「sempre」意訳委員会
「常に」と解されて疑われることのない「sempre」なのだが、ブラームスの用例を分析すると不可解なケースも目に付く。「常に」の有効期間にバラツキがあるのだ。延々30小節の維持を意図するケースもある一方で、わずか2小節というケースさえある。
2小節の維持であれば、「sempre」など付与されない例も山ほどあるというのに不可解である。「ブラームスの辞書」では、そのあたりの実態を受けて提案を試みている。「sempre」を「常に」と解するばかりでは、限界があるという立場である。
「常に」というのはいわば「維持のsempre」である。特定の状態を長期にわたって維持する意味に加え、放置すると維持が難しい場合も含まれている。
第二のケースは「強調のsempre」である。度合いを煽る意味はないが、特にキチンと守って欲しい場合に用いられると見たい。私の感じた違和感は、総じてこの用法で用いられた「sempre」が「常に」と解されるために引き起こされていた。たとえば「sempre p」を例に取る。「p」の意味を強調する意図はないが、絶対に「p」を逸脱してはならないという場合に使われると考える。「molto p」としてしまうとダイナミクスを減じられてしまうからだ。ダイナミクスへの影響なく「p」を強調するのが「強調のsempre」の機能である。
「くれぐれも」「頼みますよ」あたりを訳語として提案したい。先の例「sempre p」で申せば「くれぐれもpで頼みますよ」というニュアンスである。大切なのは弱くなり過ぎないことだ。pの度合いを増せという意味は無い。
「sempre」の解釈に行き詰まった際の読み替えの選択肢としてお一つ。
最近のコメント