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    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

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    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

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2024年11月 6日 (水)

2ポジ苦手

ブランデンブルク協奏曲の第6番が、さながらエチュード変ロ長調となって重宝だと書いた。無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版にフラット2個のこの長調がないからだ。フラット2個が奉られるこの変ロ長調は、ヴィオラ演奏上の私の課題にぴったりだ。

そう2ポジ。第二ポジションが苦手という課題克服のよい教材だ。3ポジションへの移動や、そこでのフィンガリングに比べて、まだまだ練り込みが足りないのだ。それは初見演奏で現れる。3ポジなら初見でも割と便利に使えるのだが、2ポジは意図的に繰り返し練習しないと回らない。

G線第1ポジションのB音を人差し指で取る。このとき小指はEs音になる。あるいはD線で同様にすると「F音とB音」になる。これは変ロ長調の属音と主音だ。先のブランデンブルク協奏曲第6番にはこの進行が山ほど出る。ところが第1ポジや第3ポジでは移弦せねばならぬ。

息をするように使い回せるようになるために同曲はよい教材というわけだ。おじいちゃんヴィオラ弾きたるもの4ポジ以上の高いポジションをと思い詰める前にこちらの方が重要だ。

2024年11月 5日 (火)

エチュード変ロ長調

どこかにあったはずと思っていたが見つけられずにいた楽譜をこのほどめでたく再発見。

バッハのブランデンブルク協奏曲の第6番だ。事実上の2つのヴィオラのための協奏曲だ。学生のころレッスンの副教材だった。

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超、懐かしいなどと感慨にふけっている場合では無かった。全く弾けない。指が広がらない。

という訳で、やはり毎日これをコツコツと練習することにした。エチュード変ロ長調とはこのこと。無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版にはフラット2個の長調はないからちょうどいい。正確なチューニングに遅めのテンポ。メトロノームで淡々と繰り返すのみだ。

2024年11月 4日 (月)

お食い初め

昨日、初孫のお食い初めの会があった。娘夫婦の住まいの近所の料理店に両家が集合して、簡単な儀式と会食だ。料理店にそれようのプランが用意されているのが今どきだ。生後100日の儀式として古くから伝えられているも聞くが、肩の力を抜いてわいわいと盛り上がった。

尾頭付きの鯛と、専用の膳。赤飯、吸い物、漬物、煮物とあって手順に従って箸で赤子の口元に寄せる。同じ事を全部で3回繰り返すとある。父母が各1度やったあと、3回目は曾祖母である母が親戚代表で担当した。箸を近づけると口を開けるというお利口さんだった。

赤ん坊のかわいさだけでもう満腹だ。身内だけの集まりなので親馬鹿、じじバカ全開に加え、卒寿の曾祖母が鎮座するめでたい席。みんな自動車で来るのでアルコール抜きながら、「孫かわいい」「曾祖母お元気」でつくづく盛り上がった。こういう席に自然に出られるのは幸せと母がぽつりとつぶやく。杖も車椅子も無縁の上に、昔からの根っからの心配性であれこれと思い巡らすのがボケ防止に一役買っている。美容院で頭を決めて、とっておきのブラウスを着込んで、ひ孫を抱くという至福。

この調子で初節句もお誕生日も集まりましょうとみなから励まされてお開き。

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2024年11月 3日 (日)

幸いなるかなおのが御神に

三位一体節後第23日曜日用「Wohl dem,der sich auf seinen Gott 」BWV139だ。皇帝の税金という身近な説法だが、作品中に税金の痕跡はない。

第4曲バスのアリアがききどころ。ディースカウ先生の出番は当然として、オーボエダモーレのクレメント先生とのアンサンブルが美しい。オーボエダモーレとは「愛のオーボエ」だ。実際にはオーボエより低いヴィオラっぽい位置付け。しっとりとしていい感じだ。

2024年11月 2日 (土)

爪のお手入れ

ヴィオラを頻繁にさらうようになって、手の爪を切りそろえる癖がついた。学生時代は当たり前にしていたが、楽器への緩い接し方が続いて途絶えていた。髪と違って爪だけは元気に生えてくる。

