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2006年7月 5日 (水)

諦観

ブラームスの音楽が言葉で表そうと試みられる際に、しばしば用いられる単語。「あきらめ」「諦念」もこの一種である。「ブラームスの辞書」では一箇所も用いられていない。

ブラームス自身が、自分の作品に「諦観」を盛り込もうとしたのかどうか定かではないと思われるが、音楽評論界では、頻繁に用いられて重宝している単語の一つだ。ブラームスが「私は自作に諦観を盛り込んだンですよ」ともちろんドイツ語でいいから誰かに語った証拠は見当たらないらしい。このことは意外と重要である。

  1. ブラームスが自作に「諦観」を盛り込もうと企てた結果、ブラームスの意図通りに聴き手が「諦観」を感じ取った。
  2. ブラームスは「諦観」を盛り込んだつもりなどないのに、後世の聴き手が、ブラームスの作品から感じたものに「諦観」と名付けている。

断じて2番である。そもそも何かを諦めるなら一人で黙って勝手に諦めれば事足りるのだ。「私は諦めますよ」と周囲に発信するのは大抵「諦めるのを誰かに止めて欲しい」か「諦めたくない」かどちらかである。つまり諦め方としてはあまり上等、スマートではない。ブラームス自身は「諦観」「あきらめ」を自作に盛り込もうとしてなんかいないと思う。

ブラームスの作品を聴いて脳味噌に去来する感情を、無理を承知で言葉に置き換えようと試みた人間が、過去に経験した感情のうち、もっとも近いものが「あきらめ」「諦観」だったに過ぎないと思われる。強いていうなら、多くの人間がこの比喩に無理が無いと感じているのもまた事実なのだろう。たからこそ、ブラームスの作品中に「諦観」を聴くとする言説が歳月を経て生き残っていると思われる。

しかしそれは、ブラームスの作品に「諦観」がこめられているかどうかとは、厳密に区別されねばならない。

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