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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2017年7月16日 (日)

産地語尾

ニュルンベルク特産のこぶりのソーセージは「ニュルンベルガー」と呼ばれている。ウィーン名物のホイップを浮かせたコーヒーは「ウインナコーヒー」だ。ファストフードの王者はハンバーガーで、元々は「ハンブルガー」だ。

つまりこうだ。

地名の後ろに「er」を添えることで、地名が形容詞化するのだ。だから「er」を産地語尾と呼ぶことにしている。

名高いオケ、ベルリンフィルは本来「ベルリナーフィルハーモニカー」だし、ウィーン名物のワルツは「ウインナワルツ」である。意外と頻繁に使われているものだ。ミュンヘン北郊の名高い小麦ビール産地はエルディングだから、そのビールは「エルディンガー」となるなどビールのブランド名はほぼこのパターンである。

ところが、大きな例外がある。

ゲッティンゲンに産地語尾「er」をつける場合には語尾の「ingen」の末尾「en」を取り除いてから「er」をつける。「ゲッティンゲナー」とならずに「ゲッティンガー」となる。これは地名語尾「インゲン」をともなう地名に共通する特徴だ。不思議なことに語尾に「en」を伴う「ドレスデン」は、「ドレスデナー」だ。語尾の「en」が必ず脱落するわけでもないところが悩ましい。

産地語尾[er」を付与する場合、地名語尾「イングとインゲン」では、出来上がりに差がないということだ。

2017年6月28日 (水)

支那のリンゴ

ハンブルクからウィーンに出たブラームスが早速困ったのではと思っていることがある。オレンジだ。オーストリアを含む南ドイツでは「Orange」というのに対して、ブラームスの故郷ハンブルクを含む北部ドイツでは「Appelsine」という。オレンジの言い方を比較してみる。

  1. 南部ドイツ Orange
  2. 北部ドイツ Appelsine
  3. オーストリア Orange
  4. 英語 Orange
  5. オランダ語 Appelsina
  6. スウェーデン語 Apelsin
  7. ノルウェー語 Appelsin
  8. アイスランド語 Appelsina

北部ドイツ語は北欧語に近い。「Appelsine」の「sine」は「中国」だ。そういう意味ではオランダ語の「sina」が一番近い。支那だ。オレンジとは「中国のリンゴ」という意味だった。イタリアから直接オレンジを供給された地域では「Orange」となり、ハンブルクやアムステルダムからもたらされた地域では「支那のリンゴ」と呼ばれたということになる。

2017年6月27日 (火)

梨とリンゴ

一昨日の記事でドイツの食生活におけるジャガイモの位置付けを確認した。じゃがいもはドイツ標準語で「Kartoffel」という。ところが南部に行くと以下の通りいろいろな言い方が存在する。

  1. Bodenbirne
  2. Erdbirne
  3. Grundbirne
  4. Grundbeene
  5. Erdapfel
  6. Herdapfel

上記1から3は語尾に「birne」を従えている。4番は少々なまっているがいずれも「梨」の意味だ。5と6番の語尾が「apfel」でリンゴの意味。つまりじゃがいもは「大地の梨」か「大地のリンゴ」の意味で、6番だけが「カマドのリンゴ」である。標準語もどちらかと言えば「リンゴ系」だろう。

どちらも球とは言えないゴツゴツした感じがよく出ている。俗語では品質の良くないサッカーボルのことを「Kartoffel」というらしい。

2017年6月26日 (月)

1811年

じゃがいもの普及について調べている間に興味深い話を掘り当てた。

1771年は「厳冬と夏の長雨」によって凶作だったらしい。ドイツの穀物生産が壊滅的な打撃を被ったとされている。その一方でじゃがいもの生産は維持されたことから、救荒作物としてのじゃがいもの優秀性が広く認識されるキッカケとなった。

