さわらび
小学校時代に百人一首に目覚めたことは、1月1日の記事「ブラームスいろはガルタ」に書いた。それ以来短歌が好きになった。高校時代から10年と少々細々と作りだめしていた。全部で4519首ある。何故4519首かというと万葉集と同じになったところでやめたのだ。そのころ最悪の失恋をしたせいでもある。短歌どころではない中、青息吐息で4519にたどり着いてやめたという感じだ。
お察しの通り私は万葉集に親しんでいた。小学校時代の百人一首がキッカケの短歌指向は自然に万葉集に行き着いたということだ。中学だか高校だか忘れてしまったが授業ではじめて万葉集を習ったときのタイトルが「さわらび」だった。タイトルの由来はもちろん下記の志貴皇子の御歌だ。
「石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」(いわばしる、たるみのうえの、さわらびの、もえいずるはるに、なりにけるかも)
意味は明らかで、現代語訳なんぞ載せては逆効果だ。
全く根拠は説明出来ないのだが、この歌を鑑賞するといつも思い出す旋律がある。もちろんブラームスだ。弦楽六重奏第1番第1楽章85小節目アウフタクト、いわゆる小結尾主題「poco f espressivo,animato」だ。ヴィオラ弾きとしては再現部に相当する311小節目アウフタクトのほうがおいしい。ヴィオラC線をえぐるように立ち上がる6度の連鎖が香ぐわしい。ブラームスによる「animato」という指示によって歩みが速まるのが何とも言えぬ高揚感を生み出している。
「垂水の」「上の」「さわらびの」という具合に「の」を連続させることによって心地よくせり上がるテンポ感が六重奏の「animato」にかぶって見える。続く第4句が字余りであることが絶妙だ。ほとばしる水が一瞬堰き止められることでかえって勢いを増すのと似ている。ブラームスによくある三連符の効果と同一だ。そのせいでもなかろうが、この部分の伴奏音型は波打つような三連符になっている。「なりにけるかも」と一息で言い切る思い切りの良さがこの歌の爽やかな余韻を決定している。結句が字余りだったらこうは行かない。逆に第4句が字余りでなかったとすると今度はサラサラ流れ過ぎる。
今日の話は見方によっては完全なるこじつけだが、私にとってはおつりが来るほどのブラームスネタである。
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