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2005年10月31日 (月)

アルバム「中国紀行」

マイフォトで「中国紀行」を公開しました。

ほぼ「ブラームスレス」な10日間の中国出張だったけれど、これに全く触れないのは、いかがなものかと悩んだ末、厳選した写真をアルバムで公開することにした。ブログ「ブラームスの辞書」としては異例の取り扱いだ。10日間で1000枚を超える写真を撮影した。仕事関連の写真のほかにも、街の表情を中心に撮りためておいた。アルバム上では、このうち36枚を公開することとした。

全くブラームスとは関係ない事をお断りしておく。

2005年10月30日 (日)

ヴァイオリン発表会

本日娘らのヴァイオリン発表会があった。

二人とも日ごろの練習の成果を発揮してくれた。ピアノとヴァイオリン合同で、先生方の演奏を含めて24人が演奏を披露した。ヴァイオリンはそのうちの8組で、ほぼ若い順に出演する。

13時開演だが、11集合でリハーサルがある。写真撮影はリハーサルでのみ許可される。

肝心な本番。リーディングのコンチェルトの妹はなんだか固くなっている。表情が固い。練習やリハーサルでは、絶対に間違えたことの無い場所で、暗譜が飛んだ。度胸を決めて先の場所で復活したが、驚いたのは本人だろう。ケロリと復活して先を弾くには度胸がいると思われる。ピアノ伴奏の先生の機転もあって、大惨事だけは免れた。危ないと思ってたくさん練習したところは、得てして大丈夫なものだ。

妹の後2人おいて出番の姉は、おそらく過去最高だと思われる出来。リハーサルで走ったところも、落ち着いてクリアだ。堂々たる弾きっぷりだった。16分音符の連続する難所もケロリと弾いている。今回の評価は「度胸がある」の一点で高得点だ。パパが大学生活で見てきたいわゆる「弾ける女の子」の弾き方になっている。胸の張り、腕の伸び、首の角度のなど、見た感じでは萎縮したところがない。本人いわく「全くあがらない」ですと。ヴィヴァルディの協奏曲イ短調という選曲も彼女の性格にマッチしていたと思われる。「スロウなテンポのバラードはむかつく」という性格だ。メリハリつけてサクサク弾ける曲が大好きなのだ。途中三度現れる「dolce」が聞かせどころなのだが、キッチり表情を変えていたのが、想定外の収穫だ。

先生の模範演奏は姉妹の手による「二つのヴァイオリンのための協奏曲」Dmoll。無論バッハだ。第三楽章だったけれど、この曲の第一楽章を娘らに弾かせたい。最終のゴールはブラームスにしても、一足飛びは難しい。次なる目標はバッハだ。

ああ、今日の発表会でも誰もブラームスを弾く子はいなかった。これで三度目の発表会なのだが、子供らはともかく先生方の模範演奏でもブラームスはいっこうに取り上げられない。先生に質問すると「ブラームスは格段に難しいから」という。我が家の娘らにいつかはソナタを弾かせたい。「雨の歌」あたり・・・・。ヴィヴァルディのイ短調をやっとという段階でおこがましいが、夢見るのはただである。

いつもの発表会にはなかったエポックがもう一つあった。姉の弾いた楽器、実は亡き妻の形見である。9年前に亡くなったとき、ポツリと残ったヴァイオリンをいつか娘らにと思ったことが、ある種のエネルギーだったことは否定出来ない。本当にこの楽器が娘によって弾かれたのは、ある意味大きな区切りと言ってよい。姉の本番の演奏が過去最高だったことは、何かの因果であるとも思えてきた。

2005年10月29日 (土)

記事200本

今日のこの記事が200本目である。

今年5月30日に立ち上げてから明日で5ケ月というところで、記事の総数が200本に到達した。ブラームスに全く関係の無い記事は10%以下と思われる。5ケ月間毎日更新を自らに課してきたが、これも達成された。10月中旬からの中国出張も日時指定機能で乗り切った。

はじめての自費出版本「ブラームスの辞書」の宣伝目的はかたくなに維持されている。「ブラームスの辞書」を補足する内容としてカテゴリー「用語解説」を立ち上げたが、このカテゴリーに属する記事も53本を数えるに至っている。当初予定に無かった「のだめカンタービレ」系の記事も14本にまで膨らんだ。もう少々ネタが続きそうである。

アクセス総数は約4100。毎日平均30アクセスが最近の実績である。ブックマークから訪れる方が約40%ある。最近の興味はこのブックマーク比率だ。これが高いということは、常連さんが多いということなので何となく気になる。

2005年10月28日 (金)

のだめの中のブラームス⑭

「のだめ」と通称されるこのコミックの正式なタイトルは「のだめカンタービレ」である。「のだめ」は主人公のニックネームだ。残る「カンタービレ」は「cantabile」という音楽用語で、一般的には、「歌うように」と解される。

実はこの「カンタービレ」はブラームスとベートーヴェンを分かつポイントを形成している。楽曲の冒頭を飾る発想記号として特に緩徐楽章において多用するベートーヴェンに対して、ブラームスは、発想記号として「カンタービレ」を一切用いていない。パート系として本当に限られた数が使用されているに過ぎない。ブラームスがカンタービレを用いない傾向を、作品の真贋論争の決め手に採用する学者もある程である。1938年に発見されたイ長調の三重奏曲はこの「カンタービレ」が使用されているという。作品が書かれた当時のブラームスの作品には「カンタービレ」が使用されていないことをもって、この三重奏曲を贋物と推測する根拠としているのだ。

カンタービレ不使用をかたくなに守りぬくブラームスの第一交響曲が「のだめカンタービレ」の前半のクライマックスを形成していることは皮肉な現象である。この第一交響曲の一つ前の作品番号を持つ弦楽四重奏曲第三番op67に、貴重な貴重な「cantabile」の用例が存在する。どこにあるかは内緒である。

2005年10月27日 (木)

ヴィオラ仲間

大学オーケストラに入団して、ヴィオラをはじめたことは、以前にも書いた。これによって、ヴィオラという楽器に没頭したことは確かだが、もう一つ、同じくヴィオラを選んだ人たちとの付き合いも深まることとなった。

初心者であった私を根気強く教えてくれた先輩、同期入団のヴィオラ弾き、ヴィオラ経験者の後輩たち。4年間オーケストラ活動をすると7世代との付き合いを持つことになる。当時の千葉大オケのヴィオラはけして大所帯ではなかった。家庭的でアットホームなまとまりがあった。ヴァイオリンは演奏会の度に第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの再編があり、パートとしてのまとまり感を維持するのが難しそうだった。一般にありがちな第二ヴァイオリンが弾けない奴がヴィオラを弾くというような偏見もなく、オーケストラの中央に腰を据えてあちこちにアンテナを上げていた。

ヴィオラだけの練習は週二回は実施されていた上に、ヴィオラだけのコンパ、ヴィオラだけのハイキング、ヴィオラだけの合宿、ヴィオラだけのアンサンブル、揃いのTシャツなどなどイベントの豊富さだけはオケ一だった。

「ブラームスの辞書」でさんざん言及されるヴィオラへの愛は、こうした土壌で次第にはぐくまれていったものだ。初心者で怖いもの知らずだった1年、経験者の後輩が入り狼狽した2年、3年後期から任されたパートリーダー。悠々隠居の4年。皆ヴィオラパートの仲間と苦楽をともにした。人生で大切なもののいくつかをここで学んだ。

ありがたいことに「ブラームスの辞書」の出版を記念して、当時のヴィオラのメンバーが集まってくれるという計画が進行中である。思えばこうした温かみが、いつもヴィオラの特色だった。

2005年10月26日 (水)

「e」の話

「e」イタリア語。英語では「and」に相当する意味。日本文法風に言えば「順接の接続詞」である。AeBと言えば「AそしてB」といいうニュアンスでなんら疑問はない。

一方順接に対する逆接は「ma」だ。AmaBは「AしかしB」の意味が「AくれぐれもB」という意味のどちらかになっていること既に何回か述べたとおりだ。

「ma」のように「逆接」なり「強調」なりの積極的機能を有する単語は、取り扱いも比較的容易である。「AB」と「AmaB」の違いについておおよその想定がすぐに出来る。難しいのはむしろ「e」である。たとえば「p dolce」はブラームスの中では300箇所を越える用例があり、一大勢力を形成しているが、「p e dolce」となると途端にレアアイテムとなる。全く存在しなければよいのだが、一例でも存在してしまうと「p dolce」との比較は避け得ない。「e」が挟まるのと挟まらないのとでは、どちらが「dolce」の度合いが深いのか、疑問は尽きない。

「ブラームスの辞書」では「e」の挟まる挟まらないを全て分類列挙しているが、実態の傾向をつかむには至っていない。挟まる挟まらないが、ともに同じくらい存在するケースは希であり、どちらかに偏ること、「e」を使う用例は比較的初期に多い程度がおぼろげながら浮かび上がっているに過ぎない。

ブラームスが使い分けていたということは確実と思われるが、校訂者の癖が反映しているケースも、ある程度想定せねばなるまい。

2005年10月25日 (火)

移動音楽教室

昔話になる。各地の小中学校を訪問するイベントを千葉大学管弦楽団では「移動音楽教室」と呼んでいた。「移音」と略されていたように思う。地元の千葉の学校にお邪魔することが多いのだが、夏休みには3泊程度の宿泊で演奏旅行をすることがあった。

