quasi論
「quasi」は大抵の場合「ほとんど」と解される。一昔前にはやった「ほとんどビョーキ」の「ほとんど」に近いニュアンスと思えば間違いはない。
「X quasi Y」という場合、「Xで、ほとんどYのように」のノリである。よく考えると含蓄が深い。「ほとんどY」ならなんで単に「Y」としないのだろう。つまりは「Y」は比喩でやっぱり本質は「X」だと解さざるを得ない。
さらにこの場合「X」と「Y」は隣り合う概念であることの表出に他ならない。第二交響曲第三楽章は「allegretto quasi andantino」だが、この場合「allegretto」と「andantino」がテンポ感覚上隣り合う概念であることが推定されよう。しかしそこはブラームスだ。事はそう単純ではない。ヴァイオリンソナタ第二番のフィナーレは「allegetto quasi andante」になっている。第二交響曲第三楽章が「allegretto quasi andantino」であることなど当然承知しているはずのブラームスは、ヴァイオリンソナタ第二番フィナーレに平然と「allegretto quasi andante」と記したのだ。ブログ上ではこれ以上謎解きはしないが、「quasi」にはこうした興味深い用例があちこちに転がっている。
初期のピアノソナタには「quasi pizzicato」や「quasi cello」まで存在している。目を疑う表示である。「quasi」の出番を一通り観察しているだけでちっとも退屈しない。
ああ、そうそう、今日はクララ・シューマンの誕生日だったはずだ。ブラームス好きとしては、はずせない日だ。
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