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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

2017年9月24日 (日)

ビオンディスタ

銀座王子ホールにてビオンディを聴いてきた。プログラムは全てチェンバロとの二重奏でいわゆるヴァイオリンソナタだ。

  1. コレルリ 第9番イ長調 op5-9
  2. ヴィヴァルディ 変ロ長調 RV34
  3. ジェミニアーニ ニ短調 op4-8
  4. タルティーニ ト短調 op1-10
  5. ヴェラチーニ ニ短調 op2-12
  6. ロカテッリ ニ短調 op6-12

上記の通りの順序、3曲目のあと、20分の休憩。6番目の演奏後アンコールを3曲。

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2曲目まではアンコールの前にビオンディご本人が英語で曲目を紹介した。イタリアンソナタの演奏会のアンコールにバッハを弾く理由もサラリと説明してくれている。ヴァイオリンの超絶技巧と対照的な穏やかなトークだった。BWV1019は「ト短調」ではなく「ト長調」だし、「Ⅳ」ではなく「Ⅴ」のはずだが、これはビオンディさんの責任ではあるまい。バッハが聴けたのは望外の喜びだ。

パガニーニもすごかった。難易度を感じさせない小洒落た感じ。

引っ張り出された感じでステージに戻ると、今度は曲の説明なしにアンコールを弾きだした。ヴィヴァルディの四季から冬の第二楽章を暗譜で弾いてくれた。聴衆がみな知っているはずという確信のたまものだろう。この季節に「冬の雨」を持ち出されて少々面食らった。でも実は四季の中で一番好きな曲。超絶技巧の発露ではない。アドリブッ気も控えめで、ただしみじみと静溢なメロディーラインに浸される。

不覚にも涙が出た。理由はわからぬ。今までに何度も聞いた冬の雨なのだが、こんなことは一度もなかった。「みんなありがとね。最後にみんながよく知っているとっておきを弾きますね」というメッセージが込められた演奏。ただただありがたくて涙が出た。

最後の和音がチャーミングなピチカートで鳴らされたとき、会場全体がほほ笑んだ。

極上の「ビオンディ体験」を永遠に記憶するために、この記事をもってカテゴリー「316 ヴィヴァルディ」を立ち上げる。

2017年9月23日 (土)

4500日連続記事更新

本日のこの記事をアップしたことにより、ブログ「ブラームスの辞書」は、2005年5月30日の開設から4500日連続の記事更新となった。一日の抜けもなくだ。

だから自分へのご褒美。

一昨日銀座王子ホールにてファビオ・ビオンディのリサイタルを聴いてきた。題して「華麗なるイタリアンバロックの夕べ」だ。プログラムは全てチェンバロとの二重奏でいわゆるヴァイオリンソナタだ。

  1. コレルリ 第9番イ長調 op5-9
  2. ヴィヴァルディ 変ロ長調 RV34
  3. ジェミニアーニ ニ短調 op4-8
  4. タルティーニ ト短調 op1-10
  5. ヴェラチーニ ニ短調 op2-12
  6. ロカテッリ ニ短調 op6-12

どうにも華麗な顔ぶれだ。これ以上ないメンツ。ヴェラチーニとタルティーニが逆なほかは作曲者生年順の演奏。イタリアヴァイオリンソナタの歴史を体験できるという意図は明らか。

いやはや楽しさ桁外れ。圧倒的な余裕感。運弓の自在度にため息。基本的に緩急の妙を味わうのだが、そればかりではない。吸い込まれるような弱音。フレーズの切れ目にさしはさまれるアドリブっ気満載のフレージング。チェンバロとの小粋な掛け合い。CDで聴き慣れていたビオンディ節が眼前で再現される。もうため息しか出ない。

ヴィヴラートかけていたように見えました。

2017年9月22日 (金)

間投詞Ja

またまた「永遠の愛について」op43-1の話題。第一節を引用する。

Dunkel, wie dunkel in Wald und in Feld!

Abend schon ist es,nun schweiget die Welt.

Nirgend noch Licht und nirgend noch Rauch,

Ja, und die Lerche,sie schweiget nun auch

4行目冒頭の「Ja」は、言ってみれば間投詞。「そう、ひばりも今は黙っている」くらいの意味。この「Ja」は軽い順接。興味深いのはブラームスがこの「Ja」に与えたフレージングだ。前行末尾の「Rauch」から4度跳躍で連なっているように聞こえる。「Ja」の後に続く「und die」の前には四分休符が挟まっているから、「Ja」は直前の「Rauch」とのつながりの方が密接に聞こえてしまう。「Rauch」は、4行目末尾の「auch」と韻を踏んでいるから「Ja」のフレージングは異例だ。2コーラス目の同じ場所ではこの跳躍は封印され、ピアノ伴奏が同じ音をなぞるだけだ。

実はこの「Ja」こそが曲前半の聞かせどころになっている。歌手たちの個性がにじみでるポイントだ。

2017年9月21日 (木)

