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2007年8月31日 (金)

オルガン強化月間

昨年の夏は、シェーンベルグに明け暮れた。シェーンベルグがブラームスのト短調ピアノ四重奏曲を管弦楽用に編曲している事実から多くの楽しい発見があった。夏休みに始まったブラダス入力から続く一連の取り組みの様子はカテゴリー「シェーンベルグ」となって一定の成果を見た。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/cat6661039/index.html

今夏のテーマはオルガン。

ブラームスには若い頃作品番号の無い作品の中に数曲、そして創作生活の土壇場で11曲のオルガン作品がある。あるにはあるのだが、ブラームス作品の全体を俯瞰する立場からは、お世辞にもメインな作品群とは言えない。ブラダス入力作業中、あるいは「ブラームスの辞書」執筆の間、これらのオルガン作品を聴いたことは聴いたが、深みに欠けていた。だからこの夏オルガンを聴く耳を育てたいと思ったのだ。

創作の初期、バッハの向こうを張ったかのような「前奏曲とフーガ」はバッハの香気を立ち上らせながらも、バッハではお目にかかれないヘミオラや3連符が隠されている。

やはり真打ちは最後の「オルガンのためのコラール前奏曲」作品122ということになる。これは「オルガンのためのインテルメッツォ」だ。第3曲と第11曲「おおこの世よ、我汝を去れねばならず」ばかりが特筆されるがとんでもない。1番と7番を加えた4曲が規模の面では柱となろうが、むしろそれらの曲を飾り立てるように取り囲む小品4番5番8番、あるいは10番がすばらしいのだ。

とくに「一輪のバラが咲いて」と題された8番の美しさは、絶品だ。作品118-2アンダンテテネラメンテにさえ匹敵していると申しても大げさではない。この夏最大の収穫だ。オルガン強化月間のMVP(Most Variable Piece)である。

2007年8月30日 (木)

響きの底

「ブラームスの辞書」の中で下記の意味でしばしば用いられている。

  1. 特定の楽曲中の最小ダイナミクスの場所
  2. ソナタ形式楽章中の主題から調的に最も遠く隔たる場所
  3. ソナタ形式楽章において再現部に向けた最後のアプローチが始まる場所。
  4. ABA三部形式を「我が家-外出-帰宅」と捉えた場合、外出によって到達した最も家から遠い場所

執筆中は上記4の意味で漠然と使用していたが、よく整理してみると上記1~3の用法が混在しているのだと思えるようになってきた。なぜ混用してしまったのか、今になって振り返ってみると、上記のパターン全てあるいは複数を併せ持っている場所が少なくないからかもしれない。

以下に実例を挙げる。

  1. 交響曲第1番第1楽章293小節目後半 チェロとコントラファゴットがppで嬰ヘ音を鳴らし始めるところ。はるか50小節後方の再現部に向けた最後のアプローチの出発点であり、ダイナミクスの底でもある。
  2. ピアノ協奏曲第2番第3楽章59小節目 クラリネットが「ppp」で泳ぐところだ。遠く78小節目の再現部を目指す起点だが、音楽は停滞して動きを止める。ここも再現部へのアプローチの起点でありかつ、ダイナミクスの底である。

ソナタ形式を「再現部に向けた帰宅のドラマ」だと位置づけるとき、外出の到達点は重要である。「どれほど遠くまで来たのか」によって、再現部への道のり、つまり帰宅の手順が決まるからだ。上記1番第一交響曲の例では、「相当遠いところに来てしまった」という響きに満ちていると思う。「さあて、そろそろ帰るか」というブラームスの促しが目に浮かぶようだ。こういうときは大抵低い音域で何かが動き出すのだ。

ソナタ形式楽曲中でのこの種の準備の周到さにおいて、ブラームスは比類無い境地に達していたというのが本日の話題の前提になっている。

2007年8月29日 (水)

116

「ブラームスの辞書」に新たな注文が舞い込んだ。注文の主は都内在住の男性だ。ホ長調のインテルメッツォop116-4がお好きとのことで、番号は116にすんなりと決まった。

「ブラームスの辞書」40冊目の販売であり、「他人様受注」の第16号である。そして何よりも驚いたのは、今回のお届けは私の手許を離れる116冊目の「ブラームスの辞書」ということになるのだ。ご注文の番号もopus116だったので116冊目の出荷がopus116という奇遇とあいなった。かつてこういう現象は一度も無かった。これからも相当難しいと思われる。

本日の手配につきお届けは明日ということになる。

お買上げまことにありがとうございます。

2007年8月28日 (火)

北の国へ

25日の土曜日から昨日まで家族で北海道旅行に出かけていた。どうしても行きたくないと言い張る長男に思い切って留守番をさせた。火事さえ出さねばいいという位に開き直った。植木に水をやるくらいの役には立ってくれた。英国に4週間に比べればマシである。

新千歳空港でレンタカーを借りて札幌小樽周辺に的を絞ったおかげでのんびりと過ごすことが出来た。

25日の夜のお宿には、宿泊客用の図書室があった。

2007_138_2

見ての通りのくつろいだ雰囲気だ。かなりの数の蔵書があり、長逗留しても退屈しない仕組みになっている。またアナログレコードのコレクションもかなりな量と質だ。宿泊中は自由に聴くことが出来る。雰囲気がすばらしいので、「ブラームスの辞書」を置いてもらえるかとお尋ねしたところ快くお受けいただいた。ブラームスのレコードのそばに安置していただいた。opus196を進呈した。

2007_130

誰かの目にとまることなど期待するのは野暮というものだ。すてきな雰囲気の場所に置いてもらえるだけでよしとせねばならない。

2007年8月27日 (月)

弦楽六重奏という響き

1873年に弦楽四重奏曲第1番が出版される前に約20曲もの弦楽四重奏曲が書かれては破棄されていたことはよく知られている。室内楽が書かれなかった訳ではない。1854年のピアノ三重奏曲第1番を筆頭にピアノ四重奏曲2つ、ピアノ五重奏曲、ホルン三重奏曲、チェロソナタ各1曲、そして弦楽六重奏曲2曲が発表されていた。

弦楽四重奏曲は、ベートーヴェンの創作の3本柱の一角を形成している。どうやらブラームスはベートーヴェンのホームグランドの弦楽四重奏曲を特に意識していたと思われる。弦楽器だけのアンサンブルが六重奏曲として初めて世に出たのは1862年のことだ。弦楽四重奏曲の形態を避けていることが既に意識をしていることの裏返しである。2つの六重奏曲の各楽章冒頭で演奏に参加する楽器をリスト化してみた。

<六重奏曲第1番>

  • 第1楽章 1stヴィオラ1stチェロ2ndチェロ
  • 第2楽章 1stヴィオラ、2ndヴィオラ1stチェロ2ndチェロ
  • 第3楽章 1stヴァイオリン2ndヴァイオリン1stチェロ2ndチェロ
  • 第4楽章 2ndヴィオラ1stチェロ2ndチェロ

<六重奏曲第2番>

  • 第1楽章 1stヴィオラ
  • 第2楽章 1stヴァイオリン2ndヴァイオリン1stヴィオラ、2ndヴィオラ
  • 第3楽章 1stヴァイオリン2ndヴァイオリン1stヴィオラ
  • 第4楽章 1stヴァイオリン2ndヴァイオリン1stヴィオラ

