発想の源泉
「ブラームスの辞書」のようなオタクな本を出し、それでも飽き足らずに同名のブログを立ち上げたりしている。知らない人は私を「単なる楽譜オタク」と想像しかねない。それでも仕方の無い怪しさが「ブラームスの辞書」には充満している。
自分の名誉のためにも言明しておきたいことがある。私の人生におけるブラームスへの傾倒は、楽譜よりも作品の鑑賞や演奏が先であった。ブラームス作品を聴く中から、何回と無く感動を味わった。聴くたびにいつも背中に冷たいものが走る場所や、弾く度に決まって鳥肌が立つ場所があることに気付くのに大した時間はかからなかった。そしてそれは、やがて「その場所の楽譜の成り立ちはどうなっているのだろう」という疑問と好奇心に変わっていった。注意深く楽譜を読めば読むほど、鑑賞や演奏での理解が深まり、それがまた新たな疑問を生み出し、さらに楽譜に没頭するというルーチンが自然に生まれていった。
あくまでも作品への感動が先である。けれども感動の源泉はなんだろうと考え始めると、楽譜に深入りせざるをえない。感動の源泉は必ず楽譜中に存在しているはずであるという仮説は、程なく確信に変わった。フルトベングラーでは感動するけどクライバーでは感動しないというのは、彼らの個性の違いか、こちらの先入観の問題であって、基本的にはブラームスの本質とは関係が無い。どの道楽譜に書いてあることを、気付かずに弾き飛ばすか、気付いて、それと判るように弾くかの差は、演奏者の感性や注意力やテクニックの差であって、ブラームスの関知するところであるまい。
この調子で屁理屈をこねまくった末に、ぶち当たるのが、アマチュア演奏家につきもののテクニックの壁である。「意あって力足りず」の状態だ。楽譜への思い入れや感性や、屁理屈は実際に誰にも負けぬと自認しながら、それを音に翻訳するテクニックに決定的なキズを持つということなのだ。その弱点を自覚するからこそ、情熱は勢い屁理屈寄りへとヒートアップせざるを得ない。「ブラームスの辞書」が持つオタッキーな怪しさの源泉をこのあたりに求めることが出来よう。「情熱に相応しいテクニックを併せ持つ人たちへの無限の憧れ」が「ブラームスの辞書」の執筆へと駆り立てたと言っても良い。おそらく少しは存在するであろう「情熱よりテクが優越してしまっている人たち」にとっての刺激になりはしないかという、そこはかとない希望も捨ててはいない。
たとえば「mp」と「molto p」の違いを自由自在に弾き分ける、感性とテクニックを持っていたなら、「ブラームスの辞書」の執筆を思いつかなかっただろう。
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