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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

2017年12月12日 (火)

大作曲家とその時代

都内某書店で「ブラームスとその時代」という書籍を買い求めた。店頭で手に取って4500円をためらわずに支出した。2017年11月3日西村書店刊だから、出来立てのほやほやだ。クリスチャン・マルチン・シュミットというドイツの学者の著述を和訳したもの。

作曲家の伝記的事項に相応の配慮をしつつ、時代背景に切り込むというスタンスだ。民謡へのあたたかなまなざしも見て取れる。WoO33を背負う「49のドイツ民謡集」を、学術的とまで断言し、ブラームス本人が同作を作曲の集大成と位置付けていたという解釈に目から鱗が数枚落ちた。民謡へのあたたかなまなざしは特筆ものだ。

2017年12月11日 (月)

島原の乱

寛永14年10月25日、九州天草で代官所が襲撃された。これが島原の乱の勃発である。事の起こり自体は重税が原因とされ、必ずしも信仰のためではなかったが、首謀者側の結束にキリスト教信仰が寄与していた。

ここでいうキリスト教徒はカトリックである。当時日本の人口の10%にも届くかという試算もあるくらい、無視しえぬ勢力であった。

勃発の日を新暦になおすと1637年12月11日であるから、今日は島原の乱勃発からちょうど380年になる。

外交史的には、日本が鎖国を完成する過程になる。1639年にポルトガル人を追放して完成することになるいわゆる「鎖国」は、その過程が欧州での三十年戦争の期間にピタリと符合する。

音楽史的に申すなら初期バロック時代となる。

2017年12月10日 (日)

ワンナワーコンサート

一昨日、東京白寿ホールに行ってきた。19時30分からの60分のコンサート。だから「ワンナワーコンサート」だ。川本嘉子先生のコンサート。

20171209_083841シューマンの歌曲集「詩人の恋」op48とブラームスの「4つの厳粛な歌」op121を、ヴィオラとピアノの二重奏でというプログラム。オリジナルは名高い名高いドイツリートの大定番作品だから、そこから声楽を抜いてヴィオラをさしはさむということだ。

演奏後ご本人が、そのことに触れた。「本来の歌を抜いてヴィオラでというのは挑戦的なプログラム」と開口一番。「私は歌ではとうてい伝えることはできないから、なんとかヴィオラでと思い続けて弾きましたが伝わりましたでしょうか」と謙遜気味。どこまでも気さくで率直なトークはさらに続く。「私はキリスト教徒ではないのに、イエス様おっしゃるとおりと思わされる場所がたくさんあった」「演奏の最後にさしかかって、もう終わっちゃうんだ。次はいつ弾けるだろう」と控えめな本音の告白があった。演奏をさしおいて真っ先に言及せざるを得ない圧倒的なトークだった。

明らかにブラームスが念頭に置かれたこの言葉たち。声のパートとテキストをヴィオラに差し替えた代わりに演奏後のこのトークがやけに雄弁で説得力があった。

さて演奏。

ブラームス補正がかかった私には極上のメインディッシュだった。「4つの厳粛な歌」のテキストの抑揚や意味への深い洞察なしにはあり得ない、精巧なアーティキュレーションとダイナミクス制御。おそらく意図的な解放弦の使用によって醸し出されるさめざめとした感じ。オリジナルのもつフレーズ感に忠実なキュートで控えめなポルタメント気味のフレージング。まさにセンス、気の利いたとしかいいようがないフラジオ。ヴァイオリンやチェロでなく、ヴィオラで弾かれねばならぬ必然性を実感させる音色の丸み、とりわけC線ハイポジションの限定的な使用が印象的だった。あげればきりがない。

第1曲の砂塵が舞う場面への劇的な転換。大好きな大好きな第2曲全体に充満する慈愛、そしてブラームス4曲の、いや演奏会全体の響き・主張の頂点はおそらく第3曲にあったはずだ。引き裂くような第3曲の冒頭の入りを聴いて震えた。6小節目アウフタクトmpから始まるピアノ右手とのカノン。オリジナルの歌で聴くより明確に聞こえた。長調に転じた瞬間の天上感は、どこまでも澄み切っていて自然だった。