全部の楽器が参加する楽章は1つも無い。せっかく6本の弦楽器を起用して音の厚みを追求しながら、どの楽章も冒頭では総動員を避けている。5本が参加しているケースもない。1番では全部の楽章において2本のチェロが参加して立ち上がっている。つまり弦楽四重奏曲では絶対に再現不可能な響きが実現していることに他ならない。実のところ第1楽章5小節目でF音が出現するまで、チェロの奏する旋律をヴァイオリンが演奏することは可能だ。しかしそれは音域的に可能だというだけである。チェロの高音域とヴァイオリンのG線では響きとしては全くの別物である。

翻って2番では楽章の冒頭でチェロが徹底して省かれている。この対比振りは鮮やかだ。こちらの方はヴィオラ2本を要する第2楽章を除いては弦楽四重奏でも表現可能な響きだ。低音担当のチェロを省くことで、さめざめとした響きが実現しているように思う。と同時に、ここにチェロが満を持して加わる瞬間の腹に逸物座るかのような感触がブラームスの狙いであるとも思えてくる。現代においてマーケティングと呼ばれている手法に通ずるところがある。

2つの弦楽六重奏の響きにこうしたキャラクターを設定していたと推定される。弦楽器だけの室内楽を四重奏曲に先駆けて発表する以上、その響きが弦楽四重奏と差別化されねばならぬというブラームスの明確な意図を感じる。つまりそれはベートーヴェンとの差別化に相違あるまい。「四重奏曲とは響きが違うンですよ」というブラームスの名刺代わりのお伺いが透けて見える。

とりわけ弦楽器だけによる最初の室内楽でもある1番は面白い。六重奏曲である以上、全部の楽器が参加してしまったら、四重奏曲で表現不能になるのは当たり前だ。ところがブラームスは、冒頭で演奏に参加する楽器を4つ以内に抑えるという制約を自らに課した上で、やはり四重奏曲で再現不可能な響きで全楽章を立ち上げたのだ。

ついでに五重奏曲で同じ事を調べた。

<五重奏曲第1番>

  • 第1楽章 1stヴァイオリン1stヴィオラ、2ndヴィオラチェロ
  • 第2楽章 全楽器
  • 第3楽章 全楽器

<五重奏曲第2番>

  • 第1番 全楽器
  • 第2番 1stヴィオラ、2ndヴィオラチェロ
  • 第3番 全楽器
  • 第4番 1stヴィオラ、2ndヴィオラチェロ

見ての通り、五重奏曲の方は全楽器動員が多い。もっと重要なのは、どの楽章も弦楽四重奏曲では表現不可能だ。6本使用の六重奏曲よりかえって響きが厚い印象だ。五重奏曲の発表はブラームスが作曲家としての地位を確立した後だ。ベートーヴェンに配慮する必要は無くなっていたと解される。それがかえって六重奏曲における工夫ぶりを際だつものにしている。

話は少し変わる。五重奏曲と六重奏曲の計4曲を見渡すとヴィオラ以下の低音側の優勢が伺える。楽章冒頭だけの分析とはいえ、我々が演奏や鑑賞を通して得られる実感を裏付けている。

2007年8月26日 (日)

心から私は願う

はじめての自費出版書「ブラームスの辞書」の表紙をめくって現れる本扉にブラームス自筆の楽譜が描かれている。ブラームスの最後の作品「オルガンのための11のコラール前奏曲」作品122から10番「心から私は願う」の冒頭部分だ。出版にあたりいろいろと提案を出したくれた石川書房さんのデザインだ。

良い作品を選んでくれたと、今更ながら感謝である。

ブラームスのオルガン作品への理解を深めるためにこの連休を使った。一連のオルガン作品が心を開いてくれた感じだ。むしろ私が今まで心を開ききっていなかったとも言える。これほどオルガン作品を深くネットリと聴いたことはなかった。

サッカーのチームで10番と言えばエースだ。偶然にもこのコラール前奏曲集は11曲ある。その中の10番が嬉しいくらいの作品なのだ。直前の9番も同じテキストに基づいて同じイ短調で書かれているが、全くと言っていいほど趣を異にしている。右手に延々と現れる16分音符の連続から、驚くほどの多様性が紡ぎ出されて行く。足鍵盤には主にコラール定旋律がおかれ、左手の最低部分には常にオスティナートだ。ほとんどの部分でpにとどまるダイナミクス。それでいてなおこの多様さだ。

「ブラームスの辞書」の本扉がこの曲の自筆譜になっていること、少し自慢である。

2007年8月25日 (土)

ばきゅん

「恋の始まる音」だ。

コミック「のだめカンタービレ」第18巻。レッスンに行き詰まる中、千秋と夕食をともにした孫Ruiちゃんは、思いあまって音楽家としての自分のことを千秋がどう思ったかを問う。千秋の答えは誠実だ。「凄いと思った」「若いのにキチンとした音楽がある」と続ける。孫Ruiちゃんも巨匠シュトレーゼマンとの競演が負担だったと真情を吐露する。

不意に背景に「ばきゅん」が描かれる。111ページだ。孫Ruiちゃんの「何これ」の自問とともに「ばきゅん」が堰を切ったように溢れだす。孫Ruiちゃんが千秋に恋した瞬間だ。「のだめと会うから」と言われて瞬殺されてしまったことからも恋の始まりだと解る。

恋のはじまりは音になるのだろうか?ブラームスの恋は作品に現れてはいないと思う。特定の作品をクララやアガーテと結びつける試みは盛んだが、ブラームスが自らの恋をストレートに作品に反映したことはないと思う。歌手やピアニストと恋に落ちる。その時期に歌曲やピアノ曲が作曲されたとしても、それは「恋がキッカケ」になったことを疑い得る程度だ。「恋が描かれている」とは断言出来まい。「恋をしていた時期に作曲したこと」はもちろんあると思うが、作品に恋が描かれていることとは厳密に区別しなければなるまい。可能性があるのは、恋が過去形になったあと、その回想がかすかに反映することは、あったかもしれない。しかし、現在進行形の恋そのままの描写は考えにくい。

「恋は人を詩人にする」という側面は確かにあると思う。あるとは思うが、ブラームスに限って申せば、恋を含む自らの生活上の出来事が、作品にストレートに反映する程単純ではないと感じている。後世の愛好家はいかようにもこじつけるだろうが、軽率に関係づけるべきではないと思う。

よっぽどの証拠が添付されるべきだ。

2007年8月24日 (金)

リディア・アルティミウ

ピアニスト。Lydia Artymiwと綴る。正確な発音はわからない。我が家にCDが1枚だ。英語の解説を無理矢理読むと、アメリカ生まれでご両親はウクライナ人とある。

ブラームスの作品番号無きピアノ作品からサラバンドやジークなど5曲。「オルガンのためのコラール前奏曲」op122から6曲。最後にヘンデルの主題による変奏曲でアルバムを締めくくっている。

我が家にCDがあるピアニストは85名だ。室内楽に参加しているピアニストを加えると100名に近づくと思われる。100名のピアニストが私のためにブラームスを弾いてくれているのだが、「オルガンのためのコラール前奏曲」op122のピアノ編曲版を弾いてくれているのはこのアルティミウさんただ一人である。

去る8月14日の記事「オルガンのための間奏曲」で言及した通り、彼女が弾いてくれているオルガン用コラール前奏曲は、ほとんどインテルメッツォである。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/08/post_f159.html