「厳冬と長雨」に対して高い抵抗力を示したじゃがいもだが1811年は、不作に陥ったという。今度は夏の「旱魃」が原因とされている。

ご記憶だろうか。記事「ヴィンテージ」でワインの優良年を列挙した。その中で1811年は特筆されている。この年のワインの出来映えは単なる優良年にとどまらず、19世紀最高のヴィンテージとして記憶されている。シュタインベルクが始めて「カビネット」の称号を用いたり、ゲーテが絶賛したその年だ。

じゃがいもや穀物が深刻な不作に陥った同じ年が、ワインの当たり年になっているということだ。ワインの優良ヴィンテイージは豊作を意味していないということを割り引いても、面白い現象だ。ブドウ、とりわけ主力品種のリースリンクは、十分な日照によってその品質を一層際立たせる。他の作物にとっては旱魃になってしまうような状況が、マイナスに作用しないということかもしれない。

2017年6月25日 (日)

じゃがいも

ブラームスの伝記、食事の場面に出くわすことは多いとは言えない。けれどもブラームスがじゃがいもを食べていたことはほぼ確実だ。フリードリヒ2世が救荒作物として普及を奨励したと伝えられている。彼は1786年に没したが、当時のドイツ諸邦の人口は合計で1600万程度だったらしい。これは2600万のフランスに負けていた。ところが19世紀後半の普仏戦争の頃になるとフランス4000万に対しドイツは6000万となった。国境付近のアルザスやロートリンゲンをどのようにカウントするかにもよるが、人口が逆転したことは大きい。ドイツ帝国の成立はプロイセン、なかんずくビスマルクの功績大とされているが、この人口逆転も無視出来ぬファクターだったと思われる。

ここまで来れば本日の文脈はおよそ察しがつくだろう。つまりその人口増をささえたのがじゃがいもだったということだ。寒冷地ドイツで食糧の安定供給は簡単ではない。じゃがいもがこれを解決したことはとても大きい。もともと勤勉なドイツ人から飢えの不安を取り除いてやれば、国力の飛躍的な向上はさして不思議なことではなくなる。

2017年6月24日 (土)

線の一致

地名語尾の分布図を何枚か引用した。

地名の出現それ自体は点である。地名語尾の出現に濃淡の偏りがあることを直感として気づいていたが、これを客観的に捉えたくて、道路地図の巻末索引を頼りに図上にプロットした結果、分布が目に見えるようになった。

分布図には点の集合の結果、いくつかの線が確認できた。そうした線のいくつかが、方言分布地図に現れる境界線と一致する。

地名と方言に深い関係がある証拠である。地名は命名当時の現地方言を色濃く反映する。

2017年6月23日 (金)

イングとインゲン

道路地図の巻末索引を頼りに、地図上にプロットする作業は本当に楽しい。かれこれ80種の地名語尾についてやってみた。地名の数が少ないと散漫な結果になるにはなるのだが楽しさは無限だ。

地名語尾として「~のところ」を意味する「イング」と「インゲン」にも鮮やかなすみわけがある。ブラームスとの交流で名高い「マイニンゲン」も、アガーテと出会った「ゲッティンッゲン」もドナウ川の水源として名高い「ドナウエッシンゲン」も「インゲン」の仲間だ。

まずはそのインゲンの分布から。

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これは、先に話題にした「ザーレの東」には分布しないというパターンだ。ラインの西、ドナウの南と断言できないところもいわくありげで楽しい。まずこれをご記憶いただいたうえで「イング」の分布を示す。

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ミュンヘン近郊に分布する。バイエルン方言の分布と鮮やかにシンクロする。小麦ビールで名高い「エルディング」が思い浮かぶ。

2017年6月22日 (木)

スタートライン

先の日曜日に、千葉駅前コンサートがあった。屋根ありとはいえ屋外だ。おまけに雨模様だというのに、一切のハンデを感じさせぬ41代42代のデビューだった。

カルメンから「前奏曲」「ハバネラ」「ロマの踊り」というラインアップで立ち上がった。3年生が引退したばかり、新世代のスタート、クオリティ的には底だというのに、なんたるカルメン。先のスペシャルコンサート「フィンランディア」の合唱でサプライズを演じた1年生が立派な戦力として加わった。