第4曲が満を持したような確信に満ちたアップボウで始まったとき、「事実上のヴィオラソナタ」だと気づいた。4つの歌が、4つの楽章に相当すると。緩徐楽章を3楽章に据えたソナタであると。おそらくブラームスの意図に由来する「4曲がセットであり、この順で弾かれねばならぬ必然性」が、声をヴィオラに差し替えたことでクリアに浮かび上がった。

1曲目アンコールにメンデルスゾーンを持ってこられて納得度はさらに高まる。シューマン、ブラームス、メンデルスゾーンという配置。アンコール2曲目が、明らかにクララが意図された「献呈」だったとき、シューマン夫妻の最後の子供の名前がメンデルスゾーンに由来する「フェリクス」で、その子の名付け親がブラームスであったことを否応なく思い出した。

シューマンに言及するだけの知識がないことが、恥ずかしくも申し訳なく感じた。

2017年12月 9日 (土)

江戸時代の見直し

昨今、何かと江戸時代が見直されているという。鎖国、士農工商、キリスト教弾圧などネガティブな見方ばかりでもあるまいという風潮だ。日本がアメリカナイズされる前の「古き良き時代」という捉え方だ。明治維新というある種の革命により、文明開化、脱亜入欧が叫ばれ江戸時代が否定された結果が、現在も続いていると思われる。そうなる以前の江戸時代をもっとキチンと整理して再評価しようという傾向だ。

ベートーヴェンで飽和した感のある古典派時代が、明治維新よろしく弾けてしまったのが、いわゆる「ロマン派の時代」だ。「古いこと=悪いこと」「壊すこと=良いこと」であるかのような風潮に支配された。訳のわからぬ作品が「未来の音楽」のキャッチフレーズとともにもてはやされた。みんなこの風潮に酔った。才能の有無に関わらず、この波に乗り遅れまいという時代になった。

そこへひょっこりブラームスだ。「江戸時代も捨てたモンではありませぬ」とばかりに説得力ある作品を携えて現れた。才能が無くてただ波に乗ってた輩は、「やばい」のと照れ隠し代わりにブラームスを攻撃する。いわく「保守的」「時代錯誤」「室内楽的」という三点セットだ。ブラームスの時代にあっては既に確立していた「明治維新の空気」にひょっこり乗る方がよっぽど保守的である。保守的であるばかりか「楽」なのである。そんな時代に敢然と江戸時代に回帰して見せることの方が数段勇気が要るのだ。ましてブラームスは、しばしば鎌倉時代まで遡ることすら試みている。

もっとも大切なことは、ブラームスの取り組みが、単なる懐古趣味や実験にとどまらずに芸術と継ぎ目なく融合している点である。単なる懐古趣味や実験に終始し、ついぞ芸術の域に到達しなかった輩も少なくない無い中で、ブラームスがそれに高い確率で成功していることが私をブラームスに駆り立てる原因の一つになっている。

後世に残すに相応しからぬ作品を自ら廃棄する勇気を誰にもまして持っていたのがブラームスだ。おそらくそれは古来「武士道」と呼びならわされているものに似ているのではないかとも思っている。

2017年12月 8日 (金)

鎖国

江戸幕府の外交政策のこと。外交と貿易の幕府独占という意味かと思われる。薩摩藩や松前藩など例外もある。諸外国とのつきあいをやめたため、科学技術の進歩という面で遅れをとった原因というイメージが過剰に強調されている感じもする。

我がブログ「ブラームスの辞書」は、いい歳をした大人が管理しているにも関わらず、世の中の動きに敏感に反応するとは言い難い。サッカーについてのトピックに控え目に言及する程度だ。

季節、天変地異、政治、事件との連動をむしろ意図的に避けている。私個人の身の回りの出来事への感想が記事になることもない。世間様の動きに背を向けている姿は「鎖国」にも似ていよう。その手の話は私がブログで話題にしなくても皆が話題にする。ブラームスネタへのこじつけに成功しない限りは積極的に取り上げることはない。

例外は家族の話題だ。とりわけ子供たちの話は時々記事のネタになる。ブラームスネタの濃度が低下する一因ではあるが懲りる様子は無い。将来子供たちのカテゴリーを順に振り返ると事実上の育児日記になっていると思われる。つまり鎖国体制の中、わずかに開かれた出島のようなものだ。

2017年12月 7日 (木)

