決めゼリフ
ブラームスに限らず、いやクラシックに限らず楽曲の終わりをどうするのかは、作曲家たちの腕の見せ所であり工夫のしどころであった。聴き手にとっては楽しみの一つと言えるだろう。小学校でも割と早い段階で「終わる感じ」「続く感じ」という形で教わる。「完全終止」「半終止」「偽終止」という類である。さらに「男性終止」「女性終止」などという分類もある。ポップス系の楽曲ではフェイドアウトなどという手法もこれに加わる。
和声の枠組に加えてリズムにも終止感を煽る手法が存在するし、テンポの扱いにも終止形仕様がある。和声、リズム、テンポを順列組み合わせ的にブレンドして、作曲家たちは望む効果を得るための曲の終え方に知恵を絞ると言うわけだ。
ロマン派も末期のブラームスの時代ともなると「やり尽くし感」がそこはかとなく漂ってくる。どんなに知恵を絞っても聴き手の反応は「ハイハイそれね」という具合だ。刺激を求めて奇妙キテレツに走るのもいかがなものかと言わんばかりに登場し、聴き手や一部の作り手の中にある「やり尽くし感」に風穴を開けて見せたというのが、ブラームスの歴史的な位置付けだと思う。
ブラームスの曲の終え方が好きである。たとえばいきなりはしごをはずされるようなベートーヴェンの第九交響曲の終わり方よりは、ブラームスの第一交響曲の終わり方のほうがカッコいいと思う。時折ブラームスが見せるひとひねりした和音進行にしびれている。単なる新機軸の提案に終わらずに、芸術と継ぎ目無く融合しているところが素晴らしい。
- 交響曲第4番第2楽章のいわゆる「コーヒー終止」
- 弦楽四重奏曲第3番第3楽章
- ヴァイオリン協奏曲第3楽章
- 交響曲第2番第3楽章
ブラームスの高みには及ぶべくもないが、私も「終止形」には心を砕いている。
ブログ「ブラームスの辞書」の記事の終わり方だ。毎回の記事の最後をどのような言葉で締めくくるかが、重要だと思っている。たとえば日本語の特徴として文の末尾が最も読み手の印象に残ることが多い。
- 意欲は買えるがキズの目立つ演奏だった。
- キズは目立ったが意欲は買える。
上記の2つの文を比較してみるといい。読み手の印象は雲泥の差である。現実はこれほど極端ではない微妙なさじ加減の連続だ。気の利いた文言で終えることはブログ全体の色調を左右しかねないといつも思っている。最後の文が記事全体の余韻を決定しているのだ。落語でいう「オチ」かもしれない。毎回落とす必要はないとは思うが、記事を書き始めたときに既に落としどころが決まっている方が望ましい。気の向くままに書いて尻切れトンボでは長続きはしないものだと思う。最後の一行のスパイスは中間の工夫10個分に相当すると思う。
ブラームスの多楽章曲は、終楽章から作曲されたと分析されることが多い。終楽章を先に作曲し、そこから逆算して全体を構成したとしか思えない緊密な構造が売りなのだ。まさしく曲の終え方から決めているということに他ならない。
今日の記事は、ブログ「ブラームスの辞書」の記事の話をブラームスの作曲テクニックの話題でサンドイッチした「ABA」形式となっている。
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