とりわけ左手の爪は慎重な扱いがいる。フィンガリングのためだ。伸びすぎはもちろんなのだが、深爪にも注意がいる。

昔は比較的放置していた右の爪も最近はついでに手入れしている。なぜか。

そう。それは初孫だ。孫とのスキンシップでの万が一に備えたいと思い詰める。赤子の柔肌を爪でひっかくなんぞあってはならぬ。若い頃には無かった視点。

2024年11月 1日 (金)

物思う秋

さて。

今日から11月。我がサラリーマン生活の終焉まであと3ヶ月だ。物思うことしきりである。いつもの秋ではない。

「会社生活最後の~」が多くなってきている。会議の末尾で次回の日程を決めるときそれが、1月末の退任後になることもちらほら出てきた。

一方で、職場初のオケの演奏会も控えている上に毎日楽器の練習に余念がない。

昨年末から展開してきたブログ「ブラームスの辞書」上の「カンタータでたどる教会暦」の企画も大詰めだ。来年にはこれらは全て消滅している。自分の脳みそがどう反応するのか楽しみ半分怖さ半分だ。

その後はきっと、孫やヴィオラとのスキンシップが支えになるはずだ。

2024年10月31日 (木)

神は堅き砦

宗教改革記念日用「Ein fest Burg ist unser Gott」BWV80。ルターの宗教改革は10月31日とされている。ルターが「95箇条の論題」をヴィッテンベルク城教会に掲げた日だからだ。ルター作の有名なコラールをベースにバッハ節が躍動する。

冒頭ルターのコラールを題材にした独唱4名による壮大なフーガはまさにバッハ。特に第2曲のソプラノとバスの二重唱が大のお気に入りだ。独唱二人の問答に弦楽器のユニゾンがからむ。テンポが軽快なこともあって、重厚というより爽快という感覚。ましてや他を圧倒するディースカウ先生の歌いっぷりにただただ感動する。ここでの弦のユニゾンはヴァイオリンとヴィオラをさす。第一第二のヴァイオリンとヴィオラが同じ旋律を弾く。オクターブでもない完全なユニゾン。BWV140の第4曲「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」でも観察された。記譜はハ音記号が用いられているが、よく見ると音域はヴァイオリンの演奏可能範囲にとどまっている。

バッハはときどきこれをやる。

 

2024年10月30日 (水)

楽器痕

15年の休眠から覚めて頻繁にヴィオラに接するようになった。身体のあちこちに異変が起きている。

まずは顎当ての当たる位置に赤い斑点が出てきた。首ともう一カ所、左の鎖骨の端。学生時代にもあったが、楽器から遠ざかるうちに消えていたのがめでたく復活した。

それから左手、人差し指、中指、薬指の先が固まってタコになってきた。小指はタコの成長が鈍い。そらそうだ。巨大楽器の取り回し事情によって、開放弦を使いがちだし、できるだけ小指を使わぬフィンガリングを試行しているせいだ。逆に申せば小指のタコが成長するくらいまで、突き詰めればいいということかもしれぬ。

それから左手人差し指の第二関節の内側だ。このタコは指先のものより大きい。これは指板にあたることで成長している。とりわけC線側の低い弦を押さえようと思うと、指板に押しつけられることが原因だ。

タコというほど固まっていないが、弓を持つ際に唯一下から支える右手親指の先にもほんのり痕がついている。

いい感じである。

2024年10月29日 (火)

ヴィオラ無双

バッハの弦楽器用無伴奏作品はヴァイオリンとチェロのために書かれている。ヴィオラはスルーだ。室内楽やコンチェルト、あるいはカンタータなど宗教作品にでもたくさんの出番に恵まれていながら無伴奏作品にはありつけない。

物は考えようだ。 

無伴奏チェロ組曲をオクターブ上げ、無伴奏ヴァイオリン作品を5度下げれば、どちらも様になる。これら両方をそこそこ楽しめるのはむしヴィオラの特権ではあるまいか。無伴奏チェロ組曲のヴァイオリン版や無伴奏ヴァイオリン作品のチェロ版は、あまり楽譜を見かけない。

