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2006年3月31日 (金)

あの娘のもとへ

ipod購入から約2ケ月が過ぎた。毎日の通勤時間にブラームスを聴きまくっている。

特に聴きたい曲が無い場合には、適当に再生して楽しんでいる。そうした聴き方をしている途中に、突然ある曲に惹き付けられることがある。今日の話題の曲もそうだった。何気ない瞬間にふと入りこんできたのだ。低いロ音のアウフタクトから深くえぐり込んで立ち上がる旋律が心に突き刺さった。「Der Gang zum Liebchen」(あの娘のもとへ)作品48-1だ。

ABABの単純な二部形式で二分にも満たない曲だ。恋人のもとに急ぐ男の心情を歌った歌詞を持つ。深い深い闇の底から汲み上げられるようなロ音のアウフタクトがピアノ無しのむき出しで立ち上がる。ブラームス歌曲中最高級の人気を誇る「永遠の愛」作品43-1にも引けを取らない。聴き方によってはワルツないしは極上のレントラーとも受け取れる。

これ以上言葉を費やすのは無駄というものだ。ふとしたはずみで耳に飛び込んできたことが目覚めのキッカケになった曲は、心に深く沁み込む。作品118-2や117-2のインテルメッツォがそうだった。この曲もきっと一生の宝物になるのだろう。今まで見つけてあげられずに申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

2006年3月30日 (木)

ブラダスとベトダス

「ブラームスの辞書」の執筆の前段階として、楽譜中の音楽用語を全てエクセルに入力したことは、既に何回か述べてきた。正確に言うとこれには、2種類ある。トップ系パート系に分けられているのだ。エクセルの行数はトップ系では1000行程度だが、パート系では21000行に達する。これら2系統の合計で22000行のエクセルデータだ。これを「ブラダス」と名付けている。もちろんアメダスのパクリだ。「ブラームスの辞書」の執筆はこのデータベース無しでは立ち行かなかった。「ブラームスの辞書」の副産物というより、「ブラームスの辞書」が副産物なのかもしれない。実はトップ系についてはベートーヴェンでもデータベースを作成した。1000行程度のファイルだ。こちらは「ベトダス」だ。

エクセルのデータベース機能を使えば、ブラームスが使用した用語をあらゆる角度から抽出出来る。「作曲年」「曲種」「調性」「拍子」「編成」etcだ。もしかすると「ブラームスの辞書」よりも「ブラダス」の方が価値があるかもしれない。「agitato」を含む楽曲を抽出すれば、そこには短調の曲が並ぶことが確認できる。「intermezzo」には「marcato」が現れないことも簡単に見て取れる。ベトダスと併用すればベートーヴェンとの比較も容易である。

「ブラームスの辞書」の執筆の課程で使いながらデータの誤りを修正してきたが、今でも新しい楽譜を購入するとデータの加筆修正をしている。そうした加筆修正の中から、未知の傾向を発見することもあるのでバカにならない。「オヤ」と思う傾向が見えたら、それを検証するために数回抽出を繰り返す。結果として単なる偶然と判ることもあるし、淡い相関関係が浮かび上がることもある。物言わぬデータの堆積と侮ること勿れなのだ。22000というデータ件数ゆえにある種の客観性も獲得している思われる。

ブラダスはなかなか面白いし、役に立つ。けれども今年のブームに便乗して「モツダス」を作る気にはどうしてもなれない。

2006年3月29日 (水)

歌曲への傾倒

「ブラームスの辞書」の執筆に着手することになって心がけたことの一つが、歌曲によりたくさん接することだった。学生時代にブラームスに目覚めた頃、興味の中心は管弦楽曲だった。その後、室内楽、ピアノ曲に興味が広がっていったが、演奏・鑑賞・知識の諸点において、何かと器楽曲側に手厚い傾向は明らかだった。「ブラームスの辞書」のコンセプトの一つに「有名曲も無名曲も出来るだけ対等に扱う」という項目があったので、声楽曲を意識的に聴くようにし始めた。

「ブラームスの辞書」の執筆も終わりipodを購入して、やっはり歌曲に重点をおいて聴いていたが、このところすっかり歌曲に目覚めてしまった。学生時代、ブラームスに初めて目覚めた後、交響曲や協奏曲を手当たり次第に聴いた頃に似ている。ブラームス作品から新しい魅力を見つけ出すことに夢中になった。今同じことが歌曲で起きている。具体的な症状は以下の通りだ。

  1. 過半数の歌曲において、タイトルと旋律が一致してきた。
  2. 9割の曲で作品番号とタイトルが一致してきた。
  3. 「おおっ」と思わず唸る作品が両手両足の指では足りなくなってきた。
  4. 同一の作品を別の歌手で聴きたいという気持ちになってきた。
  5. CDショップに出かけると、真っ先に歌曲作品の売り場に行くようになった。
  6. 電車の待ち時間などで、口をついて出る旋律が歌曲だったりすることが増えた。
  7. 楽譜を参照しながら作品を聴くことが多くなった。

管弦楽や室内楽、ピアノ曲にも劣らない広大な領域が今、目の前に広がり始めたようだ。

それからさらに楽しみがある。しばらく歌曲に没頭した後、また管弦楽曲や室内楽に立ち戻ると、新鮮な発見があるということだ。これは間違いない。断言できる。

2006年3月28日 (火)

愛情の表現

愛情や誠意は、時として形にしないと伝わらないことがある。極端な話「誠意を見せろ」は「金を出せ」の意味でさえある場合も少なくないという。

そこまで極端ではなくても、たとえば「ブラームスが好きだ」と言ってもどの程度に好きなのかは、下記の通り千差万別である。

  1. どちらかと言えば好きなほうに属する。
  2. クラシックの作曲家はブラームスしか知らない。
  3. いろいろ聴いたがやっぱりブラームスが好きだ。
  4. ブラームスしか聴かない。
  5. 三度の飯よりブラームスが好きだ。
  6. 前回定期演奏会で弾いた。
  7. 期末試験の課題だった。
  8. 私の好きな演奏家がブラームスを得意にしている。
  9. そういえばCDはブラームスが一番多い。