鉄と鋼

鉄はドイツ語で「Eisen」という。鋼は「Stahl」だ。英語でいうなら「Iron」と「Steel」。気軽に鉄というけれども実用にあたっては大抵いろいろなものが混ぜられた。鋼は炭素が添加された鉄の総称。「Eisen und Stahl」でそれらが便利に言いくるめられている。日本語の「鉄鋼」は、おそらくドイツ語の「Eisen und Stahl」の訳語だろう。

ブラームス歌曲の至宝「永遠の愛について」op43-1に「Eisen」や「Stahl」が出てくる。まずは4節目の3行目。

Fest ist der Stahl und das Eisen gar sehr,Unsere Liebe ist fester noch mehr.

「Stahl」(鋼)は男性名詞なので「der」を伴っている。中性の「Eisen」には「das」が付く。「鋼や鉄は固いけれども、私たちの愛はそい以上よ」となる。けなげな娘の台詞だ。

第5節がこれに続く。

Eisen und Stahl, man schmiedet sie um, Unsere Liebe ,wer wandelt sie um?

Eisen und Stahl,sie konnen zergehn,Unsere Liebe muss ewig bestehn!

いやはや鉄と鋼がまたまた登場。「鉄と鋼は鍛えなおせるけど、私たちの愛はどうして変えられましょう」「鉄と鋼は溶けてしまうかも知れないけれど、私たちの愛は永遠です」となる。オペラ顔負けの大げさな修辞だ。ここでは「鉄と鋼」が自分たちの愛の固さを表すツールとなっていることがよくわかる。不思議なのは登場の順序だ。4節では「鋼」が先だ。5節では「鉄」が先になる上に冠詞が無い。「Eisen und Stahl」で1単語扱いになっている気がする。

2017年9月20日 (水)

かまどの煙

万葉集巻1舒明天皇の御製。

大和には群山あれどとりよろふ

天の香具山登り立ち国見をすれば

国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つ

うましくにそ秋津島大和の国は

国見の歌だ。為政者が高いところから領地を検分する行事。言霊信仰にも関連があるとされている。聖なる王者が誉めることにより豊穣祈願の予祝行為とも思われる。「国原から立ち上る煙」がとりわけ重要だ。主に炊煙であることがポイント。どんなに譲っても稲わらを焼く煙までだ。中には煙の立ち上りが少ないことを見て減税をした王もいるという。煙は人々の営みの反映。立ち上る煙の本数はもしかすると世帯数だ。

ブラームスの歌曲にもこの意味の煙が出現する。至宝「永遠の愛について」op43-1に「Rauch」として現れる。

Dunkei, wie dunkel in Wald und in Feld!

Abend schon ist es,nun schweiget die Welt.

Nirgend noch Licht und nirgend noch Rauch,

Ja, und die Lerche,sie schweiget nun auch

3行目の末尾に鎮座する。「暗い暗い森も野も」「はや夜が更けてものみな静まる」「いずこにも灯りは見えず、煙も途絶え」「ひばりも今は押し黙る」と歌われる。「暗い森と野」は恋人を家に送る道中の描写であると同時に、2人の置かれた状況の暗喩にもなっている。その暗さを補強するのが3行目「灯りも煙も無く」というフレーズ。この煙はタバコや火災ではあり得ない。十中八九かまどの煙だ。人々の営みが途絶えている様子の描写と見て間違いない。舒明天皇の国見歌と同じである。

2017年9月19日 (火)

幸先のいい朝

生誕200年までの記事を、定年退職までに何とか備蓄してしまうことはほぼあきらめている。高いハードルだ。それでもまあ嬉しいのは、通勤の途中で2本のネタを思いついてしまった朝だ。メシウマ状態である。2本を朝のうちに思いついてしまうのは気持ちがいい。毎日備蓄記事が1本減っていくから、2本思いつくということは1本備蓄を増やすことだからだ。

たとえそれが、どんなにおバカなこじつけネタでも喜びの深さが減じられることは無い。そういう日は得てして、ビッグイニングになるものだ。

2017年9月18日 (月)

解釈への不介入

19世紀後半のドイツ音楽界を2分した論争の、片方の陣営の首領がブラームスだったことになっている。本人が進んで旗を振っていたとも思えないが、伝記その他の書物を読む限り、ブラームスが体制側の古ダヌキであったと感じる瞬間も多い。

その論争における両陣営の旗印が「標題音楽」と「絶対音楽」だった。もちろんブラームスは「絶対音楽」の側。19世紀後半に台頭した「標題音楽」の反対概念だ。「標題音楽」が台頭して来ることによって、初めて成立したのが「絶対音楽」だったように思える。バッハやベートーヴェンが自らの音楽を「絶対音楽」だと考えていたとは思えない。

