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2007年7月31日 (火)

備蓄一年分

6月は忙しかった。長男の英国研修と重なったこともあり何かとバタバタした。ほとんど記事のネタを思いつくことが出来ずに備蓄してあった記事を少し取り崩した。このまま一生記事のネタを思いつけなくなるのではないかとマジに不安になった。記事のネタの思いつき方には大きな波動がある。思いつく時は「オレって天才かも」という感覚だが、思いつかなくなると「もはやこれまで」くらいに思い詰めてしまう。そうした波動を仕方のないことと受け止め、実際の記事更新への影響を極小にする確実な方法が記事の備蓄なのだ。需要の波動を在庫で吸収するというのは古典的な方法である。

記事のネタというのは毎日一つ思いつくことで備蓄量の維持が出来る。一つも思いつかないと減ってしまう。だから備蓄を増やして行くには1日に2件以上ネタを思いつかねばならない。6月は現状維持がやっとだったのだ。

どうなることかと思っていたら、7月に入って劇的に改善した。お盆にブラームスが来てくれたせいかもしれない。どうやらとうとうネタの備蓄が1年分を超えた。これにタイムリー速報ネタを上手に差し挟んで行くことで14ヶ月分くらいには相当するだろう。石油の国家備蓄が民間とも合わせて半年分くらいと聞いているので、1年分と言えば結構な量かもしれぬ。私生活で大事件が起きたり、パソコンがトラブルに見舞われても、直ちに記事の更新に影響がないレベルになってくれた。

つまりはそれだけブラームスで語りたいネタがあるということだ。ほとばしるブラームスネタを保存するツールとしてブログを使っていると考えるとわかりやすい。公開・未公開はパラメータのひとつに過ぎない。

しばらくはこの水準の維持に力を注ぎたい。次のスランプはいつだろうか。

2007年7月30日 (月)

差別化

他との違いをアピールすること。マーケティング上有効とされている。これには2つの系統があるらしい。一つは「この商品には他にない有効性がありますよ」ということ。「機能が良い」「機能が多い」「価格が安い」「価格が高い」などなど正攻法という意味ではマーケティングの基本中の基本だ。現実には、「実際には際立った有効性など無いのにあると思わせる」という一段高度な技術も存在する。ブランドイメージ、CMに起用するタレントなど、あの手この手の組み合わせによって差別化が図られている。

消費者に対して「あなただけよ」と思わせる手法も別の意味で「差別化」と称される。大量生産大量販売の商品では実現しにくいとも思われるが、購買心理への効果という意味では侮れない。

ブログ「ブラームスの辞書」や書籍「ブラームスの辞書」にも小さな差別化が試みられている。以下の3つの項目が極端に少ないことだ。

  1. 作品解説
  2. コンサートレビュウ
  3. おすすめCD

逆に言うと世の中のサイトや書物にはこれらの項目が数多く含まれている。私のような後発者としては、そうした激戦区は避けるのが賢明だという訳である。問題はこれらの項目を避けて、なおかつボリュームある本になるかという点だ。著書「ブラームスの辞書」はA5判400ページ、約36万字の本だ。予算の関係で書きたい記事を削りに削った上に譜例も泣く泣く最小限に止めた。いわゆる「市場の隙間」あるいは「市場の空白」を狙ったつもりである。

もう片方の「あなただけよ」型の差別化も試みている。少部数の自費出版本だけに、こちらのほうが大切だ。本一冊毎に通し番号を付与した。作品番号の持つイメージを利用するという差別化だ。どの番号かにこだわる向きには効果的だ。

ブログ「ブラームスの辞書」も著書と同様のことが言える。「作品解説」「コンサートレビュウ」「お薦めCD」の情報を求めてたどりついた人たちをがっかりさせていることは間違いない。

世の中差別化を狙うあまり、単なる珍商品に堕してしまうケースも少なくないという。ヒット商品との紙一重の差は大きくて重い。

2007年7月29日 (日)

出版の空白

ブラームスの才能に出会ったシューマンの熱狂は想像に難くない。センセーショナルな紹介記事ばかりが有名だが、作品出版への助力も急ピッチだった。10月の初対面のその年の内に作品1のピアノソナタハ長調が出版されている。さらに作品番号でいうなら10番までが翌1854年に出版されている。まさに順風満帆の船出だった。しかし、1854年2月27日、ロベルト・シューマンがライン川に投身する。一命は取り留めたもののエンデニヒの病院に収容された。

急を聞いて駆けつけたブラームスは、女所帯のシューマン家の手足となって助ける。ロベルトとの面会を許されぬクララに代わってロベルトとの伝令役まで務める。文字通り一切を投げ打っての献身だ。ヨアヒムと違って職を持たぬ気楽な独身という身分だったことももちろんあるが、それにしても20台前半の若者になかなか出来ることではあるまい。

1854年に「4つのバラード」作品10が出版されたあと、1860年に管弦楽のためのセレナーデ第1番作品11が出版されるまで作品出版の空白が続く。5年にも及ぶこの空白期間はブラームスの創作人生中最長の空白である。おそらくこの出版の空白は、出版の前段階である作曲の空白をパラレルに反映していると思われる。

ロベルト・シューマンの療養生活は151年前の今日1856年7月29日に死をもってピリオドが打たれる。シューマン一家への2年半に及ぶ献身と、ロベルト・シューマン没後の気持ちの整理のための2年間、作曲どころではなかったのである。5年に及ぶ出版の空白はこのことを雄弁に物語っている。

2007年7月28日 (土)

味覚と聴覚

コミック「のだめカンタービレ」18巻でオクレール先生はその見識が音楽にとどまらず「食」にも及んでいることが明らかになった。食べただけでソースの材料を判別せよと孫Ruiちゃんに迫るのだ。さらには千秋真一にもその種の特技があることが明かされる。人間の味覚とはそれほどのものなのだ。全ての人がこれほどの味覚を持っているとは言えまいが、訓練次第でたどりつける領域は相当に高くて広い。

一方昨今食品の信頼をゆるがす事件が起きた。加工食品に混ぜられてしまえば、肉の種類を判別出来ない証拠になりかねない。報道を観察する限り、見た目で見抜けず、味でも見抜けず、下痢などの健康被害の発生状況でも見抜けなかったらしい。挙げ句にDNA判定に持ち込まれた結果は周知の通りである。もちろん安心信用しきっているという先入観もあろうが人間の味覚とはこんなものなのかとやりきれないものも感じた。

味覚がこうした実態だということは身にしみた。それでは音楽にとって肝心要の聴覚はどうなっているのだろう。同一作品の演奏家による違いに言及した論説が世の中に数多く出回っているが、キチンと聴き分ける聴覚の持ち主が少なからず存在するというのは心強いと思う反面、味覚と同様の危うさはないのかとも思う。

