌのピアノ左手用編曲。
  • 1879年 ブラームス、トマスカントル就任のオファーを固辞。
  • 1880年 シュピッタ「バッハ伝」第二巻刊行
  • 1881年 ブラームス旧バッハ全集に編集に参画
  • 1882年 ブラームス、ブライトコップフ社から「旧バッハ全集」の校訂者のオファーを固辞。
  • 1897年 ブラームス没
  • 1899年 旧バッハ全集完結

2018年1月15日 (月)

教会からの離脱

ブラームスは、ウイーン楽友協会芸術監督の座にあったこともあって、バッハの宗教作品を何度か上演している。それぞれの演目は、キリスト教の祝日に合わせて作曲されているので、以下にそれを列挙する。移動祝日もあるので2018年の暦を付記しておく。

<BWV4>復活祭当日 4月1日

  1. 1858年秋 デトモルト
  2. 1873年3月23日 ウィーン

<BWV8>三位一体節後第16主日 9月16日

  1. 1873年4月6日
  2. 1873年4月8日

<BWV21>三位一体節後第3主日 6月17日

  1. 1857年秋 デトモルト
  2. 1867年11月7日 ウィーン

<BWV34>復活祭当日 4月1日

  1. 1875年1月10日 ウィーン

<BWV50>第天使ミカエルの祝日 9月29日

  1. 1873年12月7日 ウィーン

<BWV60>三位一体節後第24主日 11月11日

  1. 1873年12月7日 ウィーン

<BWV244> マタイ受難曲 

  1. 1875年3月25日 ウィーン

<BWV248> クリスマスオラトリオ

  1. 1864年3月20日 ウィーン
  2. 1874年4月19日 ウィーン

見ての通りだ。ウィーン楽友協会音楽監督として、シーズンのプログラムを決定する際、演目にバッハの宗教曲を選んでいながら、本来の用途通りの日に演奏しているわけではなかった。わずかにBWV4とマタイ受難曲だけが、復活祭近くに演奏されている。さすがに復活祭当日にコンサートははばかられたか、復活祭前1週間程度なら、復活祭を意識したと考えられるが、他の演目は全くこだわっていない感じがする。

バッハのカンタータが本来の作曲意図から外れ、純粋な音楽作品としてプログラムに取り込まれたと関さざるを得ない。

2018年1月14日 (日)

カンタータ上演の実績

ブラームスは、ウイーン楽友協会芸術監督の座にあったこともあって、バッハの宗教作品を何度か上演している。本日はそれらを一覧化する。

<BWV4>

  1. 1858年秋 デトモルト
  2. 1873年3月23日 ウィーン

<BWV8>

  1. 1873年4月6日
  2. 1873年4月8日

<BWV21>

  1. 1857年秋 デトモルト
  2. 1867年11月7日 ウィーン

<BWV34>

  1. 1875年1月10日 ウィーン

<BWV50>

  1. 1873年12月7日 ウィーン

<BWV60>

  1. 1873年12月7日 ウィーン

<BWV244> マタイ受難曲

  1. 1875年3月25日 ウィーン

<BWV248> クリスマスオラトリオ

  1. 1864年3月20日 ウィーン
  2. 1874年4月19日 ウィーン

ブラームスのバッハ好きがあってこそ、心置きなくバッハにのめりこめる。

2018年1月13日 (土)

生シャコンヌ

一昨日、古澤巌先生のリサイタルに行ってきた。

演目はバッハ。無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番と第2番。休憩をはさんで無伴ヴァイオリンのためのパルティータ第2番。アンコールに無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番から第3曲。

何から話そう。

すごかった。言葉を尽くしたところで、私の筆力の限界をさらすだけだ。

1980年12月14日

千葉大学管弦楽団第48回定期演奏会。

千葉県文化会館。指揮:芥川也寸志。

チャイコフスキー:イタリア奇想曲、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第6番「悲愴」

私は大学3年だった。大学にはいって始めたヴィオラだというのに、このときパートリーダーデビュウだった。若造には荷の重いオールチャイコフスキープログラムだ。

で、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンを弾いてくれたのが、古澤巌先生その人だった。

夏合宿にもおいでいただいた。本番までに何度か練習にお付き合いいただいた。西千葉の駅前で焼き鳥をごいっしょしたこともある。気さくな人柄でドアマチュアとのバカ話にも難なく打ち解けてくださった。

