バッハの楽譜には装飾音符がかなり出てくる。
3月に始めたヴィオラレッスンで落ちた鱗はかなりな枚数に上るが、今のところ最大の鱗は装飾音符だ。
バッハ作品に新たに取り組む際、まずは楽譜を前にボウイングやフィンガリングを決めに入る。小節の頭はダウンだとかアウフタクトはアップだとか。同時にフィンガリングも。開放弦は割と使ってよろしいが、トリルを薬指と小指でかけてはならぬと。
先生は曲中全ての装飾音符を抜き出してその周辺の効果的なフィンガリングを割り付けよと説く。バッハの装飾音符は複雑でそれだけで本も書けるという。演奏に取り組む前にそのあたりの整理は終えておくべしと。
ボウイングにだって影響する。曲の性格やテンポも考慮せねばならぬ。逆に申せばそれらがきれいにはまったとき見違えて曲が流れることもある。
「弦楽四重奏のための大フーガ」変ロ長調op133は、高校生の私の憧れ。難解さに憧れていた感じ。ももと13番の弦楽四重奏のフィナーレとして書かれたものの、ベートーヴェン本人が改作した折に削除されて独立曲として出版されたという。
突っ込みどころ満載だが、なんといっても第一ヴァイオリンによって奏される第一フーガの主題だ。ピアニシモで4分の4拍子の弱拍上にタイで連結された2連8分音符がおかれる。高校時代の私は「なぜ4分音符じゃないのだろう」と疑問をもった。さまざまな書物をあたったがこの疑問を解く情報にはありつけていない。テヌート付与の4分音符では代替出来ぬというベートーヴェンからのメッセージに違いないとだけは思っていた。
変な高校生だ。
全音符と2分音符を白玉という場合がある。符頭が黒く塗りつぶされないからだ。付点2分音符も含めたこの白玉が多いと、楽譜全体が白っぽく見える。素人の演奏家にとっては指回しの苦労が少なくて済むという有り難みとセットになっている。
本日のお題「白玉2個」でいう白玉とは、特に2分音符を指している。
バッハのブランデンブルグ協奏曲第3番の第2楽章は、「白玉2個」で出来ている。和音の形で記譜されているから正確には「白玉2個分」と呼ぶべきかもしれない。2つの和音の輪郭がサラリと示されているだけだ。あるいはこの2種の和音の移ろいを示すことが目的とも思える。何らかの楽器による即興演奏のためお題かもしれない。ブランデンブルグ協奏曲どころかバッハの全協奏曲に対象を広げてもこのような例は珍しい。
楽章と呼んでいいのか少し疑問である。
もちろんブラームスにはそんな楽章はない。けれども歌曲のイントロが「白玉2個分」というケースならば2つ実在する。
シンプルと言うよりも何か本質的なことを隠しているようなニュアンスだ。隠すと見たいという心理を逆手に取っているのかもしれない。
バッハの楽譜に親しむ人には既におなじみの話だ。バッハの楽譜はスラーを含むアーティキュレーションの密度が低い。書いていないのだ。様々な理由が推定されている。バッハ自身楽器演奏の名人であり、多くは自作自演の目的で書かれたから、アーティキュレーションが無くても済んだからというのが、一応の定説だ。最初の方には、記入があっても曲が進むに連れて律儀には書かれなくなって行くこともある。
現代市販の楽譜は、元々書かれていなかったアーティキュレーションを書き込んであるものもある。だから、逆にバッハ本人に由来するアーティキュレーション記号には、その旨注意書きが施されていることが多い。
この冬休みはバッハの作品に親しんだ。特に平均律クラヴィーア曲集を楽譜を見ながらじっくり聴きこんだ。
第1巻24曲ロ短調のフーガの冒頭に一群のスラーがある。2小節目の間に6個のスラーが密集している。そのどれもが短2度の下降になっている。このスラーには注釈が振られ、バッハ本人によるスラーであると明記されているのだ。
昨年12月13日の記事「音の抑揚」の中で述べたスラーの機能に関するシューマッカー先生の見解と呼応しているように感じていた。ブラームス至高のインテルメッツォop118-2冒頭の2音「Cis-H」に付与されたスラーは「音の抑揚」を表すという見解のことだ。
書かんでも判るアーティキュレーションを省くことの多かったバッハが、敢えて執拗に書き込んだスラーが、偶然にも短2度の下降なのだ。これはフーガ主題だから曲中何度も再帰する。まさに平均律クラヴィーア曲集第1巻をしめくくるフーガの性格を決定付ける、欠くべからざるスラーだと考える以外に道は無い。
休み中、ずっとそのことを考えていた。
12月11日に「スラーは奥が深い」と書いた。今日はその一例である。
第4交響曲第3楽章の話だ。例によって譜例なしの無茶な展開である。
