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2019年12月 7日 (土)

弾き分ける決意

ブラームスは、数少ないピアノの弟子に日頃「ピアニストは心で感じたことを音で表現出来なければならない」と教えていたという。クララ・シューマンとはこの点で一致していたらしい。そうは言ってもテクニックはあくまでも音楽に従属する位置づけを超えない。

つまり、ブラームスは心で感じたことをピアノで表現出来たということになる。同時にそれを実現出来ると信じていたことになる。ブラームスが楽譜上に記した夥しい数の音楽用語は、弾き分けられると考えていたと推定出来る。自分が弾き分ける自信があるからこそ、演奏者にもそれを要求していたに違いないのだ。少なくともピアノ演奏に関しては自分が出来もせんことを要求するほど、傲慢ではないと思う。

たとえば「sf」「rf」のように、一般の音楽辞典では同義と解されている用語でも、書き分けられている以上、実際には区別していたと解さねばならない。そう信じることが、実は「ブラームスの辞書」の前提になっている。

だからどこの馬の骨ともわからぬ校訂者が、勝手にアスタリスクも無く用語を追加してもらっては困るのだ。

2019年12月 6日 (金)

もう一人のフェリクス

クララ唯一の孫娘の名がユーリエであることは既に述べておいた。三男フェルディナンドの長女だ。このフェルディナンドは全部で7名の子に恵まれた。1歳にならずに亡くなった三男ヴィクトール以外は皆成人に達した。そのヴィクトールのすぐ下の弟の名前がフェリクスだった。シューマン夫妻の最後の子供四男と同じ名前である。彼の詩にブラームスが曲を付けている。とりわけ「我が恋は緑」が名高い。ブラームスは彼の名付け親でもあったが、1879年に他界した。

フェルディナンドの四男が生まれるはその3年後だ。祖母クララの意向が反映した名づけだったことは確実である。

2019年12月 5日 (木)

ブラームスの悪評

欧州楽壇を2分した論争の片方の当事者だから、反対派からの攻撃は凄まじかった。作品批判のレベルにとどまっていないものも散見されたという。逆に申せば支持者からは賛美されていた。その手の論評は批判にしろ賛美にしろ、誇張と省略を縦横に駆使した代物だ。

私が今日問題にしたいのは、支持者からの悪評だ。音楽之友社刊行全3巻に及ぶ「ブラームス回想録集」は、ブラームスの親しい知人たちの証言の集大成だ。先ほどの基準で申せば賛美者たちの証言だ。だから大抵は好意的な表現になっている。ところが概ね好意的なニュアンスの中で、言葉を選びながらブラームスの短所に言及している場合がある。何人かの友人がブラームスのキャラを要約している中に遠慮がちに現れる。

  1. 感じたことをズケズケ言う。短所とばかりとは言えぬが、傷つけられた人から見れば短所だ。頭の回転が速いから、図星を突かれてしまうのだ。
  2. 不運な同業者に対する配慮のない発言。上記と根は一緒。
  3. 一部の女性に対する傲慢な態度。というよりクララやクララの娘たち、あるいはリーズルなどは例外かもしれぬ。多くの女性はあられもないジョークの対象となった。
  4. いたずら好き。多くは他愛のないものだったが、希に深刻な結果をもたらすこともあった。
  5. 皮肉で辛らつな言動。時にはクララでさえ標的にされたという一方で、クララを悪く言う奴には容赦しなかったとも言う。
  6. 打ち解けていないものに対するとりつく島のない態度。

などなどだ。これらを指摘した友人たちは、有名人としての重圧のためとか、芸術家の特権として仕方がないと擁護することも忘れていない。ブラームスの実態に迫ろうと欲した場合、ブラームスの賛美者たちから発せられる歯の浮くようなお世辞よりは、この手の愛ある悪評の方がずっと役に立つ。

こんなブログを書いている私が、初めてまとまって言及するブラームスの悪評だ。読者が誤解することはあるまいと期待する。

これらを埋め合わせてお釣りの来る長所、そして何よりその作品がある。

2019年12月 4日 (水)