チャイコフスキーのコンチェルトの第2楽章には、独奏ヴァイオリンの主旋律に、弱音器付きのヴィオラがオブリガートをかます場面がある。ヴィオラのパーリーとして、手を伸ばせば届く距離にいた独奏の古澤先生と交わしたコンタクトは生涯の宝だ。

一昨日はこのとき以来37年ぶりの先生の実演だった。プログラムが無い代わりに自らマイクをとってのトーク語りかけが本当に本当に実直で心にしみた。そうしたトークとキレッキレの演奏との落差がこれまた最上の癒しになっていた。

バッハへの敬意が充満する演奏。2曲あるソナタの第3楽章、それからアンコールにもあったアンダンテこそが古澤節の真骨頂だと思った。

シャコンヌを生で聴いたのは初めてだ。目の前で弾かれてみて、作品のすごさがわかった。この内容をヴァイオリン一本でと志すバッハのすごさを思い知られたとでもいうのか。目の前の実演というインパクトは無限だ。ヴァイオリン奏者の息遣い、ボデーアクション、魔法のような弓の操り。

なんだか力がもらえた。開幕したばかりの「バロック特集」をやり抜く力が、腹の底から涌いてきた。

2018年1月12日 (金)

江戸時代メーター

バロック音楽の時代は長い。定義のあいまいさなどあちこちでブーイングされながら廃れずに使われているのだから便利だということだ。バロックの時代は江戸時代前半とほぼ重なるということで、生年をキーに時代観を整理する。徳川家康から慶喜までの、日本の著名人と併記することでイメージしやすくなる。

  • 1564年 徳川家康①/ハンスレオハスラー
  • 1567年 クラウディオモンテヴェルディ
  • 1579年 徳川秀忠②
  • 1585年 ハインリヒ・シュッツ
  • 1604年 徳川家光③
  • 1623年 ハインリヒ・シュメルツァー
  • 1628年 水戸光圀
  • 1632年 ジャンバティスト・リュリ
  • 1637年 ディートリヒ・ブクステフーデ
  • 1644年 松尾芭蕉/ハインリヒイグナーツフランツフォン・ビーバー
  • 1648年 徳川綱吉⑤
  • 1649年 ヨハンフィリップ・クリーガー
  • 1651年 徳川家綱④
  • 1653年 近松門左衛門/アルカンジェロ・コレルリ/ヨハン・パッヘルベル
  • 1657年 新井白石/ジョゼッペ・トレッリ/フィリップハインリヒ・エルレバッハ
  • 1659年 大石内蔵助/ヘンリー・パーセル
  • 1668年 フランソワ・クープラン
  • 1671年 トマソ・アルビノーニ
  • 1678年 アントニオ・ヴィヴァルディ
  • 1681年 ゲオルク・フィリップ・テレマン/ヨハン・マッテゾン
  • 1683年 ジャン・フィリップ・ラモー
  • 1684年 徳川吉宗⑧/ヨハン・ヤーコプ・ワルター
  • 1685年 JSバッハ/GFヘンデル/Dスカルラッティ
  • 1687年 フランチェスコ・ジェミニアーニ
  • 1690年 フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニ
  • 1692年 ジョゼッペ・タルティーニ
  • 1695年 ピエトロ・ロカテッリ
  • 1697年 ジャン・マリー・ルクレール
  • 1710年 WFバッハ
  • 1718年 CPEバッハ
  • 1732年 フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
  • 1745年 伊能忠敬
  • 1750年 -----------バッハ没ーーーーーーーーーー
  • 1756年 WAモーツアルト
  • 1770年 ベートーヴェン
  • 1773年 徳川家斉⑪
  • 1797年 歌川広重/シューベルト
  • 1809年 メンデルスゾーン
  • 1810年 ショパン/シューマン
  • 1813年 ワ-グナー/ヴェルディ
  • 1815年 ビスマルク
  • 1819年 クララ・シューマン
  • 1828年 西郷隆盛
  • 1833年 ブラームス
  • 1834年 坂本龍馬
  • 1837年 徳川慶喜⑮

いやいや楽しい。

2018年1月11日 (木)