100人のピアニストが居ながら誰も弾いていないこの曲をアルバムに入れているあたり、相当なブラームス好きだと思われる。「ここに誰にも知られていないインテルメッツォがあるのよ」という訴えに満ちている。特に4番5番8番10番は、作品118-2イ長調のアンダンテテネラメンテにさえ匹敵していると思う。

ずっとブラームスのオルガン曲を聴いていて試しにこちらのピアノ版を聴いたら、思いの外違和感がないので驚いた。この曲を書いたブラームス、編曲したブゾーニ、そしてアルバムにはめこんだアルティミウの鮮やかな連係プレーだ。私はあえなく併殺打をくらった打者のように打ちのめされた。

ブラームスはずいぶんと聞き込んだけれど、まだまだこの手の大発見がありそうで飽きが来ない。

2007年8月23日 (木)

シを作る記号

「シ」とは音階の「シ」である。ここでは第7音の意味をも含む。

夏休みも終盤にさしかかり、次女と「調性の森」をハイキングしている。8月2日の記事「今何調」で触れた通り、次女に少しずつ調性の周辺のあれこれを教え始めた。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/08/post_0666.html

調号として付与されたシャープやフラットの数から調を推定する方法からだ。話を単純にするために短調はしばらく棚上げにして長調に的を絞った。「フラットもシャープも何も付いていないときはハ長調」これが基本である。

シャープもフラットもでたらめに付いている訳ではない。付く音には規則性がある。シャープでいうとファ→ド→ソ→レ→ラ→ミという順番が崩れることはない。調を効率的に推定する場合、最後に付いたシャープがポイントだ。「最後に付いたシャープ」とはシャープ1個の時は「ファ」であり2個なら「ド」である。

「最後に付いた結果の音がシになるような調ですよ」と教えた。シャープもフラットも無いハ長調からファにシャープが付く。それでファ♯に生まれ変わる訳だが、このファ♯がシ、つまり音階の7番目になる調だということだ。ファ♯の半音上のソで始まる調ということで、正解のト長調が得られる。「シャープはシを作る記号だよ」と教えたところ、次女はカラリと解ってくれた。きっと私のDNAのせいだ。

嬉しい質問が返ってきた。「じゃあフラットはどうなの」当然の疑問だ。同じ論法で言うなら「フラットはファを作る記号」だ。「シを作る」「ファを作る」という位置づけは対照的だ。シャープが付与された音が目的とする調にあっての導音になるというのは、気持ちの問題として収まりがいい。これに比べて「ファを作る」というフラットの位置づけは奥ゆかしくて穏和だ。ハ長調にあっては第3音として扇の要だったミが、シに付与されたフラット一個のせいでいつの間にか第7音に変わるのだ。ミそのものには表面上何の変化もないだけに、知らぬ間の役割変更である。弦楽器はこのあたりのさじ加減が面白いのだ。

調を「シャープ系」「フラット系」とに分類したとき、このような役割の違いが調のキャラに反映しているような気がする。楽譜に出現するシャープやフラットがいつもこうした役割ではないが、調号として各段の左端に鎮座する場合は使える考え方である。

面白いのは「ナチュラル」だ。フラットとシャープどちらのリセットなのかで役割が変わる。フラットをリセットする時はシャープと同じ機能だし、シャープをリセットする時は、フラットと同じ機能だ。ここまで話していたら、楽器に触る時間が無くなってきた。今日のハイキングはこれまでだ。

こういう話、楽器を弾いているより面白いらしい。今度はお弁当を持って行こう。

2007年8月22日 (水)

「遅くする」の分類

どうもブラームスに限って言うと「遅くする」が2通りあるような気がしている。

一つはおなじみ「ritardando」である。テンポを落とすことを直接指図する機能がある。もう一つは、直接テンポを落とす意味ではないものの実演奏上は、テンポを落とす処理が施されるケースである。こちらの代表格は「sostenuto」だ。「ritardando」と「sostenuto」の違いは、「そこからだんだん遅くする」が「ritardando」で、「そこから一定幅テンポを落とす」が「sostenuto」であるとされている。

一応納得させられるのだが、「sostenuto」には不思議な現象がある。パート系に話を限定するとピアノが絡んだ曲にしか出現しないのだ。ブラームス作品には「sostenuto」が大量に出現するが、単に「遅くする」という合図と思っていいのか不安である。別のニュアンスの表出であった可能性をいつも心に留めておきたい。演奏者の都合でたまたまテンポを落とす処理が施されているだけなのかもしれない。

同じことは、「速くする」側にも起きている。「sostenuto」に対応するのは「animato」だ。「animato」は「a tempo」や「in tempo」によってリセットされない。「いきいきと」した感じが込められさえすれば、何もテンポをアップさせる必要はないとも言い得る。実際クレーメル、バシュメット、マイスキー、アルゲリッチの地球代表軍によるピアノ四重奏曲第1番では、第3楽章のトリオで「animato」とあるのに、テンポが上がるどころか落ちているという例もある。このメンツに文句をつけられる人はざらにはおるまいが、「Animato」は「速くせよ」の意味ではないのだから、速くなっていなくても文句を言われる筋合いは無い。「いきいきと」した感じが失われていたとき初めて批判の対象となりうる。

さらに「sostenuto」も「animato」も付与されたパートにのみ有効だ。付与されたパートだけが勝手にテンポを変動させてしまっては、アンサンブルに乱れが生じかねない。長い休符で小節を数えている人にさえ影響が出る。このことからも、テンポの変動はあくまでも結果としてであって、本来ブラームスが望んでいた訳ではないと想定出来る。

少しは考えておきたい。

2007年8月21日 (火)

ネットショップ

ネット上のお店つまりネットショップをブラブラしていた。いわゆるウィンドウショッピングだ。(マックユーザーの人はマックショッピングかもしれぬ)

某大手書店のサイトに我が「ブラームスの辞書」が載っていた。和歌山県っぽい感じのするあの書店である。著者は私の名前だったし、出版社も私のパートナーのものだ。価格もピッタリ同じだから間違いない。刊行は2005年6月になっている。つまり巻末記載の刊行日が反映している。

「この書籍はご注文いただけません」となっている。そんなことより私ごときの素人の自費出版本が掲載されていることが最大の驚きだ。ブログ「ブラームスの辞書」から申し込めますよとばかりにリンクでも貼ってもらえれば完璧なのだが、大人の事情もありそうだ。

なんだかくすぐったい。

2007年8月20日 (月)

第4交響曲の記憶

ブラームス作品番号の最大値は122だ。「オルガンのための11のコラール前奏曲」である。本日はその中の第1番「わがイエス、我を導き給え」(Mein Jesu, der du mich)のお話である。

コラール定旋律は1698年のダルムシュタットのゲザンゲブックから取られたホ短調だ。ホ短調というだけで既に頭の中が酸っぱくなってしまう。「パブロフの犬」状態だ。つまりホ短調はブラームス第4交響曲の調でもあるのだ。

さて、本日話題のコラール「わがイエス、我を導き給え」では6小節目後半から足鍵盤によって「H-G-E-C」と奏される。ご存知の通り、第4交響曲第1楽章冒頭の名高い主旋律だ。この時点でもしやと思うのが愛好家というものである。

さらに10小節目後半ソプラノの声部に「H-A-G-Fis-G-Fis-E-D-E」という8個の16分音符の羅列が現われる。この旋律は第4交響曲第1楽章の20小節目クラリネットとファゴットの旋律「E-D-C-H-C-H-A-G-A」と同じものだ。5度の違い、音符の違いに目をつぶれば旋律の聴こえは一致する。少なくとも酸っぱくなりはじめた脳味噌には決定的に映る。