1979年夏は忘れられない移音だった。7月16日から19日の3泊4日で山梨県の甲府と富士吉田を訪問した。大学は夏休みで小中学校はまだ1学期というタイミングを狙っての遠征だ。大学2年になると、オケのいろいろな係りを担当することになる。私は「外務」という役になった。「渉外担当」である。「渉外担当」というとカッコいいのだが、実態は移音屋である。移動音楽教室をPRし受注して手配する係りだ。交通機関の手配、訪問先との交渉、スケジューリング、宿泊の手配、大型楽器の輸送など全部こなさねばならない。演奏料金は生徒一人当たり150円を交通費という名目で徴収する。プロではないのだから当然だ。団員は一人4000円を食事費という目目で負担する。三泊四日の山梨旅行が4000円なら、当時としても格安であった。訪問したのは、甲府市立田富小学校、御坂小学校、須玉町立須玉中学、富士吉田市立下吉田第一小学校、下吉田第二小学校、吉田西小学校など。山梨交通の担当者に泣きついて格安でバスをチャーターしたり、武田神社横の護国神社の宿泊施設に確安で宿泊したり、なかなか大変なマネージメントだった。もちろん富士吉田市と甲府市の教育委員会にも断りをいれていた。ここいらの芸は我ながら細かい。7月の遠征の準備を始めたのはたしか2月頃だったと思う。ガリ版刷りのパンフを各学校に直接お送りしておいてから、訪問しまくるのである。門前払いがほとんどだったが、教育委員会の積極的な協力が得られた富士吉田市はすんなり決まった。一日2校ずつだが、午前の訪問先では2ステージをこなす。

曲目は、運命交響曲第一楽章、シューベルトの軍隊行進曲、宇宙戦艦ヤマト、リロイアンダーソンの曲いくつか、ラ・メール、ブラームスのハンガリア舞曲第五番そして、訪問先各学校の校歌である。訪問先の音楽の先生と相談して曲目を決定する。低学年と高学年で出し物を変えることもやった。楽器ひとつひとつを紹介する「楽器紹介」が名物だ。各パートが趣向を凝らした紹介をするので子供たちに人気があった。総合司会は教育学部の3年生が順番に担当した。

子供たちの反応は素晴らしい。どこの学校でもアンコールが延々と求められる。終演後子供たちに囲まれるプレイヤーも後を絶たない。もう25年以上前の話だ。このときの中学3年生は、40歳だし、小学一年生は31歳になっている計算になる。

今冷静になって考えると、この経験は業務のマネージメントそのものだ。ゼロから全てを計画しなければ、ならない。リスクを計算し、手を打つ。突発事項に瞬時に反応する。70名のオケのマネージメントをする快感は格別のものだった。

そしてお決まりの恋も少々である。

7月19日無事移動音楽教室を終えて新宿にたどり着いた。挨拶にたった団長さんから「かつてない移音だった」と褒められたこと、南口の雑踏で万歳三唱の後仲間に胴上げされたことが忘れられない思い出である。

遠い昔のこと。。。。。

2005年10月24日 (月)

倒置論

倒置とは単語の位置を逆にすること。大抵は意味を強調する働きとなる。

「お前はバカだ」を倒置すると、「バカだ。お前は」となる。後者のほうが意味が強められているというわけである。イタリア語でも倒置は強調なのだろうか?

ブラームスの用語遣いには、こうした例が溢れている。たとえば「molto crescendo」と「crescendo molto」だ。けれども、このうちどちらがより意味が強いかは日本人には、にわかに判別できない。小さからぬ問題である。ブラームスの楽譜の上にはこれらが混在している。それどころか、同じ楽曲の程近い場所に置かれていたりもする。用例を分析した限りでは、傾向が浮かび上がってこない。楽譜上に記されている以上、これらを小さなことと無視していいとは思えない。

「poco ritardando」と「ritardando poco」などこうした例は枚挙に暇が無い一方で、「ben marcato」のように倒置型が絶対に現れない語句も存在している。

単語二つのケースはまだ、ましである。「presto non troppo」は「non troppo presto」の倒置形と思われる。「f sempre piu」は「sempre piu f」の倒置形とも解し得る。

一般に「強くただちに弱く」と解されている「fp」だが、これを倒置した形に見える「pf」は「弱く直ちに強く」の意味ではない。「poco f」の略記された姿である。

「ブラームスの辞書」ではこうした語句の実例を網羅しているが、規則性を浮かび上がらせることには成功していない。若干のささやかの提案を試みてはいるが、それらをブログで書き記すわけにはいかない。

2005年10月23日 (日)

のだめの中のブラームス⑬

中国から帰国して最初ののだめネタ行きます。

第八巻162ページ目。マラドーナピアノコンクール第三次予選に望む瀬川悠人の弾く曲がブラームスである。「パガニーニの主題による変奏曲op35」だ。この曲の詳しい解説は、他に譲ることにする。1863年発表のこの曲をもってブラームスは一旦ピアノ独奏曲の世界から遠ざかる。彼が再びピアノ独奏曲の世界に舞い戻るのは1878年のop76まで待たねばならない。彼のピアノ作品の創作史において初期の最後を飾る力作と位置づけてよい。またop9に始まったピアノ変奏曲はこの曲をもって完結し、以後生涯にわたって再び書かれることはなかった。一般にリストの弟子タウジヒとの親交がキッカケに作曲されたと解される。14曲ずつからなる2巻で構成される。

162ページ全体で瀬川くんのこの曲の演奏描写しているが、譜例がないためにどこの部分なのかは全く特定できない。ページ中段に「パガニーニの主題による変奏曲op35-1」とあることから第一巻であることは確かである。

ありとあらゆるピアノテクニックを駆使する作品だから、総合力が求められるのだ。最下段左のコマで審査員が「安定感が違う」と唸っている。総合力を求められる本作で安定感をアピール出来ること自体瀬川君の非凡さを裏付けている。もう一つ前のコマでは「叙情性」でも審査員を唸らせている。「変奏部分の叙情性」という言葉から第5変奏か第11~12変奏を指していると思われるが、個人的にはイ長調に転じる第11~12変奏だと思いたい。第11変奏には「tutti molto legato e dolce」「p espressivo」と記され、第12変奏には「molto dolce」と記されていて、第一巻の響きの底を形成していると思われるからである。

これらはすべてのだめのライバル瀬川くんの凄さを強調する意味合いと思われる。のだめが乗り越えるべき巨人と位置づけられているのだ。

忘れていた。lesson46の冒頭ページは指揮棒を手にまどろむのだめの描写だ。のだめの足元には「ブラームス第一交響曲」の楽譜が置かれている。

2005年10月22日 (土)

リヒャルト・ミュールフェルト

ブラームスが晩年に知り合ったクラリネット奏者。彼の名人芸のことはブラームスの関連本には大抵載っている。

弦楽五重奏曲第二番を1890年に書き上げたブラームスは、創作力の減退を自覚し、大作の作曲から手を引き、作品の改訂や整理に打ち込む決心をした。ところが、ミュールフェルトと出会ったことがキッカケでまた、創作意欲がよみがえり、最晩年の一連の室内楽が完成したと大抵の本に書いてある。

ミュールフェルトの影響で書かれた最初の曲はopus114のクラリネット三重奏曲、続いてクラリネット五重奏曲がop115で続く。最後に2つのソナタが120という番号をしょっている。

111の弦楽五重奏と114のクラリネット三重奏曲の間に挟まれた112と113は、なるほど過去の作品の整理という色彩が強く、伝記の記述と一致している。ことの性質上作品番号には反映しにくいとは確かだろうが、2曲とは拍子抜けである。さらに私が問題にしたいのは、クラリネット五重奏曲とクラリネットソナタに挟まれた116から119までのピアノ小品たちである。

世界遺産にも登録されるべき珠玉の小品たちは、ミュールフェルトとの出会いがなければ生まれなかったのだろうか?ミュールフェルトとの出会いで創作力が刺激された結果生まれたのだろうか?世の中の書物は、この点にあまり言及していない。

私個人は、これらのピアノ小品はミュールフェルトとの出会いがきっかけで生まれたのではないと考えている。ミュールフェルトとの出会いがなくても書かれていたと解したい。

伝記はとかく大袈裟だ。創作力が枯渇したので作品の整理に没頭したといいながらその実態は、作品数にして2つだけである。おそらくブラームス特有の言い回しをマジに受け止めすぎた結果だと思われる。ミュールフェルトの霊感が作用したのはクラリネット絡みの4曲だけだ。この周辺のミュールフェルトのエピソードはかなりしつこく言及されているのに、晩年のピアノ小品との因果関係には触れられていないのは研究者の怠慢だとまで思っていた。「外国の本にはこうかいてある」「外国の学者はこういっている」という伝記作者(=単なる翻訳者)が意外と多いような気がする。

結論として、あの小品がミュールフェルトと関係ないなら、五重奏の後、霊感が枯渇しただの整理に没頭する決心をしただのをあまり強調すべきではない。

2005年10月21日 (金)

トラックバック音痴

ブログ「ブラームスの辞書」を立ち上げてかれこれ5ケ月が経過しようとしている。

操作方法にも慣れてきたのだが、今いち取り込めずにいるのが「トラックバック」だ。ある人によれば「トラックバックこそがブログの醍醐味だ」とまで断言している。ブロガー同志の横の連鎖が展開して、次々と世界が広がって行くのが魅力だとか。手引書を斜め読みした限りでは、何がそんなに魅力なのかさっぱり理解出来ない。

お叱り覚悟で断言すると「ダマてんいきなり双方向リンク」機能と要約出来るのではと思っている。どうも歳のせいか、リンクを貼る際には相手にお願いするという手順を踏まないと、落ち着かない。リンクフリーを標榜するサイトであっても、ダマテンは無いと勝手に思っているのだ。