カンタータ研究

書物の名前だ。正確には「バッハ カンタータ研究」という。樋口隆一著で、音楽之友社刊行。400ページを超える分厚い本だ。

バッハのカンタータ研究書という体裁ながら、歴史の視点が常に著述の中枢にある。研究史。受容史、演奏史の側面が、おそらく意図的に強調されている。

カンタータを中心据えながらも、必要に応じてバッハ全般への拡大逸脱も厭わない。本当に本当に興味深い。

何よりも特筆すべきは400ページ超の大著の397ページ以降の15ページ少々が「ブラームスと19世紀のバッハ研究」と題されている。この15ページのために5200円を嬉々として支出した。

そこでは冒頭いきなり「ロマン派の大作曲家の中でブラームスは異彩を放つ」と大胆に断言する。以下その理由が詳細な資料を添えながら論述される。ブログ「ブラームスの辞書」が一年を超える期間、悠然とバッハに逸脱する理由は、それだけで十分だ。

2018年1月10日 (水)

卒論コンプリート

昨日が次女の卒論提出締め切り日だった。

20000字を課された卒論を無事に提出したようだ。

昨年11月以降ワープロを使った清書が本格化していた。我が家に一台しかないパソコンを次女が独占することが増えた。私のコックピットを明け渡していたということだ。その間ブログ「ブラームスの辞書」の記事執筆や管理がパソコンでできなくなった。不自由は感じたが、むしろ音楽を聴けなくなったことの方が影響は大きかった。

おめでとう。

2018年1月 9日 (火)

西暦2050年

昨日の記事で下記の通り西洋音楽史の「150年周期説」に言及した。

  1. 850年 グレゴリオ聖歌 現存する最古の楽譜
  2. 1000年 多声音楽
  3. 1150年 ノートルダム楽派
  4. 1300年 アルスノヴァ
  5. 1450年 ルネサンス音楽
  6. 1600年 バロック音楽
  7. 1750年 古典派・ロマン派
  8. 1900年 現代音楽

今我々は1900年に始まった150年の中にいる。それが終わる2050年に音楽はどうなっているのだろう。後世の歴史家はこの150年をどう評価するのだろう。「現代音楽」という表札を疑わずにいるのだが、そのころ今の音楽を「現代音楽」とは呼ぶまい。

1900年に始まる150年の終わる17年前にブログ「ブラームスの辞書」はゴールラインを設定している。そのころクラシック音楽が一言で定義可能な秩序の中にいるのか、はたまた混沌が支配しているのか興味深い。

ブログ「ブラームスの辞書」が2050年の節目を迎えられるのかどうかノーチャンスではないと思う。

2018年1月 8日 (月)

150年周期

統計上、大地震には周期があるとも言われている。彗星の接近はもっと確度が高い。地球の自転公転による周期には慣れっこの人類も、長い周期となると曖昧なことも多くなる。

西洋音楽史の書物を紐解くと「150年周期説」に行き当たる。

  1.   850年 グレゴリオ聖歌 現存する最古の楽譜
  2. 1000年 多声音楽
  3. 1150年 ノートルダム楽派
  4. 1300年 アルスノヴァ
  5. 1450年 ルネサンス音楽
  6. 1600年 バロック音楽
  7. 1750年 古典派・ロマン派
  8. 1900年 現代音楽

という具合だ。古典派とロマン派はひとまとまり扱いになっている。1750年のバロックのエンディングはバッハの没年というところのもっともらしさが目立つ。偶然の一致として一笑に付すのは自由だなどと思っていたのだが、1900年のロマン派の終焉をブログ「ブラームスの辞書」流に読み替える。

1897年のブラームスの死こそが、ロマン派の終焉であると。

1827年のベートーヴェンの死は、古典派の終焉であったかと、妄想も膨らむ。ドイツ史観に立てば、3大Bの死は、バロック、古典派、ロマン派の死であるとの再定義が可能だ。

2018年1月 7日 (日)

ドイツバロック

バロック音楽の提唱がドイツ人の都合だったこと述べておいた。言い方が悪ければ「バッハ復興運動の副産物」と言い換える準備はできている。

当時音楽の本場はイタリア。断固イタリア。ウィーンが「音楽の都」だと主張するのは、「ドイツ語圏においては」と補足するべきなのだ。力説しないとみんなにそう思ってもらえないからこその力説というありがちなパターン。そのウィーンでさえ主要な音楽ポストはイタリア人によって占められていたことは周知のとおりである。