愛好家の聴覚の平均値はどれくらいだろう。いわゆる内部告発なしには偽装が発覚しないレベルだとは思いたくはないが、私に限っていうとお釣りの来るくらい平均値未満である。ベートーベンとブラームスの区別は100%近く出来る自信があるが、ブラームスの作品を別々の演奏家で聴かされた場合、微細な違いに気づくことはあっても演奏家を完璧に当てることは出来ない聴覚の持ち主なのだ。例外は歌だ。独唱歌曲の場合にはこの確率はかなり上がる。

ブラームス作曲と書いたジャケットのCDを買って返って、家で再生したらベートーヴェンだった場合、私ならショップに事情を話しに走る。間違いない。100%判る。ヘルマン・プライと書いてるCDを買って再生したらフィッシャーディースカウだった場合も100%判る。

声を聴いただけで演奏家を当てることが出来る歌手が両手の指に余るようになったが、管弦楽を含む器楽はお手上げだ。楽章間の咳払いや、録音ノイズが決め手になるような判別はノーカウントである。ブログでも書籍でも「ブラームスの辞書」に演奏家論が現れない理由の一つがこれだ。不得意の領域には踏み込まぬという臆病者だ。

聴き分けられたらさぞ楽しいだろうと思う。私が歌曲にはまったのは、それが原因だ。歌曲は慣れてくると解るのだ。だが本当の心配はこの先だ。聴き分けられる耳を持っているのはよいこととして、CDに演奏家の偽装が無いと信じることが前提になってしまっていることだ。生演奏だけを聴いている分には平和だが、実際にはそうも行くまい。

食肉で起きていたことが音楽で起きていないことを切に祈る。一部のCDの表示にまさか演奏家偽装が起きているなんぞということはあるまいな。それを誰も見抜けていないまま、そこを出発点におびただしい数の評論が交わされているなどということが杞憂であることを祈りたい。

2007年7月27日 (金)

教育の一環

各地で高校野球の地区予選が佳境である。

高等学校の生徒たちによる巨大な野球大会は「教育の一環」と位置づけられている。古来この位置づけを問われるような事件もたびたび起きるが、「教育の一環」という位置づけが揺らいだことはない。この位置づけがあるから続けて行けるのかもしれない。

関係者数、注目度、影響の範囲大きさともかなりのレベルである中、「教育の一環」と断言し続けるには相当の議論の堆積があると思われる。

一方丸7年に近づいた娘たちのヴァイオリンを「教育の一環」と断ずる勇気も根拠もない。「情操教育」などという表札はむしろ気恥ずかしい。もちろん「後できっと感謝される」と私が思いこむのは「信仰の自由」に属するのだろうが、明らかに「教える」という行為を伴ってはいても、どういじってみても「趣味の一環」の域を出まい。趣味であると開き直ってみると途端に風通しが良くなる。娘らのためではない。私自身のためである。だから娘たちのブーイングにも耐えてきた。「あなたたちのためだから」あるいは「だまされたつもりで」などとは口にしないが賢明だ。

私の趣味につきあってくれる娘たちに感謝だ。

2007年7月26日 (木)

対句

漢詩における代表的な表現技法。というよりこれを組み込むことが創作上の「Must」になっている。対句の定義をしようなど私の手には余る。あまたの国語学者が叡智を結集しても決定的な定義が出来ない格助詞「は」と「が」と同じだ。学問的に定義が出来ないのにおよそネイティブの日本人であれば、使い所を誤ることはない。これと同様に対句表現の代表例はいくつかすぐに思い浮かぶ。

  • 杜甫「國破れて山河あり」「城春にして草木深し」
  • 李白「頭を上げて山月を望み」「頭を垂れて故郷を思う」
  • 白居易「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き」「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」

どれもそれぞれの漢詩の中でのおいしい場所になっている。こうした対句表現が漢詩の醍醐味であり、鑑賞の楽しみの一つになっていることは疑い得ない。その効果たるや実に多彩である。たとえば初句から二句が派生しているのに、二句があることで初句がいっそう引き立つ。叙景上の鮮やかな対比で作品全体を引き締めている。あるいは叙景から叙情へ一瞬で場面転換して見せる。

ブラームスもこれに似ているところがあると感じている。たとえば器楽曲においてしばしば性格を異にする同一ジャンルの作品が時期を隔てずに生み出されている。

  1. 交響曲第1番と2番
  2. 弦楽四重奏曲第1番と2番
  3. ピアノ四重奏曲第1番と2番
  4. 弦楽六重奏曲第1番と2番
  5. 大学祝典序曲と悲劇的序曲
  6. クラリネットソナタ第1番と2番
  7. 管弦楽のためのセレナーデ第1番と2番

ジャンルが変わってしまうという点に目をつぶれば下記も候補になるだろう。

  • 交響曲第2番とヴァイオリン協奏曲
  • ヴァイオリン協奏曲とヴァイオリンソナタ第1番

先行する作品から時を隔てずに発表された2作目が、先行作品の理解を深めさらには2作目自体の普及にも貢献しているように見える。こうした関係が冒頭で述べた対句の性質に近似していると思われる。さらにブラームスにおいては同一楽曲中の第一主題と第二主題の関係や、同一主題の提示も、単なる気紛れとは対極にある。漢詩の対句表現のような計算と芸術性の融合が肝になっていると考える。

もちろんブラームスに漢詩の素養があったなど申し上げるつもりはない。形式という制約の中でより豊かな表現を盛り込もうとした結果、偶然似たベクトルになってしまったと考えている。このことはブラームスに漢詩の素養があることよりもずっと凄いことだと思う。簡潔な表現を目指した結果、図らずも似た境地に達したということに他ならない。

2007年7月25日 (水)

前年比

サラリーマンを長くやっていると身につまされる言葉だ。平たく言うと「去年の今頃どうしてたっけ」ということだ。

管理指標として予算進捗比と同等の位置づけが与えられている。それどころか「王より飛車をかわいがる」とばかりに「前年比」の方を大事にする人も一部存在する。悪いことに「予算進捗比」の芳しくないときほど珍重される。さらに厄介なことに商品の異動、管理費目の変動があった場合換算前年比の算出を求められるケースがある。算出に時間と手間がかかるが、必要とされているのは「ウン%」の部分だけである。100前後をウロウロという前年比ばかり気にするから商品がブレークしないのではないかと思ったものだ。

ココログのアクセス解析が現行の機能になったのは昨年5月18日だった。だからアクセス数の前年比較がようやく出来るようになった。

昨年6月のアクセス数は1952だった。今年の6月は3871に達した。つまり本日話題の前年比で申せば198.3%ということになる。

2007年7月24日 (火)

のだめの中のブラームス【27】

本日のお題はプログラムメイクだ。演奏会は通常複数の音楽作品で構成される。このときの演奏曲目のチョイスのことをプログラムメイクと呼ぶ。決定権は音楽監督が握っていることが多いが、学生オケだとそのあたりが不透明なせいか思わぬチョイスにあたることがある。私のいた学生オケでは「ブラームスの2番とチャイコフスキーの5番」というのが長く伝説だった。どちらを先にやったのか不明だ。「ブラ1火の鳥」というのもあった。私が在籍中のプログラムとしては「ブルックナーの4番にドビュッシーの海」というのが極めつけだった。怖い物知らずである。