ブログ「ブラームスの辞書」にもときたまトラックバックがかかる。スパム業者は論外としてもまともなトラックバックがかかった場合、大抵はリンク先に飛んでいって目を通すことにしている。とりあえず音楽系のサイトに繋がることが多いが、そこで展開される論旨は、必ずしも私の考えと一致しているわけではない。ブログ「ブラームスの辞書」の主旨は、まず本の宣伝なので露出が増えることそれ自体は歓迎なのだが、そこはバランスである。少なくとも私は、方向性の違うサイトにリンク貼ってまで露出を増やしたいとは思っていない。

大変恐縮なのだが、せっかくのトラックバックを削除しているケースが少なくない。

2005年10月20日 (木)

帰国報告

昨夜遅く帰国した。

波乱万丈の10日間だった。これを詳しく書いていると「ブラームスの辞書」の主旨をはみだしてしまう。どのように報告するか迷うところである。

IMG_0551 ←重慶ヒルトンホテルの室内で写した「ブラームスの辞書」

「ブラームスの辞書」は一冊持参した。暇なときに読もうと思ってのことだが、そんな暇はなかった。仲良くなった通訳さんにお礼に一冊差し上げると、ことのほか喜ばれた。特に音楽好きという方ではなかったが、あちらでは本を書くということは凄いことらしい。

初日のホテルは上海中油大酒店だ。一応☆4つだ。夜のロビーでピアノが無人演奏でBGMを奏でていた。耳を凝らすとなんとブラームスではないか!第三交響曲第三楽章だ。IMG_0081

←カタカナで「ブラームス NO3 コウキョウキョク」と読める。

偶然とはいえ、幸先が良い。思わぬところでブラームスが聴けて感動した。10日間のブラームス日照りを覚悟していただけに、やや拍子抜けだった。次のブラームス体験は翌日乗車した夜行寝台列車の中だ。特急寝台車と違って外国人は我々の一行以外には見当たらない。いわゆる庶民の列車だ。延々17時間かけて九江に向かう。何回特急列車に抜かれたことだろう。何回貨物列車に抜かれただろう。寝台とは名ばかりの設備に、見ず知らずの庶民と嫌でも接することになる。

IMG_0152 ←硬臥車の内部。

そんな寝台車の中で予期せぬことが起きた。夜8時消灯準備の合図に車内に流れた音楽を聴いて唖然とした。「ブラームスの子守唄」ではないか!!!狭くて暗い車内で中国語の洪水を浴びせられていた耳には、聖水のようにも感じられた。外国人向けの特急寝台ではないのだ。既に上海西駅を出て7時間が経過していたものの、終着までは10時間もある。着替えも思うに任せない車内で一晩を過ごさねばならない重苦しさが一瞬和らぎ、力が湧いてきた。

実を言うと10日の間のブラームス体験はこの2回である。街のCDショップには意識的に立ち寄ったが、クラシック音楽自体の品ぞろえが悪く(こういうところは日本と同じ)ブラームスにはお目にかかれなかった。

しかしである。ブラームスはなくてもそれを埋め合わせて余りある旅だった。ブラームスを聴けないこともそうだが、10日間子供に会えないということが、これほどさびしいとは思わなかった。子供たちへの思いを再確認できた。きれいな景色を見れば子供らに見せたいと思い。うまいものを食えば子供らに食べさせたいと思った。特に長男には是非中国を見せたいと感じた。思春期青年期において、「こういう国が隣にあって、日本の10倍以上の人口を抱えている」と体感させることは、何にも変えがたい経験である。

良い通訳にめぐり合えた。2人の女性通訳に世話になったが、彼らは熱心だった。報道されているような日本人への敵意は感じられない。長い間行動をともにしたおかげで、すっかり打ち解けた。重慶から成都まで世話になった肖さんは修士課程の学生。修士論文は「日本語教育への日本文化の反映」という趣旨だという。通訳は文化的背景への知識がないと上達しないので、アルバイトをしているのだそうだ。頭の回転が速くて飲みこみがいい。「靴下を履く」「服を着る」「帽子をかぶる」など服装の着用に関する動詞が、中国では全部一緒なのに日本語で多岐にわたるのはなぜかという質問には驚いた。助詞や敬語にも興味があるという。冷や汗三斗で答えた。枕草子や源氏物語の中国語訳を読んだこともある一方で、李白や杜甫や三国志はあまり知らないという面白い一面もある。このあたりの知識は日本人である私のほうがむしろ深かった。自国の文化は意外に見えないものかもしれない。とゆうことは、つまりブラームスはドイツ人より我々のほうがよく見えている可能性も少なくないだろう。

IMG_0222 ←肖さん

通訳の一日の日当は300~500元。日本円換算で4500円から7500円だそうだ。旅行会社を経由すると15000円が相場だから、旅行会社のマージンが判る。子供に中国を見せたいのでまた来るというと是非通訳をさせろという。英語が通じにくい場所も多いので、信頼できる通訳は不可欠だ。旅行会社を通さずに直接契約したいというと、即OKだ。こういう話には、国境は無い。旅行会社のマージンを山分けである。

修士論文を書く途中で判らないことがあったら質問したいということでメールアドレスを交換した。中国の友人ゲットである。

もう一人は上海から重慶まで世話になった沈さんだ。この人ご主人は日本人である。今沈さんのご実家の事情で沈さんだけが上海に帰っているが、生活の本拠は日本だ。かつて東京の企業で働いていた経験もある。頭の回転が速いのは肖さんと一緒だが、日本の生活が長いだけあって、通訳にあたっては微妙なニュアンスの表現に味わいがある。はったりも効くし、ユーモアもわかる。IMG_0112

←沈さん

中国の友人2人ゲットが最大の収穫かもしれない。

2005年10月19日 (水)

ブラームスとサッカー

成都のホテルでの目覚めだ。いよいよ今日帰国の途につく。帰宅は深夜になると思われる。

中国出張シリーズの最後を飾るのはこちらです。

ブラームスネタばかり飽きずに延々と更新し続ける私に対し「他の事に興味は無いのか?」と思う人も少なくないだろう。そんなことは無い。もちろん他のことにだって興味はある。「はまり度世界一」に一番近そうなのが「ブラームス」だから特に力を入れているに過ぎない。

ブラームス以外の趣味で屈指のものがサッカーである。これは必然として次の問いに到達せざるを得ない。「ブラームスはサッカーを知っていたか」である。

DFBドイツサッカー協会の創立は1900年だ。ブラームス没から3年後のことである。さらにHSV、高原のいるチームは1887年の創立だ。ブラームス53歳、ヴァイオリンとチェロのための協奏曲op102が完成した年である。ブラームスの生まれ故郷のクラブチームだから、世間話の折に耳に入っていた可能性がある。

ブラームスはヨアヒムを初めとする友人たちから盛んに英国訪問を進められている。本人が気乗りせず実現しなかったが、その英国はいわずと知れたサッカーの母国だ。FA、イングランドサッカー協会の創立は1863年に遡る。パガニーニの主題による変奏曲が生まれた年だ。作品番号で言うと35である。イングランドリーグの創立は1888年だしアーセナルは1886年だから、もしブラームスの英国訪問が実現していたら、彼の目に留まったかもしれないのだ。

ブラームスが愛してやまなかったイタリアはどうだろう。イタリアサッカー協会は1898年創立だ。ユベントスはブラームスの没年1897年の創立である。生涯に数回イタリアを訪問している。サッカーとの接触はもちろん記録には残っていない。

ブラームスの伝記を読むと例外なく彼の子供好きぶりが描写されている。お菓子をやったとか、子供の様子を飽きずに眺めていただとかである。これらの子供たちは何をしていたのだろう。街中でストリートサッカーに興していたとは考えられまいか?散歩の途中で転がってきたボールをブラームスが投げ返したなどという光景が無かったと断言できるだろうか?ブラームスとサッカーのかかわりを直接さししめす記録は見当たらないようである。

昨晩の微妙なPKの判定に一夜明けてもカリカリ等は考えにくいが、ブラームスがサッカーを知っていた可能性は十分にあると思う。

2005年10月18日 (火)

f ma dolce

再び重慶での目覚めだ。そして今夜は中国最後の夜を成都のホテルで過ごすことになる。蜀の都である。

さっそく本日のネタである。

「強くしかし優しく」

用語としての「f」と「dolce」は相性がよくない。併記されることはほとんど無い。強くて優しいことは難しいのだ。「XmaY」というとき、「XとYは放置しておくと両立不能」というニュアンスが感じられる。「ma」を逆接の接続助詞とする立場である。

「f」と「dolce」はこの典型である。「p ma dolce」という用法が見られないこともこの考えを補強していると思われる。

さてさてこの「f ma dolce」は1890年になって初めて使用される。人生の終わりまであと残り7年の段階である。ここに至って初めてブラームスは「強いのに優しいこと」を求めたのだ。残る人生の中でブラームスはあと5回、限られたジャンルで使用することになる。それがどこだかブログで語る訳には行かないが、「f ma docle」の特徴ある使用実態を知ったことが「ブラームスの辞書」執筆の動機のひとつであることは間違いない。

万が一この「f ma dolce」の楽譜上への配置が、ブラームスの関知せぬところで、出版社によって後から付加されたものだとしたら、この偶然は恐ろしい。最晩年の特定のジャンルに集中させるという芸当は、世界遺産級である。ブラームスの意図であることを祈りたい気分だ。

2005年10月17日 (月)

のだめの中のブラームス⑫

重慶のホテルで目覚めているはずだ。今夜もまた重慶での宿泊になる。道中で唯一同じ都市での連泊になる。.