大抵は上記の一つまたはいくつかにあてはまってしまうのだろう。愛好家の集まりは、この点で空気を読むのが難しい。相手の好きさ加減を確認しないまま、適当に相槌を打っていると思わぬ墓穴を掘る事だってある。

かく申す私もたびたび「ブラームスが好きだ」と口にしたり、文字に書いたりするが、私の場合は本当に好きなのだ。どれほど好きなのか何とか周囲の人々に伝えたい一心で「ブラームスの辞書」を出版したり、ブログを立ち上げたりしたのだ。つまりブラームスへの思いを形にしたというわけだ。3年前くらいから、形にしておかないと不安で仕方が無くなってきていたのだ。判り易くいうとこの不安な気持ちは、はるか若き日の恋にも似た感情だった。

楽譜の何を見てどこを聴き、どのように感動したかを本やブログの上に書くことで、気持ちが落ち着いた。心の中が整理出来た。

それにしても恋愛に比べると心に傷を負うリスクだけは少なくていいが、お金だけはやっぱりかかるものだ。

2006年3月27日 (月)

脳内基準

楽譜上にどのような楽語を記載するかについてのブラームスの頭脳の内部に存在したと思われる基準のこと。我々後世の愛好家は、ブラームスがこの基準を駆使した結果としての楽譜しか参照することが出来ない。「ブラームスの辞書」の目的の一つは、残された楽譜を手がかりにこの「脳内基準」を再現することでもある。

大管弦楽に存在する全楽器渾身の「ff」とピアノ独奏曲に置かれた「ff」が、物理的に同じ音量であるとは、私とて思ってはいない。おそらくブラームスだって思ってはいなかったであろう。でありながら、数多ある楽語をさしおいてその場所に「ff」を置けとブラームスの理性や感性が命じたことを重く受け止めたい。その場所には「ff」でなければならない必然が横たわっていたに違いないのだ。その部分の楽譜が表現しようとする音楽が「ff」を要求していることに他ならない。であるならブラームスが楽譜に記した全ての「ff」をリストアップすることが、ブラームスの「脳内基準」再現の第一歩とならねばななぬというのが、私の信念でもある。「ff」と記された場所全てに「ff」でなければならぬ必然が横たわっているに違いないのだ。それを私ごときが察知出来るかどうかとは別次元ながら、存在自体を疑うことは出来ぬ。

著書でブログでさんざん言及してきた楽譜上の諸現象は、ブラームスが小さな整合性を軽んじていなかった証拠である。その証拠は一人「ff」にだけ存在するわけではない。全ての楽語が、吟味抽出の結果そこに置かれているということを私は疑うことが出来ない。

2006年3月26日 (日)

掘り出し物②

このところCDハンティングが止まらない。

今日またまた見つけた。二重唱のCDだ。

ジュリアン・バンセとブリギット・ファスベンダーのアンサンブルだ。先日「私家版ブラームス全集」のコンプリートまであと14曲になったのだが、今日のこのCDには下記の通り二重唱のてんこ盛りなのだ。

  • 作品20(全3曲) 1番、2番、3番
  • 作品61(全4曲) 1番、2番、3番、4番
  • 作品66(全5曲) 3番、4番
  • 作品75(全4曲) 2番

この10曲の中で、作品20-3と作品61-1の2曲がグルベロヴァとカッサローヴァで既に持っていた。残り8曲は貴重である。

「私家版ブラームス全集」は作品番号つきの作品に限ると作品66の1番、2番、5番と作品75の1番、3番、4番の6つでコンプリートすることになる。マジックナンバー6である。

2006年3月25日 (土)

もう一つのアガーテ

弦楽六重奏曲第二番ト長調を通例「アガーテ六重奏曲」と呼んでいる。アガーテは若きブラームスの恋人。結局は結ばれずに終わったが、彼女の名前「Agathe」が「AGADHE」の音名に読み替えられて第一楽章に盛り込まれていることから来るネーミングだ。この六重奏曲に言及する大抵の書物が、このエピソードに触れているメジャーネタだ。第一楽章163小節目のアウフタクトから四分音符にして5拍分の間である。正確を期すなら「AGADHE」がそのまま転写されているわけではなくて、「AGAHE」と「D」に分離されている。前者は第一ヴァイオリンと第一ヴィオラに、後者は第二ヴァイオリンと第一チェロにそれぞれ任されている。ダイナミクスは「f」だ。第一ヴァイオリンの最初のAはA線の2オクターブ上である。ヴィオラとともにかなりのハイポジションだ。

ここに疑問が一つある。超有名なエピソードなのだが、出典はどこなのだろう?この楽句がアガーテの音名化だとブラームスが本当に言ったのだろうか?先ほども述べたとおり、この部分「AGADHE」が直接引用されているわけではない。「AGAHE」と「D」に割られている。元恋人の想い出を回想する時、はたして名前を2つに割ったりするものだろうか?鐘に「国家安康」とあるのを持ち出して「家康」の名前を引き裂いたと難癖をつけた徳川側のロジックを持ち出すまでもなく、名前を二つに切り裂くのは縁起が悪いと思わないのだろうか?さらにダイナミクスは「f」しかもかなりのハイノートだから、この瞬間は絶叫に近いニュアンスだ。昔の恋の回想にしては物々し過ぎはしまいか?そしてとどめは、この旋律をこの楽章中の最高の旋律と呼べるだろうか?否!!最高の旋律は断じて135小節目アウフタクトのチェロだ。私がアガーテならこちらの旋律を奉られたい。本当にこれが「アガーテ」の回想なのだろうか?