人前で弾こうなどという野望は元々なく、老後の慰みとして極上かと。

2024年10月28日 (月)

備えて怠るな我が霊よ

いささか歯がゆいと書いたBWV55の他に、三位一体節後第22日曜日用がもう1曲ある。「Mache dich,Mein Geist bereit」BWV115である。

BWV55がテノールの独壇場であったのと対照的に、フル編成だ。4人の独唱に加え、オーボエダモーレ、フルート、ホルンが入る。収録のメンツもディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生、ペーター・シュライヤー先生、エディット・マティス先生、マンフレート・クレメント先生、ペーター・ルーカス・グラーフ先生という豪華キャスト。

強いて山場をあげるなら第4曲のソプラノのアリアか。ソプラノ独唱にフルートとピッコロチェロがからむ独特の味わいが売り。ディースカウ先生もシュライヤー先生も出番はレチタティーボだけとあって太刀持ち状態だ。

2024年10月27日 (日)

我哀れなる人罪の下僕

三位一体節後第22日曜日用「Ich armer Mench,ich Sundenknecht」BWV55。当日の説法は「自分に対する罪7回があったら、7回赦すべきか」という問いに「イエスは70回赦しなさい」と赦しの10倍返しを説く。耳の痛い話だ。

本作BWV55は代表的なテノールのためのカンタータ。全5曲のうちフィナーレのコラールを除いてテノールの独唱がある。

がしかし、リヒター先生の選集ではいささか影が薄い。ひとえにペーター・シュライヤー先生の独唱になっていないせいだ。オーボエダモーレ独奏もクレメント先生ではない。こちらの脳みそのせいではあるが歯がゆい。

2024年10月26日 (土)

Martin Stegner

マルチン・シュテークナーはドイツのヴィオラ奏者。1996年にベルリンフィルへ。2021年にはバッハの無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版を録音している。我が家にもこのCDがある。

新しい録音のせいか音質がクリアだ。彼自身のキビキビしたスタイルと合わせて気に入っている。そもそも同曲の演奏は、瞑想系が多い。オリジナルのチェロ版ではその系統が優勢だ。解釈の部分がやけにクローズアップされた結果、「演奏者の哲学」「集大成」めいた迫真の演奏が歓迎されてきた。ヴィオラ版ではそれがすこし薄まる気がする。シュテークナー先生の録音は「思い詰め系」と「カジュアル系」が高い位置で均衡する。

今井信子先生、サイモン・ローランド・ジョーンズ先生のCDと並ぶ愛聴盤の位置に上り詰めた。

2024年10月25日 (金)

5度上げて無チェロ

我が家の無チェロコレクションの話。元々は申すまでもなくチェロ用なのだが、チェロよりオクターブ高い音が出る楽器ヴィオラにとっても古来おいしい素材だったと見えて、楽譜はもちろんCDも割とよく見かける。

がしかし、これを5度上げてヴァイオリンでとなると楽譜もCDも手薄と感じる。無伴奏ヴァイオリンには、それようにとバッハ自身が用意した渾身の作品群があるから、わざわざチェロ用を移調してまでとは思わないのだろう。無伴奏ヴィオラ作品をバッハが残さなかったから、せめてチェロ用でと思い詰めるヴィオラ奏者とは訳が違う。

ところが、ジュリアーノ・カルミニョーラという名高いヴァイオリン奏者が、その「5度上げ移調版無チェロ」のCDを出していた。

最初はあれっという感じ。無伴奏ヴァイオリン作品の5度下げヴィオラ版よりは慣れない感じ。でも繰り返し聞いていると慣れてくる。もっとCDがあっても良さそうだ。思うに「シャコンヌ」クラスの名曲が含まれないからCDの売り上げが芳しくないという大人の事情もからむ気がする。

2024年10月24日 (木)

無チェロコレクション

さて、ヴィオラの練習指慣しにバッハの無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版を使っているけれど、同曲の音源が我が家にどれほどあるのか調べた。録音順に列挙する。6曲すべての録音がない人を青文字にしておいた。