4分の2拍子ハ長調、Allegro giocosoで始まる「ドシラソファ~ソ~」という冒頭の主題は、スラー無しには立ちゆかない。たった2小節の間に、スラーが2本、スタッカート1個そしてアクセント2個が、ひしめき合っている。これらのパーツは小節の頭打ちに特化した、ホルンの1、2番とトランペットおよびティンパニを除く全ての楽器において同じ配置のされ方をしている。
まずはスラーだ。この2個のスラーが指向するのはシンコペーションだ。それが上から下まで全ての楽器を貫いている。そして交響曲では唯一、楽章の冒頭に「ff」が置かれている。並の決意ではない。
2小節目の2つの4分音符にはアクセントが要求されている。2拍目はともかく1拍目は、難解だ。前の小節の末尾の音からスラーが連結されていて、形の上ではシンコペーションを打ち出しているのに、スラーの到達点の音にアクセントが置かれるのは不可思議だ。
しかし、こうした構造は断固として貫かれる。30小節目で冒頭主題が回帰する際にも、この枠組みが守られる。主旋律は低弦に移されている。冒頭ではソプラノで提示された主旋律が、後にバス声部に潜り込むのは、続く第4楽章の先取りとも思われる。しかしそんな中でも「スラー2個、スタカート1個、アクセント2個」の5点セットは不変だ。
少なくともこのスラーがなかったら旋律の表情は全く変わってしまう。その重要性は音符と同等かそれ以上だ。
ブラームス作品の弦楽器パートにはしばしば長いスラーが現れる。12月11日の記事「スラー」で述べた通りだ。それらは「弓の返し目」の表示ではなく「フレーズ」の表出だと書いた。本日はそれをさらに補足する議論だ。
ブログ「ブラームスの辞書」でしばしば引用言及しているトマス・シューマッカー先生の「ブラームス 性格作品」という本の146ページ目、インテルメッツォイ長調op118-2の冒頭の弾き方を論じた部分に「アウフタクトのスラーは音の抑揚を意味しており、2音で切ることを意味しているのではありません」とある。
この本は、ブラームスのピアノ作品について、一流のピアニストかつ札付きの愛好家の立場からその奏法をディープに論じていて飽きさせない。しばしば大胆な断言が脈絡もなく突然現れるので油断が出来ないのだが、ただいま挙げた場所はその最たるものだ。スラーに対する下記のような一般的認識に「音の抑揚」という新たな側面を開拓しているように思う。
いったいこの場合の「音の抑揚」とは何だ。これが音の高低ではないことは明らかだ。突き詰めて考えても簡単に結論に達することは難しい。
何の前触れも示さないまま、ものすごい断言をしておきながら、シューマッカー先生は淀むことなく、「だからペダルはこう踏むべきだ」という超各論に入って行かれる。勢いにつられてぼんやりと読んでいると「音の抑揚」というニュアンスがスルリと入って来てしまう。それは何故かというと、あのインテルメッツォの冒頭の2音「Cis-H」と3音目の「D」を切ってはならぬという主張に説得力があるからだ。
それが、「音の抑揚」という概念とどうしてつながるのか私の理解力を超えている。それでも「切ってはならぬ」には説得力がある。「スラーの切れ目」なのに切ってはならぬ場合もあるということだ。
直感としてはYESなのだが、「音の抑揚」をスラーの機能と断ずる自信が持てないでいる。
降参である。「スラー」の定義なんぞ恐ろしくて出来たものではない。
弦楽器の習い始めの頃、「スラーがかかっている間、弓を返してはいけません」と教わる。娘たちはレッスンの最後のソルフェージュで「スラーのかかっている途中で息をしてはいけません」と言われていた。つまりスラーの切れ目は「弓の返し目」であり「息の継ぎ目」であったのだ。「スラー」にそうした一面があることは事実だし、それがスラーの重要な機能であることは間違いない。
ところがブラームスはもっと別の意味のスラーが頻発していると感じる。弦楽器の楽譜に現実離れした長さのスラーがちょくちょく置かれているのだ。たとえば第2交響曲の第1楽章17小節目から26小節目にかけてだ。これを弓を返さずというのは全く現実的ではない。
種明かしを先にするなら、このスラーは「フレーズの切れ目」を表わしている。一つながりのフレーズにスラーがかけられているのだ。「弓の切れ目」と「フレーズの切れ目」は慣れるまでは大変に紛らわしい。「弓の切れ目・返し目」であっても直ちに「フレーズの切れ目」だとは限らない。色分けでもされているといいのだがそうも行かない。結局一つながりの長い長いスラーは、その楽節の意味合いを考慮しながら何度か途中で弓を返すのだ。その返しどころの決定にはセンスが反映する。第1交響曲の第2楽章にもこの手のスラーが頻発する。このあたりの仕切りが甘いと「ブラームス舐めてンじゃないですよ」と叱咤されることになる。