さて「のだめカンタービレ」において演奏会のシーンは見せ場の一つである。千秋が1つの演奏会を丸ごと任された演奏会についてそのプログラムメイクを見てみよう。1曲だけだったSオケの公演や、ピアニストになったラフマニノフは、プラティニ指揮者コンクールの課題曲とともにこの際除外である。コミックで描写されていない演奏会もあったのだろうとは思うが、それらは集計対象外である。

<R☆Sオケ第1回公演>

  1. シューマン マンフレッド序曲
  2. モーツアルト オーボエ協奏曲ハ長調 ob黒木泰則
  3. ブラームス 交響曲第1番

<R☆Sオケ第2回公演>

  1. シューマン マンフレッド序曲 (推定)
  2. サンサーンス チェロ協奏曲 vc菊池亨
  3. ブラームス 交響曲第1番

<R☆Sオケ第3回公演>

  1. ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
  2. サラサーテ カルメン幻想曲 vn三木清良
  3. ベートーベン 交響曲第7番

<パリデビュウ@ヴィルトールオケ>

  1. ラベル マメールロア
  2. 武満徹 遠い呼び声の彼方へ 
  3. シベリウス 交響曲第2番

<マルレオケデビュウ>

  1. ラベル ボレロ
  2. シューマン 交響曲第1番「春」
  3. デュカス 魔法使いの弟子

<マルレオケ2390回定期演奏会>

  1. ロッシーニ ウイリアムテル序曲
  2. ブラームス ハイドンの主題による変奏曲
  3. ニールセン 交響曲第4番 不滅

<マルレオケ2391回定期演奏会>

  1. チャイコフスキー 幻想序曲「ロミオとジュリエット」
  2. バッハ ピアノ協奏曲第1番ニ短調BWV1052
  3. ベートーヴェン 交響曲第4番変ロ長調op60

千秋真一が曲の決定にどれだけ影響力を持っていたかは、コミックの中では必ずしも明らかではない。R☆Sオケでは相当な影響力を行使したと思われる。裏軒のマスターに頭が上がらなかったことはあるまい。ヴィルトールオケを率いてのパリデビュウも「ラベルでパリの皆さんこんにちは。武満で僕は日本から来ました。じゃあシベリウスは?」という会話が聴衆の間で交わされていて、千秋の自己紹介モードであることを伺わせる。しかしこれがマルレオケとの演奏会になると、千秋の選択の余地は低いと推定される。特にデビュウ演奏会はあてがいぶちである。2390回定期もデプリーストさんの意向が反映していそうだ。

7回21曲の中で3度登場はブラームスとシューマンだけである。マンフレッド序曲と第1交響曲を2度やっているのが大きい。しかし、R☆Sオケの第2回公演のオープニングは曲名を明記していない。苦し紛れでマンフレッド序曲と推定はしているものの断言は難しい。

もう一つ気づいたことがある。ピアノ協奏曲が巧妙に避けられているような気がする。17巻で登場と思いきや千秋の弾き振りだった。シュトレーゼマンと共演したラフマニノフも千秋自身がピアノを担当した。唯一の例外はシュトレーゼマンの代役として上海で、孫Ruiちゃんと共演したラフマニノフだ。11巻の128ページである。しかしながら指揮者・千秋真一のプログラムにはピアノ協奏曲は無い。

つまり本格的なピアノ協奏曲は、のだめ千秋の初競演のためにとってあると思いたくなるがどうだろう。のだめがオクレール先生に「目標」と言ったことにも象徴されている。問題は誰のどの曲で実現するのかということである。出来ればブラームスの2番で実現して欲しいものだ。

コミック「のだめカンタービレ」18巻で孫Ruiちゃんと千秋の共演話が持ち上がった。やはりこれはピアノ協奏曲にならざるを得まい。やきもきさせる展開である。

2007年7月23日 (月)

ブレス

「呼吸」のことだ。演奏において呼吸がいかに大切かについては、夥しい量の指摘が古来から存在する。私が何を申し上げたところで「何を今更」の話にならざるを得ない。

声楽や管楽器は息を吐かねば音が出ない。だから呼吸が大切だということが自然に理解できる。ピアノだってそうなのだと思う。先日次女を練習をしていて、弦楽器でも大切だと実感させられる出来事があった。

5月の発表会を終えて2ヶ月以上、ずっと基礎練習に取り組んでいる。セブシックの2番。移弦もポジション移動もない4つの音符をMM=80に合わせたメトロノームに合わせて延々と弾く練習だ。一つのパターンが終わると次は同じ音形を8分音符にする。その次は16分音符だ。20種類以上のパターン全てでインテンポを維持する練習である。合わせて身体を動かしてリズムを感じてはならぬと先生からきつく言い渡されている。

4分音符8分音符は上達してきた。問題は16分音符だ。8分音符からの変わり目や、音形の変わり目でうまくテンポに乗れない。貸してみろとヴァイオリンを取り上げて私もやってみたが、これが手ごわい。フレーズの最初で乗れないと永遠に戻れない感じ。

親子で思案の挙句にようやくたどり着いたのが「息」だ。16分音符の直前にキチンとしたブレスをすることで劇的に改善した。今までどうしても弾けなかったパターンがカラリと弾けてしまった。直後に続く旋律の「テンポ」「フレージング」を盛り込みきった「息」であることが求められるのだろうが、次女には煩雑な説明は不要だ。正しく息が出来たときしか弾けないのだ。「弾けた時の息が正しい」という説明でコックリとうなずいてくれた。

弾けるようになるのは嬉しいと見えて感心しきりである。「息」をキチンとするだけでこんなに変わるということが不思議だ。きっと音楽の魅力の一つなのだろう。

2007年7月22日 (日)

ヴィオラ弾きのFAF

大好きなヴァイオリン協奏曲の話である。

多くの場合協奏曲において独奏楽器は特別な扱いを受ける。当たり前の話だ。独奏楽器がバックのオーケストラに埋没してしまっては話にならない。作曲家はあの手この手を使って独奏楽器に花を持たせようと細工する。

7月2日の記事「水戸黄門状態」でも言及したような「独り抜きんでたダイナミクスを許可される」ケースや、和音の伸ばしをカットして小節頭のアタックだけとする措置がとられるのが普通である。とりわけヴァイオリンはそうした処置を手厚く受けることが多い。もちろんそれらの処置は、音楽用語起用上に痕跡となって現れる。独奏側の主旋律マーカーの付与がその代表である。

ところが、これらの話の逆を行く事例がヴァイオリン協奏曲第1楽章36小節目に存在する。独奏ヴァイオリンが同楽章中はじめて第1主題を奏するこの場所が半端な場所でないことは明らかながら、ブラームスの与えたダイナミクス表示の割り当ては注目に値する。