先のスペシャルコンサートでも手助けいただいた頼もしいアルト歌手も駆け付けてくれてカルメンを歌入りだった。ふっかぶかの「ハバネラ」とノリノリキレキレの「ロマの踊り」。特に「ロマの踊り」のテンポ煽りは驚異的。通りすがりの通行人が熱狂的な聴衆にかわった。

なんたるポテンシャルだろう。

ここからは単なる推測だが、この子らの心の奥に、来春にせまったドイツがすでにあるのではないだろうか。バトンを引き継いだ時点ですでに加速を終えている、優秀なリレー走者のようだ。入部後たった2ヶ月の1年生を含むアンサンブルがこの水準となると、何か特別なモチベーションを感じざるを得ない。すぐに思い当たるのは来春のドイツ公演しかない。

記憶しておくといい。この子らがドイツ公演を終え、スペシャルコンサートのゴールにたどり着いたとき、先般の駅コンの演奏をしみじみと振り返るために。

2017年6月21日 (水)

大胆過ぎる仮説

グリム兄弟が編んだ「ドイツ伝説集」下巻に登場する話の舞台が、ドイツの南部か西部に偏っている話は既にしておいた。その領域がカール大帝の勢力圏と一致する可能性については、グリム兄弟自身が序文で言及している。いやはや、この序文は面白い。本文に負けないくらい貴重な情報が埋もれている。

既に私は地名語尾「heim」の分布が、カール大帝に何らかの関係があるのではないかと述べた。本日はそこから話を一歩進める。

「ドイツ伝説集」下巻収載のエピソードの分布域と、地名語尾「heim」の分布域が似ているのだ。どちらも南あるいは西に手厚い。ドナウ・ライン両大河の流域に分布する。

2017年6月20日 (火)

ハイムとハウゼン

「Heim」「Hausen」どちらも「家」を意味する。ドイツ語のネイティブな使い手でもない限り、これらの区別は難しい。これらが地名末尾に据えられるケースがある。「インゲルハイム」「ザンクトゴアハウゼン」などだ。

例によって毎度毎度の道路地図の巻末索引を頼りに分布図を作成した。まずは地名語尾「heim」から掲示する。

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見ての通りだ。南部とりわけライン川流域、ワインの産地で言うラインヘッセンに特異的に分布する。カール大帝の御所があったインゲルハイム近郊にと申したらお叱りを頂戴するだろうか。

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次いで地名語尾「hausen」の分布。「heim」とのすみわけが美しい。地名語尾「ハイム」の密集域(赤囲み)が見事に空白になっている。

「蝸牛考」に従うなら、インゲルハイム近郊が「京都」だ。あとから起こったハイムに、旧来のハウゼンが駆逐され、僻遠の地に残るという図式が容易に思い起こされる。

こうした地名の分布が何らかの歴史的事実や方言分布の反映でないとしたら恐ろしい。

2017年6月19日 (月)

地名語尾bachの分布

惚れ惚れとはこのことだ。ドイツFALK社製20万分の1ドイツ道路地図の索引中にある地名語尾「bach」の所在を調べた。684箇所5,53%が地名語尾「bach」を伴っている。この数と比率は「dorf」に次ぐ二番手である。そして驚くべきはその分布だ。地名語尾「bach」は先に紹介した「ベンラート線」以南に集中する。例外は無い。ベンラート線以北では地名語尾「beck」に取って代わる。さらにシュレスヴィヒホルシュタイン州に限っては「bek」に差し代えられる。鮮やかなものだ。

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一人称主格を「ich」という地区と「ik」という地区の境界がベンラート線だったことと鮮やかに呼応する。同時に「bach」の「b」を他の子音に差し替えてもベンラート線以北には出現しない。

バッハの故郷Eisenachはベンラート線の南である。

2017年6月18日 (日)

