Frei aber Froh
「自由にしかし楽しく」と解される。ブラームスのモットーだということらしい。ブラームスの伝記には必ずと言っていいほど載っているエピソードである。この語句の頭文字をとって「FAF」がブラームスの作品に反映されていることが多い。
バラード作品10-2、交響曲第三番第一楽章などがその代表格とされているほか、弦楽四重奏曲第二番第一楽章冒頭もそれを認める説もある。FがFisに、あるいはAがAsに変化したものまで皆、「FAF」で解釈しようとするから、対象はかなり広くなる。元々三度好き、六度好きのブラームスで、ヘ長調も大好きだから、偶然「FAF」になってしまうことは、ありそうな話である。ブラームス自身が「三度好き、六度好き、ヘ長調好き」の自分の癖を端的に示す言い方として「Frei aber Froh」を誰かに語った可能性も一応おさえておきたい。
以前からずっと思っていたことがある。「Frei」と「Froh」の間に挟まれた「aber」は、日本語文法風に言えば「逆接の接続詞」だ。イタリア語の「ma」、日本語の「しかし」に相当する。前後の言葉の意味が相反しているときに使用される。「親はバカだ。しかし子は賢い」というような要領だ。「親はバカだ」と言った時点で「子もバカであること」が推定されるが、その推定を裏切って「子は賢い」からこそ逆接の接続詞「しかし」がはまりこむのだ。
「Frei」(自由に)と「Froh」(楽しく)は逆接で取り持つことを必要とするのだろうか?私はむしろ順接の「そして」あたりが穏当だと感じる。「Frei und Froh」だ。「Frei aber Froh」だと「親はバカだ。しかし子もバカだ」のニュアンスだ。これは変だ。こういう感覚は世の中のどんな言語でも共通だと思う。
ブラームスの親友にして当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムのモットーは「Frei aber Einsam」(自由に、しかし孤独に)だ。こちらは逆接の「aber」を挟むだけのことはある。親しい友人同士のくつろいだ会話の中で、先にヨアヒムが自分のモットー「Frei aber Einsam」を披露した。感心したブラームスは、自らの癖「三度好き、六度好き、ヘ長調好き」を巧みに織り込んで「Frei aber Froh」ととっさにもじって見せた。二人は「Frei」と「Froh」に挟まれた「aber」が場違いに浮いた感じになっているのを面白がった。といったあたりが真相ではあるまいか。
歌曲において、テキストの微妙なニュアンスにあれほど敏感なブラームスが、この「aber」のおかしさに気付かぬはずはない。
「FAF」をさも芸術上の信念であるかのように重く受け止るのは行き過ぎと感じる。
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