お下がりのピアノ

1840年ロベルトとクララの結婚を機に1台のピアノが2人に贈られた。ウィーンのコンラート・グラーフ社が1839年に製造したピアノだ。1853年10月1日デュッセルドルフのシューマン邸を訪れたブラームスが、2人の前で弾いたのは、このピアノだと思われる。

1856年4月クララは入院中のロベルトを残して単身で渡英し3ヶ月に及ぶコンサートツアーに出た。7月に帰宅したクララにパリのエラート社が最先端のピアノを贈った。エラート社は1820年代にダブルエスケイプ機構という現代ピアノにも通ずる最先端技術を持ってピアノ界を席捲していた。ショパンもリストもメンデルスゾーンもエラート社製ピアノを評価していたという。ブラームスのピアノ協奏曲第1番がハンブルクで初演されなかったのは、エラート社製のピアノが調達出来なかったからという指摘もあるほどだ。

ロベルト・シューマンの妻にして当代屈指のピアニストにメーカーが自社製品を提供するのは、自然なことにも思える。ロベルト・シューマンの没する直前にもかかわらずクララはこれを受けたと思われる。

最先端のエラートを手に入れたクララは、新婚時代から愛用していたコンラート・グラーフ社製造のピアノを、ブラームスに譲った。ハンブルク近郊のハムの下宿に運ばれたようだ。1862年のウィーン進出にあたって、ブラームスはこれをハンブルクに残した。1871年のウィーン万博では「シューマンのピアノ」として展示され、会期終了後ブラームスはウィーン楽友協会に寄贈し、現代に伝えられた。

このときロベルトは既に入院中だったから、新婚時代の愛用のピアノをブラームスに譲るという判断は、クララが単独で下したと思われる。

2019年12月 3日 (火)

ドレスデナー

綴りは「Dresdener」だ。地名「ドレスデン」に形容詞語尾「er」がついて、「ドレスデンの」という意味の形容詞となる。ビールの銘柄などこのパターンをよく見かける。このほどお菓子でこれを体験した。クリスマスを待つ4週間のお菓子シュトーレンだ。最近日本でも見かける。おしゃれなパン屋さんばかりかケーキ屋さんにも置いてある。自家製だとそれなりの貫禄が出る。

季節が来るとあちこ食べ比べるのだが、都内某ショップで決定版を見つけた。本場ドイツからの輸入品だ。シュトーレン発祥の地ドレスデン産を歌っている。「DLG」ドイツ農業協会のお墨付きのロゴがまばゆい。

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味が最高だ。他の国産が一気にかすむ。粉砂糖の具合と言い、ドライフルーツやナッツのハーモニーが最高。コーヒーにもあう。

 

 

 

 

2019年12月 2日 (月)

徒歩旅行

さまざまな移動手段がある中、あえて徒歩を選んだ場合に「徒歩旅行」と称されることになる。徒歩が当たり前だった時代にも経路によっては船という選択肢が存在した。ブラームスの時代はというと、飛行機と自動車だけは一般的でなかったが、船、馬車、自転車、鉄道は選択肢として十分な可能性があった。1853年以降ブラームスは立て続けにライン地方を訪れている。

  1. 1853年8月26日 単独
  2. 1854年8月10日 ユリウス・オットー・グリムと。
  3. 1855年7月15日 クララと。
  4. 1857年7月12日 クララの遺児のうち男の子、クララ、姉エリーゼと。
  5. 1868年9月4日  父と。

このうち1番2番3番が「徒歩旅行」だったと明言されている。

ライン地方は現在でもドイツを代表する観光地だ。そして何よも何よりもドイツを代表するワイン産地でもある。これらに言及する伝記の記述が具体的な地名を明記していないのは残念というほかは無い。もちろんブラームスご一行とワインの関わりについても言及されない。まだブレーク前のブラームスに高級ワイン三昧は難しいかもしれないが、真夏のこの地区に徒歩で足を踏み入れながらワインを口にしていないとなるとそのほうが余程不自然だ。

