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2006年1月31日 (火)

シューベルトのレントラー

ブラームスはハンブルグに生まれ後にウイーンに定住した。生粋のウイーンっ子ではない。ウイーンといえばワルツなのだが、単なる4分の3拍子ではない独特の間合いがあり、その感覚はよそ者にはなかなか身に付かないといわれている。ヨハン・シュトラウスやシューベルトのような生粋のウイーンっ子ならば、教えられなくても身に付いているワルツの極意を、よそ者たるブラームスはどのようにして会得したのだろうか?

「ブラームスのワルツ」で名高いイ長調のワルツを含む16のワルツを当時の大批評家ハンスリックに献呈し、「あのブラームスが」と驚かれている。

ワルツはレントラーを起源として、都会風ウイーン風に洗練されたものだという。シューベルトやベートーヴェンが「ドイツ舞曲」を盛んに作曲していたが、これらは大抵レントラーだったらしい。ブラームスはウイーンのワルツの感覚を会得するためにワルツの源流に相当するレントラーを研究したことは間違いない。シューベルトの作品366に「ピアノ独奏のための17のドイツ舞曲」がある。これは実質17のレントラー集で、このうちの1番から16番までをブラームスがピアノ四手用に編曲している。16という曲数がブラームス自身の作品39の16曲と一致している。各曲の調性の連なりも近親調の範囲を動いている中、一度だけ11番から12番の間が遠隔調になっている。ブラームスのop39でも12番から13番の間で一度だけ遠隔調になっていることと奇妙に一致している。「起承転結」の「転」に相当するあたりに、一度だけ遠隔調を挿入しているかのようである。「後半15分のメンバーチェンジ」のような感じとも思われる。

またシューベルトの作品814「4手用ピアノのための4つのドイツ舞曲」も全て独奏ピアノ用に編曲している。独奏用と四手用の変換の肝を研究した痕跡と言えなくも無い。この編曲が発表されたのは1869年。ワルツop39の発表に遅れること4年だ。時期がとても近い。実際に書かれた順番の後先は断じ難いが、関連があると見るほうが自然だろう。

ブラームスがとても熱心なシューベルト賛美者だったことは、少し詳しい伝記には皆書いてある。ブラームスがワルツop39を作曲するにあたり、生粋のウイーンっ子であるシューベルトのレントラーを研究したことは確実と思われる。無論、これらも「私家版ブラームス全集」には取り込まれる予定である。

今日1月31日は、たしかシューベルトの誕生日だった。

2006年1月30日 (月)

私家版ブラームス全集

今ipodにブラームスの全作品を取り込もうという野望に燃えていることは、昨日述べたとおりだ。名付けて「私家版ブラームス全集」である。

実はこれ、「いつかきた道」なのだ。今を去る22年前、就職後最初の赴任地となった大阪で、まずしたことと言えば、ステレオとカセットデッキを買ったことだ。これを駆使して管弦楽曲と室内楽曲全てをカセットテープに録音し、30本組の全集を手作りした。ipodと違って録音にはリアルタイムを費やさねばならない。75分の曲であれば、録音にも75分かかるのだ。何のかんので完成まで2ケ月かかったと記憶している。ちょうど30本入るカセットテープケースを買い求め、テープのケースにはインスタントレタリングで収録曲を貼り付けた。30本のテープだから大きさはちょっとしたアタッシュケース並になった。重さもかなりのものである。

何のことはない。この全集はある女性へのプレゼントだったのだ。こんなに気合が入ったくらいだから、当時の私の中における彼女の位置づけはおおよそ察せられよう。今でこそ、サラリと口に出来るが当時は、ほぼ人間魚雷状態だった。22年前の話だ。

「ブラームスの辞書」がきっかけで、どうやらその30本組の「私家版ブラームス全集」が、大切に保管されているかもしれないことがわかった。「ブラームスの辞書」が復活させた、素晴らしい旧交がまた一つ増えた。

お断りするまでもないが、ipodによる今回の「私家版ブラームス大全集」は、もちろん自分用である。

2006年1月29日 (日)

ipodな週末

ipodを購入して最初の週末だった。購入していながら、まとまった時間が取れないのは、思った以上のストレスだった。

やっと、まとまった時間が取れたので、念願の「私家版ブラームス大全集」の作成に着手出来た。30分の曲でも2~3分でサクサク取り込みが出来るので驚いている。今日までに、大半の曲の取り込みが終わった。あと一週間あれば一通り取り込めるだろう。作品番号付きの作品で、我が家にCDが無いのは二重唱曲だけだ。これはグラムフォンの全集でしか手に入らない可能性がある。作品番号でいうと20、28、61、66、75の5つである。この5つのために全集に走るのも気が進まない。気の利いた輸入盤がないか探してみよう。他に作品番号の無い作品も、出来る限り取り込みたい。

これほど取り込んでなお容量を10%も使っていない。60GB恐るべしである。

2006年1月28日 (土)

「f」と「ff」の間

ブラームスは「ff」と「f」の間に横たわる違いと真摯に対峙することを、さり気なく求めて来ることがある。

トロンボーンとトランペット、そしてしばしばホルンまで含めた金管楽器、およびティンパニの奏者たちは、弦楽器と木管楽器が「ff」を許可される場面で、じっと「f」にとどまることを強制される。これらの奏者たちは、ブラームスの総譜への深い洞察と、ダイナミクスのバランス感覚が求められる。周囲で鳴る「ff」を聴きながら、自らは「f」の領域にとどまらねばならない。「ブラームスの辞書」が命名した「金管打抑制」である。

ソナタの緩徐楽章には明らかに「ff」の出現が抑制されている。わずかにピアノソナタ第二番が例外的に「ff」を頻発させているが、ピアノソナタ第二番はいろいろな意味で異端だ。三曲のピアノソナタの第一楽章の冒頭のダイナミクスは興味深い。第二番の冒頭だけが「ff」で、一番と三番は「f」だということは顧みられていい。物理的な音量はともかくブラームスがそのように楽譜に記したことが象徴的なのである。

まだある。ピアノ五重奏曲第一楽章冒頭は「mf」だ。それが4小節目には「f」に到達し、12小節目では「ff」が実現する。12小節間で三段階のダイナミクスアップを実感させつつ、冒頭が弱めのイメージになることを戒めている。

さらに実例を一つ。第四交響曲の第三楽章は楽曲の冒頭に「ff」が踊る6例のうちのひとつだが、エンディングもまた「ff」になっている。この後に続く第四楽章の冒頭は「f」が要求されている。ここでは「金管打抑制」の呪縛は存在しない。14小節目の「diminuendo」が現れるまで全ての楽器が「f」になっている。ここの「f」は「強く」という側面もさることながら、「ffではない」ということが大切だと思われる。聴き手に力強さを感じさせながら「最強」でもないと感じさせねばならない。そのことは129小節目からの再現部においていっそうはっきりする。同様に「f」で冒頭の主題が回帰するが、わずか4小節後には全ての楽器が「ff」に昇格する。「金管打抑制」の呪縛も無い。全パートの「ff」である。ブラームスにおいて金管楽器、ティンパニまでが「ff」を許可されるということが、どれほど「マジ」か念頭においておきたいものである。