ブラームスは当時、論争の存在自体は認識していたが、自らの使命を「アンチ標題音楽」と考えていたかどうかは不明だ。単に自らの脳裏に去来する音楽が「標題不要」の音楽だっただけかもしれない。音楽は言葉の助けがあってこそ成り立つと考えなかっただけのことだ。

ブラームスの姿勢は自信と放任に満ちている。自らが是とする音楽を、楽譜に盛り込みきることに徹し、自らの考えをジャーナリスティックな手段で表明することは無かった。この姿勢は、自らの作品にけして「標題」を奉らなかったことと同根だと感じる。

私はこれを「解釈への不介入」だと受け止めている。楽譜以外の発言をしないことで、作品の演奏者や聴き手の解釈に介入しない姿勢の表れだ。ブラームスが保証するのは作品の完成度だけで、演奏や解釈にはノータッチということだ。作曲家が没した後は、いずれそうなると悟っていたに違いない。

「標題」はかなり有力な解釈への介入だ。クラシック音楽に興味を持ち始めた頃、なんとなく標題のある作品に親しみを感じたことは既に遠い記憶になっている。標題の由来を知ることは音楽への興味を増す一助にはなったが、そのように感じない自分に失望するという副作用も味わった。

作品ジャンル名、通し番号、調性、作品番号で語られるブラームスの作品では、それらが鑑賞の先入観にならない。そういうブラームスを愛する自分がいる。そのことを「絶対音楽」と呼ぶかどうかは、あまり気にしていない。

2017年9月17日 (日)

見せ場

「ブラームスの辞書」の中でしばしば用いられている。「弾き手あるいは歌い手にとっての見せ場」を意味する。同時に聴き手にとっての「楽しみな場所」までも含む。

究極的にはそれらが作り手であるブラームスの意図と一致して来ることを前提に「ブラームスの辞書」は執筆されている。ブラームスは楽譜を見ればそれと判るように音符を並べたはずだ。音符だけでは判らぬところにダイナミクスを筆頭とする音楽用語をちりばめたに決まっている。さらにはアーティキュレーションや奏法を示す記号までもが、自らの音楽的意図を伝達するためのツールとして添付されているに違いないのだ。

旋律の連なり、和声の妙、リズムの仕掛け、楽器使用法の工夫、掛け合いなどなど、曲を演奏する上で絶対にはずして欲しくない場所を「見せ場」と表現している。作品の演奏や鑑賞は、楽譜というガイドラインに沿って曲の見せ場を順に巡ることに似ている。人によって「見せ場」だと感じる場所や数は千差万別だし、同じ人でも年齢や心境により違って来ると思われる。音楽用語のように1個2個と数えることは出来ないし、明確に定義することも難しいが、こうした見せ場をより具体的に意識することは、演奏においては深みを、鑑賞においては楽しみを増すと確信している。「絶対にはずせない」と思って演奏する場所が多ければ多いほど良い演奏になると感じている。聴き手として「ここは来て欲しい」と思っていた場所で核心を突く演奏をされると気分がいい。

何を隠そうブラームスの作品にはこうした見せ場の数が多い。単位小節あたりの「見せ場」の数は多い部類の作曲家だと思う。私がブラームスを深く愛する大きな理由の一つがこのあたりにあると言っていい。

2017年9月16日 (土)

奇遇の処理

毎日毎日ブラームスネタを探している。普通見逃してしまいそうな小さなことも拾い上げている。その甲斐あってときどき息を呑むような奇遇に出会う。

奇遇に出会ったら、まずは胸にしまう。とりあえず全てブラームスのお導きだと考える。「運が良かった」とか「偶然だ」とはけして思わない。ブラームスがこちらを見てくれている証拠だと前向きに手前味噌に解釈して、それを元気の素に変えるのだ。銀行の整理券が良い番号だったり、何気なく立ち寄った喫茶店でブラームスが流れていたりも皆全てブラームスのお導きだ。

スーパープラス思考である。

2017年9月15日 (金)

最強の意思表示

ブログは粛々と運営するだけならIT系の知識が無くても済むし、お金もかからない。

コミュニケーションの双方向性が売りだ。コメントやトラックバックという機能がその代表である。リンクやトラックバックの連鎖で交流が広がってゆくのも見逃せない。炎上やスパムなどネガティブな面も伝えられるが、上手につきあえば有効なツールである。

双方向性が売りとはいえ、ブログ「ブラームスの辞書」に限れば、情報の発信の方に重心がかかっている。コメントやトラックバックを用いたコミュニケーションの盛り上がりでいうならまだまだ向上の余地がある。全ての訪問者が記事を読んでの感想をいちいち残してくれる訳ではない。昨今のブログパーツには、記事への賛意を表明するパーツもそろっているが、ブログ「ブラームスの辞書」では設置を見送っている。「拍手の強要」っぽい感じがして気が引けているというのが正直なところだ。お賽銭はギリギリのところである。