バロック音楽をドイツ人が定義したとき、自国ドイツのほかにイタリアの動向だけは意識していたと解する。黙ってバロックといえばイタリアで、その時代のドイツの音楽を「ドイツバロック」という。

ドイツにけちをつける意図はない。ここ最近ブログ「ブラームスの辞書」での「バロック特集」を準備するにあたり楽譜やCDをあたってきたが、私の興味もまたイタリアとドイツに集中していた。初めはお決まりのヴィヴァルディだった。フランス、英国だって聞くには聞いたが集まったCDの顔ぶれだけ見てもイタリアとドイツへの偏りは明らかだ。

大切なことは、ドイツバロックが気に入っているということだ。国で言うならドイツ、楽器で言うならヴァイオリン、チェンバロ、ヴィオラダガンバ一部オルガン。この価値観の中で収穫された作曲家たちはおよそ以下の通りだ。

  1. フローベルガー
  2. シュメルツァー
  3. ブクステフーデ
  4. ビーバー
  5. クリーガー
  6. パッヘルベル
  7. エルレバッハ
  8. テレマン
  9. ヴァルター
  10. ピゼンデル
  11. ヘンデル
  12. バッハ

2018年1月 6日 (土)

バロック音楽の提唱

「バロック音楽」の定義の文献上の初出は、1919年だといわれている。クルトザックスというドイツの音楽学者が提唱したとウイキに書かれている。

「マジっすか」という感じがする。イメージよりは新しい。元来はある様式を想定して定義されているが、「身長180cm以上の男子」というよう明晰な定義ではないこともあって、論争のもとになってきた。フランスには「バロック音楽」はないとまで言われるありさまだ。「梅雨」のない北海道みたいだ。

で、様式としての定義の厳密さはあきらめて「1600年からおよそ150年間の音楽」という具合の時代用語に転換を遂げたということだ。使い勝手だけは妙にいいから、定着している。

ドイツの音楽学者の発案というのがまずもってあやしい。19世紀後半のドイツを席捲したバッハ復興の流れの集大成として20世紀初頭に提唱されているのだとひとまず理解した。音楽におけるドイツアイデンティティ確立運動の成果だ。だから普仏戦争、第一次世界大戦と続いた世代にあって敵国フランスなんぞ見ちゃいないのだ。その150年間各国に音楽がそれぞれあって独自の発達を遂げていたと解するほうがなんぼか自然だ。4世紀中ごろのヤマト政権による国土の統一を既成事実として、遺跡遺物文献の解釈をそれに合わせるかのようだ。どこかにひずみが出る。

やっとたどり着いた。ドイツバロックは「1600年から1750年までのドイツの音楽」と再定義する。愛するブラームスの興味はそこにあった。残された古楽譜のコレクションからそう推定できる。

一方時代定義に従えば、バッハ存命時はまさにバロック音楽の時代の結尾にあたるのだが、ご本人にも周囲にも「バロック音楽」という概念などなかったはずだ。つまりバッハ本人はバロック時代の集大成などとは思ってはいるまい。書きたい音楽を書いただけだ。

まさに後世の都合だ。

2018年1月 5日 (金)

音楽の本場

ここで申す音楽とは、いわゆる「西欧クラシック音楽」のことだ。「西欧」と冠されてはいるのだが、今や世界的な広がりをもっていること周知の通りである。大航海時代には、スペイン、ポルトガル。オランダ、英国、フランスが続き、やがてドイツもこれに追随した。第一次大戦後アメリカの台頭までの間、欧州が世界の覇権を握っていた関係で、クラシック音楽も世界に拡散した。

しからばその「西欧クラシック音楽」の本場はと問われれば、ズバリイタリアという答えにたどりつく。イタリア地方の民族音楽が世界を席巻したと思っていい。キーワードは教会とオペラだ。やがて同地方の民族的な弦楽器だったヴァイオリン族がその優秀な表現力と合奏効果によって器楽までも台頭する。