さて今回は中5日で「のだめネタ」だ。なんだか松坂の登板間隔みたいだ。前回「のだめの中のブラームス⑪」の末尾で千秋の勝利については、評価を保留していた。今回その周辺を検証したいと思う。

この「R☆Sオケ」デビュウ演奏会を迎えるあたり、彼には大小2つの目的があった。ひとつは前回「勉強不足を指摘されたシュトレーゼマンへのリベンジ」だ。これには完勝したと考えていい。前回の記事で述べた通りだ。今ひとつは、千秋自信がもつトラウマとの戦いだ。のだめの初期から仄めかされて来た「飛行機嫌い」だ。この足かせは千秋の未来を覆う暗雲と位置づけられている。このブラームス第一交響曲が、このトラウマとの闘いでもあることが第八巻36ページ以降の記述で明らかになる。36、37の両ページは第一交響曲第一楽章の冒頭を描写しているが、そこに「情熱と」「絶望」の文字が大書される。続く38ページではこの2つの概念が木管楽器の下降と弦楽器の上昇という2つの旋律に象徴されていることが明らかとなる。C音連打に加わる楽器以外はトランペットを除いて、必ずどちらかの陣営に加わっている。

これは、千秋真一が持つ音楽への「情熱」と飛行機嫌いに象徴されるトラウマに起因する「絶望」との対比の描写と考えて差し支えあるまい。

作曲者ブラームスも同様の葛藤を持っていたと推測される。「情熱」と「絶望」だ。ブラームスの場合この2つに「クララ・シューマン」というキーワードを補って考えるとすっきりする。ブラームス第一交響曲は元来こうした葛藤を内包した音楽だからこそ、千秋の内面を鏡のように写し取ることが出来たと解したい。

だが、忘れてはならぬことが一つある。この対立の図式には、ブラームス自らの手で救いが用意されている。木管楽器と弦楽器の対立の図式の中でヴィオラは微妙な位置取りを占めている。弦楽器でありながら、担当する旋律は木管楽器側の下降旋律なのだ。決定的葛藤の局面に残された一縷の望み、それがヴィオラなのだ。ヴィオラ弾きよ、心せよ。

この葛藤が千秋のトラウマの象徴である証拠が39ページの黒木くんのオーボエのコマに現れる「ブラームスの心の傷」という文言だ。これを「千秋の心の傷」と呼応するとみて万に一つも誤ることはなかろう。第一楽章は「ミ」に付与される「ナチュラル」によってハ長調で終結するのに、この葛藤は晴れていない。

葛藤の解決は第四楽章に持ち越される。47ページの「歌え歓喜の歌を」がそれを象徴する。続く48ページ冒頭に涙を流すのだめが描かれていることをご記憶いただきたい。交響曲が歓喜で終わることと、千秋のトラウマの呪縛が解かれることを結ぶ鍵が「のだめ」なのだ。ここに涙ののだめが描かれる必然を味わいたい。演奏会を終えた後、祭りの後の寂しさ的な余韻に浸る千秋が55ページから描写される。演奏に感動したのだめから千秋のご褒美という形で、かわいらしい催眠療法が施される。56ページから64ページ、実に8ページを費やして、千秋はのだめに導かれてトラウマを克服する。

かくして千秋はシュトレーゼマンにもトラウマにも勝利することになる。

第一交響曲が持つ、ニ面性を千秋その人の内面にキッチリ呼応させた、のだめ作者様の見識が見事である。この第一交響曲が元来内包する葛藤については帰国してから改めて言及したい。のだめ系の記事の中で扱うわけには行かない一大テーマである。

2005年10月16日 (日)

「Sontag」op47-3

昨晩、襄燓から乗った列車にまだ乗っている。次の目的地重慶に到着するのは9時半の予定だ。重慶ではホテルに宿泊する。そこそこの大都市なので期待が持てる。

気が付けば今日は日曜日だ。相応しい話題を思いついた。

私の高校時代に遡る。選択授業で音楽を選んだ。普段は気楽でいいのだが、年の2度「歌のテスト」がある。いくつかの課題曲の中から一曲選んでみんなの前で歌うのだ。カラオケなんて無い時代だから、これがイヤで美術を選択する友人も多かった。しかし当時の私は筋金入りのベートーヴェン少年だったから、やっぱし音楽だった。

確か二年夏だった。いくつかの課題曲から私が選んだのは「Sontag」op47-3だった。ブラームスの作品である。日本語で言えば「日曜日」だ。「日曜日に教会に行くと、かわゆいあの娘にまた会えるかな」という歌詞を持っている。ガリ版刷りの楽譜をもらって一週間練習した。その甲斐あって今でも歌詞を見ないで歌える。テストの結果は記憶にないので普通の出来だったのだろう。しかしこのとき「ブラームスもやるじゃねえか」と思ったことを記憶している。まさか20数年後にこんなにのめりこむとは想像もしていない頃だ。

特にピアノパートと声のパートの付かず離れずの間合いが素敵だと思った。

練習の伴奏でつきあってくれた隣のクラスの女生徒のピアノが上手だったせいもある。今思うと、配慮の行き届いた上級のブラームスだったような気がする。どこで何をしているのだろう。

2005年10月15日 (土)

音形ごっこ

襄燓のホテルで目覚めたハズ。今夜21時過ぎには列車に乗る。二度目の車中泊である。次の目的地は重慶だ。

さっそく本題である。

ブラームスについての書物を読んでいると至るところに現れるのが「音形分析」である。特定の音形から何かの意図を読み取ろうとする見地である。必ずしもブラームスの意図が反映しているとも思えないケースも多々ある。面白さという点では屈指の話題だが、眉唾度も高い。肝心のブラームスが沈黙しているケースがほとんどである。古今東西の有名人がはまっているので「ぼ~くも」というノリでも許されそうである。有名どころを以下に列挙する。

①弦楽六重奏曲第二番第一楽章の「AGATHE」のテーマ。同時期のop44-10にも出現するが書物で言及がされない。六重奏の方の「AGATHE」のテーマは「f」で絶叫しているのでピンとこない。大切な人の名前なら「p espressivo」のほうが相応しかろう。

②クララのテーマ「A-Gis-Fis-E」。後期のピアノ小品の至るところに隠れている。もちろんシューマンに由来している。

③「F-A-F」。ブラームスのモットーの音名化らしい。弦楽四重奏曲第二番、第三交響曲に反映しているそうな。

④「F-A-E」。こちらヨアヒムのモットー。ハ短調のスケルツォが有名。

⑤「C-D-F-E」。4つの交響曲の主音を並べるとこうなるというもの。これってジュピターの主題だ。シューマンの4曲でやってみると1音低くなる。

他愛のないものばかりである。私もいくつか考えてみた。帰国したら披露したいと思っている。

2005年10月14日 (金)

アザースたち

武漢のホテルで目覚める(予定)。今晩18時30分に襄燓に向かう列車に乗るまで市内に留まる。襄燓には21時半に到着してホテルに宿泊だが、田舎町なのでやや不安。このあたり三国志の古戦場が多い。関羽戦死の地も近い。

さてブログの立ち上げ以来200に近い記事を更新してきたが、ほとんど全てがブラームスに関係する記事だった。このあたりでブラームス以外の作曲家についてまとめて言及するのも一興だろう。

【バッハ】「ブラームスの辞書」執筆用に調達した我が家のパソコンでCDの再生が許されている、ブラームス以外では唯一の作曲家。ブラームスは相当崇拝していたと思われる。そりゃあヴィオラ弾きですから「ブランデンブルグ協奏曲第六番」を贔屓してます。

【マーラー】学生時代最後の演奏会のメインがこの人の第五交響曲。よかった。特に第四楽章アダージェットは泣けた。アルマの夫。

【モーツアルト】ここだけの話、モーツアルト不感症なんです。ブラームスは「好き」というと理由を聞かれるのに、モーツアルトは「きらい」というと理由を聞かれる。この扱いの差に抗議したい。モーツアルトに責任はないけれど。

【パッヘルベル】史上最強の一発作曲家。カノンはいい。耳の悪い私も「パイヤール」の「カノン」だけは百発百中で聞き分け出来る。

【ベートーヴェン】世間様に喧伝されているほどブラームスはベートーヴェンを尊敬していなかったと思う。しかし中学高校の6年間は私は筋金入りのベートーヴェン少年だったので、今更邪険にも出来ない。

【シューマン】クララの夫。演奏中にチェロのC線緩めるのは無しにして欲しい。

【チャイコフスキー】誕生日同じなんだよね。時差はあったと思うんですがね。芥川也寸志指揮、古沢巌ヴァイオリンでやったチャイコフスキーの協奏曲が、楽しかった。大学3年の冬だ。

【Rシュトラウス】メタモルフォーゼンは尊敬しています。

【シューベルト】ブラームスは彼を尊敬していたことは確実ながら、お友達になれない「シュベルト」です。

【ドボルザーク】大学オケに入ったときやっていたのが8番。だからなんとなく今も聞く。ブラームスとクララで珍しく意見が割れたのがこの人の評価だったとか。ドボルザークってヴィオラ弾きだったらしいけど、ヴィオラのパートがあまり面白くないような気がする。

【ヴィヴァルディ】大学オケの初めての夏合宿で最終日。降りしきる雨が屋根をたたく北軽井沢のホールで先輩が演奏した二長調のヴァイオリン協奏曲に感動した。「音楽っていいなあ」と。

【ブルックナー】二年冬の演奏会でやった4番。第一楽章の練習番号「S」。第二ヴァイオリンのアルペジオが今も心に残る。というよりそれを弾いていた第二ヴァイオリンのトップの女性が三木清良っぽかっただけの話だ。