DBのペン

私の「ドイツ好き」「鉄道好き」をよく知る人から一足早いクリスマプレゼントをもらった。

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ドイツバーンの手帳とボールペンだ。質実剛健な造りなのだが、「DB」イメージカラーが前面に出ておしゃれな感じ。ペンライトもついている。何より「DB」のロゴがまぶしい。「JR」や「ルフトハンザ」より盛り上がる私のストライクゾーンの中央を深々とえぐる一品。

1835年12月7日が、ドイツ初の鉄道が開通した日。今日はドイツの鉄道記念日だ。

2017年12月 6日 (水)

貧民施設の食事

出世を遂げた後のブラームスの食事については、十分とは言えないまでも複数の証言がある。これに比べてハンブルク時代の食事がなかなか判明しない。メニューが紙で残るのはレストランくらいで、一般家庭のメニューが理由もなしに記録されるとも思えない。

思わぬ手掛かりは教会。教会直営の福祉施設、貧民のための救済施設の献立が保存されていることがある。農分社刊行の「世界の食文化」の18巻「ドイツ」にブラウンシュヴァイクの貧民施設における1週間の献立が掲載されていた。1842年という絶妙な時期のものだ。

青字が昼食、赤字が夕食とする。ちなみに朝食は記録されていない。

  • 月 ひきわり大麦、ジャガイモバター付き黒パン、脱脂ミルク
  • 火 ニンジン、ジャガイモジャガイモスープ、脱脂ミルク
  • 水 レンズ豆、ジャガイモバター付き黒パン、脱脂ミルク
  • 木 えんどう豆、ジャガイモバター付き黒パン、脱脂ミルク
  • 金 スウェーデンカブ、ジャガイモあら引きオート麦、脱脂ミルク
  • 土 レンズ豆、ジャガイモ、バター付き黒パン、脱脂ミルク
  • 日 白いんげん豆、じゃがいもバター付き黒パン、脱脂ミルク

貧民施設の給食とはいえ気の毒だ。ブラームスの家は貧しかったことが頻繁に記述されている。これよりもっとシンプルな食事だったかもしれないし、これよりはマシだったかもしれない。いずれにしろジャガイモ中心で、肉は出ないと判る。ワインやビールはもとよりコーヒーだって現れない。ブラームスの伝記で言う貧乏とはつまりこの水準の話だということだ。

2017年12月 5日 (火)

イエンナーの昼食

グスタフ・イエンナーは、ほぼ唯一と申して良いブラームスの作曲の弟子。彼の残した回想録は、師匠ブラームスを活写していて面白い。

弟子入りした最初の頃、ブラームスとちょくちょく昼食を取ったと証言している。場所は毎度「赤いはりねずみ」だったらしい。ところが程なく自分だけ遠慮したという。その理由が、70~80グルデンの代金を支払うのが苦しかったからだとイェンナー本人が述べている。ほぼ1000円と思って良い。

記事「ランチのご予算」でブラームス本人がウィーンにいる間、ランチに費やす金額が2000円~3000円だと書いた。駆け出しの音楽家にとっては毎日1000円を昼食につぎ込むのが辛かったということだ。

やっぱりブラームスのランチはリッチだったのかもしれない。

2017年12月 4日 (月)

組み合わせ抽選

来年のロシアワールドカップのグループリーグの組み合わせが決まった。H組の日本の対戦順は以下の通り。

  1. コロンビア
  2. セネガル
  3. ポーランド

相当運を使ったはずだ。前回大敗を喫したコロンビアは強いが、欧州勢がポーランドというのは強運だ。ドイツ、スペイン、ベルギー、ポルトガルあたりよりは相当ましだ。それからこの対戦順も素晴らしい。初戦にもっとも強いところとやれるのはうれしい。負けても挽回が利く。強豪がやらかすとすれば初戦でもある。

さてさてドイツは、メキシコ、スウェーデン、韓国だ。興味深いのはスェーデンだ。欧州プレーオフをイタリアと戦い、きわどく本大会に進出したからだ。ここにイタリアが入っていたら、ドイツは穏やかではなかったはずだ。大会開催時の実力や下馬評に関係なく、ドイツはイタリアと相性が悪い

アジアから参加の韓国は、相当つらい。ポルトガル、スペインと同組のイランも同様だ。日本はかなり恵まれたと感じる。

2017年12月 3日 (日)

