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2007年2月28日 (水)

ヴィオラの肖像

人気沸騰のコミック「のだめカンタービレ」の第10巻、それは紛れもなく一つのエポックを形作っている。ここから舞台がパリに移るのだ。「Prelude to lesson53」という異例な章立てで立ち上がり、桃ケ丘音楽大学との決別が描かれる。そして「lesson 53」はパリ。

パリ編開幕を告げる記念すべきコミック単行本第10巻の表紙は、「パリの月夜」あるいは「屋根の上のヴィオラ弾き」とでも名付けうる秀逸なデザインになっている。黒ネコに見守られながら、のだめが弾くのは明らかにヴィオラだ。音を聞かずに何故ヴィオラと判るのか?「第2巻で既にヴァイオリンが表紙になっているから」という答えでは「トレヴィアン」はもらえない。

やはり大きさは一つの根拠だ。のだめの左ひじの伸び具合は有力な判断材料だ。左ひじがヴァイオリンの場合と比べると明らかに伸び気味である。

証拠はもう一つある。のだめの首だ。あごあてからあごが浮いている。この首の離れ方はヴィオラとしてはよくある角度だが、ヴァイオリンでは想定しにくい。楽器が肩から鎖骨側に微妙にズリ落ち気味になっているのもヴィオラっぽい特色だ。

楽器と人の縮尺が精密であることで、まずは「あれ?ヴァイオリンにしては少し大きい」と思わせて、左ひじの曲げや首の角度という身体の設定で補強、さらに楽器のズレ落ち具合で仕上げるという念の入れようだ。これらの相乗効果によりコミックで,、音も聴かせず楽譜も見せずに、ヴァイオリンとヴィオラの違いを描ききっている点、驚嘆に値する。

2007年2月27日 (火)

出荷100冊

2005年7月11日の刊行以来、私の手許を離れた「ブラームスの辞書」がこのほど100冊に達した。販売が31冊で残りが贈呈である。うち8冊が海を渡ったと思われる。私を含めた家族の分5冊は、カウントされていない。

私の手許にはまだ200冊以上残っている。最近のペースを見る限り10年では無くならないだろう。この先売れることよりも、名刺代わりに贈呈されることのほうが多いのかもしれない。

出版にあたって一番考えたのが印刷部数だった。当初は50部で十分とも思ったが、無理して300部にした。おかげでまだ楽しみが続くということだ。人生の分岐点で出会う人たちに私の一面を手早く知ってもらうには良いツールである。

もし全部手許を離れてしまったら、すごく寂しいと思う。

2007年2月26日 (月)

モチベーション

一般に「動機」「やる気」と解される。何かに取り組むための意欲の源泉というニュアンスを含む。「モチベーションが高い」「モチベーションを上げる」「モチベーションを持つ」というような用いられ方をする。

娘たちのヴァイオリンに対するモチベーションは高くない。父親に言われて仕方なくという感じが強い。物心つく前から習わされているので、良くも悪くも習慣になってしまっている。「ブラームスが好きだから」まで行かずともせめて「ヴァイオリンが好きだから」「音楽が好きだから」「曲が好きだから」などという気持ちが芽生えてくれれば、モチベーションになるのだと思うが、これがなかなか一筋縄では行かない。

「判らぬ」と言えば私自身のヴィオラへの興味も不可解だ。どこかのオケや団体に所属して演奏会を目指している訳ではない。「上手くなりたい」と言えばカッコいいのだが、実はあまりこの側面は大きくない。なのに何故かほぼ毎日楽器を取り出して弾いている。つまりモチベーションの存在あるいは原因が自分でも特定出来ていないのだ。無伴奏チェロ組曲のヴィオラ版に目覚めてからずっとこの調子だ。

この曲わずか1本のヴィオラ用ながら秩序を表現しきって余すところがない。今の私はバッハが配置した音の羅列に酔っている状態だ。あるべきところにある音とでも言うのか、そこにその音がある必然を自分のレベルなりに実感することが楽しいのだ。細かくはスラー一個、臨時記号一個の意味を味わうとでもいうのか曲にはまってかれこれ4ヶ月だが、まだまだ弾くたびに新しい発見がある。元々絶対音感どころか、相対音感も怪しいのだが、音程の正解を楽器が敏感に教えてくれるせいで、重音のはまりを含めて音程の機微に敏感になった。誰かと合奏したいとも思わないし(娘とは合奏したい!)ひと様に聴かせたいとも思わないのに、ただ毎日弾きたくなるのだ。いい歳をした大人が、サラリーマンとしての勤めを終えた後、毎日楽器を弾いているというのは、よっぽどのモチベーションの存在を前提にせねば起きにくい現象だと思う。今述べたような曲への興味だけがモチベーションとすればバッハ様々である。

ところがここ数日、私のヴィオラへのモチベーションは明らかに上がった。2月17日に購入した新しい弓のせいだ。今まで知らなかった新しい世界にうっかり踏み込んでしまい、その魅力に抵抗できないという感じだ。

春が急ぎ足でやってくる。

2007年2月25日 (日)

東風吹かば

2月と言えば「梅」と「受験」の季節だ。偶然だとは思うがどちらも菅原道真公に関係がある。おそらくは藤原氏の他氏排斥に巻き込まれ、右大臣から太宰権師に左遷される。失意のうちに世を去った道真は、やがて祟り始める。雷をターゲットに直撃させるという剛胆な手口だ。その怒りを鎮めるための社が天満宮で、やがて学問の神に昇格する。今では受験生のお願い承りセンターだ。都を去るにあたって屋敷の庭にあった梅に宛てたメッセージがある。

東風吹かば匂い起こせよ梅の花主なしとて春な忘れそ(こちふかばにおいおこせようめのはなあるじなしとてはるなわすれそ)

「私が居なくなっても春になったらちゃんと咲くんだよ」という意味である。言われた梅の木は意気に感じたのだろう。道真が死ぬと都から一晩で太宰府に飛んでいったという。今もその梅が太宰府天満宮の境内に伝えられている。世に言う「飛び梅」伝説だ。

さすが学問の神様だけあって残した歌も受験生向けだ。結句「春な忘れそ」はいわゆる「係り結び」の典型だ。強調を表わす「こそ・けれ」と並ぶ横綱挌で、こちらは「禁止」の意味がある。典型過ぎてこの句を受験問題に採用する学校はあるまい。

「係り結び」「縁語」「枕詞」「掛詞」など古典文学の慣習は、なかなか趣がある。高校の古典の授業では現代語訳優先なので「係り結び」は強調の意味で、「縁語」「枕詞」に至っては訳さないなどと無惨なことを教わった。訳しきれない余情、あるいはリズム音韻上無視し得ぬ役割があるに決まっているのだ。現代語の側にそれを投影する機能が欠けているだけのことだ。それを顧みずに訳すからあってもなくても同じということになってしまう。

逆に現代文の中にそれらの痕跡が意図的に仄めかされていると、なんだか優雅な気分になれる。行間に込められた意図がいきいきと輝き出す。現代文の中に継ぎ目無く溶け込んでいる様子はすがすがしくもある。

