内声
多声部の楽曲において、最高声部と最低声部を除いた声部の総称と解される。混声合唱で言うならソプラノとバスを除いた声部に相当する。
古来からの慣習によれば、旋律はソプラノの声部に来ることが多い。つまり内声とは旋律とベースライン以外の声部と仮に定義出来る。この定義に従うと、内声は和声的な響きの充実が第一の役割ということになる。
ブラームスに有名な逸話がある。作曲の弟子が証言によれば、ブラームスはしばしば歌曲の楽譜のうちのピアノの右手の部分を指で隠して「ボクはこれしか見ていないンだ」と言ったという。歌曲作品を見るとき、声のパートとピアノの左手つまり、旋律とバスしか見ないと言っているのだ。冒頭の分類に従えばブラームスは内声を見ていない。つまり内声をさほど重要と思っていないという命題が容易に導き出せる。
ところが、ブラームスが作曲の弟子に語った先の言葉とは裏腹に、ブラームスの作品における内声は、しばしば「面白い」「おいしい」「大切」という単語で形容される。ヴィオラ弾きはみな知っている。冒頭の定義によれば内声と呼ばれる声部に旋律が割り当てられることは割と頻繁だ。ヴィオラ以外の弦楽器に弱音器を強制したり、ヴィオラ以外の弦楽器にピチカートを要求しながら、ヴィオラには弓奏を許可したりもしている。内声に光をあてる試みをけして億劫がらないのがブラームス流だ。旋律を受け持たないまでも、旋律をより印象的にするための効果的な対旋律も内声の重要な役割だ。臨時記号1個であたりの景色を激変させたりもする。
内声は、ピアノでいうなら親指に相当する。古来からのピアニストたちの証言や、ブラームスの「ピアノのための51の練習曲」によれば、ブラームスの親指の用法が独特だったことがわかる。ブラームスは自分自身の左手の親指のことをしばしば自慢していたそうだ。
冒頭に掲げたような辞書的で杓子定規な解釈は、ブラームスを論ずる際にはいかに不完全か念頭においておきたい。
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