【ドビュッシー】二年冬っつうことはブルックナーの4番とカップリングだったんだよね。あのときの「海」は私のフランス離れを決定付けた。

【メンデルスゾーン】二年夏。加藤知子さんを独奏に迎えたヴァイオリン協奏曲。観客には喜ばれたが、ヴィオラは決定的に退屈だった。

【ワーグナー】三年夏。ローエングリンの一幕だか三幕だかの前奏曲にヴァイオリンのソロがあるよね。それを弾いたコンマスもまた三木清良っぽかった。

【バーンスタイン】ウエストサイドストーリー大好きです。

【ハイドン】皇帝賛歌大好きです。完璧な変奏曲だというより、旋律が・・・。

【ベルリオーズ】幻想交響曲が聞きたいときは、心が疲れている証拠のことが多い。

【ラベル】ボレロと弦楽四重奏好きです。

【シェーンベルグ】ブラームスのピアノ四重奏の編曲のことだけど、納得いかないな。自分の趣味でやっただけなら許してあげるけど。「ブラームスもこうしていたに違いない」というノリだったら、お断りです。鳴り物は多いし、ダイナミクス表示をやたら簡素化してるし、かなり無神経に見える。第五交響曲などと、持ち上げる奴が多いのは彼のせいではないけれど。

2005年10月13日 (木)

むすめふさほせ論

武漢に間もなく着くころだ。13日午前2時半に九江を出た。多分う~んと眠いはずだ。武漢到着は午前7時39分である。今夜は武漢に宿泊だ。少しはゆっくり出来そうだ。

さて本題。

「むすめふさほせ」って何ぞやと思われるだろう。競技カルタ百人一首の関連用語だ。当然100首が収められているのだが、「む」で始まる歌はたった一首しかないということだ。「村雨の露もまだひぬ槙の葉に霧立ち上る秋の夕暮れ」だ。競技者は読み手が「む」と発音するやいなや「きりたちのぼる~」と書かれた取り札に殺到できるということになる。「す」「め」も同様だ。こうした決まり字が第一文字目にある歌が7種あり、それらは「むすめふさほせ」なのだ。

ブラームスが用いた繊細かつ多彩な音楽用語にあって生涯でたった一箇所しか出現しない指定を競技カルタにちなんで「むすめふさほせ型」と私は呼んでいる。

たとえは薫り高いインテルメッツォop118-2は冒頭指定が「Andante teneramente」だが、この指定はここ以外には存在しない。ブラームスの「Andante teneramente」といえば自動的にインテルメッツォop118-2を指し示すことになる。この手、つまり「むすめふさほせ型」は意外と多い。「ブラームスの辞書」には用例を列挙しているから数えることは出来る。曲の冒頭にあって大まかな曲想やニュアンスを伝える機能をもつ発想記号が、事実上「標題」として機能するばかりか「ある種の感情表現」にもなっていると思われる。あのインテルメッツォ以外に「Andante teneramente」が存在しない事実は、マニアにとってはかけがえの無いことだ。

困ったことは、国内版の表示を見る限り「むすめふさほせ型」なのに海外版では「むすめふさほせ型」ではないか、跡形も無いというケースが少なくない。安易な改変があるとすれば、こればかりは許しがたい気持ちで一杯だ。

ブラームスは、自作の楽曲冒頭のこうした表示にどれほど執着していたかは、わからないというほかはないのだが、無頓着だったとは思えない。1890年ロ長調ピアノ三重奏曲の改訂にあたっては、レアな指定を狙いうちでポピュラーな指定に変更した形跡がある。エクセルに打ち込んで管理していたとは思えないが、古い巨匠たちの楽譜の熱心な研究者だったことを考え合わせると、自作にもこだわりを持っていたを考えたくなるというものだ。

2005年10月12日 (水)

国内版

さて、昨日午後上海から乗車した列車が間もなく九江に到着する時間である。今夜は九江に宿泊の予定だが、大都市ではないのでどんなホテルだかわからない。また九江を発つ列車が明日午前2時半頃の発車なので、安眠は無理だ。

本題に行きます。

日本国内の出版社から出版された楽譜の総称。「ブラームスの辞書」の中では外国の出版社の場合、実名を記しているが日本国内の出版社の場合には実名を記していない。

「国内版」の特色はおよそ以下の通り。

①海外版に比べて価格が安い。

②海外版に比べて用語使用面で「一言多い」「雄弁」であるケースが目立つ。国内版に表示ある場所でも海外版では何も表示がないか、シンプルな用語になっていることが大変多い。ブラームスが生涯に一度使った用語かと思い、小踊りしながら海外版やマッコークルを見ると、そんな表示の痕跡もなかったりすることが多く、落胆させられる。特に初期ピアノ作品においてはあられもない大袈裟な用語遣いが見て取れる。ブラームス本人にもそうした傾向があるので、大変紛らわしい。

③海外版との表記の違いにまったく言及していない。

④海外版がオリジナルに近かったのではないかという状況証拠は摑めるが、確信をもてないため、「ブラームスの辞書」では論評を控えている。

2005年10月11日 (火)

のだめの中のブラームス⑪

上海のホテルで目覚めた。今日から2500kmの彼方、成都を目指すことになる。午後2時過ぎには列車に乗らねばならない。明朝7時半過ぎに九江で下車、つまり初めての車中泊となる。

というわけで早速本題。このところは第七巻ネタから離れていたので久しぶりに復活。第七巻110ページ目。第一楽章冒頭でメンバーの心が一つにならないことが暗示される。冒頭の「C音」連打の奥山クンの「あ」が全てを言い表している。続く111ページ目の最終コマで千秋がスコアの上にタクトを置く。112ページで千秋がコンクール終了までの練習なしを宣言する。

この後、メンバーはそれぞれ苦闘することになる。千秋は風呂場でおぼれそうになるほどブラームス第一交響曲と格闘する。シュトレーゼマンに対するリベンジだ。他、特に黒木、清良にはコンクールでの煮え湯という試練が与えられる。「のだめ」「寝違え」と原因を異にしながらも、彼らは悔しさにまみれることになる。チェロの菊池君、ホルンの片山君が予定通りだったことと際立った対照を見せる。清良の決意は147ページで、千秋のそれは175ページで示される。黒川君の決意は巻を改めた第八巻21ページから語られる。「あのコンクールの無残な敗北のあとでも、千秋君やこのオケのみんなのボクへの信頼は少しも変わらなかった」「ボクはその信頼にこたえて見せる」とある。22ページの右端のコマ千秋と黒木のアイコンタクトは身震いするほど感動的である。黒木、なるほど武士だ。いい男である。

コンクールが悲喜こもごもの結果になった後を受けての千秋の練習には鬼気迫るものがある。第七巻151ページ以下にそれが描かれる。譜例もないので、千秋の発言から場所を特定することが出来ない。とうとう千秋はヴァイオリンを借りて、自らが弾くことでニュアンスを伝えようとする。156ページには疲労困憊のメンバーの会話だ。「休憩無しの5時間ぶっ続けの練習」だったことや、千秋のヴァイオリンが「激ウマ」だったことがこれでわかる。腹にイチモツあるか無いかの差、つまりリベンジを背負っているかどうかの差が描写されていると解したい。その証拠は157ページ中段左コマの清良の表情だ。ペットボトルラッパのみの清良の「フッ」だ。他のメンバーから「千秋のヴァイオリンが清良より」うまいかもと水を向けられても動ずる様子も無い。158ページでは「ああ、面白くなってきた」とある。すぐその直下のコマでは黒木が「普通に演奏出来るくらいじゃだめなんだ」「ボクらはちっともついてってないんだよ」とつぶやいている。「なんでみんな、そんなにのんきなの?」と続けて、周囲は「黒木くん、また武士に」と評される。これが証拠だ。リベンジが腹に座った千秋の猛練習を屁とも思っていないのは、これまたリベンジを背負っている黒木と清良だけなのだ。

ふっきるための猛練習に明け暮れながら千秋の苦悶は続く。ヴィエラ先生まで夢に出演するのだ。173ページは第四楽章の25小節目、続く175ページには、仲間とともに第四楽章431小節目の楽譜が挿入され、「迷いはきっとこのオケで晴らす」と結ばれる。

かくして第八巻36ページから千秋、黒木、清良のリベンジを乗せたブラームス第一交響曲が始まる。「リベンジ」は洋の東西を問わず古来から「モチベーション維持」の良いツールである。38、39ページの清良、黒木の表情を見るがいい。オーボエ協奏曲でリベンジを果たした黒木に続いて清良にも勝利の時が訪れる。第二楽章コンサートマスターのヴァイオリン独奏を終えた清良の満足の表情がそれを物語る。いつもクールで勝気の清良のこの表情、ぐっと来るものがある。44ページ左上のコマだ。どこかで見た覚えがある。長男を出産した直後のベッドの上で見た妻の表情とダブって見えた。それから「明日のジョー」の白木葉子に似ているような気もする。偶然かここでも黒木の時と同じく千秋とのアイコンタクトが小道具として配されている。

もちろん千秋もシュトレーゼマンへのリベンジに事実上成功したと考えてよいと思われるが、千秋くんについては、次回また詳しく論じたい。

2005年10月10日 (月)

ウィーンの思い出

今日から10日間中国出張のため日本を離れる。事前に書き溜めておいた記事を「公開日時指定機能」を用いて10月19日まで毎日朝6時に一件ずつ公開してゆくこととする。

今日10月10日午前の便で上海に向かう。今夜は上海に宿泊の予定だ。

今は亡き妻とのハネムーン以来の海外である。今日はその時のウィーンの思い出を綴ることにする。

1990年11月26日から8泊10日の間、ただひたすらウィーンに居座るという旅行だ。ブラームスゆかりの地を訪れまくるというコンセプトだった。ムジークフェライン、国立歌劇場、カールスガッセ4番地、ポストガッセ、カール広場、ハイリゲンシュタット、グリンツィンク、ハイドンハウスetcだ。