読者からの最強の意思表示は「また次もアクセスしてくれること」だと考える。「面白くなければアクセスしない」とも考えている。新規の訪問者を常連客に取り込んで、アスセスが厚みを増すことが、最強の意思表示だ。ブックマークからのアクセスが増えることもかなり強力なプラスの意思表示に見える。

こんなことが言えるのは充実したアクセス解析機能があればこそである。

2017年9月14日 (木)

絶対に解のある方程式

数学苦手な文系人間としては、方程式は鬼門である。延々と時間をかけて取り組んでも報われないこともある。実数解が存在しない方程式だって珍しくない。そもそも実数解が存在するかしないかさえ見当もつかないことだってある。

同じ難解でもブラームスの用語遣いは、暖かい。絶対に解のある方程式のようなものだ。どんなに難解に見えていたとしても粘れば解に到達できる。今実数解が無いように見えるのは、こちらの側の知識や経験の不足によるもので、ある日ふとしたはずみでカラリと見つかることもある。見つかってみればなるほどなことが多い。

だからブラームス作品の楽譜に現われる用語についてあれこれ考えるのは楽しい。絶対に解が存在するという安心感は何にも代え難い。解るのは10年後かもしれぬし明日かもしれない。何かをきっかけに鮮やかな解法を思いつく可能性はいつもある。

「ブラームスの辞書」はブログも著書も、そのキッカケの集まりである。

2017年9月13日 (水)

好きの分類

長くブラームス愛好家を続けていると「ブラームスが好き」という言葉が人の口から発せられるのを耳にする機会が多い。もちろん自分も使う。定義が甘いことにかけては筆頭格の言葉だ。突き詰めるのは野暮でもある。

世の中の作曲家の中で1番好き。全ての作品を聴いた訳でもないし、聴いた作品全てで感動する訳でもないけれども、単に好きだ。私の定義はこんなものだ。好きなことに加えて暇もあるので本を書いたりブログを運営したりもしている。

「ブラームスが好き」と口にした人に「どんな作品が好きですか」と尋ねる。「ハンガリア舞曲」と「子守歌」ですという答えがあると難しい。これは「ブラームス作品全てを聴いたが、やっぱりこの2曲は最高だ」の意味であることは希である。

ある特定の演奏家の大ファンがいたとする。その演奏家の得意なレパートリーがブラームスだった場合、その大ファンは「ブラームスが好き」としばしば口にする。

上記2つは極端な例である。けれども大抵はそれぞれの基準に従ってご本人が「ブラームスが好き」と自称することになる。

この多様性こそ尊重されるべきだ。突き詰めるのは野暮と申したのはそのせいだ。愛好家同士の飲み会では、目の前のブラームス愛好家がどのパターンなのか、早い内に見抜けないと話がすれ違うことも少なくない。そうしたスリルが一つの醍醐味になっている。

2017年9月12日 (火)

アナリーゼのニーズ

「アナリーゼ」とは演奏に先立つ音楽作品の解釈だと以前に書いた。今もその考えは変わっていない。

ブログ「ブラームスの辞書」へのアクセスを調べていると「アナリーゼ」という単語とブラームスの作品名がand検索されてたどり着かれるケースが非常に多い。これとは別に「作品解説」という単語でもつり上げられるから、微妙な使い分けがされていると解したい。

アナリーゼは演奏にあたっての解釈だと思っている。自らが挑もうという作品のアナリーゼをネット検索して当たろうという意図であることは明白だ。自分のアナリーゼとの違いを確認する目的なのか、他人のアナリーゼをちゃっかり拝借する意図なのかはアクセス解析からは判らない。どちらにしろブログ「ブラームスの辞書」に作品のアナリーゼは出て来ないから時間がもったいないことは確実だ。

演奏テクニックの上手下手はその道のプロが聴けばたちどころに判ってしまうらしいが、アナリーゼの上手い下手はどうなのだろう。「ピアノのテク」という言葉にはアナリーゼの能力までは入らない印象だが、「演奏能力」と言った場合にはアナリーゼの能力も入ってくると思う。ブラームス作品はどれも高いテクニックが必要とされる。せっかくそれらに挑むテクがあるなら、アナリーゼも自分でやるほうがいいと思う。それにしてもアナリーゼが立派なのに演奏テクがからきしで台無しの演奏と、アナリーゼが目茶苦茶の演奏は区別出来るのだろうか。

アナリーゼが演奏の一部分だとすれば、自分の虎の子のアナリーゼの核心をネットで公開するお人好しがいるのだろうか。アナリーゼは演奏のテクそのものにも匹敵する演奏家の個性そのものだ。それを惜しげもなくネット上で公開するものだろうか。あるとすれば「アナリーゼを読んだところで真似なんぞ出来やしない」という強烈な自負がある場合、あるいはネット上では核心を語らない場合だけだと思う。自分が感じたようにしか弾けないという演奏家は少なくない。そうした微妙な感覚が簡単に文章になるとは思えない。つまりネット上でひっかかるアナリーゼなんぞ大した参考にはなるまいと疑っている。

