調味料論
世の中の作曲家論の多くが「演奏家論のバリエーション」と化している点、少なからぬ違和感がある。「作曲家論」とあえて言っているが、実態は好みの作曲家についてのワイガヤ話である。他愛のないネタなのだがここでは敢えて「作曲家論」と言っているに過ぎない。「ブラームスっていいよねえ」で始まった飲み会がいつの間にか「バーンスタインとカラヤン」「オイストラフとシェリング」「ケンプとバックハウス」「ヨーヨーマとロストロ」の比べっこになっていた経験が少なくない。それはそれで場が盛り上がること確実で楽しいのだが、演奏家名が書かれたCDのレーベル見てそれを信用しているという一点について疑いの余地は無い。
私は、普通の演奏のCDが一枚あれば満足である。若い頃、すくない小遣いで一曲でも多くブラームスの作品を聴きたいと志した結果、同じ作品に複数の演奏を手元に置くことが出来なかったことも原因だろう。トマトとキュウリの違い、つまりブラームスとベートーヴェンの違いには興味があるが、トマトの産地にはさほどこだわりがないのである。この姿勢は世の中のクラシック愛好家の平均値とは大きく違っていることもまた解っているつもりだ。同じ楽譜を見ながら演奏しているのに結果として現れてしまう演奏家間の違いよりも、ブラームスをブラームスたらしめているエキスの方に深い興味を感じる。
昆布のうまみの正体が「グルタミン酸ナトリウム」であることはかなり有名な話である。その事実は日本人が初めてつきとめたという。しかしその発見の前から「昆布の煮汁がうまい」ことだけは、みんな経験からわかっていた。そのうまみの素がグルタミン酸ナトリウムであることが特定され抽出されたことに深い意義があった。あとからこの物質だけを振り掛けるという調味料の発想が生まれた瞬間である。いわゆる「味の素」である。
世の中相当多くのブラームス愛好家が存在する理由はなんだろう。ブラームスが素晴らしいということだけは確実なのだが、はたして「グルタミン酸ナトリウム」は特定されているのだろうか?この部分が特定されないまま、食べ方だけがあれこれ議論されていると感じる。
今執筆最終段階にある、「ブラームス専用の音楽用語辞典」はブラームスのグルタミン酸ナトリウムの発見に一歩でも近づきたい一心の著述である。400ページの本文の中、「誰それのCDは」という記事は一箇所だけである。グルタミン酸ナトリウムそのものに興味の中心を据え、何にふりかけるかには注意を払ってはいない。
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