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2007年4月 2日 (月)

主題再帰

「ブラームスの辞書」では「提示済みの旋律が同一楽曲内で再度出現すること」と定義している。「再現部」としてしまうと、いわゆるソナタ形式のそれを想起してしまうので区別している。ソナタ形式の再現部も含むより大きな概念だと思っていただきたい。主題が再度現れることは、何もソナタ形式に限ったことではないので、新たな定義が必要だと考えた訳である。

ブラームスに限らず西洋の音楽、とりわけドイツの器楽曲は、この「主題再帰」を重んじていると思われる。一度提示済みの主題が再度現れる瞬間に誰もが感じるほっとした安堵感こそが音楽の目的ではないかとさえ思っている。そうした仕組みの中でも、もっとも大がかりなものが「ソナタ形式」だと位置づけられる。

最初に提示される主題は「我が家」とでも位置づけられよう。それに対して「主題の展開」「主題の処理」「主題の発展」等々さまざまな命名がされているが、それらをひっくるめて「外出」と捉えたい。「外出」にもさまざまな種類があることとはもちろんだ。角のコンビニまで弁当を買いに行くのも外出なら、週末を利用して温泉に行くのも外出である。この論法で行くなら「主題再帰」は「帰宅」とでも位置づけられよう。

外出に様々な種類があるように「主題再帰」つまり「帰宅」のしかたも様々である。実はこの帰宅の方法つまり「主題再帰」の準備こそが「帰宅」そのものよりも珍重されることが多い。「主題再帰」の瞬間よりも、そこに至る道のりを楽しむという訳だ。何を隠そうブラームスは、帰宅の方法の多彩さにおいて抜きんでた存在なのだ。ブラームス作品の味わいにおいて「主題再帰」はいつも大抵見せ場になっていることが多い。「主題再帰」の道の上にいるのだと自覚する瞬間に何とも言えぬ陶酔感さえ存在するのだ。

何もブラームスにまで用例を求めずとも事は足りる。

たとえば娘たちとのヴァイオリンの練習に使われる教則本で感心することがある。カイザーの1番を例にとってみる。初心者向けの第1ポジション御用達の曲だが、こんな小さな曲にも「主題提示」と「主題再帰」が用意されている。つまり大抵の曲が「ABA’」の形を採っているのだ。ヴァイオリン一本で奏でられる小品なのに、旋律線だけでなく和音進行も一人前の手順が踏まれているのだ。娘たちと練習する際には、どんな練習曲でも最初の日に必ず楽譜の「主題再帰」の場所に鉛筆で線を引くことにしている。娘たちにとっては「この印のところからまた最初に戻るから、弾き慣れた旋律になる」という「ふんばりの目標」になるのだ。少々つらくても我慢させるのだ。その我慢がいつまでなのかの具体的な目標が「主題再帰」の場所なのである。

私の立場から申せば、その印「主題再帰」の場所はオアシスであり「ほっとする場所」であることを教える意味がある。作曲家は再帰の直前にそれ相応の手続きを必ず踏むので、感覚的でもいいからそれを意識させたいのだ。主題再帰部に効果的に戻るために弾き手として何をするのか娘たちと意見を出し合うのだ。必ずしも正解が存在する訳ではないが「クレッシェンドする」「ディミヌエンドする」「リタルダンドする」「少しフェルマータする」等々娘たちが感じてくれればいい。

西洋音楽を志す者にとって、とりわけブラームスであれば尚更、「主題再帰」を幼い頃から意識しておくことには大切だと信じる変なパパである。

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