「fff」はほぼ出現しないと断言していいブラームスにあって「ff」は文字通り最強奏の座に君臨している。「ブラームスの辞書」の執筆に先立つデータベース作成と執筆の経験から、「ff」を最強奏たらしめている要因のひとつに「fの節度」があるように感じている。「ff」が最強奏でありながら、なお音楽にとどまるには、ひとえに「fの節度」が大切だと思う。

ヴァイオリン初心者の我が家の娘たちに「f」を「強く」と教えることには少しリスクがある。乱暴になってしまう副作用を伴うことが多いのだ。「f」を「濃く」と教えたとき、なんだか音楽になるケースが多いと告白しておこう。実は悪くない傾向だと思っている。

2006年1月27日 (金)

室内楽のつまみ食い

今日は仕事で山形へ日帰りした。生まれて初めて山形県に足跡を残した。山形といえば昨年夏、室内楽仲間のご夫婦が天童市に転居された。

ご主人はチェロ、奥様はピアノだ。奥様が相当なブラームス好きである。「ブラームスの辞書」opus18を所有しておられる。転居前は我が家から車で15分のところに住んでおられた。お宅にお邪魔して室内楽を楽しんだ。半日入り浸って、室内楽三昧を楽しんだ。人呼んで「室内楽のつまみ食い」である。

何をやるか決めるのがまた楽しい。十分に練習して合奏するのも楽しいのだが、ありったけの楽譜を持ち寄って弾きっ散らかすのも乙である。もちろんブラームスオンリーだ。さてさて演目はとなると私はヴィオラを弾くから、ヴィオラ、チェロ、ピアノの三重奏にしかならない。こんな編成はあり得ないとあきらめるのは早い。クラリネット三重奏曲のクラリネットのパートをヴィオラに代えた楽譜がある。テンポが速いのは辛いので緩徐楽章だけを狙い打つ。

娘にヴァイオリンをさせているので、ヴァイオリンなら私も少し弾ける。こうなると視界が一気に開ける。ピアノ三重奏曲が視野に入るのだ。

  1. 1番のスケルツォの中間部
  2. 2番の第二楽章を出来るところまで。
  3. 3番は4分の7拍子のアンダンテを出来る場所だけという具合だ。
  4. 弦楽六重奏曲の第一番のピアノトリオ版の楽譜で第一楽章を弾き散らすが、これはヴァイオリンが相当難しい割りに、原曲を知っているとつまらない。
  5. 悪乗りは続く。ヴァイオリンとチェロのための協奏曲の第二楽章をピアノ伴奏でやれるところまで。
  6. 私がコーヒーを飲む間、ご夫妻でチェロソナタ第一番第二楽章のトリオだけ。
  7. ご主人が降り番の間は、雨の歌のフィナーレを私がヴァイオリンで弾いた。実はこれ2ケ月かけて練習したのだ。ポジションが高くない。5ポジでなんとかなる。重音もアクロバティックではない。弾けないところは歌ってごまかしたので何とか通った。
  8. 奥様がピアノでヴァイオリンのパートを弾いて、弦楽四重奏曲第三番の第三楽章。これヴィオラ弾きの憧れだ。
  9. 合唱経験のあるご主人に歌わせてop91だ。ヴィオラとアルトとピアノのための歌曲の二番。

なんせ室内楽の楽譜なら全て揃ってしまうのだ。やっぱりブラームスの室内楽はいい。ほんのつまみ食いのハズが腹一杯になったものである。

2006年1月26日 (木)

ipod購入

案の定という奴だ。我慢できずに、昨日とうとうipodを買ってしまった。昨夜は触る暇が無かった。今日マニュアル片手にいじってみた。明日の日帰り出張に備えて数曲取り込んだ。60GBのホワイト。我が家のデスクトップが130GBなのに、こんなに小さくて60GBだなんて!

無論やることは決まっている。言わずもがな。我が家にあるブラームスのCDを厳選して全曲取り込んでしまうに決まっている。40分の曲が約1500曲入るのだ。作品番号無き作品まで入れてしまってもお釣りが来る。ワクワク。

ブラームス以外の作品は取り込まないつもりだ。他の作曲家の作品でipodを「汚染」させないためだ。我が家のデスクトップでは再生が許されているバッハさえ許さないつもりだ。日本一おバカなipodの使い方を目指したい。

毎日ブラームスを持ち歩くことが出来る。フッフッフ・・・・・・。どうせなら画面にスコアが表示されるくらいの芸当が出来ないものだろうか?

2006年1月25日 (水)

休符の表情

「休符」という言葉がよくないのかもしれない。特に「休」の文字がいけない。音楽の断絶の意味に受け取られかねない。「音楽の流れだけは断固切れてはいけない場面だが、音だけは出すな」の意味である場合がほとんどなのだが、この「休」の字面につられて「やれやれ、どっこいしょ」になってしまうことも少なくない。

4分音符にしろ、8分音符にしろ、音価に関係なく、休みではない側には、さまざまな用語や記号によって、あの手この手でニュアンスを付加しようと試みられるのに対して、休符の側は種類が少ないように思える。スラーとフェルマータが時折休符にまで関与する程度ではないだろうか?

ブラームスの作品を実際に演奏してみると、休符のイメージを豊かに持っていたほうが様になるケースが多い。

たとえば、第一交響曲の第四楽章257小節目の1拍目のヴィオラ以下の弦楽器に現れる四分休符は、腹に逸物据えておきたいところだ。四分休符にテヌートあたりが付与されていたもバチは当たらないと思われる。ブラームス独特の角ばった休みだ。続く7つの四分音符にはアクセントが付されているので、休符の側にも踏ん張りが要ると思われる。この休符が休み足りないと様にならない。ふんばりは必要だが、やれやれとばかりに寛いでしまう奴はイエローカード相当である。流れは切ってはならぬが、飛び込むのも厳禁である。

逆に休符にスタッカートを付けたい場面もある。第二交響曲第四楽章冒頭小節の2拍目頭の8分休符だ。休符を「休み」と思っては絶対にいけない箇所だと思う。あるいはヴァイオリンソナタ第一番の第三楽章冒頭のアウフタクトの中、四分音符と八分音符に挟まれた、八分休符もこれに似ている。「休」の字面は決定的に邪魔である。