実は音楽でそれをやってしまったのがブラームスだと思っている。「係り結び」「縁語」「枕詞」ならぬ「ソナタ」「フーガ」「パッサカリア」だ。

2月25日は菅原道真公の命日だ。もちろん旧暦だ。現在では3月末になる。梅が飛んで行くのもうなずける。

2007年2月24日 (土)

弓の使い心地

ヴィオラの弓を購入したことは2月17日の記事「弓購入しました」で述べた通りである。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/02/post_b9e4.html

あれから早一週間、ほぼ毎日楽器を弾いていた。ルンルン気分とはこのことである。結論から申せば別世界だ。弓の使い心地なんぞ微妙極まりないので、それを文章にしようというのは無謀な話であるとは百も承知だが、この気分は何かに残しておかずにはいられない。本日の記事は無謀を承知で、せめてこの感動だけを未来の自分に残すための記事である。

弓を購入したお店の配慮で、十分に試奏した上で決めた弓だということは間違いないのだが、家に持ち帰って弾いてみるとこれがまた気持ちのいいことこの上ない。相変わらずバッハの無伴奏チェロ組曲のヴィオラ版に大半の時間を費やしたが、本当に気持ちがいい。金額の絶対値としては、けして「お財布に優しい」とは言えないが、コストパフォーマンスは悪くない。

  1. 無理矢理言ってしまうなら弓が軽い感じ。実際に重さを計ると以前の弓と変わっていないのに、何だか軽い感じなのだ。
  2. それでいてC線にはしっかりひっかかってくれる感じが一番の収穫だ。
  3. それから弓先まで気持ちがピーンと行き渡る感じ。「弓先が近い」という気分にさせてもらえる。
  4. いつも左手がもつれる箇所いくつかで、カラリと指が回ってくれた。
  5. 高い弦で旋律線を弾いている最中に、1音だけCに触れるというような無伴奏チェロ組曲独特の箇所で、ストレス無くC線が鳴る。

もしかして100万円の弓はこの5倍気持ちがいいのだろうか?

一番の懸念は、ボウイングが上達したと錯覚してしまうことだ。

2007年2月23日 (金)

鬼を嗤わす

先のことを話すと鬼が嗤うらしい。嫌な性格である。

このまま順調にブログの毎日更新が続くと、来年の今日2月23日に「1000日連続記事更新」を達成することができる。こういうものは、鬼に嗤われようと嫌われようと、自らを鼓舞する意味でも宣言しておく必要がある。

2月20日の記事「16倍の優しさ」の中で、大伴家持の歌に言及した。私の大好きな歌が2月23日に作られていることに触れている。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/02/post_dea9.html

新暦と旧暦という暦の違いはあるが、私の性格から言えば、その記事は今日2月23日にアップして然るべき記事だ。ところが運悪く「来年の今日1000日連続記事更新になる」という日と重なってしまったので、20日に繰り上げたというわけだ。

そうまでしてブログで宣言することによって、自らを追い込んでモチベーションを上げる意味もある。鬼を見返してやるのも大変なのだ。言ったことがキッチリと実行されるという実績を積み重ねて行くと、そのうち鬼も学習して嗤わなくなると思う。

今月初頭に娘たちから豆を投げつけられているので、やっぱりひときわ大きな嗤い声が今聞こえた。

2007年2月22日 (木)

Feldeinsamkeit

ブラームスを代表する歌曲。作品86-2の題名である。

「ふぇるとあいんざむかいと」と発音する。「Feld」は英語で言うところの「Field」だから「野」とでも解されよう。残る「einsamkeit」は「einsam」と「keit」に分けて考えるといいらしい。「einsam」は「孤独な」という形容詞だ。「-keit」は形容詞を名詞化する語尾である。だから「einsamkeit」で「孤独」となる。ドイツ語の単語は偉く長ったらしい。これが理解を妨げる原因の一つだろう。

「keit」が付くと何だか哲学の授業を思い出す。抽象化が得意なドイツ語に特有の語尾だと思う。このパターンの言葉は日本語への転写が難しい。

「野の寂しさ」「野のさびしさ」「野の淋しさ」「野に一人いて」「野にひとりいて」「独りの野」「野の静寂」など、ただただ訳者の苦労がしのばれるばかりである。

同様な現象が、作品85-6「Im Waldeinsamkeit」でも起きている。こちらは「Wald」だから「森の孤独」とでも解し得るタイトルである。どちらの「孤独」もゆったりとした長調で、しっとりと歌い上げられる。ブラームスにかかると「孤独」は上質のワインのようである。

さて、本日話題の「Feldeinsamkeit」に最近ドップリとはまっている。歌曲の扉を開けてくれたのが「五月の夜」op43-2で、「永遠の愛」op43-1がヒットエンドランを決めてチャンスを広げたとすれば、「Feldeinsamkeit」は先制のホームランと位置付けられよう。私の歌曲受容史の中でも、ひときわ深く輝いている。わずか35小節の小品ながら只者ではない。お風呂で口ずさむことしきりである。

「Feldeinsamkeit」の作詞者は、Herrman Allmersというドイツ・ブレーメン生まれの詩人だ。1821年生まれだからブラームスより12歳年長。何ということか、作詞者本人は、ブラームスによるこの付曲が不満だったと伝えられている。

やれやれ、いろんな考えがあるものだ。

2007年2月21日 (水)

パニック

コミック「のだめカンタービレ」第17巻に千秋真一がパニックに陥るシーンが描かれている。マルレオケ第2391回演奏会での出来事だ。ベートーベンの第4交響曲の中で起きる。千秋は一瞬今いる箇所を忘れる。94ページ最下段のコマだ。

演奏の冒頭から異変に気付いていたトマシモンの洞察力とリーダーシップ、そしてマルレオケメンバーの機転で、最悪の事態だけは免れるが、判る人には判ってしまう。原因は弾き振りのバッハのコンチェルトの演奏後に父の姿を客席に見た千秋の心の動揺にある。原因となった父はその瞬間「バーカ」と念ずる。ロランくんにも見通された。新聞の批評では「若者の背伸び」と書かれる。譜例に霞がかかっていてどの場所かわからない。第1楽章だろうとは思う。

私にも似たような経験がある。1980年6月22日千葉大学管弦楽団第47回定期演奏会のメインプログラムの中で起きた。何を隠そうブラームスの第一交響曲第2楽章である。38小節目からのオーボエのソロが消えたのだ。ヴァイオリンとヴィオラは拍頭に休符を持つシンコペーション気味の刻みなので、非常に数えにくいところだ。オーボエを聴くことによってのみアイデンティーを確認するという感じの場所だ。その肝心要のオーボエが落ちた。得てして「何でまた!」というようなところでトラブルが起きるものだ。オーボエに続くクラリネットも落ちた。一同もうだめだと思ったところで、チェロが決然とインテンポで入ってきた。後から思えばこのチェロが救いの神だった。チェロが曲がりなりにもインテンポで入って来なかったら止まっていた。後でチェロの連中に聞いた話では「オーボエを聴かずに数えていた」ということだった。今風に言えばリスク管理だろう。もちろん今では良い想い出だ。