  1. 不明 ウイリアム・プリムローズ Va
  2. 1961 ピエール・フルニエ Vc
  3. 1979 アンナー・ビルスマ Vc
  4. 1985 ミシャ・マイスキー Vc
  5. 1986 ミシャ・マイスキー Vc
  6. 1993 ミルトン・トーマス Va
  7. 1997 サイモン・ローランド・ジョーンズ Va
  8. 1997 ヨーヨーマ Vc
  9. 1997 今井信子 Va
  10. 2000 アレクサンダー・リディン Vc
  11. 2002 ラデク・バボラク Hr
  12. 2004 アントニオ・メネセス Vc
  13. 2005 ジャン・マルク・アパップ Va
  14. 2005 松実健太 Va
  15. 2006 ヤープテアリンデン Vc
  16. 2018 キム・カシカシアン Va
  17. 2020 マルティン・シュテークナー Va
  18. 2020 シモーネ・リブラロン Va
  19. 2022 ジュリアーノ・カルミニョーラ Vn

ヴィオラ版は赤文字にしてある。全部で9種。なかなか壮観。ホルン版があるのが笑える。

 

 

 

2024年10月23日 (水)

日本のヴィシェフラッド

先週、三重県の伊賀上野市に1泊で出張があった。出張では泊まった翌朝の散歩が恒例となっている。同地には立派なお城がある。

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天守閣は昭和10年の再建と聞く。あたりは公園として整備されているのだが、ギリギリに突き詰められてはいない。石段の多くは昔のままだったり遊歩道の舗装も最小限だ。しかし、こちらの印象としてはけしてネガティブではない。築城の名人・藤堂高虎の設計は城本体はもとより城下町の区割りにまで及ぶ。町並みの多くが残されていて散策にはうってつけ。

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そぞろ歩いて見晴らしのいい高台に出た。

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高い石垣に息を呑んだ。これが同城の名所・高石垣だと後から聞いた。人のいない早朝のお城でしばしたたずんだ。

思い出したのがチェコ・プラハ郊外のヴィシェフラッド だ。現地語で高い城だ。こちらの眼下はモルダウ川ではなく堀だが、気分はそのまま。

もうこの街を出張で訪れることもないという感慨とセットであった。

 

2024年10月22日 (火)

初孫生誕3ヶ月

初孫の誕生から本日で3ヶ月。体重も7000gに届いた。順調。

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近所のケーキ屋さんにお願いして「4分の1イヤー」のプレートを書いてもらってお祝いだけはすませてある。3ヶ月は1年12ヶ月の「12分の3」なので約分したと言うわけだ。こういう場合「Year」を単数形のままでいいのか自信はない。娘夫婦に孫、そして曾祖母がわいわいと盛り上がった。

この3ヶ月、曾祖母である母の体調やメンタルへの好影響は想定をはるかに超える。「これほどか」と言葉を失うばかり。もはや「生きる理由」というべき存在だ。わが孫の成長を区切り区切りで祝うことは、同時に曾祖母である母の健康の確認作業である。これを娘夫婦と定期的に行えることは何にも代えがたい。

孫夫婦の来訪の前、母は気合いが入る。何を食べさせるか考える。まだ授乳中の赤ん坊はともかくその母である娘夫婦のもてなしだ。好物の料理を考え材料を買い出す。ひ孫と接する時間を増やすために、来訪後に何もせんでいいようにと準備は事前に終えるという周到さだ。

7kgのひ孫を抱いて立ち上がることなど何の問題もない。

ひ孫が帰った後の寂しさが課題だが、それとて次また会いたいというモチベーションに代えるという無敵のルーチン。

 

2024年10月21日 (月)

剥離一周年

思えば昨年10月20日の朝だった。起床してみると、右目の視界下半分に黒い影が現れた。視線の向け方で解消もするが、やがてはまた復活する。いぶかしく思いながら様子を見ていた。10月27日には次女結婚によってあいた部屋の自室化の工事もあり診察に踏み切れなかった事情もある。