ド下手のアマチュアにとってありがたいことに、休符には音程が無い。何のかんの理屈をこねても、実質的には、「音を出さぬ時間の長さ」と「タイミング」しか手段が無いという制約は、音符より数段表現が難しい。しかし同時に奥も深いと思われる。休符にテヌートやスタッカートはおろか、スフォルツァンドだってつけてやりたいこともある。場合によってはヴィブラートだってかけてやりたいのだ。

たまには休符の側から音楽を見るのも面白そうだ。

2006年1月24日 (火)

誕生日

今日1月24日は、私の46回目の誕生日だ。フルトヴェングラーと1日違いでモーツアルトと3日違い、それからシューベルトと一週間違い。「それがどーした」と声がかかりそうだ。

一月のブログはどこを覗いても何故か「今年の抱負ネタ」が花盛りであるが、私のブログ「ブラームスの辞書」は昨年の反省も、今年の抱負も語られることは無かった。どーでもいい自分の話で一回記事を浪費するより、ブラームスネタの方が性に合っている。反省も抱負もないというわけではない。でもブログの主旨はあくまでも「ブラームスの辞書」の宣伝だ。今更誕生日ネタは少し気恥ずかしい。

今年の楽しみは、「ブラームスの辞書」で広がる新たな交流や旧交の復活だ。毎月2冊のペースで売れてくれるかどうかも含めて、楽しみだ。多くの人とブラームスの話がしたいものだ。

ブラームスが46歳で発表した主な曲はヴァイオリンソナタ第一番と2つのラプソディーだ。バッハのシャコンヌのピアノ左手用を出版したのも確か46歳の頃だったと思う。とても真似は出来ない。当たり前の話だ。でも一つだけ、ブラームスに負けないことがある。ブラームスにも出来なかったことが私には出来る。それは46歳にしてブラームスの全作品を聴けることだ。幸せというほかはない。

2006年1月23日 (月)

受注第五号

「ブラームスの辞書」刊行以前からの知人の注文と、それ以外の方からの注文を分けて考えている。「ブラームスの辞書」の存在を何らかの方法でお知りになり、著者がド素人であることをものともせず購入して下さる人たちを、指折り数えている。適当なネーミングが出来なくて「他人様」などと称してもみたが、どうもよそよそしくてしっくり来ない。「ブラームスの辞書」を刊行していなかったら、多分出会うことのなかった人たちなのだ。良いネーミングは無いものか?

その「他人様」による5番目の注文が舞い込んだ。おそらく男性なのだろうと思うのだが、もし女性だったとしても素敵な名前なので、断言は慎みたい。今度はフルート吹きだ。この調子だとそのうちオケが出来そうだ。今度の嫁ぎ先は首都圏だ。明日配送の手配をするので、お届けはあさってになる。

注目の作品番号はopus67だ。弦楽四重奏曲第三番変ロ長調である。今回は第四希望でやっとこさヒットした。

お買上げまことにありがとうございます。

2006年1月22日 (日)

カヴァーをはずしたところ

「ブラームスの辞書」の装丁は石川書房さんにお任せした。

とはいってもいくつかの場所には私なりのこだわりも盛り込んでもらった。IMG_0390 写真右は「ブラームスの辞書」のカヴァーをはずしたところである。ブラウン基調ということは、以前にも言及したとおりだ。カヴァーをはずしてみると表紙の部分には「ブラームスの辞書」というタイトルは書かれていない。背の部分にはちゃんと書かれているのだが、表紙にはブラームス自筆の署名が白抜きで記載されているだけだ。

ブラームスが愛用の辞書に自分で名前を書いて持ち歩いている雰囲気が出ることを狙ったものなのだ。実際には白抜きで署名する奴はいないのだが、そこはデザインである。写真には写っていないが、裏表紙は何の文字も印刷されていない。私の脳内基準ではこれってブラームスっぽいのである。

この装丁実は気に入っている。

2006年1月21日 (土)

Capriccioの位置づけ

「Capriccio」は一般には「奇想曲」と訳されている。ブラームスのピアノ小品にこのタイトルを持ったものが見られる。「Intermezzo」(間奏曲)と対になる概念と捉えられているようだ。いわく「しっとり系のインテルメッツォ」に「お転婆系のカプリチオ」という塩梅である。「ブラームスの辞書」でもそうした位置づけを意識した記述をしている。「IntermezzoのMarcato不在」と「Capriccioのdolce不在」がその代表である。

しかしながら「Intermezzo」と「Capriccio」出現の頻度がバランスを欠いている。「Intermezzo」は作品5のピアノソナタ第三番第四楽章に初出現し、作品10-3にも現れている。作品25のピアノ四重奏曲第一番の第二楽章にも存在し初期においても独自の境地を見せている。初期には「Capriccio」は見当たらない。

中期になると作品76の8作は、「Capriccio」と「Intermezzo」が仲良く4作ずつに割れている。後期の一連の小品群のトップを飾るop116では7曲中3曲が「Capriccio」で、残る4曲が「Intermezzo」になっている。実はこの3曲をもって「Capriccio」は姿を消す。

作品番号でいうと117、118,119には「Capriccio」は出現しないのだ。全て「Intermezzo」のop117はともかく、118と119には「Capriccio」が存在しても良さそうである。op118-1の「Intermezzo」は曲想から見ると「Capriccio」でもおかしくはない。「Intermezzo」としては異例の「f」で曲が開始されるなど謎も多い。op119-3の「Intermezzo」やop119-4の「Rhapsodie」も長調であるというハンデはあるものの「Capriccio」で文句も出ないだろう。創作の最末期において「Capriccio」の出現にブレーキがかかる印象である。

結果として「Intermezzo」22曲に対して「Capriccio」は7曲を数えるばかりである。

2006年1月20日 (金)

非日常のブログ

昨年ブログを立ち上げる際に、入門書をいくつか読んだ。ブログは「日常のつれづれ」を書き綴ったものが一番多いと書かれていたと記憶している。

このとき既にブログ「ブラームスの辞書」は、著書の宣伝用と心に決めていたので、「日常のつれづれ」をブログに書くことはしないつもりでいた。日常のつれづれをブログに書き続けていると、やがてはその人の性格や生活振り、趣味などが読み手に伝わって行くはずだ。無論それが目的の人の場合はそれでよい。

ブログ「ブラームスの辞書」はその方向を志向しない。私はブログ上ではブラームスオンリーの極端な趣味を持った男だと受け取られかねない記事を連発している。「こいつ仕事はしてるんだろうか」「他に悩みはないンだろうか」くらいのことは思われているハズだ。ブラームスネタ以外の部分がわからなければわからないほど面白いと思っている。ブログの中は「オンリーブラームス」という非日常性を演出し続けたい。出来れば著書とブログが相乗効果をもたらして、「ブラームスのテーマパーク」っぽくなればいいと思っている。長い目で見てブラームスオンリーはなかなか難しいとしても、せめてクラシック音楽の領域内にはとどまっていたい。