作品44-10に清らかな女声合唱のための作品がある。この作品の冒頭に六重奏曲の問題の部分と同じ「AGAHE」という旋律が現れる。連続する5つの四分音符にあてられている点まで瓜二つである。さらに3小節目のアウフタクトから繰り返される際には、第一ソプラノの「Dis」がかぶってくる。「AGADHE」だ。ダイナミクスはと見れば女声4部全てに絶叫からは程遠い「p espressivo」が奉られている。かつての恋人の記憶のための音楽ならば、小声で密やかに語られてこそ相応しいのではあるまいか?主旋律マーカー「espressivo」はそんなシチュエーションにピタリとはまり込む座りのよさである。本当に大事なことを小声で言いたいことが誰にでもあると思う。ましてかつての恋人の名前なら尚更ではあるまいか?

ブラームスの伝記では、アガーテとのエピソードは大抵六重奏曲とともに語られ、作品44-10の合唱曲に言及されることは滅多にない。作品番号順に捉われると、六重奏曲のほうが先とも思われるが、完成年代を調べると作品44-10のほうが、4年くらい早い。

どうあってもアガーテにこだわるなら作品44-10こそ大書されるべきとは言わないが、少なくとも併記ぐらいはして欲しいものである。

2006年3月24日 (金)

ニューヨーク上陸

もちろん「ゴジラ松井」の話ではない。3月2日の記事「受注第六号」で言及した欧州在住の女性ピアニストさんが、短い日本への帰省滞在を終えてニューヨークに渡られた。欧州への帰途アメリカ各地に立ち寄るそうだ。もちろん「ブラームスの辞書」opus8も彼女にお供してニューヨークに上陸したのだ。

昨夜遅く、まとまった時間が取れずに読むことが出来ないと前置きしつつメールが舞い込んだ。いたく装丁を誉めていただいた。「シンプルな上品さ」や「色合い」が素敵とは、くすぐったい。じっくり読むのは自宅に戻った後になるものの、「表紙を見ているだけで嬉しい」とおっしゃる。ド素人の著者の喜びそうなツボを押えられて、案の定舞い上がってしまっている。

こうなると中身を読んでがっかりされないか心配になる。「立てば歩めの・・・・」である。

2006年3月23日 (木)

ささやかな喜び

今日の話はブラームスには直接関係が無い。

本日夜は帰宅が遅くなる予定だったので、娘たちにはパパ抜きで練習をしておくように指示して家を出た。娘らは起き抜けで眠いせいもあって、「はいはい」みたいな無残な反応である。予定が変わって7時半に帰宅できた。玄関に入るとヴァイオリンの音がする。二階からだ。娘らがヴァイオリンの練習をしているのだ。帰宅した私には気付いていない様子で、ヴァイオリンの音は途切れなく続いている。忍び足で階段を上がり、そっと様子をうかがうことにした。

姉がカイザーの25番を弾いている。妹は姉のすぐ横に座って練習の様子を見ている。始めたばかりの課題曲なので音程が悪い。最近やっとまともにチューニングが出来るようになったばかりなので、E線が低い気がする。ここで口をはさんではおしまいなので、グッとこらえて様子を見た。ああこんな音程じゃだめだよ。私と練習するときは私がピアノを弾きながら(一本指でだ!!)音程を合わせるのだが、妹では役に立たない。いかんいかん。

でもつっかえつっかえ弾いている。同じところを繰り返している。難しいところが判るのか?ミにシャープなんぞが付くとてきめんに音程が決壊する。次の開放弦が来るまで回復しない。さすがに止まってやり直している。

普段生意気な長女だが、妙にしおらしい。ここで、部屋に割って入った。「ただいま」「なんだパパか。やっとかないとうるさいかなって思って」「音程わりィぞ」「だから練習してんでしょ」悪びれたところが無い。なんだ凄く嬉しかった。聴けたモンでは無かったが、自分が必要とされているようで嬉しかった。「また一緒に練習しような」という気に心からなった。

妹は、姉の練習中に遊んでいると姉に叱られるので仕方なく、横に座っていたらしい。私が帰宅しなければこのあと、姉が妹を指導してカイザーの1番を練習する予定だったそうだ。

私はこのドタバタの果てにブラームスがあると、信じて疑わない父である。

2006年3月22日 (水)

p pesante

「弱く、引きずって」と解される。「p」はとてもメジャーな用語。メジャー過ぎてかえって尻尾がつかめないほどだ。一方の「pesante」はそこそこだ。合計で39箇所存在するが、三曲のピアノソナタに12回現れるのが際立っている。それから第一交響曲にも5回出現する他はパラパラといった感じの極端な傾向を持ついわば「曲者」なのである。「leggiero」の反対概念とも思えるが、現れ方といい頻度といい一筋縄ではいかない。画一的な解釈は危険で「空気を読みつつ」としか言えない。

実は「p」と「pesante」の共存はブラームスにあってはたったの一度実現しているだけのレアアイテムだ。作品32-1「何度飛び起きたことか」の冒頭のピアノパートに存在している。歌詞の内容は、昼間やらかした愚かな行為を思い出して、夜中に何度も起き上がったというものだ。こうした歌詞を先導するピアノの冒頭一小節間の表情付けとしては、秀逸である。「p pesante」の唯一の用例としてのはまり度は高い。ここを「sosteuto」せずに「pesante」とする感性が真似の出来ぬ領域なのだと思う。何人のピアニストがこの希少性を理解した上で弾いているか大変興味深い。

「pesante」が第一交響曲に集中することが引っかかっているせいではないのだが、この歌曲「何度飛び起きたことか」の11小節目と12小節目を聴くと第一交響曲第一楽章の9小節目10小節目の弦楽器のピチカートを連想してしまう。

2006年3月21日 (火)

お聴き初めの儀

今を去ること14年前の今日、長男が生まれた病院から妻の実家に戻ってきた。生後6日目のことだった。両家にとって初孫だったこともあって、親戚が集まってお七夜のパーティーをすることになった。

今は亡き妻と私はある計画を持っていた。「お聴き初め」である。生まれたばかりの長男に初めて音楽を聴かせる儀式をやろうと心に決めていた。曲は当然ブラームスだ。ヴィオラソナタ第一番の第二楽章である。妻がピアノを弾き私がヴィオラを弾いた。この日に備えて大きなおなかを抱えながら練習しておいたものだ。練習中音を間違えるとママのおなかの中で暴れるような気がしていたらしい。こりゃあなかなか見所のある子だと思っていた。生まれて初めて聴かせる音楽はブラームスでなければならないと決めていたのだ。