地名語尾「itz」の分布

記事「ザーレの東」でザーレ川が方言、地名の境界を形成すると提起した。本日はその鮮やかな実例をあげる。

例によって、ドイツFALK社製の道路地図の巻末にある地名索引のうちその語尾に「itz」を伴うものが308個、2.5%出現する。地名索引だから、その地名が何ページのどのあたりと特定する仕組みになっていることを利用した。見開き1ページが左右つまり東西に8つ、南北に6つに区切られている。東西にはアルファベットのA~Hが、南北には数字の1~6が割り振られている。これらの組み合わせで「A-1」となれば、見開き1ページの左上隅のマスを探せば目的の地名にたどりつくという寸法だ。「A-1」のマスは1辺7kmの正方形だ。

この要領で地名語尾「itz」を伴う地名がどこにあるのかドイツ全土にプロットしてみたのが以下の画像だ。

20170609_093548_2


鮮やかなもんだ。ドイツの東半分に集中する。「itz」はスラブ語起源で「~の場所」を意味するというのが定説である。図上鮮やかに浮かび上がった中央を南北に走る線、これが地理上のザーレ川に一致する。

2017年6月17日 (土)

ザーレの東

ライン、ドナウ、エルベの内側こそが本来的な意味のドイツであるといわれている。「ラインの西」「ドナウの南」はローマの痕跡が色濃く残る。「エルベの東」には今度はスラブ人の痕跡が刻印されている。地名の分布にもそれらが投影されている。これらの内側こそが始原的な意味の「ドイツ」だということだ。

さて本日は「エルベの東」から説き起こす。エルベ川が文化の諸相において境界を形成していると複数の歴史書に書かれている。ハンブルクを含む北部では、それで辻褄が合うことが多いが、南に行くほど例外も増える。その例外を合理的に説明するキーワードが「ザーレの東」である。ザーレとは「Saale」と綴られる川の名前だ。エルベ川の支流である。ハンブルクからエルベ川を遡ると、テューリンゲン州の都マグデブルクに至る。この南東約30kmのあたりでザーレ川が分岐する。そのまま南東に向かうのがエルベ本流で、真南に向かうのがザーレ川だ。このザーレ川が一部の地名や方言分布の境界線を形成しているケースがある。東方殖民によって新たにドイツ化したエリアを「エルベの東」とする概念に、「ザーレの東」という変形を考慮した方がいい。

2017年6月16日 (金)

ライン扇状地

単に扇状地と言えば中学校の地理の時間に習う。河川が山地から平地に出る場所に現れる地形のことだ。山地から平地への出口を要にした扇状になることからその名がある。

だから「ライン扇状地」などと申せばライン川が作りだす扇状地だと思われかねないが、これが大間違いで、れっきとした方言用語だ。ライン川周辺の方言の分布図が扇形に似ていることから来るネーミングだ。ドイツ語で「Rheinischer Facher」(aはウムラウト)という。ドイツ中部の中のライン沿岸は北に行くほど低地ドイツ語の影響を受けている。ライン川により交易が古来盛んだった名残りと受け止められている。その結果東西に広がる方言域をライン川が貫通しているという様相を呈している。

  1. リプリアリ語 フランク族の支族リプリアリ族にちなむ。ケルン、アーヘン、デュッセルドルフ周辺の言葉。
  2. 中部フランケン語 ボン周辺の言葉。
  3. モーゼル・フランケン語 ルクセンブルクからトーリア、コブレンツあたりのモーゼル川流域の言葉。
  4. ラインフランケン語 ザールラントからプファルツ、マインツあたりの言葉。
  5. ヘッセン語 ウィースバーデン、ダルムシュタットあたり。

2017年6月15日 (木)

創業4400日

今日は亡き妻の誕生日。生きていれば55歳だ。

ブログ「ブラームスの辞書」好みの偶然が一つ。本日この記事をアップしたことによりブログ「ブラームスの辞書」は2005年5月30日の開設から4400日連続記事更新を達成した。一日の漏れもなくだ。

2017年6月14日 (水)

ラインフランケン

西中部ドイツ方言は、いくつかの方言帯がライン川に貫通される形で南北に堆積している。このうち古くからのワイン産地ラインガウを含む地域で話されるのがラインフランケン方言だ。この方言帯はラインヘッセンからラインガウに向けてライン川を横切る。ここは2010年秋のワイン特集記事の執筆の際、穴が開くほど地図を眺めた地域だ。カール大帝のエピソードが散在する地域でもある。