中年サラリーマンの日常などが透けて見えるようなブログでは、ブログ界(なもんがあればだが)では独自性を主張できまい。思い切りブラームスに特化したネタを飽きることなく発射し続けるほうが希少価値があると固く信じている。

個人的には「日常のつれづれ」を書き記すほうが、よっぽど筆力が要ると思っている。素材に誰にでも起こりうる日常ネタを使う以上、読み手が楽しめるかどうかは包丁裁きの腕が要るのだ。中心にブラームスという大樹がドーンと居座っているおかげで、アイデアと筆力の不足をごまかし易いという訳だ。心配することがあるとすれば「ネタ切れ」だが、今のところ大丈夫だ。

2006年1月19日 (木)

心配していただいたこと②

「ブラームスの辞書」の出版にあたって知人が心配してくれていたことは、まだある。笑えない話なのだが、執筆が終わったら「燃え尽き症候群」になりゃせんかということである。

世の中一般的にはよくある話らしい。大きなイベントに向けて身も心も捧げ尽くした結果、そのイベントが終わった後、虚脱状態になってしまうことを指している。古くからの友人で、私をよく知っている人ほど心配してくれていた。いわゆる「突き詰める性格」が良くないらしい。凝り性で、細かくて、こだわりがつよくてと危険因子が揃っているとのことだ。

元々はまりこむ性格だった。青春時代は興味が多岐にわたっていた。音楽、オーケストラ、短歌、そしてもちろん女の子ばかりが気になった。ここ10年は自分の子供に手がかかった。それらもろもろが一段落した心と時間の隙間に「ブラームスの辞書」がはまりこんだだけなのだ。出社すればサラリーマンとしての最低の責務を粛々と果たすことと平行して、同等またはより広大なフィールドを持てることは、とてもよいことだと思う。

「ブラームスの辞書」出版から半年が経過しようとしているが、「燃え尽き症候群」だという自覚症状はない。周囲の人にはどう見えているのだろう。献本行脚があったり、降って湧いた中国出張があったり、22冊という望外の売り上げがあったりで、虚脱している暇もなかった。「ブラームスの辞書」についての楽しみは今年もまだ続きそうだ。「ブラームスの辞書」が広げてくれた世界は広くて、まだ一巡りもしていない。

「ブラームスの辞書」を肴にビールを飲むことが続く限り、燃え尽きてしまってはもったいないというものだ。

2006年1月18日 (水)

協奏曲の心得

協奏曲には独奏楽器がある。独奏者にそれなりのテクニックがあれば、独奏楽器が総奏に埋没せずに、自己主張が出来るような配慮を施しているものである。周囲の楽器が全て休符だったら、独奏楽器は聴こえて当たり前である。だからそうした配慮は、周囲の楽器が何らかの音を鳴らしている時に発動される。

ブラームスとてそのあたりは心得ていた。いやむしろそのあたりの配慮が手厚いことにおいては屈指の存在だった。今日はその実例を話題にする。

唐突で恐縮だが「fp marcato」がブラームスの楽曲において何箇所で用いられているかお判りだろうか?「強くただちに弱く、はっきりと」と解されるこの用語は、ブラームスの作品番号付きの作品中6箇所現れる。ヴァイオリン協奏曲とピアノ協奏曲第二番に3箇所ずつの合計6箇所である。(この他にあったらゴメン)ヴァイオリン協奏曲は3箇所とも第一楽章、ピアノ協奏曲の方は第一楽章二箇所と第四楽章だ。どこにあるかは内緒です。

さてその6箇所は全て低い音を出す弦楽器に限られる。上のほうで華麗なアクションを見せる独奏楽器を縁の下でガッチリとささえる役目だ。フレーズの冒頭で一瞬だけ「f」を聴かせた後、ただちに「p」に退却するが、「はっきりと」していなければならない。「もちろんソロの邪魔は困るが、あんたたちはベースラインなンだから、聴こえてくれなくちゃ」というブラームスの明快な意図と思われる。独奏楽器が際立つことへの配慮がベースラインを台無しにしないための工夫と思われる。このあたりとてもブラームスらしい。

「fp marcato」の中期の協奏曲の低弦パートへの集中は、校訂者の仕業とは考えにくい。知識経験様々の校訂者が他の楽曲にうっかり「fp marcato」を書き加えなかったことは、奇跡とさえ呼べるだろう。よって私は、この現象がブラームスの意図を反映していると考えている。

昨日の今日の話題である。

2006年1月17日 (火)

心配していただいたこと①

「ブラームスの辞書」の執筆を始める前、相談を持ちかけた知人の反応については、以前にも言及した。その中で一番心配していただいたのは、「楽譜の版」の問題だった。

まずブラームスには本人による最終決定稿が存在しない。遺品の中から初版発行の際に出版社に渡された草稿が発見されている場合でも、肝心な初版には本人の手によって訂正が施されているケースもあるからだ。権威あるという点では「ウイーン楽友協会」発行のブラームス全集が一応の頂点と思われるし、マッコークルの作品目録も信頼できる。

「全ての作品についてブラームス本人の意思が正しく反映した楽譜を手許に揃えてデータベースを作れない限り『ブラームスの辞書』に意味はない」というのが、心配の根幹であった。

私の立場は「おっしゃる通り」「返す言葉もありません」というものだった。ただ一点「意味は無い」という断言にのみ違和感を感じていた。我が家に取り揃えた楽譜にブラームスの意思が正しく反映しているかどうかについてはもちろん「ノー」だ。だからといって「意味が無い」というのはいささか短絡的だと思っていた。

よしんば、我が家の楽譜が校訂者の手垢にまみれた楽譜だったとしたら、どうなるのか?簡単である。「ブラームスではなくて校訂者の癖に辿りつくことが出来る」ということなのだ。「校訂者の癖」がわかるということはそれはそれで意味がある。ブラームスの楽譜から校訂者の手垢をそぎ落とすためのツールになる可能性があるからだ。

それから私を支えてくれたのは、ご心配いただいた人たちが一度もブラームスの楽譜を基にしたデータベースを作成した経験がないままおっしゃっていたという事実である。経験はないまま長年のブラームス体験から直感された心配だったということなのだ。マッコークルの浩瀚な著作も譜例の掲載は作品の冒頭部分に限られており、「全作品全小節」の総舐めにはなっていない点、付け入るスキがあると感じられた。もちろんヘルムート・ドイチュ先生の「伴奏の藝術-ドイツリートの魅力」も力強い後押しだった。

トロイの遺跡を発見したハインリッヒ・シュリーマンは定説がこぞって虚偽とみなしていたホメロスの叙事詩を信用しヒッサリクの丘を掘った。私もブラームスの楽譜になら喜んで騙されたいと願って執筆を決意した。