第一子の長男の時は、父と母の生演奏だったが、2人目以降はそうもいかなくなった。でもちゃんとお聴き初めの儀式は済ませた。長女は第一交響曲の第二楽章。次女はヴァイオリンソナダ第一番第一楽章だ。もちろん三人とも起きているときに聴かせた。

既に次女でさえ10歳に届いた。お聴き初めの効果はまだ確認されていない。

我が家の子供たちは、生まれて初めて聴かせた音楽が何であるかちゃんと記録されているのだ。(えっへん)

2006年3月20日 (月)

子守唄

一般に子供を寝かしつける際に歌われる唄と解される。これはこれで一つのジャンルを形成していると思われる。日本の子守唄は寝かしつけという側面もさることながら、子守の辛さを歌う労働歌の性格も帯びているように思う。本日はもちろんブラームスを含む西洋音楽に現れる「子守唄」について言及したい。

いったい子守唄に定義はあるのだろうか?子守唄が具備するべき要件は何か決まっているのだろうか?テンポ、拍子、旋律、和声、調性等の諸要素のうち子守唄を特色付ける性格が決められているのだろうか?短調が少ないような気がするがいかがだろう。

結論からいうとお手上げだ。作曲者が「子守唄」と言えば子守唄なのかもしれない。元々子守唄ではなかった曲が、その曲想から子守唄として歌われるようになった「後天性子守唄」を集めて性質を分析すれば何か判るかも知れない。

「ブラームスの子守唄」は中国の夜行寝台列車の硬座車の中で、消灯時間に流されていた。中国の庶民の列車で流されていたというのだからその浸透度というのはよっぽどのことである。私の中では、もちろん「世界最高の子守唄」の座に君臨している。正確にいうとブラームスの作品49-4「Wiegenlied」(ゆりかごの歌)である。

そのほかにブラームスの子守唄を集めてみる。

  1. 「眠りの精」WoO31-4だ。これも有名だが、ブラームス作曲というには無理がある。
  2. 作品117の3つのインテルメッツォはブラームス本人が「苦悩の子守唄」と呼んだらしい。このうち1番変ホ長調はなるほどな曲想だ。2番は短調ながら許容範囲だけれど、3番はかえって寝つきが悪くなりそうだ。
  3. 聖なる子守唄と称されるop91-2も捨てがたい。アルトとヴィオラとピアノという異例の編成に加えて、親友ヨアヒムの長男誕生を祝うという名目がまぶしい。
  4. ブラームスのワルツで有名な作品39-15は、優しい曲想から「後天性子守唄」の資格ありと思う。
  5. 我が家の選定する「後天性子守唄」第一位はヴィオラソナタ第一番第二楽章である。クラリネットではだめであくまでヴィオラが弾いた場合という条件付だ。末尾も近い72小節目アウフタクトからのヴィオラのモノローグが「おや~すみ」に聴こえる。

2006年3月19日 (日)

ヴィオラとクラリネット

ブラームスにあって、ヴィオラとクラリネットという2つの楽器は、なかなかに縁が深い。

担当する音域が近いというのも一つの答えだと思うが、単にそれだけではないと思わせる何かがある。晩年のクラリネット入りの室内楽四曲は、クラリネットの代わりにヴィオラでも演奏出来るように、ブラームス本人が編曲している。クラリネットの名手の演奏に霊感を得て一気に作曲したというエピソードで名高いのだが、ほぼ同時に当のクラリネットの入らぬ編成の楽譜を出すこと自体が興味深い。クラリネットの代わりにと白羽の矢が立ったのが、ほかならぬヴィオラだというのが、ブラームスらしい。ソナタについては後日ヴァイオリン版も出ているが、真っ先にヴィオラというのが泣かせてくれる。

第四交響曲の第二楽章アンダンテの冒頭第一主題はクラリネットの出番なのだが、再現部になるとその役目はヴィオラに差し替えられる。同じ旋律の違う側面に光を当てる行為だ。管弦楽のスコアにはこうしたペアが目に付く。高音域で旋律を弾くチェロはホルンとペアになることが多い。旋律を受け持たずベースラインに張り付く時のチェロはファゴットが相棒になることが多い。

弦楽器と木管楽器(ホルン含む)で息のあった相棒を設定するのは、ブラームスの癖とも思われる。もちろんその代表格はヴィオラとクラリネットだ。

不思議というか、言われてみれば当然というか、ヴィオラとクラリネットの互換性は、クラリネットからヴィオラに向かう方向でしか発揮されない。弦楽四重奏曲のヴィオラパートをクラリネットに置き換えたりといったことは一切起きていない。あるいは弦楽五重奏曲の2本のヴィオラのうち一本をクラリネットに差し替えれば、クラリネット五重奏曲の編成になるのだが、かすりもしていない。クラリネットはヴィオラで代替が利くが、ヴィオラはクラリネットで代行不可能という位置づけなのだ。

2006年3月18日 (土)

仰げば尊し

本日長女が、小学校を卒業した。

父母席の場所取りやら、美容院やらで朝方はバタバタしたが、やはり卒業式はぐっと来る。

娘の通う小学校は明治6年開校という深い歴史がある。1873年開校だから今年は第133回卒業式ということになる。もちろんブラームス存命中だ。作品番号でいうと50番あたり。ブラームスが身近に感じる一方、学校の歴史の長さに思いをめぐらせた。

卒業式を最大の重要行事と位置づけているだけのことはある。2時間弱の式の中にいったいどれほどのノウハウと取り決めが横たわっているのだろう。会場の設営、式次第がどれほど練り上げられたものか想像もつかない。在校生を代表する5年生の力も侮れない。侮れないどころか主役を食う勢いである。卒業する生徒たちも昨年は5年生として送り出したのだ。これが伝統なのだろう。

