演奏家論
同じ作品でも演奏者によって違って聴こえること自体は、何等否定するものではない。当たり前のことである。問題にしたいのはその違いが過剰に拡大されてはいないかという点だ。ブラームスの第四交響曲のCDを買って帰って聴いてみたら、ベートーヴェンの第四交響曲だった場合、お店に文句を言うだろう。一方クライバーのブラームス第四交響曲を買って帰った客が、「これはバーンスタインではないか!!」といって返品を求めることはあるだろうか?無いと思う。トマトとキュウリほどには差が無いのだ。その差を決定的かつ巨大であるという具合に聴衆を洗脳しておいた方が都合がいい業界の懸命なマーケティング活動の結果、指揮者間の微妙な違いが解らない時、自分の耳が悪いのではと悩む初心者が後を絶たない。かくして多量の「お勧めCD論」があらゆるメディアで氾濫するという塩梅である。クラシック初心者は二言目には「お勧めの演奏は?」という言葉を発することになる。
なけなしのお金をはたいて買ったたった一枚のレコードやCDを毎日聞きまくっていたという場合、耳にその演奏が焼き付いてしまい、他の演奏を聴きいても違和感を感じるということは、よくある話だ。微笑ましい。ディスク間の違いもその程度なら他愛の無い話である。しかしお勧めCD論とは明確に区別されていなければいけない。レーベルを隠してCDを聴いた場合、はたしてどの程度演奏者を特定できるのだろう。声楽にはまだ高い可能性がある。プライとフィッシャーディースカウの違いなら声を聴けば解るというのには説得力がある。指揮者は、どうだろうか?「カラヤンでないことだけは確実だが、誰かは解らない」「俺がいつも聞いてるCDよりテンポがおそいな」あたりが関の山ではないだろうか?特定の指揮者の賛美者には重大な差異かもしれないが、それは演奏家論、指揮者論である。ゆめゆめ作曲家論と混同して欲しくないものである。
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