自分のアナリーゼがどのような位置づけにあるのか、他人の意見を聞いて参考にすることは必要だと思うが、度が過ぎれば興醒めである。

2017年9月11日 (月)

人は群れたいのか

人は社会的な動物だという。むしろ群れを作らねば生きて行けないと解するべきだ。猿、アリ、ハチ、オットセイなど群れを作る生き物はよく知られているが、人類の比ではあるまい。いわゆる社会的分業が高度に進んだ現在、なおさらその感を強くする。

音楽はどうなのだろう。

まずは音楽の作り手、作曲家について考える。結論はシンプルだ。作品を生み出すのに群れる必要はあるまい。特に大作曲家と呼び得るのは一握りに過ぎず、群れるほど数がいない。後世に名を残すような人たちは、社会生活はともかく創作面では孤独だ。他人には聞こえない音楽が頭の中で鳴るのだから、それも当然である。

さて群れる必要のない作曲家によって生み出された作品を演奏する弾き手(歌い手、振り手を含む)はどうだろう。

群れる必要という意味ではこれが一番だ。厳密には、必要性と名付けていいかどうか微妙だが、群れて弾くと楽しいことは誰にも否定出来まい。一人で弾くことからは得られない喜びが群れて弾くこと、つまり合奏から味わうことが出来る。数人が勝手に同じ場所で個人練習するのは百害あって一利無しだが、これがひとたび全員で気持ちを合わせて一つの作品を仕上げるとなると俄然盛り上がる。いわゆるアンサンブルだ。

最後に演奏の受け手はどうだろう。

群れる必要はない。大きな会場で演奏される場合、結果として聴衆が群れることはあっても、感動するだけなら一人でよい。しかし、この断言には我ながら後ろめたさも残る。音楽をネタにビールを飲みながら味わう盛り上がりを説明出来ないからだ。

原則としては音楽を聴くのは一人で聴けばいい。しかしこれも歯切れが悪い。音楽で感動したら、誰かと分かち合いたいと思うのは自然だ。おいしいものを食べれば子供たちに食べさせてやりたいと思うし、きれいな景色を見れば家族に見せたいと思う。音楽も同じだ。それを称して群れると言うかどうかは少し難しいけれど、音楽を聴くのは一人でいいという断言がしにくいのは確かだ。

また、限られた予算と時間で効率的に良い演奏のCDをコレクションしたいという根強いニーズを満足するためにもしばしば「群れ」が構築される。情報の共有だ。

私のブログ「ブラームスの辞書」は群れて盛り上がる場合のネタ供給という側面が色濃い。人は群れる生き物ということが前提になっていることに他ならない。

2017年9月10日 (日)

説得力と演奏能力

学生時代オーケストラに所属していた経験から見て、楽器の演奏が上手い奴の意見には説得力があったと思う。同じ内容でも楽器の上手い奴が口にすると浸透度が違ったと感じていた。

コミック「のだめカンタービレ」でもR☆Sオケの練習中に、千秋真一が自らヴァイオリンを手にとってニュアンスを伝える場面があった。スコアから読み取った解釈をただ言葉で説明するだけよりも数段説得力があるのだと思う。

私としては、ブラームスに対する思いや、作品解釈の深さは演奏の能力との間にはあまり強烈な相関関係はないと思っているのだが、現実は厳しい。私がブログや本でどんだけのことを語っても極上の演奏の前には寝言でしかないのだ。その手の名人は深く考えずに本能の赴くままに弾いただけで聴衆を虜に出来るようにも見える。少なくとも屁理屈が勝っては邪魔なだけだと思わせるものがある。

そんなことは重々承知で屁理屈をコネている。音楽の中の演奏という側面に十分な敬意を払いつつ、演奏とは別の手順で楽譜から何かを読み取りたいのだ。残念なことに読み取った結果を音に変換するテクに傷を負っているが、読み取ることをやめることは出来ない。

2017年9月 9日 (土)

聴く才能

クラシック音楽というジャンルにおいて、後世に残る作品を生み出そうと思ったら、作曲についての特別な才能が要る。ましてそれが名曲と位置づけられることを狙ったら尚更である。

さらにそうした作品の演奏が一定の評価を得るためには、やはり特別な才能が必要だ。

私はそのどちらにも恵まれていない。

もしブラームスの作品を聴いて感動するために、ブラームスと同等の才能が必要だったらこれはとことんお手上げである。

音楽を聴いて素晴らしいと感じるためには作曲や演奏ほどの才能が無くてもOKなのだ。最近そのことをつくづくありがたいと思う。

2017年9月 8日 (金)