5番目は書物によっては「ラインガウ」と明記されている。1865年という最優良ヴィンテージのワインを賞味出来た可能性がある。ドイツレクイエム初演成功とハンガリア舞曲のブレークで少しは金回りが良くなっていたハズだ。

 

 

2019年12月 1日 (日)

どんぶり勘定

ブラームスは大抵の管弦楽曲について、自らの手でこれをピアノ用に編曲している。独奏であったり連弾であったりはまちまちながら、その対象は一部室内楽にまで及んでいる。ハイドンの主題による変奏曲や、ピアノ五重奏のようにどちらを主とするか容易に決定出来ないケースもある。しかしながら、大抵はフルメンバーよりは気軽に作品の輪郭を捉えることが出来る縮小版という側面が大きい。ブラームス自身もそう考えていた節がある。最新の管弦楽曲や室内楽曲をクララ・シューマンに自ら聞かせるために、オリジナルと平行してピアノ版が作成された可能性大なのだ。

オリジナルをピアノ版に転写する際の心得を、親しい友人の一人に語っている。「ブラームス回想録集」第1巻104ページのジョージ・ヘンシェルの証言だ。「大管弦楽曲の全ての声部を全部ピアノ版に盛り込んだところで、そんなものは大名人にしか弾けやせん」「全ての声部が対位法的に正しく動いているかどうかなんぞどうでもいいんだよ」作品の輪郭が大づかみに出来ることこそが大切だと言わんばかりである。巨匠ブラームスのどんぶり勘定が微笑ましい。

対位法の大家ならではのお話である。

 

 

2019年11月30日 (土)

二所詣

伊豆山神社と箱根神社をお参りすることだ。源頼朝ゆかりの両社は、古来武士から厚く信仰されてきた。私も行ってきた。まずは鎌倉・寿福寺に立ち寄って源実朝の墓参から入る。

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忠実なセバスチャンも一緒だ。

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あいにくの雨だが、しっとりとした風情があってよろしい。

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ちょうど800年前に没した実朝の墓所。ドイツ旅行で墓参り慣れしているセバスチャンも神妙だ。

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手前のお花を作って持参した。これまたオリジナルのお線香も焚いた。お線香が燃え尽きるまでじっと見守った。

続いては伊豆山神社。

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ここから800段以上の石段を下りた先に、走り湯がある。

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源実朝がここを訪れて和歌を3首詠んだという。

最後に箱根神社。

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九頭竜とやけに溶け込むセバスチャンだった。

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二所詣でと実朝の墓参を1日でコンプリートした。きっとよいことがある。

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2019年11月29日 (金)

BWV540

1862年11月29日ウィーン。ブラームスが本格的にウィーンに進出して最初のリサイタルのあった日。初めてウィーンの聴衆に聴かせるためにブラームスはバッハを選択する。それがオルガンのためのトッカータとフーガヘ長調BWV540より前奏曲だ。もちろんブラームスはピアノを弾いた。自らがピアノ独奏用に編曲した。楽譜をお持ちの人は是ご覧いただきたい。この作品冒頭から55小節間、主音「F」が低いところで鳴り続ける。オルガンで言うところの「ペダル音」だ。その上に右手を左手が2小節遅れて追いかけるカノンになっている。オルガンならばペダル踏みっぱしで済むのだが、それをピアノに編曲するとどうなるのだろうと、大きなお世話をしたくなる。

困ったことに、この編曲、現存していない。

2019年11月28日 (木)

宮廷演奏家

1837年18歳のクララは父に伴われてウィーンを訪れた。この滞在はかれこれ半年に及んだという。もちろん目的は演奏だった。

その間クララは皇帝の前でピアノ演奏を披露した。いわゆる御前演奏だ。当時の皇帝はフェルディナンド1世だ。「国の親」として名高いフランツ・ヨーゼフ1世の前帝。クララは宮廷演奏家に列せられた。これが1838年3月15日だとされている。

早い話が大成功だった。やがて楽友協会の名誉会員にも推挙される。こうして市民の間にも瞬く間に評判が知れ渡り、クララは時代の寵児となる。如才ないことにクララはウィーンへの返礼を作品に託す。「ウィーンの想い出のために」op9だ。ハイドンの皇帝四重奏曲で有名な皇帝賛歌をモチーフにしてウィーンへの謝意を表した。