対ナポレオンによって民族主義に目覚めた西欧各国、とりわけ植民地支配に乗り遅れたドイツは、自己のアイデンティティ確立のために、各方面で画策に走る。本場イタリアから見ればドイツ地方の国民楽派に過ぎないドイツ音楽が、西欧クラシックの総本山であるかの印象操作が急速にひろまった。音楽室の肖像画にドイツ語の話し手が多いのはそのせいた。

ウィーンを「音楽の都」と解するのはドイツ語圏の都合だ。「音楽の都」という文言の前に「ドイツ語圏の」という形容が無意識に、あるいは半ば意図的に脱落したと解したい。そのウィーンでさえ、モーツアルトやサリエリの時代まで音楽上の要職はイタリア人が独占していたし、オペラと言えば「イタリア語」が常識だった。何よりも何よりも、楽譜上に記される用語はイタリア語ではないか。

オペラで拮抗することをあきらめたドイツ人は歌曲に走る。ドイツリートだ。そして器楽ではソナタだ。ソナタ形式を至上の形式の座に祭り上げる。あらゆるジャンルの合奏にソナタ形式をばらまいた。モーツアルト、ハイドン、ベートーヴェンの才能がこの流れを後押ししたことご承知の通りだ。

その流れの終点にブラームスがいる。ソナタ形式最後の使い手であるブラームスが、イタリア音楽、とりわけオペラに関心をもっていたことや、ルネサンス以降の古いイタリアの楽譜の熱心な収集家だったことは象徴的だ。彼は音楽の本場はイタリアだと知っていた。だから楽譜上の用語はイタリア語にこだわった。

2018年1月 4日 (木)

テーマ絞り込み

「バロック音楽」という概念が何かと物議をかもすというのに、抜け抜けと「バロック特集」を立ちあげると宣言した。ブラームス自身が16~18世紀の音楽に興味を持っていたことをよりどころに、臆面もなくだ。

とはいえ、「バロック音楽」は広い。年代的にもジャンル的にもえらく広範囲だ。私のやれることは限られている。バロック音楽の一部をかするだけだ。

ジャンルとしては器楽とりわけヴァイオリン。必要に応じて鍵盤楽器にも触れる程度。声楽作品はひとまず限定的としておくが、とりわけオペラは全滅だ。カンタータには、まれに言及することもある。

地域としてはドイツとイタリア。バロックといわれる150年間を通じてイタリアは音楽の本場でありつづけた。

2018年1月 3日 (水)

今年もよろしく

年始にはよく見かけるフレーズ。「ことよろ」と略されたりもする。ブログ「ブラームスの辞書」は、13回目の正月にして初めて「今年もよろしく」という記事をアップする。これが元日ではないというのは一見不可解にも見えるだろうが、実は肝でもある。

本日のこの記事はブログ「ブラームスの辞書」開設から4649本目の記事である。「4649」の語呂合わせで「よろしく」というわけだ。4649本目の記事が正月の3日に来るというのは、なかなかの奇遇。これを記事にしない手はない。今日を逃がすと永遠に記事にできない。

どうか「バロック特集」をよろしく。

2018年1月 2日 (火)

私のバッハイヤー

生誕333年を無理やりバッハイヤーに仕立てている。1685年生まれのバッハだから、生誕350年はともかく、400年までさすがに生きてはいるまい。2050年の没後300年も同様だ。2020年に生誕335年とか2025年に生誕340年とかで盛り上がるよりは333年の方が数字の語感としてシャープな感じがしている。

理由がもう一つ。来年2019年はクララ生誕100年だ。だからクラライヤーと位置付けてささやかな企画を予定している。2018年をバッハで過ごし、2019年にクララを扱うのは、ブラームス系ブログのありようとして美しい。そして2020年は私自身の定年とオリンピックだ。

またとない進行。

2018年1月 1日 (月)

バロック特集

本日からバロック特集を立ち上げる。なぜ今年バロック特集なのかは、企画の中でおいおい明らかにする予定である。ひとまず今年はバッハ生誕333年である。同い年のヘンデルやスカルラッティもいる上に、ヴィヴァルディ生誕340年にもなっている。

ブラームスはバッハやヘンデルに興味をもっていた。ヴィヴァルディも当然知っていた。16~18世紀の古楽譜のオタクな収集家でもあった。ブラームスの伝記の中にはロマン派19世紀末の作曲家としては、異例なくらいバロック時代の作曲家への言及がある。