執筆を始めて間もなく、「木馬が出てきた」のである。不特定多数の校訂者の存在を前提としては明らかに不合理な用語使用の実態がいくつも発掘された。校訂者たちが、横の連絡を取っていたと考えるよりもブラームス本人の意思の反映と考えたほうが合理的な現象はけして少なくない。一方で、「ブラームスの意図の反映としては無理がある」という事例も数多く見つかった。

ご心配いただいた点は、ごもっともながら、致命的でもないというのが、今も変わらぬ私の考えである。

2006年1月16日 (月)

ご贈答好適品

2006年初荷に続いて嬉しい知らせが舞い込んだ。

opus49の所有者でもあるピアニストの女性から、ご自身が師事しているピアノの先生に「ブラームスの辞書」をプレゼントするとのことで一冊注文を頂いた。本日発送の手配をした。明日のお届けである。注目の通し番号はopus76。ピアノのための8つの小品である。

現在ブラームスのワルツに挑戦中とのことだが、それがキッカケで師弟揃ってブラームスの魅力を再確認したところだという。そんな贈り手から、そんな受け手へと我が「ブラームスの辞書」が広がって行くことは本望とするところなのだが、反応が怖いというのが本音でもある。何しろその先生ブラームス作曲の「51のピアノ練習曲」WoO6からいくつかを教材に使うというような方(女性だ!)なのだ。「この本なら先生に贈っても大丈夫」という贈り手側の確信があるというところが嬉しい。「お世話になったあの方に」状態なのだから、お眼鏡にかなわぬものを選ぶ道理が無いのである。問題は先生の反応だけである。

これで1月の販売は3冊目。予定達成率150%である。この調子があと100ケ月続けば完売出来るという訳だ。

お買上げありがとうございました。

2006年1月15日 (日)

「Andante」の感じ方

「Andante」を速いと思っていたのか、遅いと思っていたのかという話。どうやらモーツアルトは速いと思っていたらしい。ベートーヴェンが判断に迷っていた話も伝わっている。ブラームスはどうだったのだろう。

「そんなことどうでもいいではないか」と思う人も多いだろうがそうもいかない。「molto」のような「煽り系」や、「non troppo」のような「抑制系」に修飾された時、速度が上がるのか下がるのかに関わるからだ。幸い「Andante」は「molto」にも「non toroppo」にも修飾されにくいのだが、一つだけ厄介なケースがある。「Andantino」だ。「Andante」が縮小語尾「-ino」を伴うケースだ。

「Andante」が速い概念なら、その縮小形は「Andante」よりも速度が減じられるハズである。遅い概念なら「Andante」より速度を上げねばならない。

ブラームスはどう思っていたのだろうか?

第二交響曲第三楽章にヒントが隠されている。「Allegretto grazioso(quasi andantino)」とある。この「quasi」により「Allegretto grazioso」が、「Andantino」と隣接する概念であることが推定出来る。「Andantino」が「Andante」よりAllegretto」寄りだということが解る。速度においては「Andantino>Andante」ということになる。つまりブラームスは「Andante」を遅い概念だと思っていたと考えられる。

ヴァイオリンソナタ第二番の終楽章には。「Allegretto grazioso(quasi andante)」という類似した記載もあってややこしい。これは別に理由がある。ブログでは内緒だ。

ベートーヴェンは「Andante」の解釈に悩んでいた形跡がある。「Adagio」の使用頻度はブラームスよりベートーヴェン優勢であるが、「Andante」においてはそれが逆転する。ブラームスにおいては「遅い概念」で迷いが無い。「Adagio」「Andante」とも遅い側の概念としながら、ブラームスは繊細に使い分けていたと思われる。

2006年1月14日 (土)

異色のブラームス本

自分で言うのも何だが、自分で言わないと誰にも気付いてもらえないので、思い切って言及する。

モーツアルトやショパンやベートーヴェン、バッハほどではないが、ブラームスもそこそこの数の関連本が出されている。失礼ながらそこで展開されるブラームス像は、お世辞にも変化に富んでいるとはいえない。ブラームスのエピソードや作風を称して使われる単語には一定の傾向が読み取れる。

「暗い」「重苦しい」「重たい」「厚ぼったい」「メランコリック」「憂鬱」「憧憬」「屈折」「諦観」etc。

こうして並べているだけで、世の中一般に流布されているブラームス像のアウトラインが浮かび上がって来そうである。実際ブラームスの人物像や作風を描写するときには、このような単語を順列組み合わせ的に並べてよしとする風潮を感じることがある。タネ本に書いてあるという理由で、根拠を深く掘り下げることもないまま、右へ倣えをしている印象さえある。

ひるがえって、わが「ブラームスの辞書」はこれらとは一線を画している。400ページで約36万字を費やした書物なのだが、先ほど列挙した9つの単語はただの一度も使用されていない。この事実、実は執筆中には全く意識していなかった。「ブラームスの辞書」が世に出た後、ワードの検索機能を悪戯していて気付いた現象だ。私の脳味噌の中ではブラームスを表現するのに全く必要のない単語だということなのだ。執筆中は無意識だったという点が重要である。もし意識していたら、かえって文章のバランスを欠くことになっていたと思われる。何の制約もなく、ただ思いのたけをぶつけた結果、9つの単語が一回も使われていないということが重要なのだ。

「ブラームスの辞書」はそうした点で異色のブラームス本である。

2006年1月13日 (金)

2006年初荷

本日発売の「のだめカンタービレ」第14巻、全6話の中にブラームスネタが現れていないことが確認出来た。「のだめの中のブラームス⑱」は当分お預けになりそうだ。

さて2006年初めて「ブラームスの辞書」の注文をいただいた。注文主は女性のピアニスト。「ブラームスの辞書」刊行以前からの知人である。今回の嫁ぎ先は九州である。

彼女とは、かれこれ10年前、いっしょにブラームスのヴィオラソナタの第二楽章を練習したことがある。その後、直接お会いしてはいないのに、サイト経由のメール発注だ。「ブラームスの辞書」が復活させてくれる旧交である。格別の嬉しさがある。おまけに宣伝してくださった彼女のお友達からも注文が舞い込んだ。九州在住のこのお友達は本ブログでさんざん言及してきたいわゆる「他人様」受注の第四号ということになる。ヴィオラ弾き、ヴィオラ弾き、チェロ弾きと続いた「他人様」の系譜に今回はピアノ弾きが加わったことになる。

本日出荷の手配をした。九州へは週明け月曜日のお届けとなる。

さてさて注目の通し番号は、ワルツopus39である。お友達の方はopus4のスケルツォだ。お二方とも第三希望でようやく空き番号が見つかった。今後番号バトルはますます目が離せなくなりそうだ。

この2冊で1月の販売目標達成である。今年も幸先のよいスタートとなった。お買上げまことにありがとうございます。

2006年1月12日 (木)