通算90万アクセス

昨夜遅く、ブログ「ブラームスの辞書」開設以来のアクセスが90万に到達した。12年半をかけての大台だ。

弱小ブログではあるのだが、長く続けているとこういうことも起きてくる。日頃のご愛顧にただただ感謝する次第である。

2017年12月 2日 (土)

ランチのご予算

私の勤務先周辺では、お昼ともなるとお弁当の屋台が鈴なりになる。価格訴求の最先端を行く業者は390円を打ち出している。昼時にはサラリーマンが行列を作る。私は弁当を持参することもあるが、実質390円では作れないと母は断言する。節約するなら弁当を買った方がいいのだ。

さて、ウィーン定住後のブラームスは最早勤め人とは言えないが、友人たちがブラームスの昼食事情を証言している。行きつけのレストランで毎日2000円から3000円を費やしていたらしい。

微妙だ。普通のサラリーマンで毎日2000~3000円をランチに費やすとは思えない。たまになら考えられるが、毎日この金額をつぎ込むことはあり得まい。役員クラスでないと無理だ。かといって昼食に10000円投じているとならないところが、ブラームスらしい。昼間からビールかワインを飲んでたっぷり時間をかけた昼食なら、想像もつかないという訳ではない。上天丼、鰻重、サーロインステーキ、上ちらし寿司に少々のアルコールがからめば十分にあり得る。これが毎日だから凄いとも言える。もしかすると連れの支払いも自分持ちということも多かったと思われる。だとすれば2000~3000円も驚くには当たるまい。

リッチな昼食だが、欧州楽壇の重鎮にしては、至極まっとうだと思う。

2017年12月 1日 (金)

シュトーレン

ドイツのお菓子。クリスマスの代表的な味だ。元々ドレスデンの名物らしい。シューマン一家はデュッセルドルフに移る前にはドレスデンに居たから、シュトーレンを食べたかもしれない。けれども当時既にドイツ中で食べられるようになっていたとすればドレスデン以外でも口にすることは出来たと思われる。

ブラームスの母がシュトーレンを作ったかどうか確認中。

2017年11月30日 (木)

レバー団子のスープ

ブラームスの行きつけのレストラン「赤いハリネズミ」の名物。Leberknodelsuppeというらしい。(赤文字はウムラウト)レバークネーデルズッペだ。ドイツオーストリア独特のスープだそうだ。

ブラームスは上客の集まる2階ではなくて、大衆向けの1階で食事したという。ブラームスに遭遇すること目当ての客も混入していたようだ。

同じウィーンに住み、交響曲を生み出しながらお互いの伝記にあまり登場しないブラームスとブルックナーだが、このレストランを贔屓にしという点では一致している。レバー団子のスープを飲んで「うまい」と一言漏らしたのが唯一の意見の一致とは大人げない。

2017年11月29日 (水)

ザルツブルガーノッケル

ザルツブルクのお菓子。

ブラームスの母が得意にしていたと伝えられる。その他ホイベルガーがイシュルに出かけたブラームスに配慮して、レストランに好物を注文する一件にも名前が出てくる。レストランの対応は「ブラームス先生の健康に配慮して、ザルツブルガーノッケルはキャンセルにした」というものだった。「甘過ぎて身体に良くない」という意味だろう。

ブラームスのお菓子好きを今に伝えるエピソードだ。

2017年11月28日 (火)

お袋の味

おそらく「母の手料理」のことで間違いあるまい。我が家の子供たちにとっては「祖母の手料理」と同義である。もちろんおやつも含むと解してよかろう。

ブラームスにも「母の手料理」があった。

  1. エッグノッグ ラム酒と卵で作る飲み物。卵黄とラム酒にバニラや生クリームなどを加えて作るらしい。香辛料を一つまみ入れる。れっきとしたアルコール飲料なので子供にはきついと思うが、当時のドイツは現代の日本とは少し事情が違うと思われる。
  2. こけもものジャム こけももと砂糖それにレモン汁を加えて煮る。
  3. オートミールケーキ 母からの手紙に現われるが、レシピは不明。文脈からしてブラームスの好物と思われる。
  4. ザルツブルガーノッケル メレンゲを焼いて膨らませたもの。

1855年4月クララはハンブルクでの演奏会に際してブラームスの実家に滞在する。ブラームスの伝記であればほぼ必ず言及されるエポック。このときブラームスの母がクララを心を込めてもてなしたとされている。上記のうちどれかをクララに振舞った可能性がある。