卒業生と五年生の間でかわされる呼びかけは感動的だ。歌、BGMという具合に切れ目無く音楽が流れている。全く音楽が流れていない時間のほうがはるかに少ない。そうなのだ。これは事実上のオペラなのかもしれない。

自分の卒業式の時など屁とも思っていなかったが、娘の卒業となると、何だかただ事ではない。運がいいことに、娘の担任としてお世話になった先生四名は、まだ在籍している。これも奇遇で、その四名の先生は皆、長女以外の2人の我が家の子供の担任も努めてくださったことがあるので、それぞれ3年以上のお付き合いだった。

四名の先生に「ブラームスの辞書」を一冊ずつ贈呈した。実用上のお役に立つことについてはほぼ絶望だが、感謝の気持ちの込め方として、一区切りの付け方として収まりがいいと以前から考えていた。

「我が家のことをいつでも思い出してください」「ありがとうございました」

2006年3月17日 (金)

mf marcato

1月18日の記事で「fp marcato」が協奏曲に集中する点に言及した。本日の記事はそれと関係がある。また一方で2月22日に「mf」を話題にしたので、その続編とも位置づけ得る。

「mf marcato」は「やや強く、はっきりと」と解されて疑われることはない。解釈自体に問題を孕むケースは少ないと思われる。しかしながら、13箇所の用例を吟味するといくつかの特徴が浮かび上がる。ピアノ五重奏曲第四楽章284小節目のピアノに出現することを例外とすれば、12例全て協奏曲の中に現れる。ピアノ協奏曲第一番第三楽章119小節目のホルンを例外とすれば、残り11例全てが弦楽器に集中している。協奏曲に集中していながら、独奏楽器には一切現れないというのも奇妙である。

上記にあげた2つの例外を別にすると、その傾向ははっきり見て取れる。すなわち、華麗なアクションを見せる独奏楽器を下支えする役割である。

この種の小さな整合性の積み重ねをブラームスがおろそかにしていなかった証拠と考えている。なんだかポカポカあったまる話だ。

2006年3月16日 (木)

掘り出し物①

CDショップを覗いていて、掘り出し物を2つ見つけた。

ipodに取り込み中の「私家版ブラームス全集」において欠落していた20曲の二重唱のうちのいくつかが収録されているのだ。

ひとつは「作品20-3」と「作品61-1」が収録されているもの。エディタ・グルベローヴァとヴェッセリーナ・カサローヴァという2人のソプラノの演奏だ。もちろんこれにピアノの伴奏が加わる。CDのタイトルは二重唱曲集というシンプルなもの。ピアノをいれればトリオなのだが、そういうつっこみはやめておく。メンデルスゾーン、ロッシーニ、シューマン、ドヴォルザークの作品とあわせて22曲が収められているうちの2曲がブラームスという訳である。もちろんと言ってはなんだが、メード・イン・オーストリアで輸入物だ。これで2300円少々は高いような気もする。ブラームス2曲欲しさにである。

解説書には、収録に当たり使用した楽譜が記載されている。「ペーター版」だ。我が家の楽譜と同じである。

作品20-3「海」は、しっとりと聴かせるタイプの作品。ソプラノ2人のハモリが幽玄だ。

作品61-1「姉妹」は、キビキビ感溢れるアレグレット。

もう一つは、作品28に属する4曲が収録されている。こちらはスウェーデン製らしい。解説書が全く読めないし、演奏者の名前もどう発音するのかわからない。作品28の他に、マゲローネのロマンスからの抜粋と、4つの厳粛な歌、作品21の1「自作の主題による変奏曲」という珍しいカップリングだ。

全集しか手に入らないと思っていたが、あっさりと見つかった。この調子だ。ウイーンあたりのCDショップに行けばサクッと揃ってしまうのかもしれない。コンプリートへのマジックナンバーが14になった。あと14曲だ。

2006年3月15日 (水)

渋い編成ランキング

ブラームスの作品の中には、他の作曲家にはあまり見られない編成の楽曲が散見される。ブラームスならでは渋い編成を持った曲をランク付けしてみた。

  1. アルトラプソディーop53 アルト独唱と男声合唱と管弦楽のためのラプソディーをイの一番に挙げたい。アルト独唱を男声合唱が包み込むという風情だ。管弦楽もトロンボーン、トランペット、ティンパニは省かれている。弦楽器にも弱音器の装着を命じているなど特徴は少なくない。
  2. ホルンとハープと女声合唱のための4つの歌op17 2本のホルンとハープ、それに三部に分かれた女性合唱のための作品だ。ブラームスにとってのホルンはやはり別格のようだ。深い森の雰囲気をかもし出すかと思えば、宇宙の秩序をなぞっても見せるといった感じである。4番ハ短調のアンダンテが最近のお気に入りである。
  3. アルトとヴィオラとピアノのための2つの歌op91 アルト独唱とピアノのための歌であれば、ここまで大騒ぎはしない。伴奏にヴィオラが加わっていることで独特な響きが醸し出されている。無二の親友ヨアヒムの長男誕生を祝した2番が気に入っている。でありながらヴァイオリンの伴奏にしないところが味わい深い。
  4. 管弦楽のためのセレナーデ第二番イ長調op16 弦楽器からヴァイオリンが省かれている。学生のオケでは取り上げにくい編成だ。ここに素朴な疑問がある。この曲を演奏するときコンマスはヴィオラのトップ奏者が努めるのだろうか?
  5. ホルン三重奏曲変ホ長調op40 今やメジャーになり過ぎた。ホルンとヴァイオリンとピアノの三重奏だ。

よくよく見てみると、これらの編成でおいしい目を見るのはホルンがヴイオラのどちらかのような気がする。

本日はop53のアルトラプソディーにあやかって命名された長男の14回目の誕生日である。

2006年3月14日 (火)

聴こえて欲しい度

複数の声部が同時に進行する楽曲において、好ましいバランスを実現するために存在する声部優先順位のことを「ブラームスの辞書」では「聴こえて欲しい度」と表現していることがある。一般に「旋律>伴奏」「独奏楽器>伴奏楽器」であるほか、ブラームスにおいてはベースラインが優先される傾向がある。