何かと厳しいトマシモンはさすがである。93ページ左上スミのコマを見るがいい。「指揮を見るな」という合図があるのかという感じである。その合図をとっさに出すコンマスもコンマスなら、それを読み取るオケもオケだ。このとき千秋と父の葛藤はオケ全員誰も知らぬはずである。何がそうさせるのか?自分へのプライド、オケへの愛情、千秋への信頼などいろいろ考えられるが、結果として危機回避のためにオケは一致団結した。「ボレロ」や「魔法使いの弟子」でのあっけない決壊とは雲泥の差だ。

演奏会後、楽屋通路でのトマシモンの愛ある説教、後日ライブラリーでのテオの新聞音読およびそれに続くトマシモンのおやつ付きフォローには、暖かみを感じた。千秋がいることをテオから知らされている可能性を考えたい。でなければトマシモンにおやつを持ってライブラリーを覗きに来る癖があることになる。実はテオとトマシモンもいいコンビなのだ。客演指揮者アーロン・ネヴィルの使いッパシリと化す千秋とそれをネタにテオを叱るトマシモンの光景は、その延長線上にある。「うちの常任に人前でそんなことさせるな」とトマシモンが口走る場面がある。175ページ右下だ。13巻131ページ目で千秋の常任指揮者就任を聞かされて「私はまだ認めていない」と言い張った本人であることを考えると、この発言は感動的である。

その雰囲気は、トマシモンとテオだけにとどまらず、全員に伝染していたと解するべきである。巻末も程近い187ページ。ミスを謝るべきか迷いつつリハーサルに臨んだ千秋を迎えた足踏みがその根拠である。

第17巻まるまる一冊を使って、マルレオケと千秋の関係が「不滅」であることが描かれる。そしてそれが千秋自身のミスによって強調されるという筋立てだ。のだめとの微妙なすれ違いとは対極にある。

2007年2月20日 (火)

16倍の優しさ

自分が志望する学校が16倍の難関だったらちょっと引いてしまう。少子化の世の中でも一部ではそういうことも起きているらしい。

ピアノ協奏曲第2番の第3楽章アンダンテは「dolce」の巣だ。楽章中に16箇所もちりばめられている。この16という数字をまずご記憶いただくことにする。演奏家たちはこの「dolce」の絨毯を踏みしめながら歩むのだ。サプライズは59小節目に待ちかまえている。クラリネットに「ppp dolcissimo」が出現するのだ。「~issimo」は最上級を作り出す機能があること周知の通りであるから、16回出現する「dolce」より1ランク上の「優しさ」であることが求められる。つまり16倍の難関を突破した優しさを表現しなければならない。

さらに「dolcissimo」は生涯で17回用いられながら「ppp」との共存はここ1箇所にとどまっている。

そのつもりでこの場所を聴いてみる。第3楽章ばかりか全曲の響きの底を形成していることが実感出来よう。頭の隅のどこかに独奏チェロの疑似再現部に向けての出発点であることもとどめておきたい。

ここを聴くと思い出す歌がある。

我が宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも

天平勝宝5年2月23日の詞書を持つ。無論旧暦だから今よりは少々暖かくなった時期の歌だ。「音のかそけき」という表現に、作者の音に対する鋭敏な感性が投影されているように感じる。「いささ群竹」は学者の間でも解釈の割れる難解な表現とされるが、かすかな風に竹の葉が擦れ合う様の描写と考える。作者は屋内にいてそれを聞き分けているか、あるいは想像していると解して誤ることは無かろう。風の音とも竹の葉の擦れ合う音とも付かない微妙な音だ。この微妙さが「ppp dolcissimo」とピッタリ呼応するような気がしている。

作者大伴家持は万葉集の編纂に関わったとも目される人物だ。万葉も末期とあって何やらロマン派っぽい感じの作風である。人々が盛んに喜びを表現する春を、彼はしきりに「悲しい」「うら悲しい」と歌う。

私の中ではブラームスっぽいと感じている。

2007年2月19日 (月)

検索ワード

検索するためのキーワードのこと。単数のこともあれば複数が「AND検索」や「OR検索」されることもある。昨今の検索エンジンの進歩は周知の通りである。検索エンジンの進歩と並んで忘れてならないのが、解析ツールの進歩だ。どんな検索ワードからブログにたどり付いたかを正確に捕捉出来る。

ブログ「ブラームスの辞書」への検索ワードを観察してたら、「のだめ、父、指、6本」というキーワードで検索されていた。そのものズバリの記事「6本の指」が2月14日に公開されている。こういう検索のされ方はブロガー冥利に尽きる。

多くの語彙が使われている程、検索され易いことは言うまでもない。その特性を狙って、本文とは関係なく、それっぽい単語だけを検索用に書き連ねるというテクも存在するという。商売に関わるブログの場合死活問題だろうから致し方ないが、趣味でコツコツのブログには似合うまい。

2007年2月18日 (日)

Gisのお約束

バッハのイ短調協奏曲に挑む次女の話だ。

曲に取り組み始めてから3ヶ月が経過した。着実に向上している。音を間違えることはほぼ無くなってきた。細かな表情をつけて行かねばならないし、暗譜も徹底せねばならない。最近のレッスンでは、半音への意識をより高めようと言われている。半音関係にある音を取るとき、「私の半音聴いて!」くらいに気持ちを込めるという意味だ。全般に半音の幅が広いという欠点を矯正する狙いも込められている。以前に比べれば、譜読みも進んだせいか、いわゆる「間抜けな音程」をさらけ出すことは少なくなった。指を正しい位置に置くための事前の準備も自然に出来る確率が高まった。先生の指示はさらに上のレベルを目指す意味合いがある。

数ヵ所音符に鉛筆で丸を付けて、「この音ハズしたら罰金よ」と先生に言い渡された。よくよく見ると、それらは全部「ソのシャープ」だった。つまり「Gis」である。イ短調の協奏曲にとってGisは導音だ。主音Aを追い求める大切な音。でも短調の悲しさで放置しているとGにとどまってしまうのだ。大抵は臨時記号によって修飾されるこの音を、とりわけ「はずすな」という指示なのだ。高めにハズす心配を先生はしていないと思う。次女の傾向から見て「Gisが低くなること」を憂いてのお導きに決まっている。

何故低いといけないのか次女に説明した。「ホラね。低いと気持ち悪いだろ」という説明でコックリとうなずいてくれた。「導音」などという屁理屈は、後回しでいい。「低いと気持ち悪い」という感覚こそが最強の説明である。

2007年2月17日 (土)

弓購入しました

本日私のヴィオラ用の弓を購入した。

今まで使っていた弓は、今から26年前に楽器と一緒に買い求めた物だ。楽器は31万円の西ドイツ製。弓は7万円のフランス製。ケース込みで40万円の買い物だった。バイト代とお年玉3年分をつぎ込み、それまで使っていた楽器を売り払って学生最後の演奏会にやっと間に合ったという訳だ。

その後長男が生まれる直前だから15年前、今の楽器を買い求めたが、そのときは予算がなくて弓には手が回らなかった。だから我が家はヴィオラは2本あるのにヴィオラの弓は1本しかない状態が続いてきているのだ。

昨年長女には弓を、次女にはヴァイオリンと弓を買い求めたが、先生の助言もあってある程度弓にも予算を割いた。特に妻の形見のヴァイオリンを弾かせる長女には、楽器を買ってやらない代わりに弓を良くしてあげたのだ。効果の程は歴然だった。同じ楽器なのに音色や出方が全く変わってしまった。12万円の出費だったが後悔していない。妹にも同等の弓を選んだ。