後年ブラームスにウィーン進出を薦めたのがクララだった。クララからすれば勝手知ったるウィーンだ。クララの薦めはブラームスにとっては心強いものであったはずだ。何せクララは既に楽友協会の名誉会員だったのだ。ブラームスはやがて楽友協会の芸術監督にはなるし、皇帝から勲章ももらうが、宮廷演奏家に列せられることはなかった。

 

 

 

 

2019年11月27日 (水)

名誉会員

ずっと不思議に思っていたことがある。ドイツ民謡の手稿譜について調べていると、マッコークルのあちこちにクララの名前が出てくる。クララの遺品からドイツ民謡の女声合唱版のスコアやパート譜が発見されているのだ。クララ自身の筆跡のものまである。

 

1850年代後半において既にクララは当代きってのピアニストと評価されており、リストと並ぶピアノ演奏の泰斗だった。そのクララに民謡編曲のパート譜やスコアを写譜させていたのだろうかと感じていた。クララとハンブルク女声合唱団の関係が今いち実感出来なかった。

 

ところがこのほどそれが判った。

 

クララは、ハンブルク女声合唱団の名誉会員だったのだ。

 

これは面白い。ブラームスが同合唱団のためにおびただしい数の作品を残したことは良く知られている。それらの作品は、メンバーが写譜したパート譜やスコアにより現代に伝えられたのだ。おびただしい手書き譜の中に無視し得ぬクララの筆跡が存在する理由がこれで説明出来る。クララは演奏旅行の合間、都合が付く場合には出来る限り合唱団の集まりに顔を出したという。

 

同合唱団の成り立ちを考えるとどう見てもアマチュアだ。そこに当代きっての大ピアニストが名誉会員に名前を連ねていることのインパクトは大きい。シューマン未亡人のお済み付きを貰ったようなものだ。もちろん指揮を引き受けていたブラームスの仲介に決まっている。たまにはクララが伴奏を引き受けることもあったかもしれない。

 

もっと楽しい想像がある。クララが皆に交じって歌うことはなかったのだろうか。

2019年11月26日 (火)

リーターのお嬢さん

ウイーンに移住後のブラームスに対して、クララはしばしば結婚を薦めている。1868年9月4日の手紙がその代表だ。その手紙は珍しく、具体的にお薦め相手をあげている。それが「リーターのお嬢さん」だ。スイス、ヴィンタートゥールに本社を置く、リーターヴィーダーマン社の経営者の娘である。

クララが薦める理由を列挙している。

  1. 容姿が美しい。
  2. 彼女がブラームスに満更でもない。
  3. 実家が金持ち。

リーターヴィーダーマン社といえば初期のブラームス作品を盛んに出版している。ドイツレクイエム以前には主力だった。ジムロックの次にブラームスの作品を多く手がけている。

2019年11月25日 (月)

クララを信じる

ブラームスが作品が出来るたびに、草稿をクララに送って意見を求めたことは有名だ。生涯一貫して破綻のないブラームス作品高打率は、この習慣によるところが大きい。最後の2つの作品だけが、クララの死というシンプルな理由で、この手続きを踏まれなかったという事実は重い。一方、これらの習慣のことをブラームス自身が言葉にして語ったことがある。毎度毎度の音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第3巻102ページだ。友人のヴィトマンが証言しているから、その部分をそのまま引用する。

「何か書きたかったら、シューマン夫人のような女性が、喜んで読んでくれるかどうか考えるんだね。怪しいと思ったら抹消だよ」

おおお。

「シューマン夫人のような」という言い回しに何とも言えぬリスペクトを感じる。絶大な信頼関係だ。ブラームスはこう考えながら作曲していたのだ。彼の行動を考えると単なる喩え話として一笑に付せない重みがある。そしてその付託に一生、誠心誠意答えていたのがクララなのだ。

何だか切ない。

 

 

 

 

2019年11月24日 (日)