思案のしどころ

昨年一年は、「ブラームスの辞書」の執筆と出版に明け暮れた。やりたいことのいくつかを封印していた。お金や時間を「ブラームスの辞書」に集中するためだった。

今、「ブラームスの辞書」を出して年が明けた。昨年封印したことが、頭に蘇ってきた。それは「ipod」だ。現在携帯オーディオ市場を席捲しているあのアイテムだ。新発売の時も相当話題になっていた。もちろん欲しかったが「ブラームスの辞書」のために封印した。機能から見れば高くはないと思うが、キャッシュフローとしては痛い。当然容量は60GBが欲しくなるに決まっているのだ。だから当然の帰結としてお値段も張るということになる。

お金もさることながら、買ったが最後、ブラームスの作品を全部取り込んで持ち歩きたくのるのは見えている。ブラームス全部を持ち歩いてみたくなるに決まっているのだ。ブラームスの全作品を誰の演奏を収録するか選ぶのが、これまた楽しい作業になる。何故60GBの大容量版が欲しいかは、これでお判りいただけるだろう。公称15000曲収録は、ポップス系の作品を大体一曲4分と仮定した数値なのだ。40分の交響曲でも1500曲だ。一つの作品に複数の演奏を入れてもおつりが来る。作品番号付きの作品はもちろん、作品番号なき作品や、編曲物まで全部取り込める。「私家版ブラームス大全集」というわけである。

どうしたものか・・・・。

2006年1月11日 (水)

ほとんど「業務分担」

昨日の記事「ドイツ語表示の声楽集中」と併せてお読みいただきたい。

独唱歌曲の楽譜上には、「声楽にはドイツ語、ピアノにはイタリア語で、同じ意味のニュアンスを指示しているケース」が多く、この現象を「ブラームスの辞書」では「伊独辞典状表記」と命名していることは、既に何回か述べてきた。この現象には名前を付ける甲斐があるほど頻発していると思っていただきたい。

しかし、同様にドイツ語とイタリア語を同時に記しながら、それらが同じ意味になっていないケースも存在する。たとえば「ティークのマゲローネのロマンス」op33-13の冒頭を見るといい。声の側にはドイツ語で「Zart, heimlich」(やさしく、ひそやかに)と記される一方、ピアノ側にはイタリア語で「Vivace」(活発に)と記されている。声の側にはニュアンスを示し、ピアノにはテンポを示したと解したい。もはや「業務分担」と称すべきである。この類の業務分担は、数は少ないものの、要所を締めている印象だ。

「伊独辞典状表記」が多勢を占めている中、「業務分担型表記」も混在していて油断が出来ない。相手のパートに記された表記を確認する癖をつけておきたいところである。

2006年1月10日 (火)

ドイツ語表示の声楽集中

「ブラームスの辞書」執筆中に、思わず嬉しくなる現象にいくつか出会った。本日のネタはその筆頭格とも呼べる代物である。

音楽用語の定番はもちろんイタリア語だ。「allegro」「andante」「adagio」等の発想用語はもとより「p」「f」などのダイナミクス記号もイタリア語だ。ところが、ドイツの作曲家たちはいつのころからかドイツ語も使うようになる。おそらくベートーヴェンが晩年にやり始めたのが最初だと思うが定かではない。シューマン、ブルックナー、マーラーと時代を下るにつれて増えてゆく。かくして現代日本の学生たちはイタリア語辞典とともにドイツ語辞典も準備せねばならなくなった。こうした作曲家の母国語を楽譜上に躍らせる傾向は、我らがブラームスにも見られる。

ブラームスの楽譜におけるドイツ語指定の出現にはあっと驚く特徴がある。ドイツ語は声楽が加わった作品にのみ出現するのだ。声楽の加わった作品であれば器楽の伴奏パートに出現することもあるが、器楽作品には一切現れない。シューマンやマーラーにはこうした規則性はない。音楽用語をドイツ語表示するかどうかの基準はいったいどこにあったのだろうか?

さらに肝心な声楽側には「Langsam」と「Adagio」が混在しているのも悩ましい。「Langsam」一辺倒ではないのだ。さらに初期の独唱歌曲に多い現象として、声のパートとピアノのパートにほぼ同等の意味の語が「ドイツ語」と「イタリア語」でそれぞれ付与されることが多い。声にはドイツ語、ピアノにはイタリア語だ。昨年6月21日に言及した「伊独辞典状表記」である。そして作品32を境に今度は声のパートへの指図そのものが極端に減ってゆく。

例によって最後に例外に言及せねばならない。声楽交じりの作品に限定されているハズのドイツ語が作品76のピアノ小品集にのみ出現している。昨年12月10日の記事に述べたとおりだ。

2006年1月 9日 (月)

記事台帳の完成

正月休みを利用して、ブログ「ブラームスの辞書」の記事を管理する台帳を作成してみた。初出勤の4日までに終わるのかと思っていたが、案の定時間がかかった。

すでに270本を超えたブログ「ブラームスの辞書」のバックナンバー記事の管理を効率化できないかと、ずっと考えていた。今のうち手をつけておかないと、身動きが出来なくなる予感がしていたので思い切った。

全ての記事について「番号」「公開日」「題名」「カテゴリー」「要旨」「キーワード」をエクセル入力した。検索、ソートが思いのままだ。

今後の記事の執筆に大いに役に立ちそうだ。同じような内容の記事の重複を防いだり、過去の記事を引用したりする際に、確認が容易になる。今後の記事の配置にあたってカテゴリー間のバランスを考える場合にも有効だ。

それにしても、この記事の分量には、我ながら恐れ入る。好きでなければ出来まい。

2006年1月 8日 (日)

カイザーの教則本

本日は、娘らのヴァイオリンのレッスンだった。本年の初レッスンである。

嬉しいことが一つあった。年末の大掃除をしていて亡き妻の残した楽譜の束の中からヴァイオリン教則本「カイザー」全三巻が見つかったのだ。昨年最後のレッスンの時に先生から、「次回までにカイザーを用意してください」と言い渡されていたのだ。本日先生にお見せしたところ十分に使えるとのことだった。早速今日カイザーの中から課題が出た。例によって娘たちは無残なくらいクールな反応だが、私にはとても素敵な発見だった。実はヴィオラをいきなり始めた私も、5度下げたヴィオラ版のお世話になった。なんだかカイザーには単なる教則本らしからぬふくよかな味があるように思えてならない。

「改めて買わずに済んだ」以上の意味があるのだ。恐らく進むに連れて妻の書き込みのあるページにも出くわすだろう。もはや娘らの反応になど期待はしないが、種は確実に蒔かれると信じたい。

お断りするまでもないが、今日の話もまたブラームスには何の関係もない。

2006年1月 7日 (土)