今思えば、自分の弓が欲しくなるのは必然のなりゆきだった。

いくつかお店に足を運んだ。「ヴィオラの弓を探している」と言うと、なぜかどこのお店でも最初に「ご予算は」と聞かれる。内心ご予算は決めていても出来れば値札は伏せて試したいのだが、そうも行かない。仕方なく2、3割低めの金額を申し上げている。その瞬間にどの程度の客か見抜かれているのだろう。最低4~5本は目の前に並ぶ。値札を見ないようにして全部試してみる。大して腕に自信がないものだからこれがまた恥ずかしい。なじみが無いお店だと、恥ずかしさがさらに増幅する。店員さんだけではなく周囲に別のお客さんもいると、変に気を遣ってしまう。いじけた弾き方をしていては、弓の良し悪しもわかりにくくなるから、このあたりはジレンマである。弦楽器フェアとか弓フェアというイベントになると品揃えも良い代わりに、他のお客の集まりもいいだけにいっそう恥ずかしい。もちろん品揃えは肝心なのだが、心おきなく試せるという雰囲気も大切である。下手っぴにもそれなりの悩みはあるものだ。

相場感覚を感じただけで終わってしまった。

結局は、娘らの楽器でもお世話になっている近所のヴァイオリン屋さんで購入した。ある程度気心が知れているせいで心おきなく試せた。事前に予算を伝えておいて6本程準備してもらった。もちろん値札は伏せてだ。寺社仏閣のお守り、あるいは薬と同じで高い程良いと錯覚してしまうからだ。何よりも感覚優先だ。46センチの巨大ヴィオラが機嫌良く鳴ってくれるパートナーを探したという感覚である。私はどちらかというとC線の鳴り方優先の考えだ。「どうせA線はヴァイオリンにもついてるし」といういじけた感じも嫌いではない。

まずは、楽器を弾かずに持った感じと、見た目で探りを入れる。15分ほど音を出さずに比べた。この段階で気に入った順に並べておく。この段階で実は一本ダントツに気に入った弓があった。それに続く弓は3本だ。今回はちょっとパスしたいという弓が2本である。

次はいよいよ音出し。先の持った感じと見た目の順位を修正して行く作業だ。とても文字に出来ない微妙な作業だ。かれこれ小一時間は試したと思う。見た目と持った感じでダントツだった弓のほかに2本が候補として残った。ここで値段を聞く。見た目と持った感じを一目惚れした弓は2番目に高い価格でブラジル製だった。ほぼ2番手と目した弓が何と何と一番安い弓でドイツ製だった。一番高い弓は残念ながら良いとは感じなかった。一番手と二番手の価格は嬉しいお値引き後で12万円と20万円だ。両者8万の差が妥当かどうかの微妙な判断をすることになって、結局直感優先で前者20万を選んだ。ブラジル製である。

私にとって最後の弓になるであろう弓はブラジル製、楽器はドイツ製だ。なんだかワールドカップみたいだ。

無性に楽器が弾きたい。弓や楽器を変えるといつもこうだ。

最後に忘れてはならないこと。25年間がんばってくれた弓にお礼をいうことだ。キチンとオーバーホールをして昔のヴィオラとセットでしまっておきたい。どちらかの娘がヴィオラを手にする日まで、時折私がかまってやるのが一番だ。

2007年2月16日 (金)

オーバーホール

今週の火曜日に長女の楽器を調整に出した。以前次女の楽器のE線の鳴りが悪いのを相談したところ、魂柱の交換と若干の位置修正で、見違えるようになった。そうなってみると今度はお姉ちゃんの楽器の鳴り方が気になっていたのだ。全般にこもった感じがしていた。チュウニングがしにくい感じだ。音程がピッタリはまっているのに共鳴する感じに乏しかった。ちゃんと鳴らせるのは長女だけみたいな感じは嫌ではないのだが、スカッと抜けない感じは気持ちのいいものではない。

魂柱の調整で様子を見ることにした。ついでにクリーニングとニスの剥がれた箇所のコーティングだ。明日17日に出来上がることになっている。その間妹のヴァイオリンを借りて練習していたが、同じヴァイオリンといっても人の楽器だと勝手が違うようだ。5月の発表会の直前を避けて正解だった。

ついでにさっぱり判らなかったラベル表示について教えてもらった。プルトンというフランスのメーカーの製作で1821年製だということが判った。割と見かける楽器製作のグループだそうだ。ブラームスが生まれる前の楽器で、ベートーヴェンも存命中だ。私のヴィオラより56年も年上ということになる。

2007年2月15日 (木)

チューバ

コミック「のだめカンタービレ」17巻の表紙はチューバだった。

「Tuba」と綴る。金管楽器の低音担当だ。ある意味管楽器の王者である。「管」を意味する「Tube」(チューブ)と語源が重なっている。

ブラームス作品では意味ありげな用いられ方をしている。

  1. 交響曲第2番op73 1877年
  2. 大学祝典序曲 1880年
  3. 悲劇的序曲 1880年

上記3曲にのみ出現する。交響曲、協奏曲を含む管弦楽13曲のうちわずか3曲で用いられるだけなのだ。1877年から1880年の4年間に集中しているように見える。

さて、木管楽器での最低音担当はコントラファゴットである。チューバとの出番の棲み分けで面白い現象がある。コントラファゴットのある作品は以下の通りである。

  1. ハイドンの主題による変奏曲op56
  2. 交響曲第1番op68
  3. 大学祝典序曲op80
  4. 交響曲第3番op90
  5. 交響曲第4番op98

コントラファゴットとチューバがともに用いられているのは大学祝典序曲だけだ。協奏曲には姿を現さない点チューバと同じだが、どうやらこの両者共存が避けられている感じである。

2007年2月14日 (水)

6本の指

コミック「のだめカンタービレ」最新巻の17巻のお話だ。千秋雅之のリサイタルの場面だ。146ページ最下段に注目願いたい。休憩時間の描写の後だから明らかにベートーヴェンを弾く場面とわかる。

ピアノの鍵盤の押され方から見て右手によって6度とオクターブが打鍵されている。コマの左端のほうでは根音が打鍵されていることも見て取れる。何故根音と判るかというと、右手によって打鍵されている音が仮に「C-A-C」だとすると低い方の「C」から左に数えて11個目の鍵盤が下がっているので、「F」だということが判る。つまりFdurの根音だ。

ベートーヴェンのハ短調のピアノソナタのどこの描写なのか知りたくて、このようなことを考えていた。結局音が特定できずに諦めたが、別の発見があった。

千秋雅之の右手の指が6本描かれていることに気付いた。もしかすると指の動きが速いことを表現しているのかもしれない。トリルか前打音を表現した可能性もある。よくよく見ると小指と薬指の関係も不自然に見える。親指と薬指でCのオクターブを取りつつ、小指がAを押えているようにも見える。

2007年2月13日 (火)