御大の独奏ヴァイオリンは単なる「p」にとどまっているというのに、あろうことかヴィオラのアルペジオに「p espressivo」が奮発されている。ヴィオラ側に主旋律マーカーが鎮座しているのだ。このことは昨年1月1日の記事「p espressivo」でも言及した。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2006/01/_espressivo_66df.html

このアルペジオはまさにヴィオラ冥利に尽きる世界遺産級である。さらに嬉しいことがある。アルペジオの冒頭は「Fis-A-Fis」と立ち上がっている。ブラームス関連の書物では、必ずと言っていいほど言及される「FAF」だ。ヴィオラのこのアルペジオがFAFになっていることは、国内のブラームス関連本ではあまり指摘されていないとっておきの話である。

2007年7月21日 (土)

口ヴィオラ

ブラームス好きを共有するお友達とお酒を飲むことがある。はじめは近況報告で様子を見ているが、アルコールが進むと話は急速にブラームスネタに傾く。ブラームスネタと一口に申してもメンバーの得意な領域が少しずつ違う。演奏会ネタ、CDネタ、交響曲ネタ、歌曲ネタ、クララネタ等々ネタにもいろいろな系統があるのだ。

私は演奏会ネタやCDネタについて決定的に疎いので、話題がその周辺にある間は、チビリチビリとビールを舐めている。ところが、話が作品の中身や、旋律、音型、調、形式に及ぶと俄然目の色が変わる。つまりブログ「ブラームスの辞書」で書き散らしているような話が大好きなのだ。

話題の標的がブラームスのどの作品のどの場所なのか、メンバーにわかってもらえないとつまらないので、一生懸命説明する。「どれそれの曲の第○楽章の冒頭」などど口で説明する。楽章の冒頭だと大抵は分かってもらえるが「~小節目のヴィオラが」と言っても伝わらなかったりする。

仕方なく歌う。元々怪しげな音程なのだが、アルコールによって更に拍車がかかっている。聞く方も大人で、音程のハズシに野暮なつっこみを入れたりはしない。人呼んで「口ヴィオラ」である。困ったことに音程正しく旋律を歌っても判ってもらえないこともしばしばだ。それはそれで無理もない。作品の冒頭でもない主旋律でもないヴィオラの旋律なんて、普通は判らないものだ。ましてや時折ヴィオラ以外のパートの旋律もごちゃ混ぜにするから難易度が相当上がる。

万全を期すなら宴会には譜例を持ち込まねばならない。しかし、酒の勢いでどちらに転がるか判らぬ話題に対応するとなると、譜例とてバカにならない重さになってしまう。いろいろ欠点はあるが、「口ヴィオラ」にとって代わるツールは今のところ見当たらない。

2007年7月20日 (金)

栄養のバランス

7月16日の記事「刷り込み」の続きだ。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/07/post_2334.html

昨今食品に関するいろいろな情報が世の中に溢れている。「マジックフード」「デビルフード」系統もよく目に付く。

「○○は体にいい」「××を食べると長生きする」「△△を食べると痩せる」「◇◇を食べると癌にならない」の類が「マジックフーズ」だ。一方の「デビルフーズ」は「◎◎を食べると癌になる」「▲▲を食べると血圧が上がる」「■■を食べると血糖値が上がる」の系統を指す。

よっぽどの有毒物で無い限りデビルフーズというものはなかなか出会うことはないそうだが、これがテレビで放映されたり出版されたりすると、やけに説得力がついてしまう。同様にこれさえ食べていればの「マジックフ-ズ」(魔法の食物)も、そうそうあるものではないという。

良いとされる食物を適度に含みながら、なるべくたくさんの種類の食物をバランス良く食べるのが「食育」の基本だとも言われている。同感である。

「音楽も一緒かもしれない」と感じている。特に子供たちには、いろいろな種類の音楽を等距離で触れさせるに越したことはない。「マジックミュージック」は無いということだ。

しかしながら我が家の子供たちはある意味バランスを欠いている。聴かされる音楽が圧倒的にブラームスに偏っている。だからいささか心配したのだが、子供たちは私より数段クレバーだ。ブラームスの奔流にさらされながら適当に聞き流しているのだ。興味のあるときだけ聞き耳になる。だから私の側の流しまくった自覚よりは、受容のレベルが数段低いのだ。良いのか悪いのか。

特定の栄養素が身体にいいといって摂取しまくったとしても、身体が本当に必要としている量を超えた分は吸収されない仕組みもあるという。脂肪だけは例外のような気もするが、元々身体にはそうした調整機能があるのだ。

バランスを欠くほどブラームスを流しても大丈夫ということだ。ああ良かった。

2007年7月19日 (木)

ジプシー音階

ジプシー音楽で用いられる音階。Dを起点に考えると下記のようになる。

D-E-F-Gis-A-B-Cis-D

シャープ2個のニ長調から考えると、Fにナチュラル、Gにシャープ、Hにフラットが必要になるが、フラット1個のニ短調から考えると、Gにシャープ、Cにシャープで事足りる。ニ短調においてCにシャープは違和感がない。旋律的短音階をベースに第5音を半音で囲んだと見ることも出来る。属音の強調と言ってしまうと少々理屈っぽくなる。第6音が半音下がるのは、ブラームスお好みでもある。素直に音階、特に短音階を駆け上らないのはブラームス節の特徴かもしれない。

ブラームスは無名時代レーメニとのコンビを組んでいた頃からハンガリージプシーの語法を積極的に取り込んで来た。ハンガリージプシー音楽の痕跡はブラームス作品を印象的に縁取っている。

最も劇的な用例と考える場所を一つだけ挙げる。

ヴァイオリン協奏曲第1楽章90小節だ。独奏ヴァイオリンが颯爽と登場するところである。先ほど示したDを起点とするジプシー音階を駆け上る。厳密に言うとAの後のBが省略されいきなりCisに至る。その後の三連符の展開でBが現れるので、ここでブラームスが省略したのがHではなくてBだと推定できる。

ニ長調の作品なのに、この部分明るいとはお世辞にも言えない。難しい割にスカーッとしない立ち上がりだ。臨時記号も多い。ニ短調とも少し違う。なんだか訳が分らないというのが素直な感想だ。この協奏曲に挑もうかというヴァイオリン弾きに音程不安があろうはずもないが、ただ楽譜通りに音をトレースすればよいという訳ではない。短調でも長調でもない変な音階だと感じていたら、それは必ず音に現れる。ブラームス渾身の大コンチェルトの立ち上がりが、その程度のノリで弾かれては困るのだ。

「Dを起点とするジプシー音階」を弾くんだという意志を込めて弾かれるべきだ。そう意識した瞬間から考えなくても指が勝手に動くことが望ましい。訳の分らぬ音階を、言われたたまに駆け上るという意識では困る。音階から除かれていた「B音」が三連符の中にキチンと現れた瞬間の幸せを感じたいものだ。

2007年7月18日 (水)

思わぬ副産物

棚からぼた餅とはこのことだ。今年5月14日の記事「空席状況」で「ブラームスの辞書」の空き番号の一覧表を記事にした。空き番号が一目でわかる表になっている。「ブラームスの辞書」に注文を頂戴した際、ご所望の番号を効率的に決定する対策だ。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/05/post_0d1a.html