2017年11月27日 (月)

両親の少年時代

自分の両親の幼年時代についてどれほどの情報があるだろう。両親や祖父母から聞かされていた話、古びた写真だけが情報ソースだ。昭和の初めの歴史や世相についての情報は豊富だが、両親のパーソナルなネタはあまり豊富とは言えない。両親の結婚後あるいは私の誕生後の話になると少しはマシになる程度である。

ましてや祖父母の幼年時代となるとお手上げだ。

ところが、その祖父母よりさらに80年遡るブラームスの少年時代の方が下手をすると情報が多い。ブラームスほどの人物だから研究の厚みと歴史がある。私にしたって両親の少年時代のことよりもブラームスの少年時代の方が多くを語れそうだ。これをもって親不孝と言われても困る。両親が著名人でもない限り子供の代で忘れられてしまう方が自然だ。

「死んでも人々の心の中に残る」という言い回しを耳にする。人々から思い出してもらえる間は、心の中で生き続けるということだ。その通りだと思う。でも悲しいかな一般人は、孫の代までだろう。ところがブラームスは作品や伝記を通じて形作られたイメージが、世代を経ても語り継がれている。

ブラームスは生き続けている。

2017年11月26日 (日)

ドイツ橋

資料館からほど近い大麻比古神社の境内に、俘虜たちが住民の求めに応じて建設した小さな橋が2つ残っていて、「ドイツ橋」と呼ばれている。

建設された10のうち現存するのは2つだけだという。

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モルタル不使用の精巧な代物。100年を経た現在も実用中。

ただならぬオーラだ。キリスト教を信仰していたに違いない俘虜たちなのだが、収容所に隣接するこの神社にお参りし無事の帰国を祈っていたようだ。

100年前の日独交流を考えさせられる。

2017年11月25日 (土)

バラッケ

俘虜たちが収容されていた建物の呼び名だ。捕虜解放後、牛小屋として使われていた一棟が修復移築されて道の駅に転用されていた。

大きな建物ではないのだが、歴史込みで、そりゃあもうあたりを圧する風格だ。

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地場の特産品に交じって、ドイツ製のお菓子やビール、ワインなどが目を見張る品ぞろえで並んでいた。

2017年11月24日 (金)

ドイツ資料館

坂東俘虜収容所の跡地が公園として整備されている。近くにはドイツ資料館が建っている。

鳴門市は姉妹都市になっているドイツ・リューネブルク市とともに、周辺一帯を世界記憶遺産にするよう準備中らしい。資料館に立ち寄るとその理由がわかる。俘虜たちと地域住民の交流が事細かに展示されている。

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100年前の日独交流を思うと心が温まる。その要の位置に第九交響曲がある。音楽の底力をまざまざという形だ。

人道的な扱いを受け心を開く俘虜たちと地域住民の交流は奇跡的だ。館内展示物の律儀な説明は日本語とドイツ語で英語抜きというのがほほえましい。俘虜たちを第九初演に走らせたモチベーションが、俘虜の日常を活写する中から自然と伝わる仕組みだ。想像を絶する精緻なガリ版印刷の技術だけでも一見の価値がある。

我々日本人にとっても、いやおそらく縁あって訪れるすべてのドイツ人にとっても心洗われる場所に違いあるまい。

2017年11月23日 (木)

習志野を振り返る

坂東のドイツ資料館で衝動買いした書物「第九と日本-出会いの歴史」に、気になる記述がある。

坂東と同じく俘虜収容所があった習志野への言及がある。60ページには「その後ほどなくして久留米でも習志野でも第九が演奏された」と断言されている。

私は毎年11月にその習志野で開催されるドイツ俘虜の慰霊祭に参列している。先日も参列して次女の後輩たちの献身をレポートしたばかりだ。習志野にはハンスミリエス率いるオケがあったことは知っていたが第九を演奏していたとは。

初演の威力はことほどさように大きいのか。習志野が第九初演の地だったらもっと盛り上がっていただろう。

坂東の古い慰霊碑の傍らに建つ新しいほうの慰霊碑は、全国に分散収容中亡くなった俘虜の名前が明記されている。

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スペイン風邪に襲われた習志野31名も漏れなくだ。31名という人数は他の収容所に比べて抜きん出て多い。