特に中央墓地には滞在中3度出かけた。備えられている花が他の作曲家に比べて貧弱だったのでせっせと献花した。中央墓地での扱いに限った話ではないのだが、どうも生粋のウィーンっ子であるシューベルトやJシュトラウスに比べて扱いが粗末な気がした。

ブラームスゆかりの楽友協会ホール(ムジークフェラインザール)を見学した。そこには他の作曲家に混じって立派なブラームスの胸像が置いてあった。その像の前で指を組んで拝んでいたら、一人のおじいさんがこちらを見ている。服装から察するにムジークフェラインザールの職員か関係者だと思われる。身振り手振りに加えとっさに「ich liebe Brahms」と言うと一言「Gut!」とおっしゃってくれた。どうも英語がだめっぽい彼の「Gut」には重みがあった。我々若造の心などお見通しといわんばかりの威厳と優しさに溢れていた。ブラームスは彼の祖父と同世代かもしれないのだ。実はこの旅行中に、ブラームスの曲を生で聞くことは出来なかった。だからこの一瞬の会話が最大のブラームス体験であった。

そして11月30日はショルティ&シカゴ響のウィーン公演があった。彼らは、私たちと同じインターコンチネンタルホテルに滞在していたのだ。ロビーのホワイトボードにオケの予定が団員向けに大きく書いてある。29日の夕刻これを発見した私は、フロントに駆け込んだ。30日の公演のプログラムは何とマーラーの交響曲第五番ではないか。ポスターには「sold out」と書き込まれてる。「チケットを何とか入手したい」とブロークンイングリッシュでホテルのフロントに交渉してみたのだ。夢のようだが入手できたのだ。30%の手数料がかかるという。ノープロブレムだ。でいくらだ?バルコンと呼ばれる上席なのだが手数料コミで一枚6000円程度。「ショルティ・シカゴのマーラーをむじーくふぇらいんのバルコンで6000円」だと。これを激安といわずに何と言おうか?「6万じゃないのか」ってなもんである。

当日、早めにホールについた。楽屋に直行する。あっけなくすんなりはいれた。みな思い思いにさらっている。violaを弾いている渋い紳士がいた。近づいてみるとニコリだ。

日本から来たこと。マーラーが好きなこと。ハネムーンのこと。学生オケでヴィオラを弾いていたこと。を突撃イングリッシュで伝えた。会話になる。ロバート・スワンさんという名前だった。突然楽器を私に差し出して弾いてみろというしぐさ。旅の恥は掻き捨てとばかりに弾いてしまったんです。それもブラームス弦楽六重奏曲第一番の第二楽章の冒頭を。スワンさん大きくうなずいて「Do you like Brahms?」と一言。「Yes」(ったりめえよ)と答えると「me too」という反応。音楽はやっぱりドイツがいい。と持ちかけると、これにも「I think so」だという。続けて「食べ物は日本だ」と付け加えてくれた。馬肉が忘れられないという。不意にチケットを見せろと言われチケットを見せると「良い席だ」と褒めてくれた。

凄い演奏だった。鳥肌。このときの演奏がCDになっている。最後の拍手には我々の分も入っているはずだが、何度聴いてもあのときの現場での感動には及ばない。「フィガロの結婚」序曲、「牧神の午後への前奏曲」とアンコールが続いた。聴衆は誰一人席を立たない。最後ショルティがコンサートマスターの袖を引っ張って退場するまで続いた。この演奏に感激したことが、後日長女に「あるま」と命名するキッカケの一つとなった。

翌朝、朝食のためにレストランに行くとあれあれ。スワンさんがコーヒーを飲んでいた。図々しく相席をお願いすると、あっさりOKである。昨晩のコンサートの話で朝のコーヒーをすするなんざあ夢みたいだ。しかもシカゴ交響楽団のヴィオラ奏者相手にだぜ。心をこめて「凄く感動した旨」伝えた。英語でだよ。よろこんでくれた。プログラムにサインしてもらい記念撮影にも応じてもらった。「マエストロ」はまだ寝ているという。聞けばこのあと午前中に飛行機に乗るそうだ。

シカゴ交響楽団ご一行様のバスがホテルの前に止まっている。12月1日の朝だ。スワンさんを見送るためにこの日の午前の予定をキャンセルした。

2005年10月 9日 (日)

宴の後、祭りの前

スペシャルなイヴニングだった。何がって昨日の話だ。興奮のあまり昨日の記事は「ブラームスの辞書」を手渡したことに話の重心が偏ってしまった。

肝心な演奏の話、少し触れたい。

鮫島先生の演奏については、語りつくされていると思うし、誰かが語るだろうから本ブログでは敢えて触れない。ドイチュ先生の昨晩のピアノ、そりゃあもう凄かった。ニュアンスに溢れていた。「sotto voce」と「mezza voce」の弾き分けくらい朝飯前という雰囲気がプンプン漂っていた。それでも「f」は10種類くらいじゃないかな。一方の「p」はその10倍くらいのニュアンスを自在に操っていた感じ。鮫島先生の歌聴いていると、「声って自由だな。比べてピアノって不自由な楽器なんだな」と思えるくらいなんだけど、ドイチュ先生はそのピアノを使って、声と対等だというところを聞かせる。声と比べたピアノの不自由さや不完全さを消してしまうということではない。不自由さ不完全さを聴衆に感じさせながら、なお声と対等だと唸らせるというのが芸の核心にあるように思えた。ああ、これって先生の著書のタイトル「伴奏の芸術」そのままではないか!

例えばピアノの余韻を消すタイミングと歌い手がさしはさむ子音のタイミングが毎回絶妙。でも練習の賜物というにはあまりに華麗だ。出るところ引く所のメリハリが凄いなどという言葉はむなしい。「繊細なタッチ」などという言葉がいかに不完全か!阿吽のアンサンブルなどということばは失礼にさえあたると思う。テクニックという言葉は全く正確ではない。芸風ですね。日本にいて世界の技を味わえた。トヨタカップみたいだ。オフサイドで幻となったプラティニの伝説のゴールを思い出した。

「ブラームスの辞書」を受け取ってくれたときの笑顔。鮫島先生の後ろでパラパラとページをめくっていたときの学者の顔、ステージの上で見せる茶目っ気とユーモア。それらと同じ人格の上に存在する、あの繊細なニュアンス。なんだか凄い。今度はお二人のブラームスが是非とも聞きたい。

「伴奏」という日本語がいかに不適切か、実感として納得させられた。・・・・・二人は対等。

気が付けば、明日は、中国出張に旅立つ日だ。ブログ上では毎日一件ずつ記事が更新されるが、私自身は日本を離れる。生まれて初めての中国だ。好奇心の塊になって何でも吸収してこようと思う。幸い昨夜のスペシャルな体験で、心が初期化された。脳味噌のコンディションは完璧である。

行ってきます。

2005年10月 8日 (土)

秋川の奇跡

秋川きららホールに行った。「鮫島有美子ソプラノリサイタル」を聴くためだ。そしてピアノを担当するのは、鮫島有美子先生のご主人でもあり世界最高のアンサンブルピアニストであるヘルムート・ドイチュ先生である。

ドイチュ先生の著作を鮫島有美子先生が訳された本が出版されている。「伴奏の芸術-ドイツリートの魅力」という本だ。ブログ「ブラームスの辞書」でも6月24日にこの本に言及している。「ブラームスの辞書」の執筆のプランを暖めていた頃、「伴奏の芸術-ドイツリートの魅力」に出会って勇気付けられた。この出会いがなければ、「ブラームスの辞書」は完成しなかったかもしれないのだ。だからドイチュ先生は「ブラームスの辞書」の祖父にあたるとも言えるのだ。

「ブラームスの辞書」が完成する前から、完成の折には、是非ともドイチュ先生にさしあげたいと思っていた。普段ウイーン在住の方だから、演奏ツアーで日本を訪れる機会を待つのが現実的だ。まして鮫島先生の伴奏をなさるのであれば、著者と訳者の揃い踏みとなる。

本日、演奏会の終了後、楽屋にドイチュ先生を訪ねた。不安はあった。どこのウマの骨ともわからぬド素人の著書を受け取ってくれるのか?