何のことはない。今でこそ「ラインフランケン方言」と位置付けられているこの地域の言葉は、カール大帝の宮廷で使われていた言葉だった。昔の都の言葉だ。日本で申せば京言葉というイメージに近いかもしれない。

2017年6月13日 (火)

決意の理由

記事「方言詩人」でクラウス・グロートの経歴を紹介した。彼はブラームスの父ヨハン・ヤーコプと同じハイデの生まれだ。彼もホルシュタイン人である。国民学校の教師をしながら独学で詩作を学んだ彼がさらに学ぶためにキールに出立したのが1853年だった。

1853年は第1次デンマーク戦争が終わった翌年だった。まだ決着はついていないもののプロイセンの領土的野心は明らかだった。そうした背景の中で彼が文学を志し、方言に立脚した作品を生み出して行った。低地ドイツ方言やホルシュタイン方言への愛着は、低地ザクセン方言を操るプロイセンへの文学的抵抗なのではあるまいか。ドイツ標準語によらない文学作品を発信し続けたアイデンティティを思い遣りたい。

プロイセンによるシュレスヴィヒホルシュタイン地方の領有が確定した1866年に、キール大学の教授に就任したのはなにやら象徴的だ。

2017年6月12日 (月)

4444本目

ブログ開設以来4444本目の記事。

さる6月1日に母の兄が他界した。満93歳の大往生だ。苦しむこともなく文字通り眠るような最期だったという。

大正生まれの元海軍軍人。ちゃきちゃきの江戸っ子、腕の立つ畳職人で男4人女3人の長兄。まさに当主を絵にかいたような人物。豪放な性格と緻密な職人気質が絶妙にバランスしていた。正月に親戚が集まった席では、テレビの横の定位置に陣取って好きなビールを片手に気の利いたジョークを連発する一面もあった。よく笑う人で、大きく口をあけて笑ったところ、誰かに呼ばれた。「おう」と声のするほうに振り返ったら、部屋の蛍光灯が消えた。笑って開いた口に、蛍光灯の紐が入り、振り向く勢いで蛍光灯を切ったという伝説の持ち主。江戸っ子はせっかちなのだ。

私が就職するときには、身元保証人になってもらった。

4444本目のこの記事を大好きな伯父に捧げる。

2017年6月11日 (日)

ホルステン

ブラームスの故郷ハンブルク特産のビールだ。「HOLSTEN」と綴る。創業は1879年だから、ブラームスのウィーン進出のあとだが、演奏旅行などで帰郷した際には賞味することもできた。騎士が馬に乗っているイラストでおなじみ。

デンマークとの国境に近い北部一帯をホルシュタインという。「Holstein」だ。紹介したビールのブランド名に近い。それもそのはずで、「Holstein」とづつって「ホルステン」と読むのがハンブルク訛りなのだ。「ei」を「アイ」と発音するのがドイツ語の一般的なお約束なのだが、ハンブルクを含む北部では「ei」を「エ」と発音するということだ。つまり発音につられてスペリングに変化をきたしたという実例でもある。

このネーミングには地元「ホルシュタイン」の誇りが込められていると見るべきだ。

2017年6月10日 (土)

ホルシュタイン人

さて1806年神聖ローマ帝国解体時の勢力地図。ハンブルクとリューベックを結ぶ線以北が事実上デンマーク領だった。ブログ「ブラームスの辞書」的には1806年は重要な年だ。ブラームスの父ヨハン・ヤーコプの生まれた年だからだ。つまり神聖ローマ帝国解体の年とはブラームスの父の生年でもあるのだ。

彼はハイデの生まれだ。ハンブルクの北西約75kmにあるハイデは当然ホルシュタイン公国領内だから事実上のデンマーク領ということになる。19歳でハンブルクに出た1825年の段階でさえまだデンマーク領だ。プロイセンが両公国の領有をデンマークと争ったデンマーク戦争をどんな思いで見つめていたのだろう。その年1848年はブラームスが15歳でコンサートデビュウをした年でもある。