ブログ「ブラームスの辞書」が、本尊のブラームスそっちのけで、バロックを特集したとしても、ブラームスのご加護は変わらないと確信している。

さらには、本日この記事を公開したことにより、ブログ「ブラームスの辞書」は2005年5月30日の開設から4600日連続記事更新となる。

あけましておめでとうございます。

2017年12月31日 (日)

祭典前夜

思うだに周到だ。ビオンディさんのリサイタルにかこつけて、カテゴリー「316ヴィヴァルディ」を立ち上げた。今年の9月25日のことだ。その後今日まで同カテゴリーに属する記事は1本もなかったが虎視眈々と機をうかがっていた。

いよいよそのヴェールが明日2018年元日に切って落とされる。1年半をかけて準備した「バロック特集」が始まる。

2018年末までの記事の備蓄はほぼ終えている。今のところ会期は1年では終わらない感じになってきた。過去の企画では366日間にわたった「ドヴォルザーク特集」が会期として最長だった。本数としては268本を数えた「鉄道特集」が最多だった。記事の備蓄状況からみて今回は会期でも本数でもこれを超えることが確定している。えらい気合だ。

ヴィヴァルディは、バッハとともに同企画の主役となる。

今はとても澄み切った感じ。

2017年12月30日 (土)

美しき年の瀬

やはりオケフェスは年末でないと。

新装なった日本青年館での初オケフェスだ。唯一24回すべて出場という次女の母校後輩たちが、参加72校の大トリを務めた。

演目は、熟成を重ねたRコルサコフ「スペイン奇想曲」だ。管楽器はもちろん弦楽器にも厄介なソロがちりばめられている。けれども、ソロの出来不出来はもとより些細なことだ。乙女たちが音楽に込めようとした気持ちの方がずっと尊い。

他校との比較を試みることさえはばかられる圧倒的な演奏なのに、ちっとも威圧的ではない。

終演後の拍手喝采は物足りないほど。すごいものを見たとしか言葉が継げない。

これで正月が来る。

2017年12月29日 (金)

離陸許可

管制塔から離陸の許可を受けたところ。ブログ「ブラームスの辞書」史上最大最長の企画が年明け元日に始まる。今滑走路に向けてソロソロと走っている状態。

立ち上げ前に、このように積極的な宣伝をするには、わけがある。自分を追い込んで逃げ隠れ出来ないようにする狙いがある。着陸までのおよそのルートはほぼ決まっている。

気流の関係で揺れることもあるけれど、安全性には問題がございません。急なオチに備えて読んでいる間はシートベルトをきちんとお締めください。

2017年12月28日 (木)

光陰矢の如し

昨年の12月28日長男とドイツに旅立った。おおみそかは、ニュルンベルクにいた。あっという間の一年だった。この一年、何かとドイツやチェコを思い出してきた。ビールを口にするたびに、「ドイツのビールはおいしかった」と女々しく思い出すこともしばしばだった。

年明けとともに屋外で始まった花火の音さえ今は懐かしい。

あれからもう一年だ。

2017年12月27日 (水)

アイヒェンプラッツ

行きつけのドイツレストランの名前だ。「アイヒェン」は学士会に深く関連する木「ドイツ柏」のこと。プラッツはプラザだからドイツレストランの名前としてはピタリとはまる。

場所は地下鉄の赤坂駅近くだ。知人の紹介で知ってからはまった。ドイツレストランとしては東京最高の店と位置付けている。1年間本当にお世話になった。ブラームスにも教えてあげたい。

料理のクオリティが高い。なんでもおいしい。盛り付けのセンスも上質。

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ドイツ料理だけでなくてパスタもおいしい。シェフの腕がいいということだ。ビールは樽生が常時3~5品。シュパーテンは絶品だ。

まあでも、ママとシェフの人柄が最高と強調しておく。




2017年12月26日 (火)

第九特集総集編

ミニ企画「第九特集」が終わった。8月にティンパニ特集して以来の企画だ。手軽に年末気分が注入出来るのだが、12月一か月もれなく記事を敷き詰めるには本数が足りないのでミニ企画でお茶を濁す次第。

