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2007年9月30日 (日)

偉さのランキング

日本の出版社から出ているピアノの楽譜には6段階の序列がつけられているものがある。演奏の難易度をランキング化したものだと思えばいい。1段階がもっとも平易で、6段階がもっとも難しい。6段階というのが何だか小学校っぽくていい。

ブラームスのピアノ曲集は2巻に分かれていて、1巻はソナタとバリエーションで5段階、2巻が中後期の小品で4段階とされている。

「1巻の方が偉いの?」と次女に訊かれた。あまりのストレートさに答えに詰まった。演奏が難しい作品のほうが価値が高いと感じている口ぶりだ。あるいは演奏が難しい曲を書いている作曲家の方が偉いように感じているらしい。難しい作品を弾ける演奏家の方が偉いという考えにも通ずる。ピアノを志す者たちの到達度を測る簡易ものさしとして手軽に機能することは確かだが、断言には勇気がいる。

難しければ偉いのか?そんなことはない。もしそういうことになると、ブラームス最高のピアノ作品は「パガニーニの主題による変奏曲」だということになりかねない。自分に言い聞かせるにはこれで十分だが、この説明で娘たちは納得するまい。

2007年9月29日 (土)

油断

調子の良いことにかまけて、気を抜くこと。昔からこれを戒めることわざは多い。

アリとキリギリス、ウサギとカメ、高名の木登り、100里の道は99里をもって半ばとすなどなどである。調子の悪いときは誰でも油断の入り込む余地はない。一方で「人事を尽くして天命を待つ」などという言葉は油断を増長しかねないので注意が必要である。「人事を尽くした」と認識した瞬間から天命が下るまでが無防備に見える。

不用意といえば「虎穴に入らずんば虎児を得ず」も相当なものだ。よく考えるとこのことわざを口にしているのは、まだ虎穴に入ったことのない人か、虎穴に入って運良く戻ってきた人なのだ。この言葉にうっかり乗せられて、とうとう帰って来なかった人が相当数いるということを忘れてはなるまい。リスク管理全盛の昨今、出たとこ勝負系のことわざは貴重だが、用心にこしたことはない。

話がそれた。

マンネリとは大抵定着と同時に始まるものだと思う。その意味で私にとって今最も身近な油断は、ブログ「ブラームスの辞書」の中で、ブラームスネタの濃度が下がることだ。カテゴリー「用語解説」を4日に一度は必ず入れるなどの自主規制は、その濃度を下げないためにある。たとえて言えば焼却炉のダイオキシン濃度を監視するために一酸化炭素濃度をモニタリングするようなものである。

「シェーンベルグ」や「オルガン」のように意図的に特定のテーマ周辺の記事を密集させてミニシリーズ化するのも、メリハリの創出という意味では効果があるかもしれない。

一方でどう転んでもこじつけにしか見えない「無理目のブラームスネタ」は意外にOKである。ブラームスにこじつけるために相当ブラームスについて考えているからだ。

一番気をつけねばならないのは、家族ネタだ。特に娘たちのヴァイオリン系は要注意だ。思わず書きたくなることが毎日起きるのだけれど、残念なことに大抵はブラームスネタにはならない。濃度に注意しながら厳選して小出しするしかない。姉妹どちらかの課題曲がブラームスになってさえしまえば心配はいらぬのだが、当分先になるだろう。

本日のこの記事がブログ立ち上げ以来900本目の記事である。くれぐれも油断をせぬようがんばりたい。

2007年9月28日 (金)

夜の気分

標題音楽に背を向けたブラームスではあるけれども、ブラームスの「夜の描写」はなかなかシャープである。ブラームスにとって夜には二面性があるようだ。「長調の夜」「短調の夜」とでも分類出来よう。

前者の代表は作品43-2「五月の夜」だ。作品116-4のインテルメッツォは、元々「ノクターン」というタイトリングだったらしいので、この仲間かもしれない。ここでは夜の闇は恐れの対象ではない。またセレナーデは曲本来の性格上夜の情景のはずだが、わずかな例外を除いて軒並み長調になっている。