のだめの中のブラームス【24】

コミック「のだめカンタービレ」第17巻の発売日だ。さっそく購入してノダダス入力を終えた。

今回もまたブラームスが登場した。144ページ。のだめが内緒で忍び込んで立見席で聴く千秋雅之のリサイタルだ。この日のプログラムは以下の通り。

  1. バッハ パルティータ第2番 ハ短調BWV826
  2. ブラームス ピアノ小品集 op118
  3. ベートーヴェン ピアノソナタ第32番ハ短調op111

144ページにブラームスのピアノ小品集op118が描写される。作品118の6曲全てが演奏されたのか、一部の抜粋なのかはコミックを読む限り不明である。3番ト短調のバラードと、5番ヘ長調のロマンスが弾かれたことは確実だ。意図的にインテルメッツォをはずしている可能性もあるが推測の域を出ない。

ブラームスの後の休憩時間における聴衆の反応から情感豊かな演奏だったことが判るが、芸風に変化があったこともまたさり気なく仄めかされている。17巻にして初めてクローズアップされる千秋真一の父の姿である。

151ページにささやかなサプライズが用意されている。リサイタルの様子をのだめが千秋に語るシーンだ。コミック「のだめカンタービレ」17巻にしてはじめてのだめ本人がブラームスに言及した。予測に反して長音棒が省略されずに「ブラームス」となっている。「ベートーヴェン」が「ベトヴェン」になっていることと対照的だ。

2007年2月12日 (月)

相乗効果

次女が、毎日個人練習をすることを突然宣言してから2ヶ月が経過した。驚いたことに今もその習慣は続いている。と言うより定着したと言い換えてもよい。さらにこれには嬉しい余禄もついてきた。妹に刺激されて姉も、実は個人練習を始めているのだ。これには驚いた。部活を理由にして、何かとヴァイオリンをさぼりたい長女が自ら進んで個人練習とは恐ろしい。毎日ではないようだがどうもやっているみたいだ。

実はこれには微妙な心理のアヤが作用している。妹がこのところレッスンで誉められるのだ。ヴァイオリンを同時に習い始めたとはいえ、お姉さんの貫禄を見せてずっと一段高いレベルの曲に挑んでいた姉だったから、妹の進境著しい様子が気にかかるのだ。

それほどここ数回の次女のレッスンは中身が濃い。練習してあるというのが明らかに判ると先生はおっしゃる。弾き込んであるとも表現される。先生の前で弾くときのミス自体も少なくなるが、それを指摘された時の飲み込みが段違いに早くなっている。以前は練習不足がそのまま音になり、先生に注意されても「どこのこと」みたいな無惨な反応を示すこともあったが、それがすっかり影を潜めた。そうなればしめたものだ。先生は到達度に応じて次々と上のレベルの指導をしてくれる。それをまた次回にはキッチリ習得してみせるという良い流れが定着するのだ。

それを横目で見ているお姉ちゃんは、内心面白くないのだ。第7ポジションもようやく板に付いてきたのだが、まだまだ間抜けな音程もある一方で、暗譜は全然不安ではないらしい。「譜読みさえ終わればこっちのもの」式の根拠の明らかでない自信に溢れている。このあたりのアンバランスが年頃の娘ならではだ。

2007年2月11日 (日)

口コミ

思うに最強の広告。物騒な世の中、せちがらい世の中になればなるほど「親しい知人のお薦め」というのは貴重である。「親しい知人のお薦め」がいつも「確かなもの」とは限らぬが、不特定多数の人が同じ物やサービスを知人に薦めるということが重なると「確かでない物」は淘汰されると思われる。物やサービスの発信者がコントロール出来ないから、マーケティングとは言えないまでも「口コミ」をなめたらいけない。「とっておき感」「私だけ感」「掘り出し感」がそこはかとなく漂っているのも「口コミ」のありがたみの一つだろう。「口コミ」の波にいかに乗るかという開発コンセプトの商品があってもおかしくない。意図的に乗れる程甘いものではないが、夢がある。

企業にあっては不可避の追求要素「費用対効果」の面でも「口コミ」は無敵である。商品やサービスの出し手の広告費はゼロだ。リスクは無い。強いて言えば売れ過ぎることによる欠品にどう対処するかだろう。人気タレントがテレビで口走ったことで瞬間的な需要が発生するケースとは区別しなければならない。

昔は文字通り口伝えだったと思われる。せいぜい電話がいいところだ。今はネット環境の発達でユーザー側の横の連携は様変わりしている。波及の速度や範囲は「口コミ」の字面からは想像も出来ないくらいに増強されている。

「良い品物には広告不要」なのだ。そういえば今をときめく「のだめ」も当初は「口コミで細々」だったと聞く。ブログ「ブラームスの辞書」も「口コミ」される側に回りたいものだ。

2007年2月10日 (土)

九重奏曲ニ長調

ブラームスの室内楽は二重奏から六重奏まで24曲だ。だから九重奏曲は本来は存在しない。しかし、ブラームスの少し詳しい伝記や解説書を読んでいると九重奏曲に言及されている。現在作品11となっている「管弦楽のためのセレナーデニ長調」は、当初九重奏曲として一応の完成を見ている。編成は、フルート、クラリネット2、ホルン、ファゴット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスである。現在の第二と第五の両楽章が抜けていたらしい。第四楽章の愛らしいメヌエットは既に完成していたということだ。九重奏のうちクラリネットだけが2本になっているのは、メヌエットのためだと密かに確信している。2本のクラリネットとファゴットが奏するメヌエットは、ブラームス史上最高のメヌエットだと固く信じている。

残念なことにipod上で完成した「私家版ブラームス全集」にはこの編成での九重奏版は収録されていない。しかしながらクラリネットを1本にして、かわりにオーボエを差し挟んだ編成のバージョンが取り込まれている。

最大の興味はあの第四楽章のメヌエットをどのパートに演奏させているかという点だ。「2本のクラリネットにファゴット」という言わば完結した小宇宙をいったいどう再現しているかがポイントだ。クラリネットの代わりに入ったオーボエが吹いていたら幻滅である。

結論から言うと2番クラリネットのパートを演奏するのはなんとヴィオラなのだ。演奏を良く聴くとわかる。1番クラリネットの6度下でヴィオラが粛々と鳴っている。どこのどなたかは存じ上げないが、見識を感じさせる編曲だ。

実を言うと管弦楽版よりキビキビ感が際立っている気がして、最近は専らこちらを聴いている。

2007年2月 9日 (金)

ヴィオラのサイズ

ヴィオラの胴長には規格が存在しない。ヴァイオリンは胴長35.5cmに決められていることとの大きな違いである。物理の法則に従えば、ヴァイオリンより5度低い音を出すヴィオラはヴァイオリンの1.5倍のサイズが必要になるという。35.5cmの1.5倍で、実に53.25cmということになる。これでは首に挟んで演奏することが出来ない。全くもって現実離れしたサイズである。人が首に挟んで演奏する方法にこだわるならば、サイズを妥協する他はない。現行の標準的なヴィオラは、大体ヴァイオリンの15%増のサイズを採用している。これで首に挟んで演奏する方法は維持できたが、サイズを妥協しながら5度低い音を出すために弦の太さを増すことで埋め合わせた。その結果ヴァイオリンのような華麗な響きが犠牲になったという図式らしい。