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俘虜たちの冥福を改めて祈る次第である。

2017年11月22日 (水)

俘虜慰霊碑

徳島坂東が第九の日本初演の地、ドイツ俘虜の組織するオケの演奏だった。その俘虜収容所の跡地が、公園として整備されている。近所には資料館も併設されている。

行ってみて驚いた。千葉県の習志野にあった収容所跡は、ここ坂東ほどは整備されていない。収容中に落命した俘虜たちの慰霊碑が、仲間たちの手によって建立され、その現物が今も残り供養されている。

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強烈なオーラを感じた。まさにパワースポットだ。

戦争の爪痕と形容するには抵抗を感じる。ドイツ人の音楽への思い、故郷への思い、歴史のかなた確かにここに千名のドイツ人が生きていたというオーラ。そして現代まで供養を欠かさぬわれら日本人。その証としての第九。

2017年11月21日 (火)

ドイツへの祈り

11月19日、習志野霊園にて23回目を数えるドイツ俘虜慰霊祭があった。次女の後輩たちが駆けつけて、今年一番の冷え込みの中、演奏を披露した。

  1. ドイツ国歌
  2. 戦友の歌
  3. ベートーヴェン 交響曲第7番第二楽章

2年生が修学旅行と重なり、参列できないというピンチを、1年生がサラリと切り抜けてくれた。5月のスペシャルコンサートでは、慣例を破ってフィンランディアの合唱を聴かせてくれた1年生たちの楚々とした所作立ち居振る舞いが、リハーサルの段階から際立っていた。コーラスを交えたドイツ国歌のリハーサルでは、関係者から思わず拍手が湧いた。寒い中、開会を待つ間の毅然とした態度とエレガントな笑顔が絶妙にバランスしていた。

さて開会。

いきなりドイツ国歌。半年後のドイツ公演に向かう重要な手順の一つだ。習志野のドイツ俘虜のことは、日常の授業で教わっている。無念の死を遂げた31名の将兵に捧げる真心はドイツを好きになるためにある。ドイツを大好きになれば、公演の準備にも心がこめられる。

金管楽器とスネアだけが伴奏する「戦友の歌」は、慰霊の式典では必須の選曲だ。

昨年との違いは献花の場面だ。昨年は献花のBGMはラジカセからベートーヴェンが流れた。月光ソナタの第一楽章だ。せっかく高校ナンバーワンオケが来ているのにラジカセは無粋だ。今年はこのシーンに生演奏を入れた。曲目はベートーヴェンの第七交響曲の第二楽章だ。イ短調のアレグレットが、献花の厳粛な雰囲気を補強していた。木管の粛然とした和音を合図に、葬列を思わせる旋律が低弦から次々と折り重なって行く。セカンドに旋律を受け渡したヴィオラがオブリガートに回った時、あたりの空気が打ち震えた。

真っ先に献花したドイツ大使館付きの空軍大佐が、慰霊碑正面で渾身の敬礼を献じた姿に乙女たちのベートーヴェンが違和感なくなじむ。後に続く献花者一人一人に「ダンケシェーン」と声掛けする大佐の威厳は相当なものだが、乙女たちの演奏は全く遜色ない。

生徒代表6名が献花する。白菊を慰霊碑に捧げ祈る。大佐と言葉を交わすまでの一連の所作はただただ美しい。

終わった。このパフォーマンスが一年生だけだなんて忘れていた。

参列者全員による恒例の写真撮影。それから乙女たちが大佐を囲んでの撮影までもはや恒例だ。ここ3回演奏を買って出ているのだが、もうこの式典は乙女たちの参加なしには立ち行かないレベルだ。厳粛な雰囲気に貢献しながら、エレガントな華やかさも付加して見せる乙女たちに31名のドイツ将兵の魂も癒されるに違いない。

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2017年11月20日 (月)

豊福丸

第一次大戦で日本の捕虜になったドイツ将兵たちが本国に帰還する際に乗った船。1919年12月30日に神戸を出港し、56日間の航海ののちドイツ・ヴィルヘルムスハーフェンに帰還した。

彼らは日本での収容地徳島において、1818年6月にベートーヴェン第九交響曲を演奏した。これが同曲の日本初演であることはよく知られている。第一次大戦のドイツ捕虜たちの音楽活動の中でブラームスが演奏されていないか調べているがなかなかわからない。ベートーヴェンではいくつかの交響曲やエグモント、レオノーレの序曲、あるいはヴァイオリン協奏曲が演奏されたらしいのだが、ブラームスが確認出来ない。