善光寺参り

母を連れて恒例の秋のドライブに出かけた。今年の目的地は長野・善光寺。

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見ての通りの好天と、はかったような紅葉の盛り。

小布施の北斎美術館を餌にしたら、次女も同行となった。

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まあ、ここまでは建前で、本当の目的は小布施のモンブランだ。

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いやいやこれが絶品だ。味が写らないのが残念なくらい。本当は先月16日の予定だったが台風の被害でやむなく延期していた。そのために諦めていた生栗にありつけたのが大収穫であった。

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信仰より栗である。

2019年11月23日 (土)

シューマンとの距離感

ブラームスの楽壇デビュウにあたり、ロベルト・シューマンの後ろ盾が大きく物を言ったことは、有名である。はじめてシューマン邸を訪問したブラームスの様子は、シューマン夫妻の日記の記述から克明に復元されている。

ブラームスがハンサムな若者だったこと、ガチガチに緊張していたこと、シューマンの態度はゆったりと寛大だったこと、すぐにクララを呼んで再度弾かせたこと、リストのサロンとは違って家庭的な雰囲気だったこと等等、みなよく知られている。シューマンはその後ブラームスを絶賛する記事を書く一方、作品を出版する労を惜しまない。それからわずか3年後にシューマンが没してしまった後も、その妻クララとは終生交流が続いたこと、周知の通りである。

ブラームスは、シューマンに感謝はしていたと思う。いや、していたに違いない。

ところがである。20歳そこそこでガチガチに緊張していたはずのブラームスは、敬愛するシューマンの薦めに従って、自作を無闇に出版しまくった訳ではない。シューマンに出版を薦められたいくつかの作品をブラームスは出版せずに破棄している。この事実は、相対的に無視されている。自分を楽壇に紹介してくれた恩人の薦めを冷静に受け止め、自作をじっと吟味する器をその若さで持ち合わせていたことこそが奇跡のように思える。

ブラームスは後年「シューマンに教わったのはチェスの指し方くらいだよ」と語ったとされている。さすがにそれはブラームス独特の逆説を含んでいるとも思われるが、一笑に付しきれない真実味も感じられる。「少なくとも作曲は教わっていないよ」という意味と解したら勘繰りが過ぎるだろうか?

何と言ってもブラームスにとってシューマンは「クララの夫」である。今風に申せば「シューマンは60%がクララの夫、40%が作曲家」くらいに思っていたなどということを想像したくなる。

一生考えて行きたい。

2019年11月22日 (金)

若気の至り

欧州楽壇を二分する論争の渦中にあって、片方の陣営の首領と目されるブラームスは、自作の発表以外には沈黙を守った。自説の主張にジャーナリスティックな手段を用いなかったことは割と知られている。

ところが例外もある。ロベルト・シューマンの薫陶を受けて間もない頃、「新ドイツ派への声明文」がそれである。詳しい伝記には和訳が載っていることも多い。遠回しな表現になってはいるが、平たく申せば檄文だ。「おめ~らのは音楽じゃねえ」に近いニュアンスだ。

音楽作品を文章で表すのは難しい。体操、シンクロナイズドスイミング、フィギアスケートなどの採点競技で、しばしば議論になるのと同様だ。良い悪いを点数化したり言葉にしたりすることは、難しいのだ。

愛好家が集まって単に「好き嫌い」を肴にビールを呑んでいる分には微笑ましいのだが、「宣言文」という形で署名の上公開すりとなると物騒な話になる。だから案の定その宣言文に署名したのはブラームスを入れてもたったの4名だった。このときの後味の悪い経験がトラウマにもなったのだろう。壮年期以降のブラームスが、ジャーナリスティックな手段を選ばなくなるのは自然な成り行きだ。

ブラームスだって宣言文のリスクは知っていたと思う。そんなことをすれば恰好の攻撃目標にされてしまう。それでは何故。

おそらく、ロベルト・シューマンが新ドイツ派から邪険な取り扱いをされたのだ。あるいはクララも含んでいたかもしれない。ブラームスからすれば「先生を侮辱するのは許せない」というノリだ。音楽観の違いを文章で攻撃したところで、水掛け論になるのが関の山だ。新ドイツ派の音楽のありように対する批判ではあり得まい。