終演後、着替えを終えて楽屋から出てきたところをお呼びたてして、事情を説明した。日常の日本語ならば理解出来るそうだが、この説明は辛そうだった。横におられた奥様に助けを求めると、奥様は、一瞬呆れたような驚いたような顔をして私を見た後、鮮やかなドイツ語で通訳。それを聞いたドイチュ先生の「凄い」という反応を一生忘れることはないだろう。「あなたは普段何してるひと?」と訊かれた。「普通のサラリーマンです」と答えると「ホント?」と。私が英語で「Do you like Brahms」とお聞きすると「Yes of couse」と即答だ。ニュアンスとしては「もちろん」ではなく「ったりめ~だろが」に近い。

奥様が熱心なファンに囲まれている間、少し離れたところで私の本をずーっと読んでいる様子が超嬉しい。日本語読めるのだろうか?音楽用語は共通語だけれど。奥様が横から「こういう本好きだから、今晩ずっと読んでるわよ」と口を挟む。「日本語読めますか?」と訊くと「少しなら」と。それでもなにやら興味深そうにパラパラとページをめくっている。そう完全に学者の表情になっていた。奥様も「これ何年かかりました?」とか「明日練習あるから、今晩読み過ぎちゃだめよ」とか会話に入って来られた。

「一冊差し上げるからお好きな曲は?」と訊くと瞬間的には決められない様子。私が4つの厳粛な歌の1番の節を口ずさむとOKのサイン。ドイチュさんには「opus121」を差し上げた。奥様は?とお尋ねすると「Mainacht」と即答だ。これ「五月の夜」op43-2だが、念のため冒頭の節を口ずさむとOKと言ってニヤリだ。奥様にはopus43を差し上げた。ご夫妻は、とても気さくなお人柄だった。最初の心配は全くの杞憂だった。受け取ってくれるどころか、喜んでくれた。「実るほど頭の低き稲穂かな」という言葉が浮かんだ。

調子に乗ってサインをねだった。先生のご著書「伴奏の芸術-ドイツリートの魅力」を持参したので、裏表紙を開けてペンを差し出すと、「どうもありがとう」と平仮名で書いて、サインと日付を入れてくれた。周りの人にシャッターお願いして一緒に写真にも納まってくれた。サッカーで言ったらジーコかプラティニかベッケンバウアーとツーショットで写真とったようなものですよ。おまけに何もお礼が出来ないからといって、たった今ステージで受け取った花束を私に持ってゆけと言って手渡してくれた。

こうして「ブラームスの辞書」は、生みの親ドイチュ先生と鮫島先生に無事手渡された。嘘だと思うならマイフォトを見てください。(きっぱり)

神様っているんだと思った。この日のお二人の演奏にも神様がいた。アンコール6曲のうち最後から2曲目の「花の街」を聴いたとき鳥肌が立った。背中に冷たいものが走った。「伴奏の芸術-ドイツリートの魅力」の著者がどんな演奏をするのか興味津々だったが、凄かった。自在の表現をする奥様の演奏に合わせて、ニュアンスが自由自在だ。間違いなく最低100通りは引き出しがあるに違いない。そんな雲の上の人が「凄い」と手にとってくれた。神様でないなら、きっとブラームスの導きに違いない。

今日はきっと眠れまい。これがどれだけ嬉しいかご理解いただけるだろうか?

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2005年10月 7日 (金)

VOCE系のお話

「VOCE系」とは、音楽用語「sotto voce」「mezza voce」の総称だ。どちらも「p」または「pp」と共存し、「f」系とは共存しない。「p」「pp」とはまた次元の違う「弱さ」「静けさ」だと思われる。「ささやき」「つぶやき」「モノローグ」といった類の「人の出す声」に因んだニュアンスと解したい。

創作のごくごく初期においては、さほど使用されていないが、作品番号でいうと34、5番以降頻繁に出現するようになる。また初期には、「p」や「pp」のようなダイナミクス記号との併用ばかりが目立つが、パガニーニの主題による変奏曲あたりから「sotto voce」「mezza voce」の単独使用が始まる。この剥き出しの「VOCE系」ついには楽曲の冒頭への使用も始まる。作品61あたりから、この傾向は大きなうねりとなる。

中期と呼ばれる創作期の特徴として剥き出し「VOCE系」の頻発を上げることができる。「p-f」系のダイナミクスメータとは別の体系のものさしを会得したと捉えたい。慣れ親しんだ「p-f」系と異質の尺度で、ダイナミクスを指定することで、「p」側のニュアンスの幅をより豊かにする狙いがあると推測している。

最初の「VOCE系」はピアノソナタ第二番第一楽章16小節目の「pp mezza voce」で、最後に使用される「VOCE系」は4つの厳粛な歌op121-2の52小節目の「sotto voce」だと思われる。

2005年10月 6日 (木)

架空・共同記者会見

放送席、放送席、ただいまブラームス第一交響曲初演の会場に来ています。初演に立ち会ったブラームス氏をこちらにお招きしています。準備が出来次第、生の声をお届けします。

アナウンサー)ブラームスさん、初演を終えられた今のお気持ちをどうぞ。

ブラームス)・・・・・・・・。

ア)演奏の出来には満足なさっていますか?

ブ)・・・・・・。

)作曲に21年かかったと聞いていますが、ご苦労なさった点は?

ブ)21年?作曲に?そんなにかかっとらんよ、キミ。16、7年前に完成しとったが、ヴァイオリン弾きの友人や、ピアノ弾きのマダム*に止められて発表を控えてただけじゃよ。最後のワンピースを探しながらな。(*注、ヨアヒムとクララか?)

ア)あの方の交響曲を意識なさってたんじゃ、ないんですか?

ブ)あの方ぁ?

ア)約半世紀前に交響曲に初めて合唱を入れたあの方。

ブ)はいはい。あの方が交響曲に歌詞あてがって、うっかり合唱なんか入れたもんだから大変じゃったよ。作曲に自信のない奴らが標題つけたり、合唱入れたり、挙句に自作を専門誌上で解説したりだわな。

ア)マエストロ、マエストロ!これ生放送ですから・・・・。

ブ)交響曲に合唱なんか入れんでも書けるだろって、証明するためにちょっと寄り道しとっただけじゃよ。そもそも言いたいことひとつ表現するのに、人の数増やしゃいいってもんじゃなかろうが。

ア)しかし、マエストロ!フィナーレの主題はあの方の歓喜の主題と似てるって、評判ですが?

ブ)誰が言うとるんじゃ?どこが似とるとね?似てるゆうなら目元がやら、口元がやら、言うてもらわんと。まさか鼻の穴が2つとかで似てる言われたら、困るよ、キミ。ボクは合唱なんかいれてないし。アウフタクトつき、4度跳躍の、半音上下動というブラームス節で勝負したんだが・・・・。

ア)ですが、ビュウロさんは、すっかり舞い上がって「第十交響曲」だとか言いふらしてまわってますよ。(ここ時代があわない)

ブ)誰か奴を止めんかい。あいつはそれでひねったつもりだからな。妙なキャッチコピーばかり考え出しよる。そのうちあの方の合唱入りの交響曲を「ブラームスのゼロ番」とか言い出しかねんぞ。

ア)それ、いいですね。座布団1枚。

ブ)とゆーことは、あの方の田園は「ブラームスのマイナス三番」だな。

ア)放送席、放送席、これで現場を終わります。第一交響曲初演を終えた、カールスルーエの特設会場でした。

今回の記事は、フィクションです。(ったりめーだろ)

2005年10月 5日 (水)

伝・仁徳天皇陵

昨日、あるニュースが目に付いた。大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳を世界遺産登録する取り組みが始まったらしい。全長486m。高さではエジプトのクフ王のピラミッドには劣るものの墓地の占有面積としては世界最大。ちなみに土砂の体積だと羽曳野市の応神天皇陵が世界一だ。いずれにしろ世界遺産登録心から応援したい。その際登録名称はどうするのだろう?「仁徳天皇陵」にするのだろうか?

歴代天皇の陵墓は現在宮内庁が管轄している。宮内庁が歴代天皇陵墓と現実に存在する古墳を紐つけして一つ一つ指定している。ただし、実際の被葬者がこの指定と一致しているというわけでもない。この紐つけはなかなか難儀である。動かぬ証拠でも発掘されればよいのだが、大抵はそうもいかないのが実態だ。宮内庁は、日本書紀、古事記や、地域の伝承、地名学の成果を考慮して指定しているのだが、学会の定説と一致していないケースも散見される。

話題の仁徳天皇陵も「本当に仁徳天皇その人が埋葬されているか」は確定はされていないのである。だから名詞としてあの古墳を指す場合には「伝・仁徳天皇陵」という具合に「伝」を添えるべきなのだ。この「伝」には「昔から仁徳天皇陵と言い伝えられている」あるいは「仁徳天皇の陵墓であると宮内庁が指定した」というニュアンスを含み「誰が埋葬されているは未特定」を裏で雄弁に主張していることとなる。世界遺産の登録の際、この「伝」を入れるのか抜くのかおおいに興味を持っている。伝抜きで登録した後になって、どこか別の場所から「仁徳天皇の墓誌」のような決定的証拠が発掘されたら、どうなるのだろう?

実のところ、大学入試でも「伝」抜きで正解扱いだろう。観光ガイド、マスコミの扱い、地元の看板においても「伝」ヌキは珍しくないだろう。「伝の欠落には目くじらを立てない」という暗黙の了解が業界に存在するようだ。だからあの陵墓には、本当に仁徳天皇その人が葬られていると誤解している人も少なくない。

そういえばCDのジャケットでも「伝・カラヤン指揮」や「伝・クライバー指揮」という表示を見かけたことは無い。その点古墳と同じく鷹揚なのだろう。「それを言っちゃあおしめえよ」の世界なのかもしれない。それにしてもレコード会社における音源と実演奏家の紐つけ管理はいったいどうなっているのだろう。古来カラヤン指揮と言い習わされてきただけの「カラヤン指揮」の演奏はないのだろうか?ホントにカラヤンの指揮した演奏が収録されているか、誰がどう保証してくれるのだろう?ひょっとしてこれは、信仰の自由に属することかもしれない。そういえば「CD批評」という名の信仰書が膨大な数出回っている。

「誰の墓かはわからないけど、古墳だということはわかる」という状態って、「誰の指揮かはわからないけど、ブラームスの第一交響曲だということはわかる」に似ているような気がする。私は古墳の研究を極めたいと思っている。

2005年10月 4日 (火)

のだめの中のブラームス⑩

はじまりは娘の蔵書の立ち読み。ブログの記事だって一回だけのつもりが、今回で10回目を迎える。前回9回目では、コミック「のだめカンタービレ」におけるブラームス初出を取り上げたので、今回は、現時点におけるブラームス関連の最新ネタに言及したい。