じつはこれが思わぬ副産物をもたらすことになった。「ブラームスの辞書」の空席状況の一覧表は、結果としてブラームス全作品の一覧表になっているのだ。ブラームスの作品のうち作品番号を持っている作品が一堂に会している。ブラームスの作品を手っ取り早く俯瞰したいニーズは根強く存在するようで、このページがネット検索でひかっかることがとても多いのだ。またブラームスの作品名をキーワードにして検索した場合、順位は別にしてこの記事は必ずひっかかってくれるのだ。ブログ「ブラームスの辞書」の露出増への貢献度はとても高い。

ブログ「ブラームスの辞書」のコンセプトはブラームス作品の体系的な解説ではないから、作品全体を大づかみに出来るような記事に欠けていた。記事「空席状況」でさえ、そのような意図は無かった。

世の中何が幸いするかわからない。番号順に作品解説するなどという恐れ多い考えは起こさないのが賢明だ。けれどもそうした系統を避けつつ記事「空席状況」にひっかかって偶然たどりついた訪問者を常連にさせてしまうような記事を心がけたい。

2007年7月17日 (火)

精神性

思うに難解。主に演奏会やCDの演奏を論評する際に用いられる他、作品の論評の際にも時折用いられる言葉。精神性に溢れていると賞賛される。

しかしながら、演奏や作品のどこがどうなっていると「精神性がある」と言われるのかを始めとする定義は必ずしも明らかではないと思われる。使い手と受け手の間に共通したコンセンサスが形成されているとは思えないが、その曖昧さこそが重要とも感じられる。うかつな記述はブログ炎上のキッカケにもなりかねない。

  1. 3大Bを筆頭とするドイツ系作品の演奏を評価する際に用いられることが多い。フランス系の作品の場合だと「エスプリ」にとって代わると思われるが確信出来ない。
  2. 遅めの楽曲または、遅めの演奏を評する際に用いられる傾向にある。ソナタ形式であれば緩徐楽章での活用が目立つ。
  3. ダイナミクスは概ね「p」寄りであるほうが認定を受け易いと思われる。
  4. 演奏に参加する人間の数が少ない作品ほど用いられやすいと思われるが、大オーケストラの作品についても用いられることがあり、断言は危険。
  5. 演奏者の年齢が高いほど用いられやすい。低い年齢の演奏者の場合には「この若さで」という類の枕が振られることが多い。
  6. どちらかと言えば作曲家晩年の作品演奏の論評において用いられやすい。バッハだけはこれに関係なく用いられる。

大体の傾向は上記の通りだと思う。ドイツといってもいろいろでパッヘルベルのカノンでは用いられない。ブラームスでは、晩年のピアノ小品で多用されるが、カプリチオではほぼ用いられないと見ていい。どんなに名人が弾いていてもハンガリア舞曲の演奏評で使われるのを見たことがない。

大した定義もなく使われて、書き手も読み手も何となく判った気になっている便利な用語なのだという気もする。「単に遅いだけ」を含む遅めの演奏全般に書き添えることで、手軽にありがたみを加わえることが出来るが、「感動出来ないのはこちらの耳のせいかも」と落ち込む副作用も見逃せない。

もちろん著書「ブラームスの辞書」には一箇所も用いられていない。

2007年7月16日 (月)

刷り込み

娘たちをヴァイオリンの先生のお宅まで送るのは自家用車だ。欠かさず音楽を流している。今かかっている音楽の作曲者を娘たちに質問すると大抵「ブラームス」と答える。流される曲の大半がブラームスなので、娘たちも学習してしまっているのだ。多くの場合「ブラームス」と答えて正解になるからだ。「どうせパパはブラームスしか聴いてないでしょ」という憎まれ口もセットになっている。

いつのことだったか、ラベルの名高い管弦楽曲「ボレロ」を流していた。私だってたまにはブラームス以外の作曲家の作品が聴きたいときもあるのだ。パソコンやipodでブラームス以外の作曲家の作品を再生しないことにしているので、気になる作曲家がいるときは、車の中でというケースが多い。

程なく次女が「パパ、この曲ブラームスじゃあないよね?」と思いつめたような顔で尋ねてきた。「うん、ブラームスじゃあないよ」「なんで?」と応ずる私。「別に、でも何だかいつもと違うから」というのが次女の反応だ。聴いたこともないし、誰の曲かも知らないけど雰囲気が違うと思ったらしい。

次女が「ボレロ」を知らないというのは仕方がない。そんなことより「ブラームスとは何だか違う」と感じてくれたことが嬉しい。かえってボレロやラベルについての知識が全くないにも関わらず、そう感じたことが収穫だ。せっせとブラームスを刷り込んだ甲斐があったというものだ。

2007年7月15日 (日)

やむ気配

連休台無しの台風である。そうでなくとも今の時期雨が多い。その度にブラームスの「雨の歌」や「永遠の愛」を思い出す。家族全員が家にいるときの静かな雨だけは、何だか心が落ち着く。

雨の降り出す気配は何となく判るものだ。「波音が響けば、やがて雨」「月に笠がかかれば雨」の他にもあたりが暗くなって何となく湿った香りがするのが、大抵は雨の前兆だ。天気予報の無い時代の庶民の知恵は侮りがたい。

一方のやむ気配はなかなかわかりにくい。あたりが明るくなることくらいしか思い浮かばない。庶民の知恵は雨の降り始めを予知する方に手厚いと見た。

ブログの読み手は、記事のやむ気配を察知するのだろうか。自分の備忘代わりのブログで、読まれれば儲けモンの位置付けでも、ヴィジターの意向は気になるものだ。ブログ「ブラームスの辞書」の読者は、どう思っているのだろう。

本日の記事更新によりブログ開設以来777日連続記事更新となった。やむ気配はない。明日778日目も「更新確率」は100%である。今備蓄中の記事をコツコツとアップするだけよいなら、向こう1年間の「更新確率」だとて相当高いと申し上げておく。明日も新しい記事が更新されると思えばこそ訪問してみようと思ってもらえると考えている。内容の充実と並ぶアクセスアップの基本であると何かの記事で読んだ。同感である。

2007年7月14日 (土)

一般条項

法律用語だ。学生時代には法学専攻に籍だけは置いてあった。法律の中で定義を突き詰めて規定されないまま使用されている語句。代表的なものに「公序良俗」「公共の福祉」「信義誠実」「権利濫用」などがある。「善管注意義務」もこれにあたるかもしれない。

これらの言葉の定義が甘いことを法律の怠慢と言ってはいけない。逆に定義が曖昧なことによる裁量の余地が法律運用の硬直化を防いでいると考えねばならない。千差万別の事象に対処するため、あるいは時代の流れに相応するために不可欠の概念だと思われる。これが無いと「法律に規定の無いこと」イコール「やってもいいこと」というような極論がまかり通ることにもなりかねない。法律以前にもっと大きな社会的な規範が存在しているということが前提になっているようでもある。平たく言うと「常識」という文言に集約されるのだろう。