ところが、帰国船豊福丸の船内でのミニコンサート、1920年2月1日に開催された「歌曲の夕べ」全11曲の中にブラームスの子守唄があった。帰国およそ3週間前のひととき、彼らはブラームスを含むドイツ愛唱歌を楽しんだ。

2017年11月19日 (日)

母のこと

私が妻を亡くした時、長男3歳10か月、長女は2歳2か月、次女に至っては5か月だった。通夜告別式に子供たちを参列させない判断をした。親戚がみな参列する中、母は3人を見るために欠席した。嫁の葬儀への欠席を後ろめたく思う気持ちはあったに違いないが、子供たちを優先した。

告別式の翌日、私の両親は私との同居を申し出てくれた。九州勤務だった私に、会社は3か月後に東京転勤の辞令を交付した。1996年5月から両親と同居した。3人の子供は私の父と母が面倒を見ることになった。父は翌1997年11月に他界したから、幼い子供たちの養育は母が担ってきた。

82歳の今も現役の主婦だ。この年齢を考えると驚異的だ。自分のことが自分でできるだけでもありがたいのに、家族全員を束ねてやまない。

先般のインフルエンザ禍では、母が日常こなしている家事の厚みに愕然とした。炊事洗濯清掃買い物など家事全般を若いころと何ら変わらずこなし続けている。天気天候を見極め、服装を考え娘らに助言する。家には花を絶やさない。家中が見渡せるリビングの隅に座って家計簿をつける。2つあるトイレの清潔さは筆舌に余る。家族の誰かが病気になるとテンションが上がる。月に2回は長女と連れだってデパートに買い物に出かける。買い求めた服や小物の品定めに余念がない。大掃除、障子の張替えなどいまだに家のイベントを仕切る。

お礼の言葉など見つからないと考えて、ブログ「ブラームスの辞書」では、母への言及は数えるほどだった。

11月10日から1泊で次女の卒業記念に娘たち2人を誘って母を温泉に連れ出した。きっかけは「歩けるうちにおばあちゃんといろいろなところに行きたい」という長女の言葉。目が覚めた。元気なうちにブログで母に言及することにも意味を見出した。

長女の言葉は象徴的だ。今までの家族旅行はみな、母と私が子供たちを連れ出す旅だった。子供たち3人こそが庇護の対象だった。今回は初めて母、つまりこどもたちのおばあちゃんが慈しみの対象になった。後部座席では無邪気な姉妹ではあるのだが、とりわけ長女だ。立ち寄った先で車から降りて歩く場面で、長女が必ずぴったりと母に付き添った。サービスエリアのトイレにも同行した。あるときは手を引き、あるときは腕を組み、段差があればその都度「気を付けて」と声をかけ続けながら、旅行の間を通しておばあちゃんの世間話の相手であり続けた。社会人2年目なりのエレガントな気遣いを見せ続けた。

車いすはもちろん、杖だって使っていない母ではあるのだが、長女のこの変貌ぶり、ひいては立場の逆転を心から楽しんだ。

超私事ながら、これを書き残さずに何がブログかと開き直って言及する。ブラームスだってきっと喜んでくれる。

2017年11月18日 (土)

36万字

次女の卒論に字数2万字が課されていると書いた。原稿用紙50枚に意欲的、計画的に取り組んでいる。

一方、私の初めての自費出版本「ブラームスの辞書」は、A5上製本ハードカバーで400ページなのだが、文字数はおよそ36万字だ。原稿用紙にして900枚だ。字数制限はもちろん提出期限だってなかった。あったのはご予算の制約だけだ。当時は文字数なんぞ気にもしていなかった。思いの丈を盛り込むだけ盛り込んで「ハウマッチ」という状態だ。

書きあがってから、ご予算に合わせてページ数を削ったのが、本当につらい作業だった。せっかくできている文章を削るのは身を切られるようなものだ。ページ数にして30くらいは削除した。文字数になおすと3万程度削除したのだ。原稿用紙ざっと70枚分の完成原稿を自らの手で葬ったことになる。