3つも偶然が重なるとは思えない。過剰な推測は、はしたないと思いつつも何らかの必然が横たわっていると思いたい。

2007年8月19日 (日)

目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

バッハのカンタータ140番のタイトルだ。この第4曲は、147番を背負った「主よ人の望みの喜びよ」と人気を二分する名旋律だ。仲間内の結婚式で新郎新婦入場の際のBGMにすることもあった。威厳と格調をともに備えたと評しては月並みが過ぎるが、もとより私ごときの言葉で語りつくせるはずもない。変ホ長調4分の4拍子、ヴァイオリンとヴィオラの静謐なユニゾンが心に沁みる。

今日次女の宿題を手伝った。BGMに先頃買い求めたバッハのオルガン曲集を流した。宿題も終わりに近づいた頃、不意に懐かしい「目覚めよと呼ぶ声が聞こえ」の旋律が流れてきた。それまで流れていた曲はオルガンの音圧、いかにもブラームスが好きそうな足鍵盤による大股なバスの歩みが主体だった。それらに耳が慣れ始めて来た頃だから、清らかな泉のように聞こえた。宿題の手を止めて解説書を読む。カンタータ140番の第4曲をバッハ自身がオルガン用に編曲したという。BWV645だ。

部屋中が涼しい空気で満ち溢れた。

こういう入り方をした曲は一生の宝になると思う。原曲も大好きなのだが、オルガン版も病みつきになりそうだ。ブラームスでないのが悔しいという気持ちさえ湧かない。すがすがしい気持ちになれた。

2007年8月18日 (土)

名前を付けるということ

人は物に名前を付ける。他の動物にはない特徴だ。コレと言って手で指し示すことが出来るものは言うに及ばず、手で指し示すことが出来ない事項にまで名前を奉る。「愛」「時」「心」などの抽象名詞群は膨大な数に及ぶ。

名前を付けることは、名前を付ける対象物を意識することである。赤ちゃんへの命名はその代表だ。人Aと人Bと区別するためにあるのが人名だ。場所Aと場所Bを区別するために地名があるのと同じだ。

一旦付けた名前は人々が口にし文字にし使うことで市民権を得る。これにより他との区別特定が容易になり、議論が具体的になる。付けられた名前は長ければ容赦なく省略される。あるいは次々と合成が重ねられて新たな名前を生み出している。

人里離れた田舎をドライブしていて驚くことがある。バス停の名前を記憶しよう。そこから20分も車を走らせて信号待ちで停止した場所の地名が先のバス停と同じということがある。一つの地名がとても大きな場所を言い表していることに唖然とさせられる。場所Aと場所Bの区別の必要が無いために地名一つで済んでしまっているのだ。車で20分も離れた場所の地名が同じでも誰も困っていないということなのだ。田舎だと感じるのはこういうときだ。逆に言うと区別の必要がある場合には、必ず別の地名になっている。

以下のリストを見て欲しい。

  1. メゾピアノ銀座
  2. 糸引き四連4分音符
  3. 伊独辞典状標記
  4. accelerando消滅
  5. コーヒー終止
  6. 主題隠蔽
  7. 主旋律マーカー
  8. ベースラインマーカー

これらほとんどはカテゴリー「用語解説」で言及されている。

「ブラームスの辞書」では本でもブログでも名前を付けまくっている。ブラームスの作品にまつわるいろいろな現象、楽譜上の出来事に名前を付けているのだ。些細な現象に名前をつけることでそうした現象一つ一つが私の中で市民権を得ている。次回同じ現象に行き当たった時、脳味噌の引き出しからの取り出しが速くなるのだ。

2007年8月17日 (金)

ルカ受難曲

バッハの受難曲は現在2曲が伝えられている。「マタイ受難曲」と「ヨハネ受難曲」だ。ところが19世紀にはこれに加えて「ルカ受難曲」がバッハ作とされていた。メンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の蘇演を初めとするバッハ再評価の流れに乗って「ルカ受難曲」がバッハによる真作と位置付けられたのだ。BWV246という番号を背負っていることからも、一時真作という扱いを受けていたことがわかる。

何しろ当時最高のバッハ研究家であるフィリップ・シュピッタがバッハ本人の若かりし頃の作品という見解を示したことで「ルカ受難曲」の位置付けは磐石に見えた。

ところが、フィリップ・シュピッタの友人で作曲家のご存知ブラームスは、その見解に異議を唱えた。「もしそれがバッハ作というなら、多分バッハが赤ん坊の頃の作品だろう」と述べて事実上偽作と決め付けた。

作品の真贋は多くの場合様々な分野の知識を結集して判定される。楽譜に用いられた紙の質、五線の形状、インクの品質・色、筆跡等はそれぞれに専門家が存在するくらいの研究分野である。古い楽譜のコレクターでもあったブラームスは、それらの知識もそこそこ持っていただろうと推定できるが、何よりもバッハ作品を若い頃からミッチリと叩き込まれていたことから、偽作と断定した最大の根拠は「様式感の相違」それも相当決定的な相違だったと思われる。

結局2人の存命中には決定的な結論は出なかった。20世紀に入って間もなく、決定的な証拠が発見され論争に決着がついた。ブラームスの言った通り偽作であった。別の作曲家の受難曲をバッハが息子のエマニュエルと共同で書写したということが確実になったのだ。

ブラームスのバッハ好きは筋金入りである。

2007年8月16日 (木)

キーホルダー

Photo_3 昨日ブログのデータをバックアップしておくためのUSBメモリーを買った。昔に比べて安くて高性能になっているので驚いた。デザインも豊富でおしゃれだ。何せ小さいので、なくさないようにキーホルダーも買い求めた。

誕生日が刻印されているキーホルダーだ。お店には366種類が品揃えされていた。メタリックな感じが気に入って即買いである。

持ち帰って娘に見せたら、爆笑された。「May 7」と刻印されているからだ。「お店の人はきっとパパの誕生日を5月7日だと勘違いしたと思うよ」と言われた。勘違い歓迎である。いい大人がマジに自分の誕生日のキーホルダーを買うのもいじましい感じがする。「5月7日」というのが気合が入っていておしゃれである。どうせこのキーホルダーに取り付けられるUSBメモリーにはブラームス関連のバックアップデータしか入れないのだからそれでいい。

夏休みも昨日でおわり今日から通常の出勤になる。

2007年8月15日 (水)

ヨアヒム没後100年

1907年8月15日ヨーゼフ・ヨアヒム没。

19世紀最高のヴァイオリニストにして、作曲家、教育者、指揮者、そして何よりも何よりもブラームスの親友。ブラームスにロベルト・シューマン訪問を薦めた恩人。ブラームスより2歳年長ながら没年は10年も遅い。

ブラームスから作品の献呈も受けている。ピアノソナタ第1番op1とヴァイオリン協奏曲だ。複数曲の献呈を受けているのは他にクララ・シューマンだけである。ヴァイオリン協奏曲の献呈はある意味で当然だが、ピアノソナタ第1番もヨアヒムだ。何しろ「作品1」である。「作品1」を献呈されることの意味はとても大きい。

「リストがアカンかったらシューマンを訪ねなはれ」というヨアヒムの助言は思うだに貴重である。元ワイマールのコンサートマスターであるヨアヒムの助言には、「どの道リストとはうまく行くまい」という読みが見え隠れする。作品1の献呈は、こうした読みへの感謝も込められていたと思う。作品2の献呈を受けたのがクララ・シューマンである事実もヨアヒムの功績を如実に物語っている。