楽譜上にあるダイナミクス表示が「聴こえて欲しい度」を指し示していることが多い。伴奏声部のダイナミクスを旋律声部よりも抑えたものにしている例は大変多い他、「ブラームスの辞書」でいうところの「主旋律マーカー」「伴奏マーカー」「ベースラインマーカー」の諸機能を持った用語を、意図的に散りばめるのがブラームス風である。

ワルツop39は四手用である。これをブラームス本人が独奏用に編曲している。使える腕の数が2本減るのだから、全ての声部を保存するわけには行かない。このときどの声部が残り、どの声部が削られるのかの選択もまた興味深い。「聴こえて欲しい度」の裏返しである確率が高いからだ。

特に管弦楽曲のように多種多様な楽器が、これまた3つ以上の声部を形成するような場合、おのおのの奏者が、自らの担当する楽器の優先順位を認識しておくことは、有意義と思われる。

2006年3月13日 (月)

春の便り

嬉しい知らせが届いた。

3月8日に献本に伺った国立音楽大学付属図書館から「ブラームスの辞書」を蔵書とする旨のハガキが届いた。全文を掲載する。

 このたびは、下記の資料をご寄贈くださいまして、ありがとうございました。永く本館に保存し、貴重な資料として活用させていただき、ご芳志にそいたいと存じます。

                          記

「ブラームスの辞書」   1冊

                                                 以上

                                        2006年3月10日

先般の献本以来、どきどきしていたが、ホッとした。ホッとしたと同時にポカポカと暖かい気分になってきた。蔵書にしていただけることになったので「某音楽大学図書館」という言い回しは撤回することにした。「国立音楽大学図書館の皆様ありがとうございました」とお礼を述べるためである。

2006年3月12日 (日)

お約束

娘らのレッスンだった。長女がもうすぐ小学校を卒業するので、今後のヴァイオリンの進め方について先生とイメージあわせをした。

先生の話では、中学への進学によりヴァイオリンレッスンの枠組みが変わって行く生徒が多いとのことだ。小学校までは親の意向でしぶしぶレッスンに通っていた子供でも、中学生ともなると、本人の意向や勉強の都合、あるいは部活動の都合で、同じようなペースでのレッスンを続けられなくなるケースが少なくないらしい。

今日のレッスンで、先生からその点についての我が家の方針についてお尋ねがあった。もちろん中学に入ってもレッスンは同じように継続する旨、即答した。当の本人も今のところその気でいる。先生からは、中学入学直後は生活も変わって疲れると思うので、7月のおさらい会の曲目は、軽目にするという提案をいただいた。ご配慮に感謝してありがたく受けることとした。

レッスンからの帰り道、娘と話をした。娘は「中学行ってもヴァイオリンやるよ」とサラリと言ってのけた。部活や勉強も一生懸命やるけど、ヴァイオリンもねと言っている。私から一つの提案をした。「中学在学中に2回の発表会があるはずだ。その2回目には、ブラームスに挑戦しよう」と恐る恐る言ってみた。「ブラームスのどんな曲?」と娘「ヴァイオリンソナタ第一番の終楽章」と言って冒頭を歌ってやった。「それっていつも車で流れてるよね」と娘。「難しくないの?」「難しいよ」「今やっているような課題なんか簡単に楽々弾ける所からやっと始まれるくらいの難しさだよ」「ふ~ん」「パパは弾けるの?」「挑戦はしたことある」と親子の会話は続く。

「うん、わかった。がんばってみる「指切りしようか」え~。指切りはいやだけど約束する」と続いて会話が途切れた。

「中学在学中にブラームスのソナタに挑戦する。」という具体的な目標が出来た瞬間だ。先生がこのプランに同意してくれるかどうかは、これからの精進次第だと思う。

無謀は元より承知である。

2006年3月11日 (土)

架空・歌唱コンクール

歌曲には、はまる。十人十色の歌声は、素人の私にでも聴き分けが出来る。管弦楽や室内楽では、原則として一つの作品について一種類の録音しか取り込まないが、歌曲は例外だ。歌手ごとに微妙な味わいの違いがある。

我が家のCDで一番多く歌手が歌っているのは「永遠の愛」op43-1だ。下記の通り10種類である。次に多いのは、「五月の夜」op43-2で8種類だ。

  1. アンドレアス・シュミット
  2. ヘルマン・プライ
  3. ディートリッヒ・フィッシャーディースカウ
  4. アンネゾフィー・フォン・オッター
  5. マーガレット・プライス
  6. ナタリー・シュットゥッツマン
  7. エリー・アメリング
  8. ジェシー・ノーマン
  9. フランソワ・ポレ
  10. 鮫島有美子

これらを全部ipodに取り込んだ。シャッフルをかけてランダムに再生させる。全部聴き終わるの約45分かかる。昨日通勤時間にこれを聴いた。いやいや華麗である。元々大好きな曲なので、いくら聴いても飽きない。課題曲「永遠の愛」を参加者が次々と歌うのを聴いている審査員になった気分である。

ipodならではのお楽しみである。

2006年3月10日 (金)

原典版

近頃よく聞く言葉。ドイツ語で言うところの「Urtextausgabe」のことらしい。昨今流行の「原典主義」は、演奏や解釈に際してこの「原典版」を尊重することと解される。その楽曲が最初に出版された際の楽譜「初版」とは本来厳密に区別される。ましてや作曲家のオリジナルの草稿・手稿の類とは一線を画するものだ。より厳密に定義するなら、信憑性の高い一次資料に基づいて、その作曲家の世界的な権威が校訂を加えた楽譜を「原典版」と呼んでいるのだ。この意味ではあくまでも「批判版」の一種である。

「ブラームスの辞書」の執筆段階で頂戴した最高の心配事には「ブラームスオリジナルでない限り意味が無い」がある。これを真に受けてしまうと「原典版」を参照していてもダメだということになる。世界的な権威かもしれないがブラームス本人ではないことは動かし難いからだ。