Hasen Biere

都内某レストランで、ありついたビール「Hasen Biere」。

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アウクスブルク産のラガーだが、見ての通り濁りがある。ヴァイツェンではないのに酵母を除去していないということだ。甘い。毎度ごひいきのシュパーテン、ミュンヘンで賞味したアウクスティーナーにも遜色ない。ゴージャスなコクがある。

500mlを注文すると陶器製のジョッキで供されるのだが、300mlだとグラスになる。濁りが観察できるのはありがたい。少々お高いのだが全く気にならない。

seit1464とあるから応仁の乱の3年前の創業となる。

2017年9月 7日 (木)

先払い

人の1日は24時間。この点神様はつくづく公平だ。老若男女、地位、思想信条の如何を問わず1日に使える時間は24時間である。この24時間をどのように配分するかについては、個人個人の事情や個性が色濃く反映する。優先順位をつけてやりたいこととやらねばならないことに折り合いをつけているのが実情だ。

ブログ「ブラームスの辞書」を2033年5月7日のブラームス生誕200年まで毎日継続することは、私の中ではかなり高い優先順位を与えられている。そりゃあ全くパソコンにさわれない日だってある。ブログの運営よりは優先順位を高く設定しなければならないことも少なくないのか実情だ。それをやりくりして何とか目標を達成したいと工夫している。

ココログに標準装備された記事公開のタイマーは、思うだに貴重である。備蓄記事全てに独自の公開日を設定出来る。ココログ自体が何らかのアクシデントで破綻しない限り、管理人の都合とは関係なく記事を公開することができる。本当に助かる。

2033年5月7日のゴールまでに必要な記事を定年退職までに備蓄し終えてしまうことは、諦めた。でもそれが成就したあかつきには、ココログの月間使用料を2033年5月分まで先払いしてしまうことだ。

事情を話せば先払いを受け付けてくれるのだろうか。かなりな額なってしまうのが課題である。

2017年9月 6日 (水)

葬儀の翌月

ロベルト・シューマンの葬儀は1856年7月31日だった。没したのが29日だったからその翌々日の葬儀。ボン市長まで参列していたから、翌日の新聞くらいにはキチンと載っていたと思われる。

その葬儀から1週間以内という極めて近い時期に、歴史の教科書には必ず載っている発見があった。発見の場所はシューマン夫妻が住んでいたデュッセルドルフの東およそ13kmにある、洞窟の中だ。発見の詳しい日付は不詳だ。石灰岩採掘の作業員が骨片を見つけた。これが人骨であるという鑑定結果が出るのにおよそ1ヶ月かかり、地元の新聞には9月6日に掲載された。

これこそが名高いネアンデルタール人の発見である。ネアンデルの谷で発見された古代人なのだが、その洞窟は石灰岩の採掘のために取り壊されてしまった。それどころかネアンデルの谷もとろも削定されていた。産業革命を支えたセメントの材料を採掘するために、渓谷が丸ごと取り潰されてしまい、そこを流れる川は平地の真ん中を流れる川になってしまっていた。現在は学者の努力で、発見場所がほぼ特定されているが、谷間の洞窟までは復元されていない。

世界史の教科書には必ず掲載されるネアンデルタール人だが、音楽史的には無視されまくる。

2017年9月 5日 (火)

大予告編

実は、この夏休みに少し異変があった。8月11日からの6連休をいただいた中、ブログ記事の備蓄が進んだ。8月11日から昨日までのおよそ20日間で、記事を60本程度備蓄できた。これは2014年10月以降記事の備蓄が進まない現象が起きて以来の回復だ。

理由はわかっている。

2016年末から2018年公開予定の特集のために記事の備蓄を開始した。2018年元日スタートでおよそ1年の大型企画だ。最低300本程度の記事が必要となる。7月までにその6割程度たまったので、夏休みの6連休を利用して、公開日の仮設定を進めた。年間のストーリーに従って記事の公開順を決める作業だともいえる。

この作業を始めたことで脳みそが刺激され、次から次へとネタが脳内に湧き出る状態になった。20日で60本という高密度な記事備蓄だ。同時に2019年公開の企画にもめどがたった。

2018年2019年とも割と大型企画になる予定だ。そして2020年は定年退職とオリンピックが続く。

2017年9月 4日 (月)

記譜法

5本一組の直線と、その上に記された玉の相対的な位置で音高を伝える現在の記譜法は、先人たちが工夫に工夫を重ねて練り上げたものだ。バッハの時代にはほぼ現代の形になっていた。もっと昔にはいろいろな記譜法が存在したが、現代では骨董的価値を主張するばかりになってしまっている。

現在世界を席捲するクラシック音楽だが、記譜法の貢献は計り知れない。

ブラームスが友人ヴィトマンに語ったところによれば、小学校入学以前、おそらく7歳前にブラームスは自己流の記譜法を編み出していたという。等間隔に並べた線と黒い玉を組み合わせて旋律を表現出来たと語っている。

もちろん現物は残っていない。

彼はやはり演奏家ではない。根っからの作曲家なのだと思う。

2017年9月 3日 (日)