ブラームス作品の初演に関わったのは以下の通りだ。

  1. FAEソナタ(ヴァイオリン)
  2. 管弦楽のためのセレナーデ第1番(指揮)
  3. ピアノ協奏曲第1番(指揮)
  4. 弦楽六重奏曲第1番(ヨアヒム四重奏団)
  5. 弦楽四重奏第2番(ヨアヒム四重奏団)
  6. 弦楽四重奏曲第3番(ヨアヒム四重奏団)
  7. ヴァイオリン協奏曲(独奏)
  8. ヴァイオリンとチェロのための協奏曲(独奏)
  9. クラリネット五重奏曲(ヨアヒム四重奏団)

指揮に独奏に室内楽にと大車輪である。初演した曲の数だけで言うなら71曲を誇るクララ・シューマンに続く第3位だ。(もちろん1位はブラームス本人)しかしクララはピアノの小品や歌曲の演奏も数多く含まれていることから見てヨアヒムの充実振りはさすがである。神様のいたずらか、ヴァイオリンソナタを1曲も初演していないのが気にかかる程度である。このリストにはないが、作品91「アルトとヴィオラのための2つの歌」も私的な初演はヨアヒムではないかと思う。フェリックス・シューマンの作詞で名高い「我が恋は緑」は、ヨアヒムのヴァイオリンで私的に試演された可能性がある。

ブラームス没後のあるインタビューに答えて、ヨアヒムが心情を吐露したことがあるそうだ。ヨアヒムはその席で3人の作曲家を実名を挙げて賞賛した。1番目は神のごときバッハ、2番目は美の創造者としてのモーツアルト、そして3人目にブラームスを挙げたという。聞き手が「ベートーベンは?」とカマをかけても首を横に振るばかりだったらしい。

皮肉にもヴァイオリン協奏曲の作曲の過程で不和が始まり、ヨアヒム夫人との訴訟で決定的に決裂するに至るのだが、ブラームスの音楽に対するヨアヒムの評価は終生微塵も揺らぐことが無かった。私的な喧嘩と作品の評価が見事なまでに区別されていたと見る。「坊主憎けりゃ袈裟まで」ではないのだ。

2007年8月14日 (火)

オルガンのための間奏曲

8月10日の記事「オルガン曲全集」でこの連休、バッハのオルガン作品を聴いて過ごすと申し上げた。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/08/post_e1a3.html

ブラームスの最後の作品「オルガンのための11のコラール前奏曲」op122をどっぷりと聴くための準備としてバッハの諸作品を聴いて、オルガンの響きに慣れる目的だ。ブラームス最後の作品をもっともっと深く味わいたいと思ったからだ。

コラール前奏曲とは本来、教会の会衆がコラールを歌う前に演奏されるものだ。ブラームスの作品は古いコラールを定旋律に用いているが、教会で歌われることを目的にはしていないという。いわば演奏会用コラール前奏曲だ。1896年5月20日のクララ・シューマンの死後、古いスケッチを元に約2ヶ月で作曲されたとされている。

ずっとこれら11曲を聴いていた。

事実上のインテルメッツォだと感じた。バッハのオルガン諸作品よりずっとパーソナルだ。バッハの場合、会衆と神と自分がいるような感じだ。本当に教会の会衆を前に演奏する目的で作曲され、また実際に演奏されたのだ。ブラームスの場合は違う。自分とクララしかいない。古いコラールを題材にした変奏曲といった趣きだ。クララとの思い出のためにひっそりとインテルメッツォを書いた。出来上がったところで、はたと気付く。もう作品を見せるクララはこの世にいないのだ。天国のクララに聴かせるにはオルガンがいいと考えて思い切ってオルガンにしたかのようだ。出来ばえは素晴らしい。極上の奏曲のようだ。けれどもクララが亡くなった今、ピアノの曲なんぞ書けないと思いつめたのかもしれない。「Klavier Stucke」op122となっていても違和感は無い。

  • 1番ホ短調 6小節目でペダルに現われる定旋律は「H-G-E-C」となっている。つまり第四交響曲冒頭と全く一緒である。
  • 2番ト短調
  • 3番ヘ長調 「おおこの世よ我汝を去らねばならず」冒頭の8分音符はドイツレクイエムのフィナーレ第7曲に似ている。調性も同じである。
  • 4番ニ長調 ほとんど等身大のインテルメッツォ。作品118-5のような4分の6拍子だ。
  • 5番ホ長調 弦楽六重奏曲第2番の緩徐楽章の終わり近く長調に転ずるあたりの系統だ。3小節目、9小節目および18小節目にクララのモチーフ「A-Gis-Fis-E」が現われる。
  • 6番ニ短調 
  • 7番イ短調 これだけはカプリチオに近い。作品118-1の系統だ。
  • 8番ヘ長調 極上のインテルメッツォだ。この夏最高の発見と申して良い。「一輪のバラが咲いて」というタイトルに負けない可憐さである。これも4分の6拍子だ。作品118-5と調までピッタリ同じである。
  • 9番イ短調 冒頭いきなりラフマニノフっぽい響きにさっと触れてはじまる。
  • 10番イ短調 これも極上だ。ヘミオラご指名の4分の6拍子。1小節24個の16分音符が時として3個づつにグルーピングされる。
  • 11番ヘ長調 3番と同じ「おおこの世よ我汝を去らねばならず」だ。また1番と3番同様「f ma dolce」というレア指定が奉られている。インテルメッツォというよりバラードかラプソディーに近い感じ。3番と同様、あまり暗い感じではない。「この世を去る」というよりは「間もなくクララのいる天国に」という感じなのかもしれない。

案の定、インテルメッツォみたいだと思った先人がいた。ピアニストのプゾーニだ。これらをピアノ用に編曲していたのだ。我が家にCDがあるのはこのうちの4、5、8、9、10、11の6曲だ。特に4、5、8、10はインテルメッツォ感溢れる編曲になっている。これらはペダルの使用が限定的なのでピアノへの転写が比較的容易だ。物憂い午後に、気の利いた喫茶店で流されていたら、するりと入ってきかねない。

これを機会にカテゴリー「29オルガン」を創設した。過去の記事もいくつか振り分ける。今まで無かったのは怠慢の部類である。

2007年8月13日 (月)

パッサカリア

長くブラームスに親しんでいるせいか「パッサカリア」という言葉はすっかり耳になじんでいて違和感がない。

大ざっぱな理解でよければ難しい概念ではない。低音主題が形を変えずに延々と繰り返される中、華麗な変奏が繰り広がられる形式のことだ。シャコンヌとの区別が必ずしも明確でないことはたいていの解説書に載っている。

ブラームスの第四交響曲の終楽章がこのパッサカリアになっている。だからブラームス愛好家は「パッサカリア」と聞いても少しも不自然とは思わない。

夏休み前にバッハのオルガン作品全集CD16枚組を入手した。連休中どこにも行かないことをいいことに聞きまくっている。オルガン独特の音圧が癖になりそうだ。解説書を読んでいて愕然とした。現存するバッハの作品中にパッサカリアの題名が奉られている作品は1つしかない。BWV582ハ短調のパッサカリアがそれである。「バッハがこのパッサカリアを作曲した当時、すでにパッサカリアという形式は使い古されていた」と書かれている。だから1曲しかないという文脈である。

