旱天の慈雨
ドイツレクイエム第2曲中間部の異名だ。4分の3拍子変ロ短調の葬送行進曲に挟まれたトリオに相当する部分。古来「旱天の慈雨」と形容されている。「日照りの後に降る恵みの雨」という意味だが、「慈雨」という言葉には、もっと切実な有り難味が込められている。
葬送行進曲の重苦しさに束の間の光が差し込む。75小節目で大変に珍しい変ト長調として出現する。やがて「農夫は尊い収穫を朝の雨と夕べの雨があるまで耐え忍ぶ」という歌詞が現れる。そしてテキストがまさにその「雨」にさしかかったところ、106小節目からオーケストラ側でも「雨」が描写される。フルートとハープのアルペジオだ。106小節目で上行音形でアルペジオが立ち上がる様は、まさに「雨の降り始め」といったニュアンスである。標題音楽とは距離をおいたとされるブラームスだが、この部分の表現は明らかに「雨」を意識していると思われる。
特に112小節目と116小節目では「regen」つまり「雨」の最初の「re」が8拍間引き伸ばされる。この時先のアルペジオがいっそうあらわになることで、「雨」がさり気なく強調されて、テキストとシンクロすることになる。本人は「雨でござい」とは一切口にしない。「これは雨ですよ」と自ら訴えるなんぞ沽券にかかわるのだ。
見事だ。ブラームスには、その気になればいつでも精密な描写をする一級の腕前がある。ことさらそれを振りかざすことをしないだけなのだ。
空梅雨、取水制限の地方ではいっそう実感が伴う。
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