結局近所の眼科に診せたのが10月30日。速攻で大学病院への紹介状が書かれて受診。即入院を勧められたが、そうも行かずに11月6日入院で翌7日に手術と相成った。

人生初の網膜剥離から1年。今は順調。孫のかわいい顔も見放題だ。

そうそうバッハの譜読みにも重宝している。

 

 

 

 

 

2024年10月20日 (日)

深き悩みの淵より

いやはや秋も深まる。「深き悩みの淵より」とは物思う秋にピタリだ。

三位一体節後第21日曜日用「Aus tiefer Not schrei ich zu dir」BWV38だ。イエスがガラリアでお役人の子供の病気を癒やすお話。

ルターのコラールに基づく荘厳なカンタータ。なんと申しても4本のトロンボーンが壮麗だ。第5曲には三重唱がある。ソプラノ、アルト、バスの3名のアンサンブルだ。ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生の出番にもなっている。

無理目のこじつけ。ホ短調カンタータがフリギア調気味に始まるのはブラームスの第4交響曲を想起する脳みその構造になっている。そういえばブラームスのop38はチェロソナタ第1番で、ホ短調であった。

2024年10月19日 (土)

チャイルドシート事情

初孫のためのチャイルドシートをマイカーに取り付けた。

我々の子育ての頃にだってチャイルドシートはあったけれど、当時とは規制が段違いに厳しくなっている。抱っこひもで抱いて母親がシートベルトは御法度だ。そのくせタクシーや路線バスには抱っこやおんぶで乗れる。二種免許の運転手さんは、運転が上手だから、そういうことになるのかと感心しきりだ。

で、今どきのチャイルドシートは大きくて頑丈だ。とりつけも難しい。我が家に孫たち家族は同居していないが、頻繁に遊びに来るには、駅との送迎を考えてもマイカーにチャイルドシートはもはや必然だ。とりつけの難しさを考えるに、付けっぱなしが合理的だ。

かくして大人一人分のスペースをがっつり占有することとなり、孫のおらんときには乗車定員が1名減となる。

よいではないか。

2024年10月18日 (金)

メトロノームワーク

15年の放置から覚めて、思い出したように取り組むヴィオラ。演奏会の曲目もそこそこに、指慣しのはずだったバッハに夢中だ。

今さらながらネタが多いが今日は極めつけ。

メトロノームだ。

練習にメトロノームが欠かせなくなった。若い頃は大切と知りつつ遠ざけてもいたが今はこれなしではいられない。楽譜にメトロノームテンポの指定なんぞあるはずもないから、自分で決めている。曲中のもっとも細かいところ、あるいは難所をカラリと弾ける位のテンポ。作曲者バッハが望むまでも無く舞曲には古来踏襲されてきた適正なテンポがあるはずだが、それはひとまず無視。やがてそうしたテンポで弾けるようになるための準備と自ら位置付けている。

ゆっくり弾けねば絶対に早くは弾けない。

演奏会の演目にしたって遅いテンポでいいから、ひとまず楽譜上の音はたどれるレベルにしてから、練習にのぞみたいものだ。

指回しの他に、ゆっくり弾いている間にやれることは山ほどある。右手の収まり、譜読み、ポジションなどなどだ。CDやDVDの演奏がいかに揺れているかも実感できる。

2024年10月17日 (木)

意外と手薄

カール・リヒター先生関連の参考文献2種「カール・リヒター不滅のバッハ伝道師」「カールリヒター論」のお話。紙で読める数少ない情報源として重宝している。リヒター先生とバッハの関係に光があてられている。

では、あるのだが小さくない疑問もある。

カンタータや受難曲の収録にあたって競演している演奏家たちへの言及が思いのほか少ない。アリアを歌う歌手たちへの言及がもっとあってもよさそうなものだ。ペーター・シュライヤー先生やディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生だってほぼスルーだ。こうした歌手たちとの関係に興味があったのだが肩透かしをくった感じ。オーボエのクレメント先生も、フルートのニコレ先生もスルーされている。