「パッサカリア」とはそんなに古い形式だったのかと正直驚いた。ブラームスの第四交響曲は、バッハの時代すでに廃れかけていた形式を丸ごと交響曲の単一楽章にあてがったというこのなのだ。ブラームス親派も戸惑ったことだろう。反対派はむしろ呆然としたと思う。「気は確かか」くらいのノリだろう。古い形式のリバイバルではあるが、それを交響曲のフィナーレに起用すること自体は斬新だ。しかも退屈とは無縁の多様性が実現している。結尾で第1楽章のテーマが回帰するのを聴いたシェーンベルグは驚きを通り越し、熱狂を隠していない。

バッハをも飛び越していたのだ。ブラームスが一またぎして見せた時間の長さを思いやる夏になった。

2007年8月12日 (日)

イタリア語ユーザー

音楽用語の多くはイタリア語である。「allegro」「adagio」「f」「p」「marcato」などみなイタリア語だ。ドイツ人ブラームスもこれらをちゃんと使っている。

ブラームスが用いた音楽用語の集大成である「ブラームスの辞書」は、結果としてイタリア語とドイツ語が占めることになる。思うだにブラームスは繊細だ。基準はわからないながら、「sf」と「rf」を区別していたことは確実だし、「poco」「piu」のような微調整語をも縦横に駆使している。

ところが気をつけなければならないこともある。これらの用語の使いっぷりを見て、ブラームスのイタリア語の語学力を判断してはいけないということだ。何もブラームスがイタリア語に堪能だった訳ではない。「sf」と「rf」の意味の違いを調べるとき、現在のイタリア人たちが、どう区別しているかを考えることは有力な方法ではあるが、完全ではない。というより有害かもしれないのだ。「ブラームスの辞書」にとって肝心なのはネイティブなイタリア語の使い手が、どう区別していたかではなくてブラームスがどう使っていたかである。

学生時代にオーケストラのトレーニングにおいでいただいた先生たちは、音楽用語辞典ばかりでなくイタリア語やドイツ語の辞書も出来れば手許に置くようにとおっしゃった。あるに越したことはないという意味ではその通りであるが、今となっては注意が必要とも感じる。

音楽用語としてすっかり溶け込みきったイタリア語の単語を、ドイツ人作曲家が楽譜上に記する時、イタリア人の自然な使い方まで転写されているとは限らない。そうしたイタリア語兼音楽用語のドイツでの一般的な意味を、原語からのズレもろとも単に踏襲しただけという可能性は低くない。音楽用語としての認知度・浸透度が高いほど、語感の一人歩きが起きていた可能性が高まる。つまりイタリア語本来の意味とのズレである。

たとえばブラームスが盛んに使用した「Andante」はイタリア語本来の意味から離れて、ブラームス本人の中で別のニュアンスを獲得していた可能性が高い。その独特のニュアンスはイタリア語辞典を熟読したところで汲み取ることは不可能だ。

こう考えて来ると、ブラームスの用語使いの癖を解明するには、イタリア語のネイティブなスピーカーの使い方を追求するより、ブラームス自身の癖を分析するほうが効率的だと思われる。イタリア語が外国語であるという一点において、ブラームスと私は何等変わるところがない。イタリア語辞典片手に「はは~ん、イタリア人はこう使っているのかぁ」という視点は、有力な情報だが決定打ではない。

私が「ブラームスの辞書」を書いた大きな理由の一つである。

2007年8月11日 (土)

sul G

ヴァイオリンのG線には神が宿るという信仰に立脚した指示と解されよう。

「G線で弾け」の意味。理屈の上では「sul D」「sul A」「sul E」でそれぞれ「D線で弾け」「A線で弾け」「E線で弾け」という意味ともなり得るが、現実の用例としては「sul G」が圧倒的に多い。またヴィオラやチェロで「sul C」という記載にもお目にかかることは希である。つまりヴァイオリンのG線に限ってのお話なのだ。

とはいえCis(Des)以下の音、つまりG線でなければ出しようがない音には「sul G」と書かれることはない。当たり前だからだ。指示なく放置すればD線A線で演奏するような音域の音を、敢えてG線で弾く場合に「sul G」という指示が設置されるのだ。ヴァイオリンのG線が持つ独特の色艶を要求する場面で使用される。

「ブラームスの辞書」においてこの「sul G」は収録の対象になってはいない。いくつかの楽譜に「sul G」が認められるが、ブラームス本人の要求かどうか明記されていないケースがほとんどである。第1交響曲第4楽章の歓喜の主題に似ているとされる場所の第1ヴァイオリンは、大抵「sul G」で弾かれるが、楽譜には記載が無い。

楽譜の校訂者または、演奏者のセンスに委ねられていると思われる。

そんなことよりシェーンベルグがブラームスのト短調ピアノ四重奏曲を管弦楽に編曲した中にぞくぞくするような「sul G」がある。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2006/08/post_28cb.html

これがシェーンベルグの意思だとするとただ者ではない。

「ヴァイオリンのG線には神が宿る」とブラームスが考えていたかどうか定かではない。

2007年8月10日 (金)

オルガン曲全集

CDのリサイクルショップをほっつき歩いていて掘り出し物をゲットした。連休前はCDの衝動買いに注意が必要だが、今年もやっぱりである。

バッハのオルガン曲全集全16枚組が3980円だった。1枚250円を切っている。演奏はワーナー・ヤコブという人だ。何より安いのがありがたい。

ブラームスもオルガン作品を残している。最大の作品番号を背負った「オルガンのための11のコラール前奏曲」がその代表だ。ブラームス最後の作品だから興味はあるのだが、いかんせんオルガン音楽に対する知識が乏しく、もてあまし気味だ。もっと味わいを深めるためにバッハのオルガン作品でオルガンに慣れようという寸法だ。オルガン作品はカンタータと並ぶバッハの創作の柱だ。バッハはオルガン演奏の名人でもあったという。

長男の英国研修中に無事の帰国を祈って28日間の「ブラームス断ち」をしていたが、その間ほとんどバッハを聴いていた。おかげでブラームスを聴く際の視野がぐっと広がった感じがしている。明日からのお盆休みにじっくりとオルガンに浸ることにする。

2007年8月 9日 (木)

源実朝

鎌倉幕府3代将軍だ。彼は1192年8月9日生まれらしい。日本の歴史上の人物で、大好きな人を選ぶと上位に入る。源頼朝と北条政子夫妻の三男だ。父が鎌倉に幕府を開いた年に生まれ、12歳で征夷大将軍に任ぜられた他、26歳で右大臣になる。鎌倉右大臣とは彼のことである。その後すぐ甥で猶子の公暁に暗殺される。

周囲の評価は割れている。政治関連の人物の評価は芳しくない一方で、芸術系の人々からの評価は高い。後鳥羽上皇や藤原定家とも親交があったらしい。賀茂真淵や正岡子規からは絶賛されているそうだ。

私が初めて源実朝を知ったのは小学校6年の時だ。1971年8月5日父に連れられて訪ねた鎌倉・鶴ヶ丘八幡宮の大銀杏の前で、一連の暗殺のエピソードを父から聞かされた。当時は源氏と言えば頼朝や義経ばかりに気を取られていた。高校の古文の時間に新古今和歌集を習って一変した。