まだある。このところ気になっているピアノ三重奏曲第1番の初版だ。第1楽章冒頭の旋律は、改訂版でも保存されているのだが、楽譜を見て驚いた。初版では第1楽章冒頭の芳醇な旋律にスラーがほとんど用いられていない。チェロにもピアノにも全く現われないのだ。これが第3楽章になると初版改訂版ともにスラーが同じ感覚で付与されているから、第1楽章の特別扱いが際立つ。「ブラームスの辞書」でもスラーはカウント対象にしていないが、何やら暗示的だ。
ひとまず奥が深いとだけ申し上げておく。
基準の単位を3等分した音符。基準の単位とは様々だ。1拍だったり音符1個だったり、小節1個だったりする。小中学校の音楽の時間で学習する体系は2の倍数個に等分されてゆく音符が基本だから、三連符はそれらとはリズム的な衝突を引き起こす。作曲家たちはみな、そのことを知っている。ブルックナーの交響曲にはしばしばそれがモチーフとして現われ、「ブルックナー三連符」という異名も奉られているという。
ヘミオラ好きなブラームスもしばしば三連符を巧妙に用いている。「ブラームスの辞書」でもさすがにブラームスの三連符の全用例を列挙するには至っていない。マッコークルをでさえ不可能だろう。せめてブログ「ブラームスの辞書」で印象的な三連符の用例を挙げるにとどめたい。
最後にとっておきの場所。私の宝物だ。ピアノ四重奏曲第2番第2楽章70小節目のピアノである。66小節目から弦楽器の控え目な伴奏に乗ってピアノは8分音符の連続からなる旋律を「p espressivo」で奏でている。右手と左手の仲むつまじいオクターブの旋律だけで十分美しいのだが、問題の70小節目の3拍目から三連符にすり替わるのだ。この変わる瞬間が何にも代え難い宝だ。
このところアクセス系のネタではしゃいでしまったので、現実に目を向ける意味でもガッツリのオタクネタをかましておくことにする。夢を見た後は足下を固めておかねばならない。
「シ」とは音階の「シ」である。ここでは第7音の意味をも含む。
夏休みも終盤にさしかかり、次女と「調性の森」をハイキングしている。8月2日の記事「今何調」で触れた通り、次女に少しずつ調性の周辺のあれこれを教え始めた。
http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/08/post_0666.html
調号として付与されたシャープやフラットの数から調を推定する方法からだ。話を単純にするために短調はしばらく棚上げにして長調に的を絞った。「フラットもシャープも何も付いていないときはハ長調」これが基本である。
シャープもフラットもでたらめに付いている訳ではない。付く音には規則性がある。シャープでいうとファ→ド→ソ→レ→ラ→ミという順番が崩れることはない。調を効率的に推定する場合、最後に付いたシャープがポイントだ。「最後に付いたシャープ」とはシャープ1個の時は「ファ」であり2個なら「ド」である。
「最後に付いた結果の音がシになるような調ですよ」と教えた。シャープもフラットも無いハ長調からファにシャープが付く。それでファ♯に生まれ変わる訳だが、このファ♯がシ、つまり音階の7番目になる調だということだ。ファ♯の半音上のソで始まる調ということで、正解のト長調が得られる。「シャープはシを作る記号だよ」と教えたところ、次女はカラリと解ってくれた。きっと私のDNAのせいだ。
嬉しい質問が返ってきた。「じゃあフラットはどうなの」当然の疑問だ。同じ論法で言うなら「フラットはファを作る記号」だ。「シを作る」「ファを作る」という位置づけは対照的だ。シャープが付与された音が目的とする調にあっての導音になるというのは、気持ちの問題として収まりがいい。これに比べて「ファを作る」というフラットの位置づけは奥ゆかしくて穏和だ。ハ長調にあっては第3音として扇の要だったミが、シに付与されたフラット一個のせいでいつの間にか第7音に変わるのだ。ミそのものには表面上何の変化もないだけに、知らぬ間の役割変更である。弦楽器はこのあたりのさじ加減が面白いのだ。
調を「シャープ系」「フラット系」とに分類したとき、このような役割の違いが調のキャラに反映しているような気がする。楽譜に出現するシャープやフラットがいつもこうした役割ではないが、調号として各段の左端に鎮座する場合は使える考え方である。
面白いのは「ナチュラル」だ。フラットとシャープどちらのリセットなのかで役割が変わる。フラットをリセットする時はシャープと同じ機能だし、シャープをリセットする時は、フラットと同じ機能だ。ここまで話していたら、楽器に触る時間が無くなってきた。今日のハイキングはこれまでだ。
こういう話、楽器を弾いているより面白いらしい。今度はお弁当を持って行こう。
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