対句
漢詩における代表的な表現技法。というよりこれを組み込むことが創作上の「Must」になっている。対句の定義をしようなど私の手には余る。あまたの国語学者が叡智を結集しても決定的な定義が出来ない格助詞「は」と「が」と同じだ。学問的に定義が出来ないのにおよそネイティブの日本人であれば、使い所を誤ることはない。これと同様に対句表現の代表例はいくつかすぐに思い浮かぶ。
- 杜甫「國破れて山河あり」「城春にして草木深し」
- 李白「頭を上げて山月を望み」「頭を垂れて故郷を思う」
- 白居易「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き」「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」
どれもそれぞれの漢詩の中でのおいしい場所になっている。こうした対句表現が漢詩の醍醐味であり、鑑賞の楽しみの一つになっていることは疑い得ない。その効果たるや実に多彩である。たとえば初句から二句が派生しているのに、二句があることで初句がいっそう引き立つ。叙景上の鮮やかな対比で作品全体を引き締めている。あるいは叙景から叙情へ一瞬で場面転換して見せる。
ブラームスもこれに似ているところがあると感じている。たとえば器楽曲においてしばしば性格を異にする同一ジャンルの作品が時期を隔てずに生み出されている。
- 交響曲第1番と2番
- 弦楽四重奏曲第1番と2番
- ピアノ四重奏曲第1番と2番
- 弦楽六重奏曲第1番と2番
- 大学祝典序曲と悲劇的序曲
- クラリネットソナタ第1番と2番
- 管弦楽のためのセレナーデ第1番と2番
ジャンルが変わってしまうという点に目をつぶれば下記も候補になるだろう。
- 交響曲第2番とヴァイオリン協奏曲
- ヴァイオリン協奏曲とヴァイオリンソナタ第1番
先行する作品から時を隔てずに発表された2作目が、先行作品の理解を深めさらには2作目自体の普及にも貢献しているように見える。こうした関係が冒頭で述べた対句の性質に近似していると思われる。さらにブラームスにおいては同一楽曲中の第一主題と第二主題の関係や、同一主題の提示も、単なる気紛れとは対極にある。漢詩の対句表現のような計算と芸術性の融合が肝になっていると考える。
もちろんブラームスに漢詩の素養があったなど申し上げるつもりはない。形式という制約の中でより豊かな表現を盛り込もうとした結果、偶然似たベクトルになってしまったと考えている。このことはブラームスに漢詩の素養があることよりもずっと凄いことだと思う。簡潔な表現を目指した結果、図らずも似た境地に達したということに他ならない。
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