真夜中の部室

1979年1月7日。千葉大学管弦楽団第44回定期演奏会で演奏されたブラームス第二交響曲が私の大学オーケストラデビュウだった。

このときのオープニングだったかサブプログラムだったかにハープを使う曲があった。ハープは賛助出演に頼っていたのだが、楽器も賛助出演者の持込だった。輸送中に万一のことがあってはと保険に入るのが恒例になっていた。保険料を安くするために、保管中はハープに付き添いが義務付けられていた。もちろん夜中もである。部室前にとめておくトラックの中に置いておくのだが、このとき誰かが部室で番をせねばならない。本番何日か前の練習の前日だったと記憶しているが、一年生の私がそれに当たった。寒い部室でストーブをたいて、ブラームスの練習でもしようと思っていた。

22時を過ぎるころから、上級生が一人二人と集まってきた。10人は集まったと思う。名目はハープの番をするハズの私の陣中見舞いである。その割にはみんな楽器を持っている。誰かがブラームス第二交響曲を弾き始めた。狭い部室で真夜中のブラ2だ。一年生が手分けして近所の先輩の下宿に足りないパートを呼びに走った。

結局この日は徹夜。ブラームス第二交響曲のほかにベートーヴェンやシューベルト、モーツアルトついでにブラームス第一交響曲まで演奏した。ストーブは消えていたがちっとも寒くなかった。

一晩トラックの荷台で放っておかれたハープはなんとか無事だった。

2006年1月 6日 (金)

三度下降の記憶

「どこかで見たような」気持ちになることがたまにある。「既視体験-デジャヴー」と呼ばれている。医学的には大脳の記憶を司る部位の異常興奮と位置づけられているらしい。私にもつい最近そういう経験をした。

ブラームスのワルツop39を聴いていたときだ。BGM代わりに流してパソコンをいじっている最中、ふと耳に付いた旋律が何ともいえない懐かしい気持ちにさせてくれたのだ。思わず手を止めた。流れていたのは9番ニ短調のワルツ。一番カッコに入る手前の17小節目のアウフタクトからの3小節間だ。居ても立ってもいられずに楽譜を見ながら聴きなおした。懐かしい気持ちの原因は間もなく見当がついた。

「D↓H↓G↓E↑C↓A↓F↓D」という三度下降と六度上昇という音程で出来た旋律なのだ。しかも「アウフタクト→小節の頭」というパターンで2つの四分音符がスラーで結ばれている。小節の中央つまり二拍目は常に休符だ。伴奏の声部はその二拍目に和音を挿し挟んでいる。一番ピアノの左手が一拍遅れで旋律を追いかけている。

譜例を示すことが出来なくて残念だが、この部分はっきり言って第四交響曲第一楽章の冒頭「H↓G↓E↑C↓A↓Fis↓Dis↑H」と瓜二つだ。六度上昇を織り交ぜながら三度下降を7回繰り返して最初の音に戻っている。弱拍に挟み込まれる和音、一拍遅れで旋律を模倣するカノンに至るまで瓜二つだ。第四交響曲はこの後「E-G-H-D-Fis-A」という具合に三度上昇に転じるが、こちらのワルツは「H↓Gis」「A↓Fis」「G↓E」「F↓D」という具合にあくまでも三度下降の連鎖で押し通す。

世の中に第四交響曲本は多いがあまり言及されていないので、新鮮な気持ちになれた。

2006年1月 5日 (木)

天才の気紛れ

昨日の記事を見るがいい。ブラームスがソナタ形式において「提示部末尾にリピート記号を与えるかどうか」について、用例の分析から何らかの傾向を引き出そうと試みたが、徒労に終わった。思えば「緩徐楽章が第二楽章なのか第三楽章なのか」も「ソナタが四楽章を採るか三楽章を採るか」も結局尻尾がつかめなかった。

個々の作品を観察するだけでは浮かび上がってこない何らかの傾向が122の作品全体を俯瞰することで見つかりはしないかと、エクセルを振り回すのだが、ビクともしない。

解らないときの言い訳が「天才の気紛れ」なのである。そもそも「天才の気紛れ」は「統計」や「数学」の対極に存在するのだ。あるひとつの現象が「調性」「作曲年代」「曲種」「拍子」「ダイナミクス」のどれかあるいは複数との間に相関関係がありはしないかと追求するのが「ブラームスの辞書」の動かし難い柱になっている。統計や分析の手法が未熟のせいもあろうが、ブラームスはなかなか尻尾をつかませてはくれない。

万が一「天才の気紛れ」の堆積から、ブラームス本人も意識していなかったような、規則性が見つけられればこんなに楽しいことは無い。古代ギリシャ人が自然を注意深く観察して次々と美しい定理や法則を発見証明して行ったように、私も「ブラームスの気紛れ」の中から、チャーミングな偶然をたくさん発見したいと心から思う。万が一それらの企てが徒労に終わったとしても、「ブラームスの気紛れ」になら一生振り回されているのも悪くない。

2006年1月 4日 (水)

提示部のリピート記号

いつぞやに続いて話をソナタに限定する。

室内楽24曲にピアノソナタ3曲と交響曲4曲を加えた31曲から第一楽章にソナタ形式が来ないホルン三重奏曲を除いた30曲の第一楽章について提示部のリピート記号の有無を調べてみた。

「リピート記号有り」が17曲、「リピート記号無し」が13曲だった。リピート記号の有無にどんな規則性があるのかが本日の話題だ。

  1. 作曲年代で見てみよう。おおまかにいうと初期ほど「リピート記号有り」が多く、年とともに「リピート記号無し」が増える傾向だが、作品25が「リピート記号無し」だったり作品111に「リピート記号」があったりという具合に重大な例外も存在して座りが悪い。
  2. 作品のジャンルでいうと弦楽器だけの室内楽7曲は全て「有り」である点際立った特色になっている。また五重奏以上の多重アンサンブルは全て「有り」である一方、二重奏ソナタはチェロソナタ第一番を例外として「無し」ばかりである。ピアノソナタ、交響曲、および三重奏曲と四重奏曲は有無が割れている。
  3. 調性や拍子との相関関係は無いと言えそうだ。強いて挙げるなら8分の6拍子は全て「有り」だが偶然の可能性も高い。
  4. 楽章の長さとの相関関係はと見ると小節数の少ないほうの上位10作品では有りと無しはキレイに5対5になる。多いほうの10作品では有りが7対3で優勢だが、規則性は認めにくい。強いて言うなら500小節を超える作品3つは全て「有り」になっている点であろう。

ソナタ形式の提示部にリピート記号を与える与えないの基準は、今のところお手上げだ。上記1番の作曲年代にうっすら相関関係が認めれらるし、上記2番で述べたように、響きの厚い側に「有り」が多く、響きつまり編成の小さい側に「無し」が多いというボンヤリとした規則性が見られる程度である。軒並みぼやけた傾向しか示さない中では、四重奏曲から六重奏曲までの弦楽器のみのアンサンブルは全て「有り」になっているのがよく目立つ。

