辞書の形態を借りたエッセイ
「ブラームスの辞書」執筆の上での基本的なコンセプトの一つに「辞書の形態を借りたエッセイ」がある。ブラームスが楽譜上に記した音楽用語全てをアルファベット順に列挙する以上、結果としてそれは一般の音楽辞典と同じ体裁にならざるを得ない。「a tempo」から「ziemlich langsam,gehend」まで約1170項目が整然と並ぶ。
一般の辞書との最大の違いは、単なる事実の羅列になっていない点である。辞書的な切り口の後には、自分の意見を容赦なく書き加えている。さらに当該用語の出現する場所の特定に力を注いでいるのも、売りの一つである。各項目の記述は①語句の意味②出現の場所③考察と提案という枠組みになっている。一番いいたいことは③なのだが、実は②の出現場所だって相当にレアな情報になっている。
辞書と同じ使い方をしても何等支障は生じないのだが、「辞書の形態を借りたエッセイ」というコンセプトを逆読みすると、エッセイとして冒頭から順に読み進めて欲しいというのが、著者としてのささやかな希望でもあるのだ。執筆は冒頭からアルファベット順に進められたので、その順番で読むことによって浮かび上がる論旨も少なからず隠されている。
しからば問う。何故わざわざ辞書の形態を借りねばならないのか。これは至高の問いである。辞書の形態を借りないということは、世の中に数多流布する通常のエッセイを書くことに他ならない。ド素人のエッセイがそんな中に打って出たところで埋もれるのが関の山である。形式に制約の無いただのエッセイということになると、著者の筆力こそが問われてしまうのだ。それは決定的に不都合だ。辞書の形態を採用すれば、筆力不足をごまかす箇条書きも不自然ではなくなる。
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