音楽評論の世界にもこのような意味における一般条項が存在しているように見える。演奏や作品あるいは作曲家や演奏家を論評する際には非常にたくさんの用語が、故意か偶然か定義を明らかにされないまま用いられている。つまり一般条項状態である。

たとえば「精神性溢れた」「重厚な」「憂鬱な」「屈折した」「積極的な」などなどだ。書き手のイメージと読み手のイメージが必ずしも一致しているとは思えない。法学用語の「一般条項」は定義が明確でないことに積極的な意味があった。音楽の一般条項も定義が曖昧な方が何かと好都合なのだと思われる。

2007年7月13日 (金)

お盆のファンタジー

本日お盆の迎え火をたいた。

昨年いくつかの奇遇を引き連れて初めてブラームスが我が家に来てくれた。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2006/07/post_baf9.html

帰り際にまた来年もとお願いしたのが効いたのか、また今年も来てくれた。まずは挨拶もそこそこに長男の英国研修ではお世話になったと礼を言うと「英国のことは知らぬ」ととぼけていた。ほんの気持ちとしてパルマ展で買い求めたパルミジャニーニの「聖カタリナ神秘の結婚式」の絵葉書をお渡しした。

驚いたことに今年はバッハさんも一緒に来てくれた。バッハさんはご存知の通りの子沢山だから、子孫も大勢いて忙しそうだが、かの地ではお盆のこの時期はみなバカンスなのでどこからもお誘いがかからないそうだ。今夜は歓迎のコンサートだ。5月の発表会で次女が弾いたバッハさんのイ短調コンチェルトを次女と私で弾いた。バッハさんは拍手してくれたが、ブラームスさんはパソコンで作った楽譜に興味津々で上の空だった。「そういうキャラなんです。この男は」と言ってバッハさんが慰めてくれた。

今休憩でコーヒーを飲んでいる。さっきどさくさにまぎれて来年はクララを連れて来るようお願いしたら、ロベルトも一緒になるけどいいかと聞かれた。聞いてはみるものだ。

これからお返しにバッハさんとブラームスさんで何か演奏してくれるらしい。しばらく我が家の楽譜を探していたが、ヴィオラダガンバのト短調のソナタを弾いてくれるそうだ。バッハさんがヴィオラでブラームスさんがピアノだ。ヴィオラ版の楽譜が我が家にあるのをいたく喜んでくださった。ブラームスさんは「その曲なら暗譜している」と自慢げだ。

いよいよチューニングが始まった。

2007年7月12日 (木)

ランニングホームラン

7月11日に行われたメジャーリーグのオールスターゲームでシアトルマリナーズのイチロー外野手がMVPを受賞した。凄い。長い歴史で初めてのランニングホームランというのが、いかにもイチロー選手らしい。

ご存知の通りの記録製造機ぶりで、今年もまたスペシャルなシーズンになる予感が充満している。ジョー・ディマジオの持つアンタッチャブルなメジャーリーグ記録「56試合連続ヒット」も夢ではない気がする。今年は5月から6月にかけて25試合連続安打を記録し自己とチームの記録を塗り替えたところだ。

長男の英国渡航中だったこともあってマジに応援していたので途切れてしまった時は少し落胆した。今回だけは特別な予感がしていた。結果として25試合で途切れた連続試合安打だったが、その記録が始まったのは今年の5月7日だったのだ。ブラームスのご加護があるに決まっているではないか。ブラームスの誕生日からロベルト・シューマンの命日までの間、毎試合ヒットを打ってくれればディマジオの記録を悠々と抜き去ることが出来る。

昨夜のランニングホームランはきっとその穴埋めに違いない。次はワールドシリーズで打ってもらいたいものだ。

2007年7月11日 (水)

刊行2周年

「ブラームスの辞書」満2歳の誕生日である。

既に100冊以上が私の手許を離れた。うち7冊程度が海外にあると思われる。約10箇所の図書館にも蔵書されている。販売に回ったものが38冊だ。月2冊をノルマにしたから本来は48冊売れていなければならないが10冊の予算未達である。

忘れた頃に注文が入るという売れ行きは相変わらずだ。10回目の誕生日には売り切れになっていることを期待しているが、どうなることやら。

4人目の子供という感覚が強い。4人目は人間ではないが、かわいさは同等だ。血を分けた分身という意味合いが共通している。

2歳と言えば、人間様ならそろそろ公園デビュウの年頃である。

2007年7月10日 (火)

水戸黄門状態

周囲の楽器を一段階以上低いダイナミクスに従えて、一人抜きん出たダイナミクスで演奏する状態の事を「ブラームスの辞書」ではしばしば「水戸黄門状態」と呼んでいる。

某テレビ局の長寿番組を踏まえた言い回しである。日本人相手であればこのニュアンスは、とても良く伝わるが、外国の方々に説明する際には骨が折れよう。

独奏楽器が際立ってこその協奏曲では当たり前に見られるのだが、協奏曲以外の管弦楽や室内楽にも時々現れる。ブラームス最高の「水戸黄門状態」は第1交響曲第4楽章30小節目「Piu andante」だと確信する。ティンパニ、チェロ・バス、トロンボーンおよびフルートを「pp」に控えさせて、ホルン一人が「f sempre e passionato」である。1小節目遅れて合流するヴァイオリンには弱音器さえ装着させて「空気になれ」と要求している。この8小節間「f」が許可されるのはホルンだけである。第4楽章に入ってからここに至る29小節間は混沌としている。その混沌がまさに頂点に達する瞬間に「この紋所が目に入らぬか」とばかりに立ち上がるホルンである。テレビでもこのセリフは、混沌めいた大立ち回りのシーンの最中に発せられるのが恒例である。

同じく「f sempre e passionato」を背負っていながら38小節目のフルートは、ホルンに比べればインパクトが薄い。ここは「pp dolce」のトランペットの方にこそ深い味わいがある。

周囲の楽器のダイナミクスより一段へりくだったダイナミクスを強制される「金管打抑制」の正反対のスコアリングテクニックである。

水戸黄門こと徳川光圀の誕生日は、もちろん旧暦なのだとは思うが、何と7月11日とされている。つまり明日だ。私の著書「ブラームスの辞書」の刊行日とピッタリ重なっている。

2007年7月 9日 (月)

トラックバック公開のルール

ブログ「ブラームスの辞書」にトラックバック(以下TB)をもらった際の公開方法についての設定を変更した。

元々TBは「ダマテン双方向リンク」という感じがしてなかなか使いこなせずにいた。私自身は一度も使っておらず、もっぱら受け専門になっていた。

従来はもらうそばから即公開だった。TBの内容がブログ「ブラームスの辞書」の家風に合っていればそれも一興なのだが、そうとばかりも行かないのが実情だ。一旦もらうと、トラックバック元のサイトを訪問してから取り扱いを判断していたのだが、どう考えてもスパムっぽいものが大半である。どの道見つけ次第削除しているが、削除までの間ブログに表示されてしまうものいかがなものかと感じていた。

