フライデー理論
今日が金曜日だからではない。いわゆる写真週刊誌のことだ。著名人カップルの誕生などをいち早くかぎつけ、証拠写真を掲載することで、話のタネを提供してくれることもある。
もしこの私が、どこぞやの美女と深夜の六本木の焼肉店から二人で寄り添って出てきたとしても、何も起きない。しかし、男女のどちらか片方が著名人となると先の写真週刊誌は放っておいてはくれない。ましてや男女双方がいわゆる「大物」だった場合は、なおさらである。そしてそのネタをワイドショウが掘り下げるという業界内の業務分担が成立していると思われる。
六本木に限定せずとも、焼肉屋に限定せずとも、二人で食事をするカップルはゴマンといる。大物が絡むときだけがニュースなのだ。
ブラームス第一交響曲の第四楽章の主題も、ベートーヴェンの第九の歓喜の歌に似ていると物議を醸したが、いわゆる「ブラ1と第九」という大物同士であるが故だ。既にこの世にいなくなっていたベートーヴェンよりも、ブラームスへの影響が大きかった。おかげでブラームスはやることなすこと皆ベートーヴェンの後釜という目で見られてしまう。似ているというネタを大袈裟にあげつらう一方で、似ていない情報は相対的に黙殺する。似ていない証拠は見て見ぬふりか、元々探さない。「ブラームスはやっぱりベートーヴェンの後継者」という位置づけでいてくれたほうが、何かと好都合だということかもしれない。似ている点、似ていない点を公平に列挙し評価した結果、「やっぱり似ていますね」という論理の構造にはなっていないような気がする。
似ている似てないネタが世間様に受けるには、双方にある程度の知名度がなくてはならないようだ。「sontag」作品47-3が、「49のドイツ民謡」の35番「Soll ich der mond nicht heller scheiden」に似ているなどと指摘しても見向きもされないのだ。
だからこそ、私ごときがブログで言う意味がある。
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