単行本12巻をご覧いただきたい。163ページである。右上のコマでターニャが驚嘆している。「なにそれ」「のだめそんなの借りてどうすんの?」である。上の吹き出しの横には「げ~」という擬音語も見て取れる。ページの右肩には分厚い本。「Contrepoint」と記されている。どうやら対位法の専門書を図書館で借りようという魂胆らしい。上左のコマには、付け上がり気味ののだめのアップ。「なにって、もちろん勉強するんデスヨ」「フーガの極意を」とある。

これには当然伏線がある。同じ第12巻の138ページ目。オクレール先生の授業だ。バッハ、平均率クラヴィーア曲集第二巻のレッスンで、弾き終わったのだめは、オクレール先生から「君にとってこの旋律は何なのかな?」と無残な質問を浴びせられている。これが無残と形容できるわけは、次のコマの「のだめ」の顔の周囲に現れた渦巻き模様や、ハリセンのフラッシュバックが暗示していると思われる。さらに次のページには、「そりゃそうだよ」とリュカくんにまでバッサリとやられている。しかし子供好きののだめのキャラが功を奏したと見え、リュカくんの無邪気な解説で「バッハってそゆ人なんだ」と前向きに振舞っている。

それらがのだめを図書館に駆り立てたと解するべきだろう。164ページに戻る。中ほどのコマにのだめの借りた対位法の専門書が開かれている。ああ、その見開き左側のページの譜例が何を隠そうブラームスなのだ。ハイドンの主題による変奏曲op56aの146小節目、第四変奏冒頭の「Andante con moto」だ。三段の譜例だが、上段がオーボエとホルン、中断がヴィオラ、下段がチェロバスだ。6小節間が引用されていると見て間違いない。前後の文脈は不明だが、間違いなくブラームスだ。対位法の専門書、しかも後から明らかになるようにリュカくんの祖父執筆の専門書に引用されていること興味深い。フランス人の手によるフランス語の専門書にブラームスが引用されているのは意外だ。しかし、この設定は絶妙である。

なぜならブラームスの作曲の唯一の弟子イエンナーの証言と奇妙な一致を見せる。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第三巻213ページでブラームスの言葉に言及している。「まず、対位法を厳しく教えてくれる先生を探しなさい。村の教会のオルガニストでも良い教師になるからね」とある。「Contrepoint」の著者にして、リュカくんの祖父が教会のオルガン奏者であることは、偶然とは思えない。このリュカくんの祖父は相当な大物である。弟子に書かせた「対位法の入門書」が和訳されていることが第13巻で明らかになる。

第12巻に戻る。166ページではリュカくん自身がこの本を所有していることも明らかになる。のだめが、かわいいブックカバーを褒めていて、パラリと開いたところが、図書館のシーンと全く同じページだという恐るべき偶然も観察される。また先ほどの譜例が踊っている。偶然でないならこの本、そこいら中でブラームスが引用されていないか確認したくなる。それにしてもコミック「のだめカンタービレ」の小道具ディテールへのこだわりぶりには驚かされる。小道具に過ぎない書物の譜例にブラームスが置かれていること、しかもそれが対位法の書物であること、嬉しい限りである。ここまで重なると、単なる偶然と片付けにくいものがある。

ブラームスが当代随一の対位法の大家であったことや、ハイドンの主題による変奏曲の位置付けについては、彼に関する書物の中で詳しく触れられているので、ブログではあえて詳しく言及しない。

2005年10月 3日 (月)

合わせてなんぼ

ブラームスの作品の演奏にあたっては、事前の練習が不可欠である。どんなに練習しても無理目な場所があることは否定しない。しかし、仲間内の私的なアンサンブルであってもそこそこ楽しもうと思ったら、予習は避けて通れない。初見で一発勝負などもってのほかである。少なくとも譜読みの段階は終えて、指使いなど自分なりに決めておきたいところだ。スコア片手に2、3度CDを聴いておくくらいの心がけが大事だ。ブラームス好きたるもの、このあたりを億劫がってはならない。

当然、孤独な個人練習をせねばならない。やばいところほど時間をかけて、メトロノームで繰り返しである。口で言うほど楽じゃないのが、個人練習だ。キチンと時間を決めて、目標を決めて、粛々と実行せねばならない。特に私が担当するヴィオラは曲者だ。一人で練習していても、チンプンカンプンの場合が多い。ヴィオラソナタを別にすれば、ヴィオラの個人練習なんて、CDを聞いておけばおくほど、何のこっちゃらである。後打ち、シンコペーション、アルペジオ、三連符、ヘミオラ、重音などなど出来事には満ち溢れているが、達成感は味わいにくい。

しかし、仲間が集まってのアンサンブルに突入した途端、個人練習のモヤモヤは利息付で汚名挽回される。個人練習でモヤモヤだっとところが、他のパートとの絡みにおいて、まさにその場のキーポイントであることが次々と判明するのだ。かゆいところに手が届くような対旋律だったり、周囲の状況を一変させる臨時記号だったり、チェロの下にもぐりこむベースラインだったり。「してやったり感」に満ちた至福を味わうことになる。オケの曲の場合、個人練習やパート練習で、さして重要でもないと流したところが、まさに聞かせ場だったりすることも少なくない。

思えば私のささやかなヴィオラ体験は、こうした嬉しいドンデン返しの連続だった。いつもいつも旋律を担当するわけではないことが、逆にそうしたアンテナを高めてきたと思っている。あらゆる楽器の中で、こうした嬉しい驚きをもっとも多く体験できるのがヴィオラだと思っている。

2005年10月 2日 (日)

祝3000アクセス

今日午前11時頃、ブログ「ブラームスの辞書」の立ち上げ以来のアクセス数が3000に到達した。2000アクセスを祝ったのが9月15日だったから、17日間で1000のアクセスを積み重ねたことになる。ブログを立ち上げたのが5月30日なので126日目の3000アクセスだ。一日平均約25件のアクセスとなる。肝心な「ブラームスの辞書」の売り上げは5冊だ。月間二冊という目標を少し下回る。

先週と今週で約600のアクセスがあったが、このうちざっと4割がブックマークからのアクセスである。ブックマークは間接的ながら「レギュラー読者」の存在を暗示していると思われる。今のところトータルアクセス数もさることながら、このブックマーク比率を重視している。

変な色気は出さずに、「毎日更新」を粛々と守って行くこととする。

2005年10月 1日 (土)

意あって力足らず

娘たちの発表会まで、一ヶ月を切った。今日レッスンに行って来た。絶望的でもないが、絶対に楽観も出来ないという、よくある状況だ。

発表会は立派なホールを借りて行われる。出番の前にはプロのアナウンサーが紹介してくれる。曲名と名前、それから簡単なコメントが付けられる。コメントは演奏者自ら考えることになっている。例年のことだが、このコメントが厄介だ。60文字という限られた字数で思いのたけを伝えねばならない。大人が作文してしまうとバレバレだし、かといって子供の発想に任せていると「ええと」「うんと」で終わってしまう。

長女は、音楽に感じないらしい。かれこれ2ヶ月は打ち込んでいる曲だというのに、「私はこう弾きたい」「ああしたい」が出てこない。感じていないのか、口に出来ないだけなのか判然としない。暗譜は出来た。だから表情をつけてと先生に言われれば、その通りにニュアンスをつけても見せてくれるが、けして自発的ではない。

翻って、父である私は、ブラームスについて、「ああしたい」「こう弾きたい」「であるべき」で固められている。全身全霊を傾けて、曲に打ち込み、曲から何かしらのメッセージを感じたいと、心から思っている。どんなに易しそうな曲にでも必ずメッセージが秘められていると信じている。また、どんなに演奏困難な曲でも、「万が一自分が弾けさえしたらこうしたい」という意思は持ち続けている。悲しいことと言えば、大抵のブラームスの作品が後者に属してしまうことだ。だからといってけっしてブラームスのメッセージを汲み取る努力を放棄したりしない。大袈裟に言えばメッセージの吸い上げに成功していながら、それを音に翻訳できない状況である。「意あって力足らず」だ。

長女が挑戦するのは、ヴィヴァルディのイ短調の協奏曲だ。ヴァイオリン弾きが大抵は通る道だ。ブラームスの室内楽の第一ヴァイオリンをゴールとすれば、まだ3合目だろう。しかし毎日練習を見てやりながら、つくづく思うのは、パパが大学一年冬、ブラームスの第二交響曲でデビュウした頃のレベルは、総合的にはもっと低かったということだ。暗譜が早い。16分音符を全く恐れていない。ポジション移動が億劫ではない。という諸点において既に負けている。私が確実に勝っていたのは、意欲と練習時間くらいだ。もし風向きが変わって、ヴァイオリンに100%打ち込んでくれたら、ブラームスを一緒に弾くのも遠い夢ではないだろう。

せめて今の長女くらいのレベルで大学に入れていたら、私のオーケストラライフはまた違ったものになっていただろう。著作「ブラームスの辞書」やブログで薀蓄めいた屁理屈をこねているのもその反動といえなくも無い。25年間「意あって力足らず」の状況は全く変わっていない。ブラームスのメッセージを受け止めて、余すことなく音に変換するテクニックを渇望する。思いのままに楽器を操ることが出来たら、どんなに素晴らしいだろう。悪魔との取引にも、ひょっとしたら応じてしまうかもしれない。

「力や可能性に、意が伴ってない人」が我が家に2人もいるのだから、もしかすると世の中には相当な数が存在しているのではないか?その手の人たちに私の「ブラームスの辞書」が役立つのではないか?娘らがいつの日か、音楽を心から渇望する日に、父である私のの著作が座右の書となることを願って止まない。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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