我が家のヘンレ版の楽譜にはこの「Urtextausgabe」という文字が誇らしげに踊っているが、ブラームスのオリジナルでないという一点は肝に銘じなければなるまい。「ブラームスの辞書」はブラームス本人の癖ではなくて、原典版の校訂者の癖を浮き彫りにするだけかもしれないことは覚悟せねばならない。

それにしても原典版の信頼性は誰がどのように保証しているのだろうか?原典版の序文が日本語でないのが残念である。

2006年3月 9日 (木)

献本行脚⑥

昨日、昨年の秋以来の献本を実行した。

場所は某音楽大学図書館。春休みに入ったと見えて人影もまばらなキャンパスは、春の陽気に溢れていた。キャンパスというのは何度訪ねても、どんな天気でも心地よいものだ。

図書館の事務室の扉をノックして中に入った。応対に出た女性に来意を告げる。「ブラームスの辞書」を寄付させていただきたいと。一瞬戸惑ったような表情を見せたが、パラパラと中を見て「音楽書は網羅的に収集することにしていますので、おそらくお受けできると思います」「可否はメールでお知らせします」とのことだった。門前払いではないことが嬉しい。

「わざわざこのためにおいでいただいたのですか?」と驚いた様子で尋ねられた。「はい」とシンプルにお答えして、サクッと辞した。校舎からトランペットを練習する音が聞こえた。

これで、よくも悪くもメールが来る。ダメならまた回収しに来なければならない。取りに行くなら、次も暖かい日にしよう。

2006年3月 8日 (水)

祝10000アクセス

昨夜、昨年5月30日のブログ立ち上げからのアクセスが10000に到達した。282日目である。

めでたい。

立ち上げの時には、10000アクセスが何となくの目標だった。

プロの物書きでもないのに、誰かに読まれているという実感は本当に嬉しい。励みにもなる。理屈の上では、ブログを続けてさえいれば、いつかは到達するとわかっていながら、やはり特別な感慨がある。カウンターの数字が5桁というのは、なかかなな眺めである。

最近は、毎日40~50程度のアクセスがある。週に300前後を推移している。ブックマーク率も40%を安定してキープしている。

肝心な「ブラームスの辞書」の売り上げも年間目標24冊を先日達成して、ホクホクだ。

2006年3月 7日 (火)

脱稿記念日

今日3月7日は「ブラームスの辞書」の原稿が一応出来上がった日。昨年のことだ。一昨年の11月23日から執筆を始めた原稿を書き終えた日だ。それを出版社の社長さんにメールで知らせたら、「脱稿おめでとうございます」と言われて「脱稿」という言葉を初めて知った。

実際にはここから校正が入ったり、譜例を作ったりと忙しかったわけだが、一応の区切りがついた日なのである。初めて経験する執筆活動360000字が無事ゴールにたどり着いただけで万歳だった。「脱稿」の「脱」という文字が実感として理解出来たけれど、正直言って終わってしまうのが寂しかった。もっともっとブラームスについて書いていたかった。達成感より寂しさのほうが勝っていた。ブラダス22000行のデータ入力は、確かにしんどかったけれど、執筆は楽しかった。

7月の刊行まで約4ケ月にこぎつけていたことになる。

2006年3月 6日 (月)

オートマチックリタルダンド

ラプソディート短調op79-2の終末近く118小節目の後半に「(quasi ritardando)」と記されている。「ほとんどリタルダンドのように」とひとまずは解釈しておく。

116小節目から右手が四分音符を3つに割りながらDとEsを続けている。2分音符が6等分されているのだ。この表記があるところを境に、2分音符が4等分にかわっている。さらに120小節目では、3等分に変わり、121小節目で2等分になって122小節目に滑り込む。ブラームスに時々見られる仕組まれたリタルダンドだ。いわゆる「オートマチックリタルダンド」である。

問題の「(quasi ritardando)」の「quasi」の意味合いは簡単に説明できる。「リタルダンドに聴こえるように」である。「楽譜にオートマチックリタルダンドを仕組んであるからテンポを落とす必要は無い」の意味であるとさえ解しうる。最終小節123小節目のアウフタクト四分音符の「ff」が「in tempoのタイミングで鳴らされねばならぬ」という明快な意思表示だろう。118小節目の問題の「(quasi ritardando)」を受ける「a tempo」が存在しないのも、この場所が「in tempo」で貫かれることの証拠である。

この「(quasi ritardando)」のカッコは雄弁に「リタルダンド不要」を訴えている。「ritardando」の字面につられてゆめゆめテンポを緩めてはなるまい。

2006年3月 5日 (日)

ipod効果

ipodを駆使した「私家版ブラームス全集」が完成して一ヶ月が経過した。ブラームスを肌身離さず持ち歩いている不思議な感覚については既に言及した。通勤時間はもとより遠方への出張も苦にならなくなった。

そのことと並んで、大きく変わったことが一つある。本ブログ「「ブラームスの辞書」の記事のネタが通勤時間中に湧いて出ることが多くなった。そりゃ当たり前だ。毎日毎日ブラームス三昧の通勤時間を過ごしているのだ。今まで以上に脳味噌が刺激されているに決まっている。通勤電車で押されたはずみで、あるいはつり革にもたれかかった勢いで等々些細なキッカケでブラームスネタを思いつくようになった。1つ2つならまだしも、4つ5つ以上になるとメモに取らねば忘れてしまう。曲を聴いていて何らかの仮説をひらめくことさえある。帰宅してスコアをあたるまでは気が気ではない。

自宅のパソコンで翌日聞きたい曲をセットしておくことも可能だ。特定の歌曲を別の歌手で連続して再生させたり、ワルツの独奏版と四手版を聞き比べたりといった、一味違った楽しみ方もある。

取り込み済みの曲から任意の一曲が再生され、その曲名を6択の中からあてるというクイズも楽しめる。再生が始まるのは曲の冒頭とは限らないので、超難問が飛び出したりもする。

つくづく退屈しない。脳味噌の刺激にはもってこいである。

2006年3月 4日 (土)