カールリヒターの本なのだから仕方ないとはいえ、愚痴の一つも言いたくなる。

 

2024年10月16日 (水)

軸足楽器

オーボエのクレメント先生やお弟子さんのシェレンベルガー先生の妙技にすっかりはまっているところだ。

オーボエ以外の楽器にも聞き所が多い。

フルートではオーレル・ニコレ先生やペーター・ルーカス・グラーフ先生だし、トランペットはピエール・ティボー先生だ。ホルンにだってヘルマン/バウマン先生など私がクラシックに目覚めた頃既に名が知れていた名手たちの演奏が聴ける。

あるいは独奏ヴァイオリンにも出番が多い。数は少ないがヴィオラやチェロにだって独奏がある。

ディートリヒ・フィッシャー・ディースカウ先生をはじめとする歌手たちばかりに注目していたら、そうとうもったいない。

2024年10月15日 (火)

リヒター先生のお誕生日

本日はカールリヒター先生のお誕生日。1926年のお生まれなので今年は98回目のメモリアルデーだ。

一年間、教会暦をカンタータでたどる企画をと思いついたのはリヒター先生のカンタータ選集の録音あってこそだ。だから企画の恩人。

やはり恩人の誕生日ははずせぬ。

本当にありがたい。

2024年10月14日 (月)

ヴィオラは光

それにしてもだ。BWV5の第3曲「あなたは神の泉」は特異な編成だ。テノール独唱と通奏低音、そしてそしてヴィオラ独奏。これだけだ。バッハの全カンタータを見回してもこれしかない。

変ホ長調4分の3拍子。突き詰めないテンポながら連続する16分音符がスラーでくくられながら、時に流れ時に淀みテノールに付き従う。

冒頭のアウフタクトはB音の4分音符1個。ここから満を持して6度上のGにせり上る。深々としたBだ。BWV140の「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」と同じBの4分音符1個のアウフタクト。

野望。これ弾きたい。なんとかしたい。

2024年10月13日 (日)

装いせよ我が魂よ

三位一体節後第20日曜日用「Schmucke dich,o liebe Seele 」BWV180だ。説法の内容は婚礼の招待客の比喩で天の国に招かれる招かれないの説明だ。同カンタータ冒頭はその描写かとも言われている。独唱は4名ながら、フルート、オーボエとイングリッシュホルン。どうした都合かクレメント先生は降り番だ。

ディースカウ先生の出番はレチタティーボだけ。第4曲アルトのアリアが聞き所か。珍しくピッコロチェロ独奏の伴奏が聴ける。

2024年10月12日 (土)

アルマンドマニア

BWV1004は大好きだ。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータニ短調だ。そのト短調版をリダウト先生に聴かされて打ちのめされたが、こちらはただでは起きぬ筋金入りのドアマチュアだ。同曲の第1曲だけはなんとかならんものかと弾き始めた。重音が限定的なので、テンポ緩めてスラーぶった切りなら、音だけはたどれる。

そう第1曲のAlmandaだ。アルマンドと通称される舞曲。ドイツ舞曲だ。突き詰めないテンポの4拍子。必ず冒頭にアウフタクトを伴う。これがなぜ「ドイツなのか」なお深い事情があろう。

そういえば、無伴奏チェロ組曲ヴィオラ版の6曲をいいとこ取りのつまみ食いをしているうちに、どの曲も前奏曲の次に置かれるアルマンドが気にいった。「♪=80」程度にメトロノームを設定して弾くと指慣しに格好の素材となる。遅いといえば遅いがアルペジオも重音もなんとか様になる。特にBWV1007ト長調、BWV1008 ニ短調、BWV1009ハ長調、BWV1010変ホ長調の4つはさらさら流れる。BWV1011ハ短調とBWV1012ニ長調は一旦棚上げだ。

ドイツ好きたるもの、アルマンドははずせぬ。

2024年10月11日 (金)