つまりヴィオラのサイズは、ヴァイオリンと同等の響きと楽器の取り回しの綱引きの上で決定されると言ってよい。このバランスはなかなか決定打がなく、ヴァイオリンにおいては究極の回答を導き出したイタリアの天才製作者たちも結論に至ることが出来なかったのかもしれない。

このことは、現在も頻繁に行われている論争の出発点になっている。

「ヴィオラは大きいほうがいいのか」である。

大きい小さいという議論は客観性を欠くので、ヴィオラについてのさまざまな書物やインターネット上の記述を総合して仮決めしてみた。

  1. 小さいヴィオラ 39.5cm未満
  2. 普通のヴィオラ 39.5cm~41.5cm未満
  3. 大きなヴィオラ 41.5cm以上

ヴィオラに限らず楽器の良し悪しはサイズで決まるものではない。音色が第一で、それに取り回しや見た目、さらにはコストパフォーマンスが複雑に絡む上に、主観にも左右されるという代物だ。だから大きさだけを取り立てて論じるのは片手落ちなのだが、ヴィオラに関しては主たる論点になりがちである。

その証拠にショップでのヴィオラの値札には必ず胴長が記入されている。ネット上のカタログでも記載がある。つまりヴィオラ購入者にとって胴長は必須の情報なのだ。ヴィオラ弾きどうしの会話では胴長の話にしばし花が咲くことが多い。ヴィオラの音色を左右する重要なファクターのひとつなのだ。

でありながらヴィオラの大きさに関する優劣の議論はしばしば不毛に陥りがちである。「ヴィオラという楽器は、大きいほうがらしい音がする」という論旨と「そうは言っても取り回しが出来ねば身も蓋もない」「バシュメットのヴィオラはけして大きくない」という論旨が堂々巡りを繰り返すのが主要なパターンだ。「取り回しの悪さ」を理由に必要以上に小さなサイズのヴィオラに走る弾き手がいやしないか心配である。

たとえばヴィオラに進出を決めたヴァイオリン弾きが、店で楽器を選ぶ場面を想像願いたい。ご予算に合わせて選ばれた楽器を順に試奏するだろう。このとき必ずある種の違和感を感じるはずだ。大抵は楽器の大きさから来る違和感と、音のレスポンスから来る違和感の組み合わせだ。特に前者大きさから来る違和感は、実際には慣れによって減ずるハズのものであるし、ヴィオラ進出を決めた以上当然降りかかる違和感であるにもかかわらず、それを「取り回しの悪さ」と認識してしまう。かくしていくつかの候補楽器の中から、違和感の最も少ない小さな楽器が選ばれてしまうというパターンは想像に難くない。

私のように先にヴィオラに親しんで、娘に教える都合上後からヴァイオリンに手を出した場合は、ヴァイオリンのレスポンスの良さこそ感じるもののさしたる違和感はない。ヴィオラで弾くと音程の怪しく鳴り始めるH音が第一ポジションで弾けるのが嬉しかったりするくらいだ。しかしこのパターンは少数派だろう。

話がそれた。本来「本質論」と「運用論」として別々に議論されるべきだと思われるがいつも混ぜこぜで議論されるために水掛け論の域を抜けられないでいる。「ヴィオラらしい」の定義が曖昧なことも混迷に拍車をかける。最後には大抵穏やかな性格の仲裁者が「身体に合ったサイズが一番」という論旨で割って入ってお開きになる。もちろん「身体に合ったサイズ」の定義は曖昧なことのほうが多い。

私のヴィオラは胴長約45.5cmだ。メジャーをあてると45.5cmと46cmの間くらいだ。先の定義に従えばおつりの来るくらいの大型だ。私自身が体格に恵まれたお陰と、大きなヴィオラが好きなせいで何とか使っているが、取り回しはお世辞にも良くない。でもC線の鳴りが気に入っていることで帳消しだ。それに良く考えると指が回せないことや音程が悪いのは、「取り回し」つまり楽器のサイズのせいではない。空振りが多いのをバットのせいにしてはいけないのだ。それならばせめて音だけでもそれっぽくというのが購入の動機である。取り回しの悪いヴィオラに四苦八苦しながらというのも楽しみのうちだったりする屈折した心情もある。何よりも46cmというサイズはヴィオラ愛好家同士の会話では話のタネになるのだ。

サイズに関してさまざまな議論があることは今述べた通りだが、大きな声では言いにくい傾向をウスウス感じている。それは「大きなヴィオラの持ち主は大抵大きなヴィオラが好きだ」ということだ。つまり、本当は小さなヴィオラの方がいいと思っているのに、仕方なく大きなヴィオラを使っている人はいないような気がしている。とても嬉しい傾向である。

ヴィオラ愛好家のブラームスに尋ねてみたいことの一つである。ブラームスはヴィオラに一家言もっているに決まっている。

2007年2月 8日 (木)

音楽が来る

クララ・シューマンの許に弟子入りしていたピアニストにブラームスがレッスンをしていたことがいくつかの証言から明らかになっている。高名な女流ピアニストも少なくない。

ある日その中の一人がブラームスに向かって「先生(ブラームスのこと)は何故、私たち女性が弾きにくい曲ばかりお書きになるのでしょうか?」と尋ねた。なるほどブラームスのピアノ作品は、手が大きくて筋力が強い方が演奏に有利な場合が多い。このあたりの事情を意識しての、自然な質問だと思われる。

ブラームスの答えは「そういう音楽があちらからやって来るンだよ」というものだったらしい。「私のせいじゃないよ」とでも言いたげである。作曲家の脳味噌の中が想像されるやりとりである。

「音楽が来る」という表現は面白い。「自分は来た音楽をただ楽譜に定着させただけだ」とでも言いたげである。この考え方を辿って行くと、作曲家の才能はつまり「音楽が来るかどうか」にかかっているという結論に到達する。もしモーツアルトが言ったというなら、なるほどという気にもさせられるが、言っているのがブラームスだというのが素晴らしい。チラリと浮かんだ楽想をいじり回すという作曲技巧の側面ばかりがとかく強調される傾向があるが、バランスを失してはいけない。せっかく来てくれた音楽を、第三者にもわかるようにという記譜上の工夫は存在するのだろうが、それは「あーでもないこうでもない」という苦心惨憺の生みの苦しみとは区別されねばなるまい。ブラームスもまた、作品は頭の中で出来上がっていて、ただそれを楽譜にダウンロードしただけという側面が強いのではないだろうか?第一交響曲といえば、自動的機械的に「作曲に20年かかった」とする解釈がまかり通っているが、疑問無しとしない。

もちろん、次から次へと来る音楽が結果として世の中に流布しなかったという人が一番多いということは言うまでも無い。

2007年2月 7日 (水)

三重奏の決め事

昨日の記事と密接に関係がある。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/02/post_42db.html

世の中「三重奏曲」と言えば「ピアノ三重奏曲」である。ピアノ、ヴァイオリン、チェロのこの編成は、弦楽四重奏と双璧を為す室内楽の根幹だ。古来名曲には事欠かない。この編成があまりにオーソドックスなものであるがゆえに、悪戯したい作曲家も少なくない。この編成以外の編成の曲を作りたいと思うのが人情だ。

