tutta la forza
もちろんイタリア語だ。「全力で」と解される。ブラームスの作品の中にこの語句を使った実例がある。ドイツレクイエム第3曲173小節目のコントラバスに「sempre con tutta la forza」として出現する。シンプルだ。「常に全力で」という解釈で何の疑義もない。
印象的なバリトン独唱に導かれる第3曲の終末を飾るフーガの出発点に相当する場所である。ここから結尾まで全長35小節におよぶ壮大なフーガは、全曲これまた名高い「Dのペダル音」によって支えられている。そのペダル音の一翼を担うのがコントラバスなのだ。奇妙なことにこの場所のコントラバスのダイナミクスは「f」だ。「ff」ではない。生涯唯一の「sempre con tutta la forza」(常に全力で)を起用しながら「ff」にまで持ち上がることが無いのだ。35小節間を常に全力たれと言いながら、その音楽が「ff」に到達することを許可しないのは不思議といえば不思議である。「ff」(フォルテシモ)とは力で実現するものではないという裏読みも可能である。
これには実はカラクリがある。「Dのペダル音」を担当する楽器はコントラバス以外ではトロンボーン、チューバとティンパニだが、トロンボーン、チューバは「mf」、ティンパニに至っては「p」で押し通されている。最後の小節でのみ「f」がようやく許可される。ある意味でコントラバス以上の忍従が強いられる。この荘厳華麗なフーガが35小節間続く中、196小節目からは木管楽器は「ff」に昇格さえするというのに、じっと「p」や「mf」にとどまるのは気力精神力が試される。コントラバスには「f」が許可されているだけましだと思わねばなるまい。「常に全力で」弾きながら「けしてffにはなってくれるな」という程度の忍従には笑って耐えねばトロンボーン・チューバやティンパニに申し訳が立たぬというものだ。
この部分の「Dのペダル音」は、あくまでもフーガの歩む絨毯でなければならない。フーガの足元や足取りを際立たせてこそ意味がある。全力で弾きながらも、周囲の空気を読みきった「f」にとどまることが求められている。
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