このほど「トラックバックの公開は管理人の承認後」という設定に変更した。

TBと並ぶブログのコミュニケーション機能の代表であるコメントは、TBに比べればずっと健全な状態なので従来通りの設定のままとする。

ブログ「ブラームスの辞書」を長く楽しむための措置である。

2007年7月 8日 (日)

記事の「おバカ度」

夏はスイカである。

スイカは甘いのが好きだ。最近スーパーの店頭では、甘さをアピールするために果物の「糖度」を表示していることがある。おいしさは糖度だけで決まるとも思えないが、一定の目安にはなるのだろう。検体をブリックスメータなる器具の上に置いて測定ボタンを押すだけで簡単に測定できてしまう。一般に「味のヴィジュアル化」はなかなか難しいものがあるが、味の要素のひとつである「甘さ」については目安があると思えばいい。目の前のディスプレイに数値が表示されるのだから、精度はともかく説得力は高い。

ブログ「ブラームスの辞書」に掲載される記事の「おバカ度」がときどき心配になる。「いい歳したオヤジが、しょうもないネタ書いて」と思われてはいないか、原稿を書きながら不安になることが、少なくないのだ。比較的ましなのは「家族ネタ」だ。こちらは「親バカ度」に気をつけていればOKだし、「親バカ度」は仮に高くても「ほほえましい」で決着つくからだ。とはいえ「家族ネタ」に安住してその頻度が高まると「ブラームスの辞書」とは呼べなくなりかねないから、油断できない。

とりあえず「おバカ度」を引き上げる要因を以下の通り推定している。

  1. ネタの着眼点が細かい。
  2. 検証のための作業が膨大。
  3. 検証の結果がどうなっても大勢に影響がない。
  4. 他に優先すべき事項が明らかに存在する。
  5. 話の進行がトリッキーで落ちが読みにくい。
  6. 記事のタイトルが意外過ぎる。

上記のいずれかまたは複数が該当するとき「おバカ度」を心配せねばならない。さらにこれが筆者と読者によって感度が違うことも想定されるので測定は難解を極める。スキャナーに原稿を通すだけで、簡単に「おバカ度」が測れる装置はないものか。

当面のさしせまった課題は、本日のこの記事の「おバカ度」である。というより、本当はそんなこと全く気にせずに書いてきた。今更変えられそうもない。

2007年7月 7日 (土)

用例

「ブラームスの辞書」においては、それぞれの単語または語句が使われている場所を示す際に「用例を列挙する」と表現している。1箇所しか存在しない場合は「用例を列挙する」という表現は省略されているが「用例を列挙すること」自体は「ブラームスの辞書」の肝である。

用例の厚み自体が重要な情報である。見出し語に用例が100箇所以内の場合は、その全てを列挙している。100箇所を越える場合は、全てのケースを列挙することを諦め、曲の冒頭に存在するケースだけを記している。その他、特段に興味深い例についてコメントを加えている。

ブラームスは、自らの音楽を弾き手に伝えるために楽譜を書いた。音符(休符を含む)、楽語、記号は全てその目的に照らして適切な場所に設置されているハズである。音符や記号と違って、楽語は文字である。天才のひらめきの中では比較的取っつきやすい。見出し語がどこで使われているかは、楽語分析のための基本中の基本だ。複数の用例が存在すれば使用された時期、頻度、曲種、調性、拍子に何らかの傾向があるかどうかを見極めることはとても大切だと考えた。生涯一度きりの使用だとしてもそれ自体がヒントになる。

何度でも言う。用例の列挙は「ブラームスの辞書」の肝である。

2007年7月 6日 (金)

フライデー理論

今日が金曜日だからではない。いわゆる写真週刊誌のことだ。著名人カップルの誕生などをいち早くかぎつけ、証拠写真を掲載することで、話のタネを提供してくれることもある。

もしこの私が、どこぞやの美女と深夜の六本木の焼肉店から二人で寄り添って出てきたとしても、何も起きない。しかし、男女のどちらか片方が著名人となると先の写真週刊誌は放っておいてはくれない。ましてや男女双方がいわゆる「大物」だった場合は、なおさらである。そしてそのネタをワイドショウが掘り下げるという業界内の業務分担が成立していると思われる。

六本木に限定せずとも、焼肉屋に限定せずとも、二人で食事をするカップルはゴマンといる。大物が絡むときだけがニュースなのだ。

ブラームス第一交響曲の第四楽章の主題も、ベートーヴェンの第九の歓喜の歌に似ていると物議を醸したが、いわゆる「ブラ1と第九」という大物同士であるが故だ。既にこの世にいなくなっていたベートーヴェンよりも、ブラームスへの影響が大きかった。おかげでブラームスはやることなすこと皆ベートーヴェンの後釜という目で見られてしまう。似ているというネタを大袈裟にあげつらう一方で、似ていない情報は相対的に黙殺する。似ていない証拠は見て見ぬふりか、元々探さない。「ブラームスはやっぱりベートーヴェンの後継者」という位置づけでいてくれたほうが、何かと好都合だということかもしれない。似ている点、似ていない点を公平に列挙し評価した結果、「やっぱり似ていますね」という論理の構造にはなっていないような気がする。

似ている似てないネタが世間様に受けるには、双方にある程度の知名度がなくてはならないようだ。「sontag」作品47-3が、「49のドイツ民謡」の35番「Soll ich der mond nicht heller scheiden」に似ているなどと指摘しても見向きもされないのだ。

だからこそ、私ごときがブログで言う意味がある。

2007年7月 5日 (木)

カッコいい

娘たちと話が合わない。「カッコいい」という言葉の定義がズレていると感じている。無理もないことではある。私自身の中でも若い頃と比べると使う場面が変わっている。小さい頃は「自動車」や「飛行機」がカッコよかった。テレビで言えばウルトラマンやサンダーバードだ。源義経、織田信長やスポーツ選手たちがカッコいいの対象だった。高校生の長男の考えていることはこの延長で理解が出来る。サッカーのスルーパスがカッコいいと言っている。車も好きだ。次の展開が予想出来る。

中学生の娘が、ブラームスのヴァイオリンソナタをサクッと弾きこなしたら相当カッコいいと思っているのだが、本人は「どこがカッコいいの?」といった調子である。ヴァイオリンを習わせて6年以上がたち、良ければその都度誉め、悪ければタイミングを見て注意することを重ねてきた。その基準はある意味で「どうすれば音楽的にカッコいいか」である。

たとえば音程が合う方がカッコいい。リズムはキリリキビキビがいい。待ちきれずに飛び出してはならない音がある。休符を軽く見るな。等々である。速い音階の美しい駆け上がり方だったり、重音のきれいな鳴らし方だったりもした。音楽の周辺アインザッツの合わせ方、息の吸い方、お辞儀の仕方までをも含むのだ。楽譜通り間違えずに弾けることの他にもカッコよくする方法はたくさんある。