執筆そのものは軽々だった。データをそろえる作業が9か月程度かかったのに比べ、執筆自体は4か月弱,だ。実質原稿用紙970枚分をサクっと書き上げた感じ。もっというなら文章をひねってもいない。頭の中にある思いの丈を文書にダウンロードしただけだ。

大学生の卒論が原稿用紙50枚と聞いて、改めて懐かしく思い出した。

2017年11月17日 (金)

父没後20年

父が没してから今日でちょうど20年だ。

先週日曜日に墓参りした。先回りして花を供えてくれた旧来の知人がいた。「もう20年ですね」とあたたかなメッセージも届いた。彼らとのつきあいはさらに長く30年近くになる。親戚づきあい以上だ。おつきあいが始まったころ私も弟も結婚前だった。だから同家の小さな男の子が初孫状態だった。その後2人目の男の子も含めて家族ぐるみのつきあいがまだ続いている。最初のきっかけになった男の子は今やかわいい女の子の父親で、わずか10か月の赤ん坊を連れて墓参りに来てくれた。

父を思い出してくれる人が私ら家族以外にいると、ほっこりとあたたかい一日になった。







2017年11月16日 (木)

小学校の卒論

「卒業論文」の短縮形。学校の卒業に際して提出が義務づけられていることがある。断り無く用いた場合、大学以降の高等教育機関が課すというのが一般的だ。

私の学部は、卒論の提出が義務になっていなかった。だから最後までオーケストラ活動に浸かりきった学生生活だった。しからば私は一度も卒論を書いていないかとなるとそうではない。1971年小学校6年で迎えた冬休みのことだ。我がクラスの担任は「卒論」を書けと命じた。正確に申せば、そう命じたのは秋頃だ。テーマは「自分の生い立ち」である。

今思うとユニークで素晴らしいと思うが当時は必死だった。文字数の決まりは無かったが、親の助けを借りてがんばった結果、400字詰めの原稿用紙30枚近くまで行った。アルバムや母子手帳やら資料を当たりまくっての執筆だった。内容はともかく分量だけはクラスで一番だった。書いてみて子供心に親の有り難みが判った。学校に提出したところまでは覚えているが、返して貰った記憶がない。

お察しの通り、今こうしてブログを書きまくっている妙な遺伝子は既に当時も活動していたということだ。

このブログは唯一にして絶対のテーマ「ブラームス」を、いじくり回すというコンセプトだ。提出期限の無い「卒論」で、既に事実上「人生の卒論」の様相を呈し始めている。

2017年11月15日 (水)

イタリアのいないワールドカップ

14日早朝、イタリアはロシアワールドカッププレーオフセカンドレグを戦い、ホームでスウェーデンと痛恨の引き分け。

これにより60年ぶりのワールドカップ本大会不出場が決まった。いやはや60年ぶりだ。

イタリアはいつもドイツの好敵手。ドイツは前評判のいいときにもイタリアには分が悪いので、イタリア不在はドイツにとっては吉報なのだが、なぜかよろこべない。心にぽっかりと穴があいた感じがする。

2017年11月14日 (火)

青木周蔵邸

次女の卒業旅行で興味深いところに立ち寄った。明治の外交官青木周蔵の別邸跡だ。屋敷が保存されその周辺もろともが道の駅になっている。

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説明はこちらに任せるが、重要なのは青木周蔵が明治きっての親独派だということだ。ビスマルクを育んだプロイセン特有の荘園貴族「ユンカー」に憧れ、そのままそれを日本で実現した。

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娘たちの関心はけして高くないが、私の趣味で無理やり立ち寄った。館内には古いベヒシュタインのグランドピアノがあったり、何かと退屈しない。



2017年11月13日 (月)

卒業旅行

卒論の執筆に着手した段階ではあるのだが、次女の卒業記念旅行に出かけた。長女、母と私の4人で日光と那須の1泊温泉旅行だ。

まずは日光中禅寺湖。ご覧の通りの好天。

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日光杉並木。

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本日のお宿。

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そして露天風呂。

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末っ子である次女の卒業は、我が家の子育ての一区切りだ。亡き妻に代わって子育てに全霊で打ち込んだ母に対する慰労でもある。母が元気なうちにというのが重要なポイントだ。本当は娘たち2人と母の女子3人旅が理想だが、私は運転手とカメラマンと添乗員に徹する位置付けで同行が許可された感じである。



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