アイデアの実現度
ヘルムート・ドイチュ先生のご著書「伴奏の藝術-ドイツリートの魅力」に「ブラームスのダイナミクスの指示は並外れて変化に富み、それを全部リストにして書き出すのも恐らく価値があるのではと思われる」と記されていたことに触発されて、「ハイ、その通りにいたしました」というのが、「ブラームスの辞書」の動かし難い座標軸になっていることは、既に何度か述べてきた。
先生の著書に出会う前から、ブラームスの用語遣いの魔力に取り憑かれていた私は、その秘密を解明したいと考えていた。そのためには、まず全てをリストアップするしかないとウスウス感じてはいた。CDショップや演奏会で人気の高い管弦楽曲や室内楽はもちろんだが、入手しうる全ての曲を公平に扱った相当量のデータベースを根拠にした議論が不可欠と直感していた。変な謙遜なしに申せばこのアイデアは我ながらオリジナリティ溢れるものだと思っている。
一方学生時代から感じていたブラームスへの思いを、屁理屈や思い込みの部分も含めて何かの形で残したいとも感じ始めていた。そうしたネタが多くなり過ぎて、覚えておくには困難な状況にさしかかっていたのだ。本にせねばならないと感じ始めたのは2003年くらいからだったと記憶している。
ただ、本にするだけでいいのか!これをずっと自問していた。ブラームスという大樹こそドッシリと存在するものの、ド素人の屁理屈や思い込みを並べたところで、独りよがりのエッセイにたどり着くのが関の山だろうという思いが心にひっかかっていた。とるべき手段は自費出版しかないのは判っていたので、どうせなら過去に無いアイデアで実現させたかったというのが本音だ。日本語で読めるブラームス関連本にはほとんど目を通して、マーケットの隙間を探していた。日本のブラームス関連本は楽譜・スコアを別にすれば、おおよそ「伝記」「作品解説・アナリーゼ」「お勧め演奏」の3本の柱で成り立っており、これらが初級、中級、上級くらいに色分けされているに過ぎないことは、簡単に察しがつく。これらのどれでもないおバカなアプローチを見つけねばならない。
ドイチュ先生のご著書に出会ったのはそのころだ。この出会い以降「ブラームスの辞書」のコンセプトが急速に固まっていった。作曲家別の「音楽用語辞典」は見たことが無い。クラシック市場でトップクラスの人気を誇る交響曲に出現する「f」も、CDさえ出せれていないような重唱曲に現れる「f」も出来るだけ公平に扱う姿勢もこのころ決定された。
アイデアはとても素敵だと思う。問題は完成した「ブラームスの辞書」がそのアイデアにどこまで肉迫しているかである。アイデアが素晴らしいということは、必ずしも「ブラームスの辞書」が書物として素晴らしいことを意味してはいない。それを判断してくれるのはユーザーしかないと考えている。もちろん「ブラームスの辞書」は既に世に出てしまっているので、ユーザーからの批判が山ほど集まったところで、やり直しは出来ない。しかしである。しかしながら、アイデアに対する現物の達成度は、著者として計り知れない興味がある。
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