生演奏と家庭菜園
世の中が進歩すると社会の分業が始まる。大昔の自給自足の社会が、次第に分業の社会に発展するというわけである。昔は自分で作ったもの、自分でとったものを自分で食べていた。次第に「作る人、とる人」と「食べる人」が分離されてくる。都市が発達するとさらにはそこに「運ぶ人」まで発生してくる。「誰が作ったか」「どこでとれたか」をキーにしたブランドという概念が発生する。ここまで来れば「偽ブランドの出現」は時間の問題である。消費者は、店頭に並べられた商品の表示を信じるしか方法が無い。この信頼関係を逆手に取る不届き物が少なからず存在すること周知の通りである。このイメージを払拭するために店頭に生産者がニコニコ笑った写真を掲示する店まで現れて笑わせてくれる。
消費者の反応も過敏である。少々の不当表示で鬼の首をとったような大騒ぎである。生産の現場と消費者の距離がこれだけ離れた今、当然想定すべきリスクである。それを今始めて知った風に怒って見せるのはいささか白ける。もちろん不当表示は「うそつき」である。悪いことである。だけれど、都会に暮らしながら、農業や漁業にいそしむわけでもない人間でも、街の量販店に行けば生鮮食料品が手軽に手に入るという利便と引き換えに提供するリスクを知りませんでしたというそぶりは少々虫が良すぎよう。産地偽装は当然起こりうる不正である。それが嫌なら、野菜は家庭菜園、魚は釣ってくるというライフスタイルが必要である。
生演奏の聴衆がしばしば口にする「生はいいよね」は、こうした不安への裏返しとも受け取れる。「CDなどのレーベルの記載や解説はどうあれ、誰が演奏しているかわかったものではない」という不安である。その点生演奏はいわば産地直結である。誰が演奏しているかに疑いの余地は無い。生演奏が良いという概念は、CDやレコードといった演奏の録音物が商売になっていることの裏返しである。全ての演奏が生演奏だったころ音楽の媒体は楽譜だけだった。「生演奏っていいよね」などという奴はいなかったはずだ。
家庭菜園で土いじりが根強いブームになっているのは、そこで取れた野菜を安心して食べられることも大きく影響しているだろう。どれだけ録音物がはびこっても生演奏がけっしてすたれないことを家庭菜園が証明してくれている気がする
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