愛情の表現

「愛情」は手に持って見せることはもちろん、「はいこれ」と指し示すことも出来ない。ものの見事な抽象名詞だ。人によって定義も違えば対象や位置付けも違う。主観の相違による認識のすれ違いを常に覚悟しなければならぬ言葉ながら、これといった断りもなく頻繁に使われる。

私がブラームスに対して抱く感情も愛情だと認識している。

抽象名詞の悲しさで、持ち上げることはもちろん、指し示すことも出来ない。だからひと様にこれですよと見せるためには何か形あるものに変換する必要がある。この変換のことを人々はしばしば「愛情の表現」と呼ぶ。

著書「ブラームスの辞書」とブログ「ブラームスの辞書」が私の愛情の表現と申し上げて差し支えない。著書もブログもこれと指し示すことが可能だ。これらを作り上げる原動力が、ブラームスへの愛情だと言い換えることも可能だ。ブラームスへのほとばしる思いを、忘れるのが怖くて書き留めたら本やブログになった。忘れるのが怖いという現象自体も愛情の裏返しだと思うが、こうした感情もまたこれといって指し示すことが出来ない。

ひと様に説明不能の感情をものに置き換えたのだから、わかりにくいのは当たり前である。ブログも本も私の感情表現である。

2017年9月 2日 (土)

交響曲第18番

ハンス・フォン・ビューローは、高名なピアニストであると同時に、今風な意味での指揮者の走りでもあった。加えて聴衆に対して演説をぶつのが恒例でもあった。居合わせた聴衆にとっては負担だったかもしれないが、そうした演説から名高いエピソードがいくつも生まれているからバカにならない。

ベートーヴェンの交響曲第9番といえば演奏におよそ一時間を要する大曲だが、ビューローは一度演奏した後に、お決まりの演説をかまして、再度全曲演奏したという凄いエピソードが残っている。その際聴衆が帰れないようにホールの扉に鍵を掛けさせたというから相当な確信犯である。このエピソードは大抵聴衆が気の毒というニュアンスで語られるが、付き合わされたオケの団員も疲労度という意味では相当なモンだと思う。

さてさて、その話を伝え聞いたブラームスは「それじゃあまるで交響曲第18番だ」とつぶやいたという。出所が怪しくて確認も必要だが、痛快である。もし事実ならブラームスが即座に「9かける2」の暗算に成功していたことは間違いない。

だから今日は9月2日。

2017年9月 1日 (金)

6大会連続6回目

昨夜、サッカーの日本代表は2018年のロシアワールドカップへの出場を決めた。1998年の初出場以来6大会連続6回目の出場となる。

2017年8月31日 (木)

閉店セール

長く愛されていた老舗が、諸事情により店じまいをする際、「売りつくし」と称してバーゲンセールを実施することがある。いわゆる「閉店セール」だ。客の側には、残念な気持ち少々と「きっと安いに違いない」という期待があって期間中にぎわうことも多い。平常閑古鳥だったために閉店に追い込まれるような店でも、このときばかりは別になる。

地方ローカル鉄道の廃止が決まるとマニアが殺到するのにも似ている。

一部の巧妙なマーケッターはこれを逆手に取ることもある。年がら年中「売り尽くし」「本日限り」のセールストークを掲げている店を見かけることは少なくない。

本が売れたり、ブログが見られたりするのは嬉しいとはいえ、私のブログ「ブラームスの辞書」でこの手法は使えない。著書「ブラームスの辞書」の現物が全部売れて品切れになってもブログ「ブラームスの辞書」を閉鎖することはない。ブログが終わるのは、管理人の私の身によっぽどのことが起きるということなのだ。それでも潤沢な備蓄記事があるから、ただちにブログ記事のアップが途絶えることはない。管理人の私自身はブログの最終回をアレンジ出来ないのだ。

ということはつまり「閉店セール」を打てないということである。

「閉店セール打てない」とエエカッコをしているが、実は怖くて打てないともいえる。もし「閉店セール」に打って出て、ブログのアクセスや本の売上が全く変わらなかったら、相当恥ずかしいからだ。

2017年8月30日 (水)

物は言いよう

私は自分のブログや著書を指してしばしば「素人の駄文」という言い回しをしている。これには2系統の意味が含まれている。「素人」では「私が音楽の専門家ではない」という意味、さらに「駄文」には「私がプロの物書きではない」という意味をそれぞれ包含した言い回しなのだ。両者合わせて「音楽の素人で物書きでもない男が書いた文」という意味を濃厚に含んでいる。「ブラームスの辞書」は2重の意味でアマチュア性が充満しているという訳だ。