  1. 2017年12月14日 空虚五度
  2. 2017年12月15日 抱き合え百万の人々よ
  3. 2017年12月16日 第九初体験
  4. 2017年12月17日 ベートーヴェンの記憶
  5. 2017年12月18日 Durch と Zur
  6. 2017年12月20日 第九初演
  7. 2017年12月21日 Die Absoluten Musik
  8. 2017年12月23日 シューマンの証言
  9. 2017年12月24日 さすが楽聖
  10. 2017年12月25日 アンカー
  11. 2017年12月26日 本日のこの記事

2017年12月25日 (月)

アンカー

船の錨のこと。あるいはリレーの最終走者もアンカーと呼ばれる。小学校の紅白対抗リレーでは、アンカーが特にたすきをつけて走る場合もある。決着がアンカー勝負にでもなればレースは俄然白熱する。相当カッコいい。

音楽之友社刊行の作曲家◎人と作品シリーズ「ブラームス」の生涯編の最終ページで著者西原稔先生は「ブラームスの死をもってドイツロマン主義が終わった」と断言しておられる。話が大き過ぎて呑み込みきれていない。ドヴォルザークに継承権は無いとしてもブラームスの死後、Rシュトラウスやグスタフ・マーラーの活躍があったし、シェーンベルク、ベルクそしてウェーベルンの台頭もある。そんなことは百も承知でブラームスの死をドイツロマン主義の終焉と位置づけたのだ。

ブラームスの伝記の最終ページであるが故にそう断言したのだろうか。ブラームスははたしてドイツロマン主義のアンカーだったのだろうか。

おそらく第一走者はベートーヴェンなのだと思う。それ以降シューベルト、ウェーバー、シューマン、ワーグナー、メンデルスゾーンなどなど華麗なメンバーが走り抜けた。彼等の奮闘を受け止めて20世紀に繋ぐ役割を、本当にブラームスが担ったという意味なのだろうか。

紅白リレーのアンカーに比べると何だか切ない。紅一点のクララの死まで見届けての華麗なゴールインと呼ぶには少し抵抗もある。

ブログ「ブラームスの辞書」を長く続けるなかから答えが見つかればいいと思う。

2017年12月24日 (日)

さすが楽聖

坂東俘虜収容所のオケの演目が詳しく記録されている。

作曲家別の交響曲演奏頻度ではベートーヴェンが抜きん出ている。ハイドンとシューベルトが少々あるほかは全滅だ。マーラー、チャイコフスキー、ドヴォルザークはもちろんブラームスも全滅。

一方のベートーヴェンは、交響曲なら9番を含む4曲がある。コンチェルトだってピアノ協奏曲第1番とヴァイオリン協奏曲がある。室内楽も少し演奏されている。

ブラームスはハンガリア舞曲第5番があるくらい。

1918年と言えばブラームスが没してからまだ20年しか経過していない。ブラームスを知る人がまだまだ存命中だ。ちゃきちゃきの現代音楽なのだと思う。

坂東や習志野でブラームスの交響曲が日本初演されていたら、20本くらいは記事を稼げたはずだ。

2017年12月23日 (土)

シューマンの証言

以下、シューマンの言葉だ。

イタリアにナポリ、フランスに革命、英国に艦隊があるようにドイツにはベートーヴェンの交響曲がある。

含蓄がある。

ドイツ人にとってのベートーヴェンの位置づけが透けて見える。慣れない日本での生活を強いられた俘虜たちが、心のよりどころとしたのがベートーヴェンの音楽だったこと想像に難くない。

バッハでもブラームスでもなくベートーヴェンであった必然を味わっている。

2017年12月22日 (金)

入浴クライシス

異変は、12月16日土曜日の夜8時ころだった。母が4番目に入浴を終えた後、湯沸かし器が壊れた。スイッチを押してもウンともスンとも言わなくなった。コンロの火はつくからガスそのものの供給はとまっていない。

翌日日曜日に修理を呼んだところ、湯沸かし器の部品が経年劣化で壊れたとわかった。家を建ててから2台目の湯沸かし器で前回の交換は2006年だから、もうかれこれ11年になる。そろそろ代え時かと思っていたら案の定だ。

部品の取り寄せよりは、新品に交換の方が速いというありがちな見立てだ。結構な出費だが、女子たちの入浴が人質のためあっさり交換を決意した。昨日工事が終わった。つまり12月17日から20日まで丸4日家で入浴ができなかった。