ブラームスにも以下の通り少し変わった編成の三重奏曲がある。

  • ホルン三重奏曲op40 ピアノ、ヴァイオリン、ホルン
  • クラリネット三重奏曲op114 ピアノ、クラリネット、チェロ

ところが上記2作品ともよくよく見ると、原点たるピアノ三重奏曲の編成から1個だけ楽器を差替えたに過ぎない。チェロをホルンに代えればホルン三重奏曲だし、ヴァイオリンをクラリネットに差替えればクラリネット三重奏曲になるという訳だ。このあたり何だか慎重派のブラームスらしい。原点たるピアノ三重奏曲から総入れ替えでは、知見の蓄積が足りなくて厄介だとでも思ったのではあるまいか。代えるなら一個ずつに限ると考えていたのかもしれない。

この両者には他にも意外な共通点がある。差替えられた2種類の管楽器ホルンとクラリネットをヴィオラに持ち替えることをブラームス本人が承認していたという。クラリネット三重奏曲は自らヴィオラ版を編曲している。ホルン三重奏のホルンをヴィオラに差替えたバージョンには一定の理解を示していた一方で、チェロ版の出版を承認しなかった逸話もあるそうだ。それはもっともな話だ。クラリネットをヴァイオリンに戻したり、ホルンをチェロに戻したりしたら、単なるピアノ三重奏曲の編成に逆戻りするだけだ。それでは何のための風変わりな編成だか分らなくなるというものだ。

それにしても「アルトとヴィオラとピアノのための歌曲作品91」は上記の原則から見れば相当思い切った編成だ。ピアノ以外は入れ替えということになるからだ。風変わり度で言うならこちらが一枚上手である。

2007年2月 6日 (火)

噂をすれば

1月25日の記事「ホルン三重奏曲ヴィオラ版」でホルンパートをヴィオラやチェロに差し替えたバージョンの存在に言及した。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/01/post_48fb.html

CDショップを覗いていて掘り出し物をゲットした。まさに先日話題にしたばかりの「ホルン三重奏曲チェロ版」のCDを買い求めた。ブラームスが承認したというヴィオラ版のCDがまだ発見出来ずにいるというのに、承諾していない方のチェロ版を発見するとは皮肉なものである。ドイツ製のCDで演奏者は下記の通り。

  • ピアノ Andreas Froelich(ドイツ1963生まれ)
  • ヴァイオリン Sonja van Beek(オランダ1973生まれ)
  • チェロ Floris Mijnders(オランダ1966生まれ)

オランダ系は読み方がさっぱり判らない。この手のCDで女性奏者の生年が明記されているのは珍しい。

クラリネット三重奏曲のヴィオラ版よりも楽しめる。ホルン三重奏曲のホルンがチェロに差し替えられたと思って聴き始めるのだが、聴き始めてすぐ、「それはつまり通常のピアノ三重奏の編成だ」ということに気付かされる。油断していると編曲物だということを忘れてしまう。 

2007年2月 5日 (月)

ブラームスの絵本

ブラームスの絵本を見つけた。世界の音楽家たち第Ⅱ期の中の一冊だ。

淡々としたイラストで好感がもてる。副題が「新古典派の完成者」となっている。ページ数にして40ページにも満たないがブラームスの伝記的事項が手際よくまとめられている。両親、コッセルやマルクセンという恩師、レーメニ、ヨアヒム、シューマンという恩人。そしてクララ、アガーテ、リーズルなどなどの女性たちにも簡潔に言及されている。

中でも目を引いたのが、ウイーンのカールスガッセ4番地のブラームスの住居のイラストだ。文献や関係者の証言を元に間取りや調度が再現されている。イメージが膨らませ易くて何だか貴重だ。それから第一交響曲完成までの紆余曲折がスゴロク化されている。カルタじゃなくて良かった。

ほんの立ち読みで済ますつもりでいたが、発行年月日を見て驚いた。2006年5月30日とある。ブログ「ブラームスの辞書」の開設記念日だ。軽視し得ぬ縁を感じて思わず購入してしまった。

2007年2月 4日 (日)

ドローの法則

生物学用語。特に古生物の分類学で威力を発揮しているという。「一度退化した機能・器官は、その動物の子孫の系統上では絶対に再発生しない」というものだ。

たとえば人間の祖先はサルと同一とされている。先祖には確かに尻尾があったが、人類は進化の過程のどこかで尻尾が退化してしまっている。するとこの先人類の子孫には尻尾が再度発生することはないということだ。この法則は恐竜などの古生物の系統樹を作成するときに威力を発揮するという。

メヌエットを思い出した。ハイドンやモーツアルトあたり、もちろんベートーベンにだって頻繁に出てくるドイツ音楽を代表する舞曲だ。フランスを起原とする4分の3拍子の舞曲は交響曲を始めとするソナタの中間楽章として定着するに及んで全盛期を迎える。ところがベートーベンがスケルツォを考案して風向きが変わる。メヌエットはベートーベンの中期以降すっかりなりを潜めてしまう。何と言ってもベートーベンは交響曲の完成者とされている。特にドイツではベートーベンの交響曲は規範化神格化されていった。そのせいかメヌエットはすっかり退化してしまう。ドローの法則をあてはめるなら、この先交響曲にメヌエットを入れる作曲家は現れないことになる。交響曲を含むソナタでは退化してしまったメヌエットもセレナーデやディヴェルティメントの中では生き延びている。もっともセレナーデやディヴェルティメントというジャンル自体は絶滅危惧種になっているが。

もちろんブラームスも交響曲には一切メヌエットを起用しない。以下がブラームスのメヌエット利用状況である。

  1. 管弦楽のためのセレナーデ第1番op11第4楽章MenuettoⅠ
  2. 管弦楽のためのセレナーデ第1番op11第4楽章MenuettoⅡ
  3. 管弦楽のためのセレナーデ第2番op16第4楽章Quasi menuetto
  4. 四重唱曲op31-1Tempo di menuetto,con moto
  5. チェロソナタ第1番op38第2楽章Allegretto quasi menuetto
  6. 弦楽四重奏曲第2番第3楽章1小節目 Quasi menuetto,moderato
  7. 弦楽四重奏曲第2番第3楽章73小節目 Tempo di menuetto
  8. 弦楽四重奏曲第2番第3楽章123小節目 Tempo di menuetto

上記の1番と2番は面白い。通常なら「Trio」に相当する場所に「MenuettoⅡ」が置かれている。面白がってばかりもいられないことがある。ブラームスが楽譜の上で「Menuetto」と断言しているのは、管弦楽のためのセレナーデ第1番の用例2箇所が最後なのだ。上記の3番以降は注意深く「Menuetto」という断言を避けている。「ほとんどメヌエットで」ないし「メヌエットのテンポで」という表現にとどまっている。「作品自体はメヌエットではないのだけれど、メヌエットのテンポを借りる」というニュアンスが充満している。特に上記5番6番は、ブラームスがソナタにメヌエットを入れにくいという空気を読んでメヌエットと断言することを避けたのではと思えてくる。ドローの法則が生きているようで怖い。

一方、ベートーベンの象徴でもあるスケルツォも創作年代の後ろのほうでは明記されなくなる。特に弦楽四重奏曲や交響曲というベートーベンのホームグランドではスケルツォの表示はおろか使用自体が避けられている。

