カントル
コミック「のだめカンタービレ」第16巻の109ページからヴァイオリンのパート練習の合間にコンマスのトマ・シモンが講釈する場面がある。さらにのだめからその様子を聞いた千秋が説明を補う。114ページだ。
神の作った世界の調和を知るための4つの学問がある。「天文学」「幾何学」「数学」「音楽」だ。本来「音楽」(ムジカ)とは調和の根本原理そのものを指し示す言葉だった。「音楽」とは「理論的に調和の根本原理を研究する学問」だった。中世に至ると、そうした音楽理論を熟知した上で「理性により作品全体に対して入念に音楽を判断できる人」を「音楽家」(ムジクス)と称した。これに対してただ単に歌ったり演奏したりする人を「歌い手」(カントル)と呼んだ。
トマ・シモンと千秋の説明を統合するざっとこういう主旨になる。全体から受ける印象としては「ムジクス」は「カントル」より偉いような感じである。
1879年ブラームスのもとにあるオファーが舞い込んだ。ライプチヒのトマス教会からカントルへの就任を要請されたのだ。えらいことである。ライプチヒのトマス教会と言えば、その昔ヨハン・セバスチャン・バッハが奉職していたことで知られている。ブラームスがそれを知らぬはずはない。もの凄く名誉なことだ。バッハを畏怖尊敬していたブラームスの心が動いたことは間違いない。ブラームスに白羽の矢を立てるなんざぁ、トマス教会もなかなかお目が高い。そもそもこのライプチヒという街は、ブラームスにとって鬼門である。ピアノ協奏曲第1番の初演以来、何かとケチがつくことが多い。ライプチヒの聴衆はなかなかブラームスを認めようとしなかったのだ。そうした背景があるがゆえに、このオファーには重みがある。
ウイーン楽友教会音楽監督の職を辞して以来、定職を持っていない身であったからトマス教会の申し入れを受けることは可能だったが、結局ブラームスはこれを辞退した。いろいろと理由は詮索されている。「ウイーンを離れたくなかった」が一番有力である。作曲家としてのデビュウ直後にピアノ協奏曲第1番の初演で煮え湯を飲まされたのが、他でもないこのライプチヒだったという記憶は間違いなくマイナス要因だろう。
それからもう一つ。ブラームスが「僕はムジクスになりたい。カントルなんか嫌だね」と思ったからという理由を「のだめカンタービレ」を読んでいて思いついた。
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