著作の効用
「ブラームスの辞書」のおかげで自己紹介が楽になった。
音楽に関係した集まりに出席した場合など、自己紹介の機会は少なくない。従来は「クラシック音楽が好きです」「特にブラームスが好きです」「アマチュアのヴィオラ弾きです」程度の切り込みが関の山だった。話がそれ以上に弾むことがあっても、当方のスタンスを手短に伝えることは難しかった。
「ブラームスの辞書」を出してからは、「ブラームスの辞書」の現物を差し出すか、ブログをご覧頂くかで済むようになった。まずは、「大好きなブラームスのために本まで書いてしまった。」という点が既に立派な自己主張になっている。本の内容まで話が行かずとも相当なインパクトがあると思われる。
次に内容。「ブラームスの辞書」には演奏家名はあげられていない。どこの誰の演奏がかくかくしかじかという記述は現われない。この点で好悪が決定的に分かれてしまう。ブラームス作品の決定版CDの探索には、圧倒的に不向きである。
世の中の自称「ブラームス好き」には「フルトベングラーオタク」や「フィッシャーディースカウ仙人」の類の人たちが一定の無視しえぬ比率で混入している。「単なるCDコレクター」もかなりの比率で存在している。演奏間の微細な違いを言葉で表現する試みに労傾を注いでいる人たちもこれに属すると見ていい。無論、CDのジャケットに印刷されている演奏家の演奏が必ず収録されているという点を疑わない立場の人々だ。所有しているブラームスのCDの枚数が、ブラームスへの愛情のバロメータと信じる人たちと大半は重なろう。
また「外国の書物にはこう書いてある」「外国の偉い学者さんはこう言っている」ということの紹介に時間を使うことを厭わない人も多い。指揮者間の演奏の微妙な違いには、異常に敏感である一方で、楽譜の異同には無残なほど無関心という層も少なからず存在する。
私がこれらのどれにも属さないことを、一から説明する作業は骨が折れる。「ブラームス好き」と自称すると、単なる「決定版CDオタク」と混同されるリスクは低くない。「CDは何枚お持ちですか?」「最近のお気に入り版は?」などという質問が発せられたら相当怪しいと思わねばならない。クラシック愛好家とは、聴ききれないほどの量のCDに埋もれて悦に入っているものだという御し難い先入観が、一部に存在することは、確実と思われる。
嬉しいことに「ブラームスの辞書」を示すことでかなりの確率で、著者である私のキャラを速く正確に伝えられるようになった。呆れて距離を置き始める人も、もちろん存在する。
でも「ブラームスの辞書」を書いてよかった。
コメント