メヌエットと違ってスケルツォはブラームス以降の交響曲にも出現するから交響曲の系統樹はブラームスを境に「スケルツォ不使用派」が派生していることになる。もしもスケルツォが交響曲上で退化したのなら、ブラームス以降の交響曲にスケルツォが現れることはないからだ。同時に今後ブラームスの系統樹を引き継ぐ作曲家は交響曲にスケルツォを用いないハズである。あるいはスケルツォ不使用派に今後継承者が現れず、進化の袋小路になる可能性も否定できまい。

そんなところで派閥争いをしている暇はない。交響曲自体の命脈が既に尽きている可能性も現実味を帯びている。セレナーデやディヴェルティメントと同様の絶滅危惧種の仲間入りかもしれない。

メヌエットの運命についての生物学的考察だ。本年1月2日の記事「メヌエット」とも関連がある。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/01/post_7547.html

2007年2月 3日 (土)

お気の毒

昨年11月22日に記事「慣性恒温」をアップした。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2006/11/post_dbd6.html

生物学用語である。大きいことはいいことだという共通点のみをよりどころにブログ「ブラームスの辞書」がある種のデータベース機能を獲得してはいまいかという論旨である。

最近アクセス解析を見ていて驚いた。「慣性恒温」をキーワードにして検索した結果ブログ「ブラームスの辞書」にたどり着いた人がいるのだ。半信半疑で私も検索してみた。検索エンジンにもよるが概ね2ページ目以内だ。中には最初のページの2番目というのもあった。周囲はあたり一面の恐竜ネタである。ブログ「ブラームスの辞書」が浮くことといったらない。新種の恐竜にブラームスとでも命名されたのならいざ知らずである。

私は恐竜大好きだからたまたま「慣性恒温」という言葉を知っていて、ブログがデータベース機能を図らずも獲得してしまった様子のたとえに使った。もちろん悪気はないが、恐竜ネタハンターの身になってみるとお騒がせである。

お騒がせではあるが、これはブログ「ブラームスの辞書」の想定外の露出だと考えることも出来る。こじつけのご指摘をものともせず話題を広げておくと良いこともあるのだ。

2007年2月 2日 (金)

縁起かつぎ

何かにつけて人は縁起をかつぐ。もしかするとブラームスもと思われる事例がある。

「真実なる女性クララ・シューマン」という書物がある。クララ・シューマンの伝記である。このクララ・シューマン伝においてヨハネス・ブラームスは無視し得ない登場人物になっている。クララの人生が約半分も終わった頃登場する14歳年下のブラームスとの交流はクララ本人の死をもって幕が引かれるまで連綿と続く。言及の頻度で言うならクララの父、ロベルトに次ぐ第3位であろうことは確実である。

この中に興味深い記述がある。ショパンとシューマンの「作品2」はともに「クララ・シューマンの演奏によって日の目を見た」とする件である。ショパンの作品2は「ドンジョヴァンニの手に手を取ってによる変奏曲」で、シューマンのそれは「パピヨン」だ。いわゆる名曲解説辞典でそれらの項目を見てもクララ・シューマンとのいきさつは書かれていないことが多いのだが、もし記述が正しければ、両者の「作品2」は偶然にもクララが世に出したというニュアンスである。

ブラームスがシューマン邸をはじめて訪問した時に演奏したのはピアノソナタ第1番である。しかし、このハ長調のソナタは作曲の順番では少なくとも3番目のソナタである。現在2番とされる嬰ヘ短調、3番とされるヘ短調は既に完成されていたというのが定説である。その後シューマンの薦めにより出版にこぎつけた際、ブラームスの手元には上記3つのソナタの他に現在作品4になっっている変ホ短調のスケルツォが手駒として存在していた。推定作曲年代順に並べると以下のようになる。

  1. スケルツォ変ホ短調(現行op4)
  2. ピアノソナタ嬰ヘ短調(現行op2)
  3. ピアノソナタヘ短調(現行op5)
  4. ピアノソナタハ長調(現行op1)

自分の記念すべき「作品1」にどの作品をあてるかブラームスは考えたハズである。いや今日の趣旨からいうなら「作品2」をどれにするか考えたハズである。ショパン、シューマンの作品2がともにクララによって世に出た事実をブラームスはシューマン家との交流開始後まもなく知ったはずだからだ。自らの最初のソナタをクララに「作品2」として献呈して縁起をかつぎたいと考えたのではあるまいか。何かとシューマン家と関わりの深い「嬰へ」を考えると最古のソナタでもある嬰ヘ短調が最適と考えた。

一方そうは言っても記念すべき「作品1」は、単品のスケルツォや歌曲にはせずに、やはりソナタを据えた。シューマン家に自分を紹介してくれたヨアヒムに献呈したハ長調ソナタである。これにより嬰ヘ短調ソナタは「ピアノソナタ第2番作品2」とされ、縁起のいい「2」をめでたく重複させたという訳である。

2月2日にピッタリの話題である。

2007年2月 1日 (木)

記録ラッシュ

大型おバカ企画「ブラームスいろはガルタ」で始まった2007年1月は、ブログ「ブラームスの辞書」へのアクセスという面においては空前の記録ラッシュとなった。8日、15日、22日、23日の記事でそれに言及した。有り難い話なので出来るだけその都度ブログで言及して感謝したいと考えているのだが、この1月はそれをしていると毎日そのネタになってしまうので途中からやめにした。

昨日で1月が終わったので、まとめて振り返っておくことにする。

2007年1月に達成した新記録は以下の通りである。

  1. 週間アクセス数 916:1月22日~28日(従来の記録:752) 週に700つまり一日平均100を達成することが難攻不落の目標だったというのに、先週一気に900台に突入してしまった。
  2. 連続「週間700アクセス」突破 4週間:1月1日~28日(従来の記録:1週) 昨年1年の間、たったの一度だった週間700アクセスを、今年は毎週達成している。29日以降も好調に推移しているので5週間連続も夢ではない。
  3. 連続「日100アクセス」突破 8日:1月3日~10日、19日~26日(従来の記録:5日) 一日100アクセスは昨年まで5日連続がやっとだったのに、今年は8日連続を2回も記録した。
  4. 1日最大アクセス数 181:1月29日(従来の記録:168) 昨年の記録155は半年更新されなかった記録だ。今年に入って記録が3回更新されている。
  5. 月間最多アクセス 3640(従来の記録:2955) 従来の記録は昨年12月のものだ。つまり1日アクセス数の月間平均は100に達したことが無かったのに今月は117を記録したことになる。何が凄いのかというと、この調子が続くなら10000アクセスに3ヶ月かからないということだ。

こうして見ると1月がどれほどスペシャルだったかがよく判る。何だかイチローみたいな感じだ。このような数字を手集計しているところが私らしいとも言える。何事もブログ継続のモチベーションである。31日ある1月で100アクセスに届かなかったのは8日だけである。どうしちゃったんだろうというようなアクセスぶりである。

  • 1月だけの神風なのか、今後も継続するのか。
  • 「のだめ」の恩恵は正味どれほどなのか。
  • 通算40000アクセスはいつになるのか。
  • 週間1000アクセスなどということを考えていいのか。

興味は尽きることがない。

感謝することの他に私に出来ることと言えば、「毎日更新をすること」だけである。

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