ロベルトが創刊した「音楽新報」25周年の式典に創刊者の妻クララが招待されなかったという事件があった。無論ブラームスもヨアヒムも呼ばれていない。このとき音楽新報の主筆はまさに新ドイツ派の論客だった。恩師であり創刊者でもあるシューマンに対する仁義を欠いた対応に、若きブラームスが義憤を募らせたと感じる。

 

 

 

 

2019年11月21日 (木)

ラストステージ

1891年3月21日クララ・シューマンの最後のコンサートがあった。これ以降人前で弾いていないということだ。クララはこのとき71歳である。

演奏された曲の中に、ブラームスがあった。「ハイドンの主題による変奏曲」op56bだ。2台のピアノ用なのだから、誰か相棒がいたはずだ。フランクフルト音楽院におけるクララの同僚が弾いたらしいが、名前は突き止めきれていない。

バッハの誕生日に合わせたなどとということは妄想だろうか。

2019年11月20日 (水)

ショパン風

たとえば「ショパン風」のように、既存既知の作曲家の実名を用いて「誰それ風」という言い回しがしばしば見られる。「ショパンの作風に似ていますね」という意味である。単に「ショパンに似ている」言わないところが、ミソだったりするようだ。先にショパンの作風が確定していれば何の問題も生じないが、作風確定がおろそかなケースも散見する。「ブラームスの辞書」ではブログでも書籍でも、そうした言い回しを出来るだけ避け、「似ている」と断言することにしている。

ブラームスは自作に出版の価値がありや無しやという質問を、しばしばクララに投げかけている。op76-8ハ長調のインテルメッツォがその対象になった。クララからの返信は「と~んでもない」というものだった。具体的な譜例を上げて、こうすればもっと良くなるという提案を2つ3つしている。もしどうしても1曲省かねばならないなら6番イ長調だとクララは主張する。

クララは理由を付け加えることを忘れない。「なぜなら6番はショパン風過ぎる」というのがその理由だった。私ごときがブログで使うことは出来ないがクララの言葉となるとカッコいい。「あんたはヨハネス・ブラームスでしょ。しゃんとしなさい」に近い。あらゆるピアノ書法に通じたクララの言葉だけに重みが違う。

何より幸いなことはブラームスが6番を破棄しなかったことだ。

2019年11月19日 (火)

シェーンベルク音楽論選

飲み会前の時間つぶしに書店に立ち寄った。

ぎょっとして即購入。

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手ごろな文庫サイズ。作曲家シェーンベルクの音楽評論集である。で43ページから数十ページがブラームスに言及する。「革新主義者ブラームス」というタイトルだ。1933年のブラームス生誕100年記念だという。ブラームスに長く接しているとこの論文はしばしば話題になるけれど、全文の和訳が手ごろな価格で入手出来て満足だ。

2019年11月18日 (月)

墓より団子

一昨日、父二十三回忌の墓参を済ませた帰路、寄り道をした。言問橋たもとにある長命寺桜餅を食べに行った。母の念願をやっとかなえた形だ。今年に限ってはむしろこっちがメインかのような気合だった。

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良い天気が何よりのお供。

ついでに言問い団子にも足を延ばした。

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いそいそと帰宅してまた堪能。

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2019年11月17日 (日)

父二十三回忌

本日は亡き父の二十三回忌だ。昨日墓参を済ませたが、親類縁者を招いての法事は省略。母と私がひっそりと花を手向けてきた。

2019年11月16日 (土)

スエズ運河150年

1869年11月17日。スエズ運河が開通した。東西交通の大幅短縮。喜望峰周りに比べて25%程度の短縮だという。欧州とインド、極東の大動脈確保だ。スエズ運河を領有する英国の天下である。