さあ大変とばかりに、近所のスーパー銭湯に出かけた。歩いて行けるところにないので運転手の私の出番だ。

結果一日おきの2日間、近所で温泉気分を味わった。母を連れてゆくにも娘ら二人が慎重につきそう。家ではなかなかできない手足大伸ばし、シャワーガンガンの2日間だった。家を出て戻るまでに80分だった。家で順番に入浴すると、1人目が入ってから4人目が出るまで80分では収まらないから、時間の使い方としては効率がいいとわかった。食事処も併設されているからたまにはいいかなどと女子目線で盛り上がっている。

出費は痛いが、誰かが怪我や病気なることを思えば、とポジティブな結論になった。

2017年12月21日 (木)

Die absoluten Musik

「絶対音楽」と訳されている。19世紀欧州楽壇を二分した論争の片方の旗印。ブラームスはその首領と目されている。本人の認識はともかくそう位置付けられてきた。

この言葉の初出は意外なことにワーグナーだと言われている。1846年ドレスデンでベートーヴェンの第九交響曲を指揮したワーグナーが、聴衆向けに執筆したプログラムノートの中、第4楽章に登場する。低弦によるレチタティーヴォを、「絶対音楽の枠を全て打ち破るかのように」と形容している。どうやらこれが用語としての「絶対音楽」の初出だという。

ベートーヴェンが絶対音楽を究極まで推し進めた結果、とうとうそれ以上どうしようもない瞬間だと位置付けている。ワーグナーはだからそこから「声楽が始まる」というのだ。

ワーグナーの考えや、論争の争点を語るのはいささか荷が重い。

大事なことは、バッハやベートーヴェンは、自分の音楽を「絶対音楽」などという言葉で規定していなかったということだ。

2017年12月20日 (水)

第九初演

1833年5月7日はブラームスの誕生日だが、そこからちょうど9年前の1824年5月7日にもまた音楽史に残る出来事があった。ウイーンでベートーヴェンの第九交響曲が、作曲者自らの指揮で初演された日でもあるのだ。

第九交響曲は、言わずと知れたベートーヴェンの最後の交響曲だ。ドイツ系音楽の過去を統合する意味合いさえ持ち合わせている。統合の次に待っているのは、大抵は拡散である。第九交響曲は後に続く作曲家たちにとって規範であり、壁であり、破壊の対象であり目標であり続けた。管弦楽作品とりわけ交響曲を書こうと志すものにとっては鬼門でさえあった。ある者は正面から挑んであえなく挫折し、ある者はピアノ小品に迂回し、またあるものは交響詩や楽劇に逃れたという。もちろん「交響曲で出来ることはもはやない」という言い訳を添えることも忘れていない。

ブラームスは、それらを横目で見ていた。慎重に機が熟すのを待った。最初の管弦楽作品、「管弦楽のためのセレナーデ」の冒頭に第九と同じ「空虚五度」を配することを忘れなかった。

ベートーヴェン第九交響曲の初演から、キッチリ9年後に生まれたブラームス、その第一交響曲は、「第九」の後継という意味を込めて「第十」と呼ばれることになる。この間流れた歳月はわずかに52年。東京オリンピックが56年ぶりだと考える両方とも初演を聴いたという人がいてもおかしくない間隔なのだ。

2017年12月19日 (火)

モンテローザ

スイスとイタリアの国境にそびえる山。標高4634mは、スイス最高峰にあたる。ブラームスは登っていない。見たことがある可能性は残る。

本日のこの記事は、ブログ「ブラームスの辞書」創設以来4634本目の記事。

2017年12月18日 (月)

Durch と zur

「Durch A, zur B」で「Aを通じでBへ」という意味になる。Aに「Leiden」、Bに「Freude」を代入することで、たちまちおなじみのフレーズ「苦悩を克服して歓喜へ」が出来上がる。ドイツ語お決まりのパターンなのだと思う。

ブラームスの友人にして超一流の外科医ビルロートのモットーもこの形式だ。

「Durch Klarheit, zur Wahrheit」である。「明晰さを通じて真理へ」とでも訳されよう。難を申すとすれば音名化が難しいことくらいか。

«ベートーヴェンの記憶

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