この言い回しを自嘲半分、自戒半分、謙遜少々くらいのノリで使う分には健全である。

ところが「つまらぬ記事や的外れな主張があっても無礼講で」という意味合いを含み始めると、途端にいやらしくなる。記事の水準低下に対する保険あるいは予防線の意味で「素人の駄文」という言葉を使うのは潔さに欠ける。私としてはこのニュアンスで使いたくないと考えている。この手の言い訳を先に発してから続ける文には、得てしてろくなことはないのだ。

こういう言い訳が必要と感じた瞬間に、さっさと文章を削除するのがブラームス風だと思う。せめてそういう潔さだけは真似したいものだ。

2017年8月29日 (火)

記事の保全

昔から記憶力には自信があった。

百人一首、長恨歌、周期律表、イオン化傾向、首都、県庁所在地、駅名、歴史年表、などみんな記憶力試しの対象だった。暗記が得意だったりする。得意な分野ほど暗記力が高まるという特徴がある。一方で何故暗譜がからきしだめなのかは大きな研究課題だ。

最近、この記憶力が落ちた実感がある。正確に言うと「思い出し方を忘れる」という感覚に近い。

年がら年中ブラームスのことを考えているから、不意に記事のネタを思いつくことが多い。手元にメモがあればすぐにキーワードだけを書き残す。問題はメモが無かったり、電車の中だったりした場合だ。どれほどいいネタでも、メモしておかないと後から思い出すのに一苦労というケースが目立って増えた。キーワードさえメモしておけば、あとは完全に思い出して記事に出来るくらいの記憶力は維持しているから、思いついた瞬間に何かにメモする他はない。最近は携帯電話のフリーメモが重宝している。

記事を思いつかない苦しみよりも、一度思いついた記事を思い出せないほうがストレスになる。せっかく縁あって私の頭に浮かんでくれたのだから、キチンと記事にしないと申し訳ないという気持ちである。

本当に憂うべきなのは、キーワードから記事を復元出来ないほど記憶力が減退することである。いつかそういう日も来るのだろう。

2017年8月28日 (月)

文法と楽典

知っているに越したことはない。越したことはないが知らなくてもしゃべれるし歌えるという意味では「文法」と「楽典」は共通性がある。正式に習おうと思うと厄介で、古今の学生を悩ませるということにおいても双璧である。

先に文法が出来上がって後から言葉が生まれた訳ではない。「先に言葉ありき」で言葉の使い方使われ方を詳密に分析して体系付けられたのが文法である。現に文法などさっぱり知らぬ子供でも言葉を使っている。文法とは「後から付けた理屈」である。だからと申し上げて良いのかわからぬが文法には例外が多い。よく使う動詞ほど不規則変化するし、格助詞の使い分けには定説がない。けれどもおよそ日本人ならば使い間違えたりすることはない。

言葉と文法の関係は音楽と楽典の関係に似ている。歌ったり演奏したりアンサンブルしたり、あるいは作曲したりした経験の膨大な積み重ねから導き出された体系なのだ。いわば「こうしたらうまくいった」の集大成である。次もうまくやりたいと願う者によって次々と模倣拡充されてきた。人によっては「あれはいかんこれもいかん」という制約に映ってしまうが根本のところは「どうしたら耳に心地よいか」を求めて「後から付けた理屈」のなのだ。

無くても歌は歌えると開き直るのは、斜めに構え過ぎていると思う。一方で楽典の決まりを完璧に守ったつまらぬ作品が存在する可能性も無視できないと思う。古典的と称されることの多いブラームスの作品がただ楽典を守っただけの作品でないことは歴史が証明していることに加えて、私の耳もそれを支持している。

楽典という決まりも結構だが、理屈では説明のつかない塗り残しの領域が多いほど魅力を増すと思う。

2017年8月27日 (日)

文体

文章表現上の特色のことだろうか。筆者の個性による言い回しの癖と解されよう。有名作家間の言い回しの特徴を比較したり、同一作家における表現の時系列的な変化の研究を総称して文体論と呼ばれている。

ブログを長く続けていると、文体めいたものがおぼろげながら構築されて来る。筆者である私自身は気付かない幾多の特徴がブログ記事に刻印されているものと思われる。具体的に心がけているのは「簡潔な表現」だ。ねちねちとした系統の話が多いから、粘るような文体だともたれる。

おそらく、音楽にもあるのだと思う。作曲家毎に異なる様式がある。

ブログ「ブラームスの辞書」のカテゴリーにもなっている「ブラームス節」が、おそらくそれに該当するのだと考えている。

2017年8月26日 (土)

万葉集に並ぶ

現存する日本最古の歌集と称えられる「万葉集」に収載された歌は、4519首だ。数え方により異論もあるらしいが高校ではそう習った。

本日のこの記事は、ブログ「ブラームスの辞書」開設以来4519本目の記事である。記事の数が万葉集の歌数に並んだということだ。4519首目の作者は、編纂者とも目される大伴家持である。彼の命日は旧暦ながら8月28日だ。惜しい。2日違いだ。これがピッタリだったらちょっとしたサプライズになるところだった。

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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