同年5月に全通したアメリカ大陸横断鉄道と合わせて世界一周の所要時間が大幅短縮となった。1905年シベリア鉄道の開通まで東西交易の優位は英国にあった。

イエメンのコーヒーが欧州に入りやすくなったと想像するがいかがだろう。その恩恵はコーヒー好きのブラームスにも注いだはずだ。ブラームスはクララから紹介された某伯爵夫人経由で入手するモカを好んでいたとされている。

明日。スエズ運河開通150年のメモリアルデーだ。

 

 

2019年11月15日 (金)

奇妙な告知記事

どうやらクララは、ロベルト・シューマン作品の楽譜に記されたメトロノーム値を早くから疑っていた形跡がある。1855年「新ベルリン音楽新聞」に奇妙な告知記事が掲載された。

それは「シューマンメトロノーム値は不正確で、指示されたテンポは大抵、本人の意図より速くなっている」という趣旨だった。もちろん当時まだロベルト・シューマン本人は既に入院中であるから、この記事を読んだかどうかは定かではない。驚くべきはこの記事が、シューマン夫人の同意のもとに掲載されたということだ。

訂正含みのお詫び広告に近い。当代最高のシューマン解釈の権威であり、屈指のピアニストの肝入りである。クララには余程の確信と危機感があったに違いない。

 

 

2019年11月14日 (木)

クララの動員力

音楽之友社刊行の「作曲家◎人と作品シリーズ」の「シューマン」には当然のことながらその妻クララのことが盛んに言及されてている。

夫妻はしばしば連れ立って演奏旅行を企てた。たとえば75ページ。1842年2月から一部デンマークを含む北ドイツに7週間の演奏旅行でクララは660ターラーつまり1980マルクの収益があったとされている。収入ではなく収益であることが大切だ。経費は差し引き済みの値だと解し得る。この1年に夫ロベルトが室内楽の作曲で得た金額の2倍を7週間で稼いだことになる。クララはまだ22歳である。

84ページではもっとすごいことになっている。1844年春サンクトペテルブルクとモスクワの計4回の演奏会で、クララは6000ターラーの収益を稼ぎ出す。なんと18000マルクだ。交響曲1曲15000マルクのブラームスもさすがだが、コンサート出演4回で18000マルクのクララも半端ではない。クララ24歳の春だ。

クララはこの動員力で夫亡き後一家を支えたのだ。おそらく30代40代と齢を重ねるにつれて動員力は増していったものと思われる。一晩5000マルクという数値も現実味がある。15000マルクを稼ぎ出すブラームスの交響曲が、作曲にほぼ一夏かかることを思うと、当時のクララの位置付けがわかる。

この2人すごい。

2019年11月13日 (水)

墓碑の絵

1880年5月に完成したロベルト・シューマンの墓碑は、その前に存在した旧墓碑を撤去して設置された。その旧墓碑がブラームスの手によって建立されたことはすでに何度も述べた。その現物が今どこにあるのかという情報がなかなか得られなかったが、このほど驚くべき発見をした。

 

シューマン系のホームページの中に、旧墓碑の絵が掲載されていた。そこにはブラームスの建立云々という説明はなかった。

2019年11月12日 (火)

墓碑を贈る

記事「墓碑の完成披露」で、1880年にロベルト・シューマンの墓碑が完成したと書いた。シューマンの死は1856年だ。その間24年墓碑は無かったのかというとそうではない。1857年6月8日だから没後最初の誕生日に簡素な墓碑があった。「あなたの名前で建てました。故人を思うようにあなたを思いながら」とクララに書き送ったのは墓碑を建てたブラームスだ。

新しい墓碑が出来るまでの24年間、ロベルトの徳を慕って墓参りをする者は、ブラームスが建てた墓碑に頭を垂れたということだ。

新しい墓碑が出来たときこの簡素な墓碑は撤去されたとされているがその後どうなったのかなかなか資料に出会えない。

2019年11月11日 (月)

墓碑の完成披露

ボンの中央墓地にあるシューマンの墓には立派な墓碑がある。有名な墓碑だから写真くらいは見たことがある人も多いだろう。設立の費用4000ターラーは、チャリティー演奏会からの上がりでまかなわれた。この金額はエンデニヒへの入院費用8年分に相当する大金だ。