そう源実朝は新古今和歌集と時代が重なるのだ。後鳥羽上皇、藤原定家に代表される華麗な歌風の中で実朝の作品は異彩を放つ。当時の人々もそう感じたのだろう。実朝の歌風はどこか「万葉調」っぽい。かといって「益荒男振り」かと言われるとうっかりうなずきにくいが、古今和歌集以降の「手弱女振り」とは違うみたいな感じだ。「時代に遅れてきた万葉歌人」なのだ。

正岡子規は賀茂真淵の誉め方が足りぬと嘆き、「ただの器用ではなく、力量、見識、威勢を兼ね備えている。」「時流に染まらず、世間に媚びず」と評して早世を惜しむ。

「時代に遅れてきた万葉歌人」という位置付けを踏まえつつ、正岡子規の評価を噛みしめると見えてくるものがある。なんだかブラームスに似ている。

私が実朝を好きな理由は、恐らくこれである。今日は源実朝の815回目のお誕生日だ。

2007年8月 8日 (水)

有節歌曲

テキストの詩節ごとに同じ旋律が繰り返しあてられている歌曲のこと。日本でも、広く知られた童謡は大抵この形だ。各節とも旋律が完全に同じなので楽譜にはリピート記号が当たり前に見られる。

ブラームスは、作曲を学ぶ初期の段階で、有節歌曲の作曲を意義あることと思っていたらしい。テキストを見て、それが有節歌曲として処理できるかどうかを見抜く眼力をも作曲家に要求している。

狭い意味での有節歌曲は、各節での旋律はもちろん伴奏まで完全に同じ形の繰り返しになっている。伴奏パートへのアーティキュレーションその他の指示は、最小限にとどまる。ヘルムート・ドイチュ先生は、伴奏パートへの指図が薄いことを、テキストに応じたニュアンスをピアニストのセンスで補わねばならぬと力説しておられる。

ブラームスにもこうしたパターンの歌曲は、もちろん存在するが、伴奏やアーティキュレーションを詩節毎に微妙に変えているケースが大変多い。それどころか旋律までもが微妙に変化されていることさえ珍しくない。3歩下がって全体を俯瞰すれば、紛れも無い有節歌曲なのだが、仔細に見ると色合いや肌触りが微妙に違っているのだ。そして、その微妙な違いは、全てテキストのニュアンスに応じたものになっている。転調であったり、伴奏音形の変化だったり、テンポの上げ下げだったり、あらゆる手段を利用してテキストの陰影を浮かび上がらせようとするのだ。このあたりのテキストと伴奏の絶妙の出し入れがブラームスの歌曲の魅力の源泉である。だから、ブラームスにおいては楽譜上にリピート記号が無いことをもって、有節歌曲では無いと断言することは出来ない。

全体が有節歌曲の体裁を保っているからこそ、微細なニュアンスの出し入れが際立つのである。結局これらはみな、ブラームスの変奏曲好きな性格に繋がっているのだろう。しかも、ただ主題を美しく変奏すればいいのではない。「テキストのニュアンスや抑揚をなぞりつつ」という制約があることが、ブラームスの好みだったと思われる。

2007年8月 7日 (火)

軽い日照り

いよいよ焼きが回ったかと思われるようなタイトルである。

何ということは無いのだが、気になって仕方のないことって誰にでもあると思う。本日はそうした話題の一つである。ブラームス作品の楽曲冒頭の調性を調べるとト長調が少ないことにすぐ気付くはずだ。シャープ側フラット側とも5個を超えると少なくなるのは納得が行くのだが、ト長調といえばシャープ系においてはハ長調のすぐ隣なのだ。全599作のうちト長調で立ち上がるのは23曲だ。13位に相当する。長調だけに絞っても7位に過ぎない。シャープ2個、3個、4個を要する長調よりも1個で済んでしまうト長調の方が少ないのだ。

ハ長調だって同様だ。しかしハ長調はイ短調が短調中最大の勢力なので、調号別だと下位には沈まない。シャープ一個系は短調側のホ短調も多いとは言えず、シャープ一個は調号別でもエアポケットになってしまっている感じだ。

主音別に目を移してもト短調はやや薄いため、白鍵で始まる7種の調のうちト調はかろうじてロ調を上回るだけの6位なのだ。

どうもト調は、「日照り気味」だ。少し避けられていたかもしれないのだ。

ところがである。作品番号無しの作品である民謡に目を移すと状況は一変する。全92曲のうちト長調は25%を占めるダントツの一位になっているのだ。作品番号付きの歌曲ではト長調は3.4%に過ぎず民謡におけるト長調の突出は異様である。

単にそれだけのことなのだが。

本日この記事の更新で、ブログ開設以来800日連続の更新となった。

2007年8月 6日 (月)

暑い日に

昔の人はうまいことを言う。

言うまいと思えど今日の暑さかな

「暑い」とどれだけ口にしたところで、暑さが和らぐ訳ではないと解っていながら、思わず口をついて出てしまう経験は誰にもであるだろう。

よく見かける光景といえば、炎天下の外出から戻った人が、汗を拭きながら一言「しっかし暑いな」とつぶやく。「しかし暑いな」の「しかし」が気になる。「しかし」は逆接の接続詞のはずだが、戻るやいなやいきなりの「しかし」では、先行する言葉の存在しない接続詞ということになる。言うまでもなくこの「しかし」は「逆接」ではなく、単なる「強調」と捉えるべきだ。

「しかし」はイタリア語ではおおよそ「ma」である。

「ブラームスの辞書」ではこの「ma」に2面性があると主張している。「ma」を「しかし」と解するばかりでは立ちゆかないことが多いからだ。「しかし」とならぶ「ma」解釈のもう一つの柱が「くれぐれも」的な強調の「ma」だ。「ma」に「逆接」と「強調」の意味があるという提案をしている。

暑い日にいきなり使われる「しかし」を「強調のしかし」と解する立場と共通するものがある。日本人は「しかし」と無意識に使ってもこのあたりの微妙な位置づけを区別している。ブラームスが「ma」の2面性を使い分けていたとしても不思議ではない。

暑い中こんなことを考えていたが、ちっとも涼しくならない。

2007年8月 5日 (日)

ブックマーク

本に挟むしおりのこと。転じてネット上の気に入ったサイトに簡単にたどり着くために付与する目印。便利である。私ももちろん愛用している。ココログのアクセス解析では、ブックマークによってたどり着いたアクセスが判るようになっている。ブックマークで訪問してくれるというのは嬉しいものだ。ブログ「ブラームスの辞書」を気に入って目印をつけてくれているということだからだ。つまり常連さんの印である。

最近「Y」で始まる某有名検索エンジンを見ていて気付いたことがある。何かのワードで検索してブログがヒットした場合、ブログ名の後ろに小さくブックマークしているユーザーの数が表示されていることがある。毎回全てではないのが気になってもいるが、ブログ「ブラームスの辞書」には「4名」がブックマークしていると表示されている。「Y某」系列の登録だと思われるが、これは何だかジンワリと嬉しい。

「読んでくれてるのね」ということを実感出来る。

2007年8月 4日 (土)

音程感

今日のヴァイオリンのレッスンの後、先生から「お姉ちゃん音程感がとてもよくなってきました」と言われた。明らかに誉めるというニュアンスがこもっていた。詳しく話を聞けばよかったがあいにく次の生徒さんが待ったいたので「ありがとうございます」とだけ申し上げてすぐに引き上げた。

「オンテイカンって何?」当の本人の長女がエレベータを待ちながら訊いてきた。「音程が良くなったってことでしょ」ととっさに答えたものの、何だがもやもやしている。ずばり「音程が良くなった」と何故言わないのだろう。「音程感」とはいったいなんだろう。帰宅するまでずっと自問していた。理由はうまく説明出来ないけれど「音程が良くなった」と言われるより「音程感が良くなった」と言われる方が嬉しい感じだ。