5度下でつまみ食い

ティモシー・リダウト先生の余韻に浸っている。

我が家に、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのヴィオラ編曲版の楽譜がある。無理を承知で昔買い求めたものだ。それをめくりながら、過日のリサイタルを思い出している。元々独奏ヴァイオリン用にと書かれているが、それをヴィオラで弾こうという編曲だ。5度低く移調することで、同じフィンガリングで弾けるという寸法だ。楽器の大きさからくる取り回しや、発音の感度を別にすれば、無伴奏ヴァイオリン作品でバッハが想定した効果をそのまま期待できる。

理屈はともかく思い出すだにすごい演奏だった。

自分で弾くのはほぼ無理。無伴奏チェロ組曲のヴィオラ版よりは、数段難易度が上だ。シャコンヌはとにかく重音が物理的に無理だ。指が届かぬ。がむしろ、決定的に無理なのが右手だ。先般のリダウト先生の妙技の過半はやはりボウイングなのだ。自在に弓が操れてこそなのだと当たり前のことを再認識。

だから重音の出ない曲を、テンポ無視スラー無視でつまみ食いする程度。

すごい演奏に触れて、自分と比べての絶望的な差におそれおのおいて、楽器を遠ざける愚だけは犯すまい。

2024年10月10日 (木)

MVC

ティモシー・リダウト先生のヴィオラリサイタルの話。プログラムのトリが、バッハだった。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ2番BWV1004のヴィオラ版だ。原曲ニ短調を5度下のト短調に移調したバージョン。当然ラストは例のシャコンヌだ。

みんなこれ目当てだろう。当夜、そこまでの演奏が素晴らしかったので期待は高まるばかりだったが、やはりすごかった。ヴィオラでの演奏だということをいつしか忘れて夢中。

私が生で聞いた中では過去最高のシャコンヌだった。名付けて「Most Variable Chaconne」略して「MVC」である。しかも29歳は最年少生シャコンヌでもある。ヴィオラの暖かい音色が切れ味とも共存する。楽器の取り回しや、発音の遅さなど普段取り沙汰されるヴィオラの特色なんぞわかった上で、さらにヴァイオリンにない境地を示してくれた。

なんといっても楽器の鳴りだ。売りはそこなのだろうが、頻発する重音の音程も完璧。テンポは軽快をベースに聞かせところではほのかに揺れもする。自在かつ周到のバランスが絶妙だ。

変にアンコールを弾かなかったも見識の一つと見た。

2024年10月 9日 (水)

無伴奏ヴィオラの夕べ

先週金曜日10月4日だった。都内でヴィオラのリサイタルを聴いてきた。

ティモシー・リダウト先生による古今の無伴奏ヴィオラ作品を集めたコンサート。

最近、私自身がヴィオラを練習し始めていることもあって、興味津々というばかりに出かけたが圧倒された。

聞けば先生の生年は1995年。つまり我が家の次女と同い年。新進気鋭の若手奏者という謡い文句だが、その演奏は堂々たるもの。

これがヴィオラの音かという驚き。楽器を通じて小さなホール全体が共鳴する感じ。ヴィオラ独特の暖かくてまろやかな音色なのに切れ味めいたメリハリもついて回る。特にだ。バッハやテレマンなど、元々ヴァイオリン用にと書かれた作品を5度下げてヴィオラで弾いているというのに、いつしかそれを忘れた。

 

2024年10月 8日 (火)

初宮参り

一昨日の日曜日、初孫の初宮参りだった。車で45分の神社まで母を連れて行った。本来生後33日目らしいが、猛暑を考慮して延期していた。目論見通りの涼しさで安堵した。本人は140ccのミルクを一気飲みの後、「ややこしい儀式はお断り」とばかりに60分ほど豪快に寝込んだ。

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抱き手が代わろうが、太鼓が響こうがぐっすり。おでこに魔除けのお印を貼ってもらうも熟睡。

ここでもまた曾祖母の威光は絶大。6700gのひ孫を悠々と抱いて感激の記念撮影。眠り続ける赤子に代わって主役級の位置付けだった。

両家が一同に会するのは昨年の結婚披露宴以来だが、「孫、超かわいい」で一致。

«我は喜びて十字架を背負わん

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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