ブラームスの父はどんな言葉を操ったのだろう。低地ドイツ方言だとされているが、これはハンブルクの言葉である。彼の故郷ではホルシュタイン方言が話されていたハズだが、想像以上にデンマーク語がも通じたのではあるまいか。この地方のドイツ方言は、デンマーク語との共通部分も多い。デンマーク訛りのホルシュタイン方言を操り、公式な場では低地ドイツ方言も話せたと思われる。

ハンブルクに出てすぐ、公的な職業に就いたことから見て、言語コミュケーションに不安があったとは思えない。

2017年6月 9日 (金)

早生まれ

1月から3月までに生まれた子供は、前年に生まれた子供たちと一緒に、一足早く小学校に入る。その子供たちのことを「早生まれ」と呼んでいる。私も早生まれだ。

ハンブルクの北北西約20kmの位置に「Quickborn」という地名がある。英語に慣れきった脳味噌には「早生まれ」あるいは「速生まれ」に読める。ハンブルクのような北ドイツには、英語からの影響も少なくないから余計怪しい。

案の定とんだ早合点で、ドイツ語で「こんこんと湧く泉」の意味だ。「born」は泉なのだ。「quick」は豊かな水量の暗示である。

先日から方言詩人クラウス・グロートについて調べていたら思わぬお宝情報にめぐり合った。グロートは多数の著作を遺した。語学文学関係だが、得意は方言だった。低地ドイツの抒情詩の研究書がその代表作なのだが、そのタイトルを見て驚いた。何と「Quickborn」だった。先の地名の所在地は低地ドイツの真っ只中な上に、彼の故郷にも近い。私がまだ知らない必然がもう1つや2つ横たわっていそうである。

2017年6月 8日 (木)

クラウス・グロート

詩人。1819年生まれの1899年没。

1856年クララ・シューマンによってブラームスと面識を持った。ブラームスと同時代の詩人で、ブラームスの友人とも位置づけ得る。

ヴァイオリンソナタ第1番の第3楽章にそっくり転用されたことで名高い「雨の歌」op59-3は、このグロートによるテキストだ。クララと「雨の歌」の関係をいろいろと調べていて興味深い偶然を発見した。

彼の出身地は北ドイツのハイデという街。実はブラームスの父ヨハン・ヤーコプと同じである。2人の生家はごく近所にあったらしい。確認中だが2、3件隣という情報もある。

グロート本人の回想によれば、グロートが生まれて初めて手にした楽器はピッコロだったという。8歳の時だ。このピッコロはブラームスの父の兄の子、つまりブラームスの従兄弟から譲り受けたものだという。

ブラームスの父は1806年の生まれだ。1825年に19歳でハンブルクに出ているから、1819年生まれのグロートとは、面識があった可能性さえある。少なくとも親同士は知り合いかもしれない。

2017年6月 7日 (水)

方言詩人

記事「文豪たちの話した言葉」でブラームスにテキストを供給した詩人たちの出生地から話し言葉を推定した。同時に話すのは方言でも作品は標準語で書いたのだろうと考えた。

方言関連の書物を調べていると「方言詩人」という言葉に出会う。文学作品を方言で書く人々の意味だと思われる。こういう言い回しがあるということは、すなわち通常は標準語で書くということだ。方言で作品を書くということが珍しいということの裏返しでもある。方言詩人の代表として挙げられていたのがクラウス・グロートだ。

彼の経歴は面白い。国民学校の教師として教壇に立つ傍ら独学で詩作を進めた。その後キールに出て勉強し、37歳でボン大学から学位を得る。学位論文のテーマは「低地ドイツ語の研究」だったというから恐れ入る。つまり筋金入りの方言研究家だ。47歳でキール大学の語学と文学の教授になった。

ブラームスに彼を紹介したのがクララ・シューマンだった。何よりグロートはブラームスの父と同郷でもあった。代表作は「雨の歌」だが、このテキストが低地ドイツ方言なのかどうかさっぱり見当がつかない。