クララが月桂冠を捧げ持っている。この墓碑の建立は1880年5月2日だ。除幕式に際して演奏会が催された。

  • シューマン 「ミニヨンのレクイエム」
  • シューマン 「交響曲第3番」
  • ブラームス ヴァイオリン協奏曲 独奏:ヨーゼフ・ヨアヒム

管弦楽を指揮したのが他でもないブラームスその人。弱冠二十歳のブラームスをシューマンが楽壇に紹介してから27年、ブラームスは既にその道の泰斗になっていた。記念演奏会で、シューマン本人以外で唯一取り上げられたのがブラームス作品だったこと、それを指揮したのがブラームスだったことは象徴的だ。シューマンの後継者たる地位の追認に他なるまい。

2019年11月10日 (日)

英語の立場

クララ・シューマン唯一の孫娘はユーリエという名前だった。ユーリエは13歳の頃からクララの手回しでベルリンの寄宿学校に通った。クララは手紙でユーリエにあれこれと書き送る。

その中に面白い記述があった。語学の習得に関してフランス語と英語を比べている。クララは「教養として求められるのはフランス語だが、現実の社交には英語が必要となるケースが多い」と述べている。大英帝国の威光あるいは産業革命の効果かなどと大げさになる必要はない。クララの演奏旅行の回数はフランスより英国の方が多い。英国出身の弟子も多い。そうした経験に照らして言っているのだろう。当代屈指のピアニストで国際経験豊かなクララの言葉だから、説得力もある。

現実にドイツの北部、ハンブルクやブレーメンなどでは英語でのコミュニケーションもあったのだと思う。

そのクララの弟子フローレンス・メイは回想録の中で、ブラームスが少しなら英語を理解できたと証言している。会話は無理ながら、何を言っているかは理解出来たと解されている。英国訪問を断固拒否したブラームスの英語力が想像できる。

2019年11月 9日 (土)

伴奏者クララ

ここで言う「伴奏者」とは声楽の伴奏という意味だ。

19世紀屈指のピアニストだったクララが、公の場で歌曲の伴奏をしたケースは非常に少ない。クララを伴奏者に従えて歌ったことがある歌手は男女それぞれ1名だけだという。男性はバリトン歌手ユリウス・シュトックハウゼンで、女性はコントラルト歌手アマーリエ・ヴァイスだ。大ヴァイオリニストのヨアヒム夫人は、超一流の歌手だったことがわかる。

だからハンブルク女声合唱団の名誉会員だったクララが、たとえ練習の折にでも、ピアノ伴奏をしてくれていたら、それはそれで大変なことなのだが、なんだかやってそうな気がして仕方がない。

2019年11月 8日 (金)

魔女の変奏曲異聞

2007年5月1日の記事「魔女の変奏曲」で、「パガニーニの主題による変奏曲」op35がクララから「魔女の変奏曲」と呼ばれていると書いた。このほどその同じ箇所が「魔法の変奏曲」と呼ばれているケースを見つけた。元のドイツ語は不変でも翻訳の過程で、ニュアンスが割れてしまうことはよくあるが、本件は微妙である。

ブラームス宛の手紙の中でクララが用いた言葉だ。その同じ手紙でクララは、「パガニーニの主題による変奏曲」を隅から隅まで目を通したと述べている。各々の変奏曲が良くできていると誉める一方で、いくつかの変奏を削って1巻にまとめたらという提案をしている。

1巻から、第8変奏を省き、2巻からは4、7a、11、12、16変奏を削除して、全1巻にまとめるべきと言っている。同じテーマを元にした変奏曲を2巻も買ってはもらえまいと断じている。第2巻の冒頭が超絶技巧過ぎるとも付け加える。

これらの指摘の妥当性を論じる知識はないが、クララが相当細かく目を通して、思い切り踏み込んだ提案をしていることがよくわかる。もちろんこの助言はブラームスからの要請に基づくものだから、ブラームスがこれでヘソを曲げることはない。けれども、ブラームスがクララからの提案を採用していないことも忘れてはならない。

 

 

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