5月の発表会の後、先生から厳しく指摘されたことを思い出した。「単なる指の運動になっている」「弦の上に決められた指を置くだけ」「出る音に無頓着」という厳しい言葉だった。

一方先生は日頃口癖のように、音を出す時に厳密には直前に頭の中で音をイメージさせなさいとおっしゃる。練習とは、正しい音をイメージし実際に出た音とのズレの有無を確認チェックする作業だとまでおっしゃることがある。少しでもずれたらモジモジと指を動かしてごまかさずに、やり直せとも言う。

今長女が取り組むのはカイザーの30番前後だ。5月の発表会以降しばらく曲は封印という方針の中で、いろいろなことが守れて来ているという意味なのだと思う。「この音のつながりの時はこう弾く」という類のポリシーが長女の中に形成されつつあるのかとも思う。「音程感」という言葉から強くそれを感じだ。

「音程感」という漢字を勝手に当てはめてしまったが、もしかすると「音程」と表記したほうがいいのかもしれない。

2007年8月 3日 (金)

何を弾いたんだ

コミック「のだめカンタービレ」最新の18巻には孫Rui母娘の葛藤が描かれる。娘を心配してパリまで押しかける母、そして反抗する娘の姿だ。母から見れば子離れ、孫Ruiちゃんから見れば親離れなのだと思う。

母が察する通り孫Ruiちゃんはもがいている。オクレール先生とのレッスンは思うに任せないし恋も順調ではない。駆けつけた母とのやりとりもギスギスしがちである。

ところが千秋におごらせたディナーを機に状況が一転する。帰宅した孫Ruiちゃんは寝入った母の横でモーツアルトを弾くのだ。116ページである。昔から音楽とともに大切な出会いがあったという回想とセットである。目覚めた母はそそくさと帰国の準備を始める。母をパリまで駆り立てた心配事が解消しているということが仄めかされる。ギスギスしたトーンはすっかり影を潜め、漫画の表現までが妙に油の抜けたタッチになっている。母は「あなたが本当にピアノをやりたくてやっているなら、それでいい」と切り出す。「あなたのピアノが聴けてよかった」「聴けばすぐに判るから」「昨日は最高の演奏だったわ」と畳み掛ける。寝入った母の横で弾いたモーツアルトの演奏に「音楽を好きであること」が充満していたと解釈するしかない。いったいどんなモーツアルトだったのだろう。何を弾いたのだ。

コミックを読む限り手がかりは皆無だ。おそらくアンダンテ系なのではないかと想像するが根拠レスだ。孫Ruiちゃんを知り尽くす母に一発で悟らせる演奏とはいったいどんな演奏なのだろう。気になって仕方がない。

娘のジャケットをちゃっかり持ち帰ろうとするのはご愛敬だ。シリアスな場面にしれっと挿入されるこの手の肩透かしが「のだめカンタービレ」の魅力の一つである。

そして孫Ruiちゃんは断り続けていた演奏会への出演を決心するのだ。巨大な伏線だ。後から振り返るといい。この日のモーツアルトは必ずやピアニスト孫Ruiの転機と位置付けられるはずである。ブラームスでないのは悔しいが、今は敢えてのだめのためにとってあると解したい。

2007年8月 2日 (木)

今何調

一ヶ月ほど前から次女のヴァイオリンレッスンでドイツ語の音名を習っている。同時に少し難しいと言いながら「調性」についても説明が始まった。「ドで始まる明るい調はハ長調」「ドイツ語で言うとCdur」の類だ。最近面白いことに気づいた。明らかに長女と反応が違う。どうもそこいら周辺の話に次女は興味があるみたいだ。

調号としてつけられるシャープやフラットの数から調をあてる方法を教えたら、あっさり解ってくれた。楽譜に記された音を頼りに当てる方法も少しずつ教え始めたところだ。

今彼女が取り組むカイザーは9番だ。4分の4拍子ト長調アレグロで延々と16分音符が続く。かなり頻繁に転調がある。この曲に限らずカイザーは調の扱いが面白い。ヴァイオリン1本の1ページか2ページの小品ながら、調の配置には意図がある。

本日話題の9番で言うとト長調で始まった音楽がやがてト短調になり、変ホ長調、ハ短調という具合に進んでゆく。音程も少しずつとれるようになってきたので、演奏の途中で止まって「今何調?」と尋ねることにした。曲の冒頭がGで始まるト長調ということが最大のヒントだ。冒頭と同じ旋律が違う音で始まることが転調の印になっている。ト短調の部分は簡単だった。暗い感じの旋律になるけど、始まりはGのままだ。「ト短調」と元気な答えが返ってきた。旋律中の「H」にフラットがついて「B」に変わっているねと説明した。

この調子で変ホ長調、ハ短調、ニ長調、ニ短調、ホ短調が解明された。本人楽しくて仕方がないという感じである。やがて減7和音の連続する箇所にきた。なんだか解らぬという。いい反応だ。サスペンスドラマで謎が浮かび上がった時の旋律だと言っている。わかりやすいたとえで感心した。

「パパはどうしてすぐに何調かわかるの?」と訊かれた。答えは適当にごまかしたが、思うツボの質問である。練習をやめていくらでも話が出来そうだ。

今弾いている調が何調か解ることは大切だと思う。それに従って微妙な音程をコントロールすることが弦楽器の醍醐味のひとつだとも思う。それを意識することで譜読みの効率も上がる。何よりも調が次々と万華鏡のように移ろって行く様子を弾きながら感じとれるというのは、自分の出す音を聴いている証拠だ。今弾いている調が解り、次にどんな調に行き、最後はどこにつながるのかを知っておくことは演奏にも鑑賞にもプラスである。

一番大切なこと。それはそうした調の移ろいつまり「転調」が、ブラームスの醍醐味の一つになっていることだ。それもかなり重要度と優先度が高い。

味噌ッカスだと思っていた次女だが、見所がある。

2007年8月 1日 (水)

息も絶え絶え

インテルメッツォop117-3の結尾も近い105小節目に出現する「ritardando molto ed egualemente」の訳語として提案したい。103小節目の「Piu lento」でかなり遅くなっている上に念を押す形で置かれている。提示部の41小節目と呼応しているが、提示部には「ritardando molto ed egualemente」の指示は無い。43小節目と105小節目を比較すると旋律線の嬰ヘ音が16分音符2個分長く引き伸ばされている。テンポ通りに弾いたとしても自動的にテンポが落ちて聴こえる「オートマチックリタルダンド」が仕組まれているというわけだ。念のためテンポを落とす指示が置かれることになるが44小節目では単に「ritardando」にとどまる一方、105小節目では「ritardando molto ed egualemente」に格上げされているわけだ。つまり「提示部のときよりもっとね」の意味を濃厚に含んでいると解される。

おまけにこの「egualemente」たるやブラームスの生涯で唯一の使用例である。手元の音楽用語辞典には「平静に」とある。「ritardando」を「molto」で煽っておきながら「平静に」も無いものだ。「tranquillo」では用が足りないとブラームスが感じていた証拠と解したい。

抜き差しならないニュアンスが充満している。並みの解釈では底が知れてしまう。この場所に挑む際の心得も唯一無二でなければなるまい。だからあえて「息も絶え絶えに」なのである。

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