東風吹かば
2月と言えば「梅」と「受験」の季節だ。偶然だとは思うがどちらも菅原道真公に関係がある。おそらくは藤原氏の他氏排斥に巻き込まれ、右大臣から太宰権師に左遷される。失意のうちに世を去った道真は、やがて祟り始める。雷をターゲットに直撃させるという剛胆な手口だ。その怒りを鎮めるための社が天満宮で、やがて学問の神に昇格する。今では受験生のお願い承りセンターだ。都を去るにあたって屋敷の庭にあった梅に宛てたメッセージがある。
東風吹かば匂い起こせよ梅の花主なしとて春な忘れそ(こちふかばにおいおこせようめのはなあるじなしとてはるなわすれそ)
「私が居なくなっても春になったらちゃんと咲くんだよ」という意味である。言われた梅の木は意気に感じたのだろう。道真が死ぬと都から一晩で太宰府に飛んでいったという。今もその梅が太宰府天満宮の境内に伝えられている。世に言う「飛び梅」伝説だ。
さすが学問の神様だけあって残した歌も受験生向けだ。結句「春な忘れそ」はいわゆる「係り結び」の典型だ。強調を表わす「こそ・けれ」と並ぶ横綱挌で、こちらは「禁止」の意味がある。典型過ぎてこの句を受験問題に採用する学校はあるまい。
「係り結び」「縁語」「枕詞」「掛詞」など古典文学の慣習は、なかなか趣がある。高校の古典の授業では現代語訳優先なので「係り結び」は強調の意味で、「縁語」「枕詞」に至っては訳さないなどと無惨なことを教わった。訳しきれない余情、あるいはリズム音韻上無視し得ぬ役割があるに決まっているのだ。現代語の側にそれを投影する機能が欠けているだけのことだ。それを顧みずに訳すからあってもなくても同じということになってしまう。
逆に現代文の中にそれらの痕跡が意図的に仄めかされていると、なんだか優雅な気分になれる。行間に込められた意図がいきいきと輝き出す。現代文の中に継ぎ目無く溶け込んでいる様子はすがすがしくもある。
実は音楽でそれをやってしまったのがブラームスだと思っている。「係り結び」「縁語」「枕詞」ならぬ「ソナタ」「フーガ」「パッサカリア」だ。
2月25日は菅原道真公の命日だ。もちろん旧暦だ。現在では3月末になる。梅が飛んで行くのもうなずける。
<もこ様
恐れ入ります。
超こじつけネタなンですが。。。。
投稿: アルトのパパ | 2007年2月26日 (月) 16時22分
いいお話が聞けて良かった☆
日本語って素敵ですね。
投稿: もこ | 2007年2月26日 (月) 07時14分
<Claris様
道真とブラームスにありもせぬ共通点を無理やりという感じです。
投稿: アルトのパパ | 2007年2月25日 (日) 14時59分
同じ日本語なのに、時の経過とともに変化してしまう…。
人の世は常に流れておりますが。。。
「東風」と書いて「こち」と読むところから始まるこの歌。
なぜかすごく好きなんです。
伝説の梅の花はとても健気ですし。。
>「係り結び」「縁語」「枕詞」ならぬ「ソナタ」「フーガ」「パッサカリア」
なるほど~。
旋律が浮き出てはじめて行間も生きてくるように思いますわ。
投稿: Claris | 2007年2月25日 (日) 14時07分