天才のひらめきなのだろう。ブラームスはこの曖昧さをしばしば逆手に取る。提示部のあと、あたかも冒頭に戻ったかのように第一主題を奏させながら、実は展開部をひた走っているという手を使って聞き手を欺いている。ピアノ四重奏曲第一番や第四交響曲がその例である。提示部の末尾にリピート記号があるはずという聴き手の思い込みをまんまと利用するのだ。

ピアノ四重奏曲第一番は提示部末尾にリピート記号を置かない初めての室内楽だし、第四交響曲は提示部末尾にリピート記号を置かない初めての交響曲だ。

月並みな結論で恐縮だが、要はわからないのである。

2006年1月 3日 (火)

ベルリンサーカスのギリシャ公演

年末年始用にDVDを買い入れた。予定通りそれらをダラダラと見ながら過ごす正月である。

その中に、ラトル指揮ベルリンフィルがアテネで行ったヨーロッパコンサートのライヴがあった。ブラームスのピアノ協奏曲第一番とピアノ四重奏曲第一番の管弦楽版だ。前者のピアノ独奏はバレンボイム。後者はシェーンベルグ編曲だ。

驚いたのは後者。シェーンベルグの編曲は、賛否好悪あるんだと思うから言及しない。今更の感じもするが書かずにはいられない。「オケがうまい」のだ。「何じゃ」というくらいうまい。フィーナーレのプレストなんかオリジナルの四重奏曲で弾いても大変なのに、オケが弾いて「一糸乱れぬ」感じが伝わるのだから尋常ではない。オリジナルではピアノに割り当てられた役割を大抵は木管、主にフルートとクラとオーボエが分担するのだが、これらが皆激ウマ。「管弦楽のための協奏曲」状態だ。弦だって上手なんだが木管の名人芸が凄い。これがライヴだというのだから恐れ入る。生で聴いている観客が羨ましい。

第二楽章のトリオ。主部より少しテンポが上がった中での、繊細な旋律の受け渡し。押し引きのメリハリなどなど、室内楽の醍醐味はそのままに響き厚みだけを管弦楽に載せ代えて見せてくれる。これなんかはシェーンベルグの意図通りなのだろうが、実際にやって見せてくれるところが凄いのだと思う。ブラームスの交響曲では、第二第三の中間楽章では、こうまで華麗な響きはお目にかかれないが、批判するのは的外れかもしれない。

第三楽章の始まりはオケを写さず風景を追いかけるカメラワークがツボを捕らえている。ブラームス屈指の名旋律だ。これもブラームスとしてはあり得ぬくらいの華麗さだが、木管大好きというブラームスの特質だけは見失っていない。オリジナルで大活躍のヴィオラが目立たぬくらいはガマンせねばなるまい。この楽章のトリオでは主役は打楽器と金管楽器だ。ブラームスの管弦楽では忍従を強いられる立場の楽器に光をあてている。それにしても再現部のオーボエにはオーラが充満していた。

オリジナルのピアノ四重奏曲がとても好きなので、編成を無闇に大きくし過ぎだと内心は思っているのだが、「木管楽器のための合奏協奏曲」か「サーカス」だと思えば腹も立たない。どのみちシェーンベルグはシェーンベルグであってブラームスでは有り得ないのだ。シェーンベルグに対して「ブラームスではない」といって批判するのは多分的外れなのだろう。

このDVDを聴いて解ったような気がしてきたことがもう一つ。ひょっとしてシェーンベルグってブラームスが大好きだったのではないかとうことだ。結果としての編曲の出来には賛否が割れてしまうが、「ブラームスが大好き」という点疑いはないのかもしれない。好きでなかったらとてもやれない仕事だと思う。

こうなると他の室内楽も2、3曲編曲して欲しかった。

2006年1月 2日 (月)

狙って釣られる

昨日今日とさすがに正月だ。ブログ「ブラームスの辞書」のアクセスが極端に少なかった。8月の盆にも同じような現象があった。みんな故里に帰っているのだろう。

そんな中で、例のアクセス解析を見ていたら、ちょっと嬉しい現象に出会った。

検索フレーズ解析の中に「中野達哉 ブラームスの辞書」とあった。著者名と書名がand検索された痕跡である。昨年12月26日の記事で「意図しない検索で釣られるケース」を外道と称したが、この場合は「ブラームスの辞書」が狙って釣られているということなのだ。釣られたら大人しくしていないで、う~んとピチピチしてやろう。

これは、正月早々なかなか気持ちがいい。いわゆる「こいつぁ~春から・・・・」という奴である。

2006年1月 1日 (日)

「p espressivo」

今から127年前1879年1月1日、ブラームスのヴァイオリン協奏曲がライプチヒで初演された。ブラームス指揮ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団、ヴァイオリン独奏ヨーゼフ・ヨアヒムというメンバーだ。正月にこの曲の初演に立ち会った聴衆が羨ましい。本を書いてしまうほど好きなブラームスなのだが、これまでに最も数多く聴いた作品の有力候補がこのヴァイオリン協奏曲であることを告白したい。残念ながら正確な統計が無いので「多分」がついてしまうのだが・・・・。

全曲これ「名所」だらけの逸品なのだが、敢えて一箇所だけに絞るならば、ここという場所の話をする。スコアをお持ちの方はご覧願いたい。

第一楽章の136小節目だ。独奏ヴァイオリンの登場から数えて46小節。指ならしも終えた独奏ヴァイオリンが第一主題を初めて奏するところと申し上げれば察しはつくだろう。ここ独奏ヴァイオリンのダイナミクスはシンプルに「p」だ。ファゴットとホルンは「pp」にとどまっている。C線上でDの音を引き伸ばすチェロには独奏ヴァイオリンと同じ「p」が奮発されている。

しかしだ。あろうことかヴィオラのアルペジオには「p espressivo」と記されている。

「espressivo」が「主旋律マーカー」であることは「ブラームスの辞書」の最も重要な提案の一つだ。一方の「p」は、ブラームスで最高頻度を誇るホームグラウンドなのだ。この両者の融合した「p espressivo」は生涯に約300箇所ばら撒かれた宝石なのだ。そして問題のヴァイオリン協奏曲中には、たったの一度しか現れない。つまり今話題のヴィオラのアルペジオに現れるだけなのだ。

ヴィオラ弾きよ心せよ。独奏ヴァイオリンをさしおいてこのアルペジオに「p espressivo」が奉られていることの重み、それが一人ヴィオラに託されていることの重みを噛み締めよ。

あけましておめでとうございます。ずっと前から1月1日はこの話題と心に決めていた。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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