2017年6月 6日 (火)

文豪たちの話した言葉

記事「作曲家たちの話した言葉」でドイツ系の有名作曲家たちがどのような方言で話していたかを推測した。同じ事を作家でやったみた。ただやるだけではつまらないのでブラームスにテキストを供給した詩人たちに限ることにした。

  1. Bodenstedt,Friedrich von ハノーファー生 西低地ドイツ方言
  2. Candidus,Karl August シュトラスブルク生 上部アレマン方言
  3. Daumer,Georg Friedrich  ニュルンベルク生
  4. Eichendorf,Joseff Freiherr  シレジア地方ルヴォビッツ生 シュレジーエン方言
  5. Freminng,Paul ツヴィッカウ生 ザクセン方言
  6. Goethe,Johan Wolfgang von フランクフルト・アム・マイン生 ヘッセン方言
  7. Grohe,Melchior  マンハイム生
  8. Klaus Groth ハイデ生まれ 低地ザクセン方言(平地ドイツ方言)
  9. Herder Johan Gottfried  東プロイセン生 プロイセン方言(東部低地ドイツ方言)
  10. Hayse,Paul von  ベルリン生
  11. Fallersleben,Hoffman von  ファーラースレーベン生
  12. Hollty,Ludwig Christoph Heinrich  ハノーフアー生 西低地ドイツ方言
  13. Kopisch,August ブレスラウ生 シュレジーエン方言
  14. Morike,Eduard  シュヴァーベン生 シュヴァーベン語
  15. Platen,August Graf von アンスバッハ生
  16. Reinick,Robert  ダンツィヒ生
  17. Schack,Adolf Friedrich Graf von  シュヴェリン生
  18. Simrock,Karl  ボン生
  19. Tieck,Johan Ludwig  ハレ生
  20. Uhland,Ludwig  テュービンゲン生

これらの詩人たちは故郷の方言を話しているとすると上記のとおりになる。ブラームスに届けられたテキストが方言で書かれているとは限らない。話し言葉であることが方言の定義であるなら、むしろ文学作品は標準語で書かれている可能性が高い。ブラームス作品のテキストを読んでそれが、方言かどうか判定できるようになったら凄いと思う。

2017年6月 5日 (月)

作曲家たちの母国語

日ごろ「ドイツの作曲家」として一括されている巨匠たちを方言の観点から分類してみる。

  1. ブラームス 西低地ドイツ方言の中の平地ドイツ方言 メンデルスゾーンも同じ。リューベックのウェーバーもここに入れてよいと思う。
  2. バッハ テューリンゲン方言 ツヴィッカウ生まれのシューマンもここに属するが、地域は同じでも時代が違うから言葉も少しは違っていたに決まっている。
  3. ベートーヴェン ミッテルフランケン語
  4. ブルッフ リブアリ語 オッフェンバックもここだが、彼はフランス滞在が長い。
  5. ワーグナー ザクセン語 ハレで生まれたヘンデルもここだ。
  6. Rシュトラウス ミュンヘン生まれの彼はバイエルン語

一方オーストリアの作曲家も言語としてはドイツ語だ。モーツアルト、シューベルト、ブルックナーが思い浮かぶ。オーストリアのドイツ語は基本的にはバイエルン方言の流れを汲むとされているが、ウィーンとザルツブルクでは別物と考えたほうがいい。ハンブルクからウィーンに出向いたブラームスは、当初いくらかは違和感があったと思われる。

このほかドイツ語を操ったと思われるのは、リスト、マーラー、ドヴォルザークがいる。

2017年6月 4日 (日)

最後の授業

たしか中学1年の国語の教科書の一番最後の掲載されていた。フランス・アルザス地方のお話だ。大人の事情で、フランス語の授業が出来なくなるという背景の中、「今日でフランス語の授業は終わりですよ」という日を描いた作品だった。普仏戦争の結果、アルザス地方がドイツに割譲されたという史実を背景にしていると知ったのはずっと後のことだ。