三歩下がって師の影を踏まず

大好きな言葉である。ブラームスのヴァイオリンとチェロのための協奏曲第二楽章を聴くとこの言葉を思い出す。

ホルンの信号に続いて歩みを始める弦楽器のダイナミクスを見るがいい。2本の独奏楽器には「f espressivo」が奮発される一方で、オーケストラ側の弦楽器には「poco f  ma dolce」が置かれている。独自の動きを採るコントラバスやヴィオラはともかく、独奏楽器とユニゾンのヴァイオリンやチェロまで「poco f ma dolce」で統一されている。

「少し強く、くれぐれも優しく」と解されよう。この「ma」を逆接の意味「しかし」と解することは心情的に許せない。断じて強調の「ma」でなくてはなるまい。

この場面、主役の独奏楽器はオーケストラのヴァイオリンやチェロと同じ音域にとどまっている。総奏に埋没しかねない状況なのだ。この状況にあってなお、ソリストたちは独奏楽器たる誇りを保ち続けなければならない。そこで一計が案じられている。独奏楽器をユニゾンで取り囲む弦楽器たちに特段の配慮を求めるという意味がこの「poco f ma dolce」にこめられているのだ。つまり「三歩下がって師の影を踏まぬこと」が求められている。

恩師たる独奏楽器の影を踏まぬかのような万全の配慮が弦楽器群に求められてはいまいか?そうした絶妙のバランスの上でのみ、このユニゾンが成り立ち得ると考えている。独奏楽器の「f espressivo」と弦楽器群の「poco f ma docle」の二つの言葉の微妙なせめぎ合いまでもが鑑賞の対象だと思われる。

2006年3月 3日 (金)

引用と偶然

ある旋律が、別の楽曲の特定の旋律と似ていると感じることは少なくない。「誰それの主題による変奏曲」という明快な意図を感じさせる場合は、話が速いのだが、問題が多いのは作曲家の意図かどうか判然としないケースだ。ブラームスの第一交響曲第四楽章の主題とベートーヴェン第九交響曲の第四楽章「歓喜の主題」の類似性は、古来から指摘されている。「んなこたぁロバでも判るわい」というブラームス本人のコメントは痛快である。

この周辺の問題を私なりに整理してみた。

  1. まず、「ある旋律が別の楽曲の特定の旋律に似ている」と断言する場合の定義が必ずしも明快ではない。人によっては、似ていないと思われるような場合や、和音進行の枠組みだけが似ていて旋律はサッパリというケースさえ存在する。学問として扱うならこの「定義」は必須であるのに、置き去りのままの議論が目立つ。
  2. 大抵の場合ブラームス本人は沈黙している。意図ある引用なのか偶然なのか、はっきりしないケースにおいて確認実証の手段が乏しい。さらにその手法も未確立に見える。
  3. 単に「似ている」という指摘に終始し、「それがどうした」のつっこみを受けかねない議論も見られる。ブラームスの先のコメントをこの点を皮肉ったものとも解しうる。
  4. 「意図ある引用」「偶然」に加えて「悪意ある盗用」も存在しうるが、これもまた実証が難しい。
  5. 最後に一番肝心なこと。学問として取り扱うことをしないならば、この系統の話は盛り上がる。誰にでも一つや二つは似ている旋律の組み合わせをもっているはずだ。学問にするなら、それ相応の根拠を示す必要もあろうが、酒の肴にするだけなら夢があってよろしい。

かく申す私も、ドイツレクイエム第三曲の39小節目がドヴォルザークのチェロ協奏曲に聞こえて仕方が無いことを告白しておこう。

2006年3月 2日 (木)

受注第六号

いまだによいネーミングを出来ずにいる通称「他人様」発注の第六号である。今回はなんとなんと欧州在住の女性のピアニストさんからの発注である。ブログをご覧になってのメール発注だ。今月、一時帰国するとのことで、それまでにご実家の方への配送を手配させていただいた。「ブラームスの辞書」はドイチュ先生ご夫妻と上海の通訳の沈さんの分計3冊が、海外にある。これで4冊目の海外渡航だ。なんだか妙に緊張する。

さて、毎度注目の番号バトルの行方やいかに。今回は熟考の末、opus8のピアノ三重奏曲第一番ロ長調のご希望であった。「この曲がまだ残っていたのか」という感じのはまり方である。

それから本件発注をもって、昨年7月の刊行からの注文数が24冊に到達した。刊行時に販売数の月次ノルマ2冊、年間で24冊という目標を設定したが、これを8ケ月で達成することが出来た。24冊のうち6冊だから4分の1が「他人様」からの注文ということになる。初年度はこれでも上出来だ。年がたつにつれて、お知り合いからの発注は減って行くと思われる。お知り合いの数には限りがあるからだ。だから「他人様」からの発注が伸びることが、販売予定達成のポイントになることは、間違いのないところだ。口で言うほど簡単ではないことは言うまでもない。

お買上げまことにありがとうございます。

2006年3月 1日 (水)

歌曲コンプリート

本日ディートリッヒ・フィッシャーディースカウのブラームス歌曲集を購入した。6枚組3000円少々だ。コストパフォーマンスがいい。嬉しいことに「私家版ブラームス全集」で未収録となっていた作品106の2番から5番と作品107の1番と4番がキッチリ収録されている。

この全集、ブラームスの独唱歌曲全てが収められているわけではない。フィッシャーディースカウが録音で残したもの全てという条件付の全集である。録音されているものの出来もさることながら、何を録音していないかにも興味がある。意外なことに子守唄は入っている。作品91は全滅だ。その他目立つところでは、何故か作品84も全滅である。

歌は楽しい。耳の悪い私でもCDに収められた演奏を聴けば、誰の声か大抵は解る。管弦楽曲で指揮者をあてる確率よりは数段上である。

それから、伴奏のピアニストがただただ華麗だ。バレンボイム、サヴァリッシュ、ムーアにリヒテルである。

いずれにろ本日で「私家版ブラームス全集」の独唱歌曲がコンプリートした。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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