楽典や音楽の教科書には載っていないカッコいい所作というのを教えたいのだが、どうもすれ違ってしまう。

彼女らにとって「カッコいい」は、「カッコいい男子」「カッコいいバッグ」「カッコいいメモ帳」「カッコいい靴」という使い方がメインだ。

前途多難である。

2007年7月 4日 (水)

民謡の収集

作品番号無き作品WoOの31から38にわたって約160曲ものドイツ民謡が残されている。31から33までが独唱用で、34から38までが合唱用だ。独唱用と合唱用で重複する曲もあるが、160曲というのは大した量である。作品番号が付与され一般にリートと分類されている独唱歌曲でさえ200曲程度だから、ジャンルとしての民謡は無視できない勢力になっている。その意味で1月12日の「カテゴリー民謡の創設」は遅きに失したと申し上げて良い。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/01/post_4f9e.html

ブラームスの実直さから推定して、作品番号を付与した作品は自分の創作で、作品番号を付与せずに民謡集に収録された作品は、ブラームスがフィールドワークを通して拾い集めたものと断ずることが出来よう。「民謡の収集」である。

民衆の間で歌われていたもの、もちろん民謡集の形で出版されていたものもあるだろう。録音技術のなかった時代、「民謡の収集」とは口で言うほど簡単ではなかったと思われる。ブラームスが演奏活動のために欧州中を旅した過程で耳にした民謡を、五線に書き留めた作品もあったに違いない。ブラームスのことだから、旋律を聴いて即座に五線紙に書き留めることなど造作もないことだったと思われる。それどころか、彼の頭の中にはベースラインさえ同時にひらめいていたことは確実である。そしてシンプルで気の利いた和声を施したピアノ伴奏を加えた。

その成果を自作とは完全かつ明白に区別する形で、つまり「民謡」を出版したことはもっともっと注目されていいと思う。実際に収集された民謡の数は出版された数より相当多かったとも思われる。こうして放置すれば消え去って行きかねない民謡は、ブラームスの手で永遠の命を得た。WoO33の「49のドイツ民謡」は1894年の出版だ。ブラームスが自らの創作活動の集大成と考えていたことはほぼ確実である。

私がブラームスを深く深く愛する理由の一つをこの周辺に求めることも出来る。

2007年7月 3日 (火)

似て非なるもの

ブログ「ブラームスの辞書」開設の最大の目的は、「初めての自費出版本『ブラームスの辞書』の宣伝と普及」である。売り上げからコストを回収せねばならない商業出版の書籍と目指すところは何等変わらない。「ブラームスの辞書」の存在を知って欲しいし、買って欲しいのである。ブログ記事の毎日アップを長く続けているうちに、若干ニュアンスが変わっても来ているが、本質は動かない。「『ブラームスの辞書』の宣伝と普及」である。

注意をしておきたいのは、「ブラームスの宣伝と普及」ではないということだ。「ブラームスの作品は、こんなに素敵なンですよ」「さあ読者の皆さん、もっとブラームスを聴きましょう」あるいは「ブラームスを愛する人が少しでも増えてくれれば」などとは、爪の先ほども思っていないことを、告白せねばならない。私がそんなことをしなくてもブラームスには十分な愛好家がいる。「『ブラームスの辞書』の宣伝と普及」と「ブラームスの宣伝と普及」は、言葉としての違いはわずかだが、意味合いはかなり違う。

そもそも著書「ブラームスの辞書」は、頭の中に毎日去来するブラームスへの思いを、忘れないための備忘録という色彩が強い。何かに書いておかないと忘れてしまうから、書いたという感覚が強い。あるいは言っておかねば先に言われてしまうからという危機感も少々混じってはいるものの、「ブラームスの宣伝と普及」はどなたかに任せて、自分はブラームスに没頭したいだけなのだ。

本が売れれば嬉しいのだが、「そうそう売れるものではあるまい」とさめている別の自分が、今この記事を書いている。

2007年7月 2日 (月)

旱天の慈雨

ドイツレクイエム第2曲中間部の異名だ。4分の3拍子変ロ短調の葬送行進曲に挟まれたトリオに相当する部分。古来「旱天の慈雨」と形容されている。「日照りの後に降る恵みの雨」という意味だが、「慈雨」という言葉には、もっと切実な有り難味が込められている。

葬送行進曲の重苦しさに束の間の光が差し込む。75小節目で大変に珍しい変ト長調として出現する。やがて「農夫は尊い収穫を朝の雨と夕べの雨があるまで耐え忍ぶ」という歌詞が現れる。そしてテキストがまさにその「雨」にさしかかったところ、106小節目からオーケストラ側でも「雨」が描写される。フルートとハープのアルペジオだ。106小節目で上行音形でアルペジオが立ち上がる様は、まさに「雨の降り始め」といったニュアンスである。標題音楽とは距離をおいたとされるブラームスだが、この部分の表現は明らかに「雨」を意識していると思われる。

特に112小節目と116小節目では「regen」つまり「雨」の最初の「re」が8拍間引き伸ばされる。この時先のアルペジオがいっそうあらわになることで、「雨」がさり気なく強調されて、テキストとシンクロすることになる。本人は「雨でござい」とは一切口にしない。「これは雨ですよ」と自ら訴えるなんぞ沽券にかかわるのだ。

見事だ。ブラームスには、その気になればいつでも精密な描写をする一級の腕前がある。ことさらそれを振りかざすことをしないだけなのだ。

空梅雨、取水制限の地方ではいっそう実感が伴う。

2007年7月 1日 (日)

意図された言葉足らず

もはや我々の生活に深く、深~く根をおろしたインターネット。世の中のいろいろな局面で悲喜こもごもが起きていると思われる。

我が家の子供たちも、「何かを調べてくる宿題」が出ると二言目には「ネットで引く」と言い出す始末だ。我々の頃は調べると言えば①図書館に行く②見学に行く③お年寄りに聞くが相場だった。今は「1にネット2にネット、3、4がなくて5にネット」である。刑事ドラマではないが「足で調べる」「現場100回」はもはや美談ではないのだろうか。少なくとも図鑑や辞典の売上には大きな打撃があったと想像出来る。

だからという訳でもないのだが、ブログ「ブラームスの辞書」も私の頭の中にあることを100%出し切っている訳ではない。本当はブログへの記載には微妙な塗り残しをして、本を買って貰わねばならないのだ。思わず買いたくなるようなCMでなければならない。ブログでの語り過ぎは購買意欲を削ぐことになりかねない。本特有のあの重みはブログからでは伝わらない。

とは言うものの、最近塗り残しが出来なくなってきている。ついついブログに書き過ぎてしまうということだ。このあたりのさじ加減は大変難しい。あまり出し惜しみをしてつまらぬブログになればブログそのものへのアクセスが伸びない。かといって語り過ぎればブログだけで満足されてしまう。

元より道楽色の強い自費出版だから売ることは潔く諦めて、書きまくるという選択肢も現実味を帯びてきた。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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