いつもは怖い先生が妙に優しかったとか、先生が最後に黒板に「VIVA FRANCE」と書くシーンが印象に残っている。

このアルザス地方はライン川を挟んでドイツと向かい合う国境地帯だ。古来独仏の領有争いの舞台だった。この地で話されるアルザス語は、上部ドイツ方言の一派に分類されている。当地では現在でもアルザス語が日常語として通用する。

小節「最後の授業」に描かれる情景は、「母国語フランス語にお別れ」というニュアンスだが、受け手の生徒たちの日常語はアルザス語であったという可能性が高い。生徒たちから見れば、「語学の授業が一つ減る」という感覚かもしれない。

なるほど現代のアルザス地方の地図を広げると、ドイツ語の知識で解釈可能な地名が多い。「burg→bourg」「weiler→wil」に見られる微妙な変化も読み取れて面白い。

2017年6月 3日 (土)

ストラスブールの盟約

均分相続を遺言したカール大帝だが、崩御まで生き残った王子はルートヴィヒ敬虔王だけだった。だから問題は起きなかった。そのルートヴィヒ敬虔王が亡くなったときは王子が3人いた。フランク人の伝統とやらで均分相続が約束されたが、いざという時になって長男ロータルがこれを反古にしそうになった。次男シャルルと三男ルートヴィヒが長男に対抗して手を組んだというのが、本日のお題「ストラスブールの盟約」だ。現在はフランス領ストラスブールで取り交わされたからこの名前がある。

この時の宣誓方法が変わっている。次男シャルルと三男ルートヴィッヒが互いに相手の国の言葉で誓約したというのだ。う~んと簡単に申せば、フランス王シャルルがドイツ語で、ドイツ王ルートヴィヒがフランス語で誓約したということだ。相手の国の兵士たちにわからせるためとも言われているが、それはさておき西暦842年のその段階で、すでにフランスとドイツが別言語になっていたということが重要だ。

2017年6月 2日 (金)

地名と方言

記事「民謡と方言」および「民話と方言」で、民謡や民話と方言の関係を話題にした。

民謡や民話は伝承の段階ではほぼ100%方言が用いられているのと同様、地名も命名した人々が共通に理解する言語の範囲内で言葉が選ばれているに決まっている。命名の場所と時期がとても重要だ。

「民話」「民謡」「地名」これらの全てが「方言」と密接なかかわりを持っている。

明日以降実例をあげてこの点を掘り下げる。

2017年6月 1日 (木)

民謡と方言

ブログ「ブラームスの辞書」では既に「民謡」を特集した。その特集を展開する中で若干方言にも言及した。今、少しは方言の知識が備わった脳味噌でもう一度民謡関連の資料を読み返している。

CDの演奏ではテキストがしばしば標準語に直されてもいるが、解説文では民謡の採取地が書かれていることが多い。主要な民謡については脳内で地域名との紐付けが出来てきている。方言系の書物で地域名が出てくると、嬉しいことに民謡の旋律が思い浮かぶという条件反射も起きてくる。

何よりも大切なことは、「標準語で伝承された民話民謡などありはしない」ということだ。民話、民謡、方言は密接不可分だと身に沁みている。

2017年5月31日 (水)

民話と方言

グリム兄弟が編集した「家庭と子供ためのメルヘン」は通常「グリム童話」として親しまれている。そこには兄弟のきれいな業務分担があった。兄ヤーコプは厳格で広範な情報収集にあたり、弟ウイルヘルムは、芸術的な味付けをした。

アルザス地方の修道院で兄ヤーコプが収集した童話の原稿が発見された。刊行済みの「グリム童話」と比べることで2人の分担振りが一層明らかになった。ヤーコプが収集した原稿にはさまざまな民話が方言で記されていたのだ。グリム童話は平易な標準語で書かれているから、方言を標準語に変換したのは弟の仕事だとわかる。語られるままに方言もろとも収集した兄と、それらをシンプルな標準語に変換した弟という図式だ。

ドイツ語辞典の編者グリム兄弟の方言へのかかわりが判るエピソードである。

«フランスの右肩

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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