短調が描き出す夜は、恐れや不安の象徴だ。作品43-1「永遠の愛」冒頭のロ短調や、作品48-1「あの娘のもとへ」冒頭のホ短調がその代表だろう。調性との関連を言うなら、忘れてならないのは、ヘ短調だ。作品32-1「夜中に何度飛び起きたことか」、作品33-11「光も輝きも何と早く消えうせるものか」、作品97-1「小夜鳥」の3曲がヘ短調を共有している。幻想的とも言える夜の描写だ。あくまでも推測だが、このヘ短調の夜の描写は、モーツアルトの「フィガロの結婚」第四幕冒頭のバルバリーナのアリアと繋がっているような気がする。たしかフィガロの中で唯一の短調のアリアだ。どんでん返し連発の第四幕の冒頭で、夜の庭園の薄明かりを描写していた。ブラームスの調性の選択に影響を与えたのではないかと考えている。

やはりヘ短調に対する感覚は特異である。

9月26日の記事「ヘ短調」の記述と矛盾しない。

2007年9月27日 (木)

レレシシ

9月16日の記事「完全平方数」では、ブラームス作品における平方数へのこだわりについて言及した。おかしなタイトルだが、本日はその続きだ。

初期のピアノ作品「4つのバラード」作品10がある。「4つの」という時点で既に怪しい。「2×2」を連想するが、ここはひとまず作品概要を記す。

  • 1番:ニ短調、Andante、4分の4拍子。
  • 2番:ニ長調、Andante、4分の4拍子。
  • 3番:ロ短調、Allegro、8分の6拍子。
  • 4番:ロ長調、Andante con moto、4分の3拍子。

1番から4番の順に調を並べると「レレシシ」つまり本日の記事のタイトルになる。おまけに長調2曲と短調2曲というバランスだ。4曲が2×2の答えであることを裏付ける。バラードが4曲一組とした根拠が透けて見える。

ニ短調→ニ長調(同主調)→ロ短調(平行調)→ロ長調(同主調)という調の推移にも破綻のない論理性に貫かれている。論理的に破綻の無い近親調の範囲での選択を重ねながら、終着点のロ長調は、起点のニ短調からはもっとも遠い調になっている。本年6月24日の記事「真裏の調」で述べた通りだ。ニ短調の主和音「DFA」はロ長調のそれ「HDisFis」とは一つの重複もない。

シンメトリーでロジカルな調性の配置を指向する一方で、1番にはスコットランドの詩「エドワード」の内容をトレースするという標題性をも狙っている。3曲のピアノソナタの緩徐楽章とも通ずる標題性だ。

標題音楽に走りかねない気配も濃厚だ。絶対音楽にとどまるか標題音楽に走るか思案のしどころだったのではあるまいか。「4つのバラード」作品10はロベルト・シューマン生前の最後の出版作品だ。その後作品11の「管弦楽のためのセレナーデ第1番」の出版まで5年以上の空白があった。物を考えるには十分な時間である。

2007年9月26日 (水)

ヘ短調

興味深い記述を見つけた。

音楽之友社で刊行している「作曲家◎人と作品」というシリーズの中の「ブラームス」(西原稔著)の139ページ後半だ。

ブラームスが第2交響曲の完成間近になって友人たちにそれを伝える手紙を書いたそうだ。親しい間柄を象徴してかブラームスは独特の皮肉な表現を用いている。第2交響曲を「きわまりなく悲劇的でメランコリック」と紹介している。その感じのたとえに「ヘ短調」が引用されている。複数の友人たちに「ヘ短調」というたとえを用いている。

ニ長調の薫り高き第2交響曲を逆説的に「悲劇的でメランコリック」と称するのは、ブラームスによくある表現だ。それはそれで微笑ましい。問題は「悲劇的」「メランコリック」それも相当深刻なケースのたとえに「ヘ短調」が繰り返し用いられていることだ。

ご存知の通りの第2交響曲はニ長調の陽光まばゆい作品だ。はっきり言って明るいのだ。いたずらとはいえ、いやいたずらだからこそ、その対極であることを友人たちに説明するために、数ある短調の中からヘ短調が選ばれたことは重要である。友人たちに「悲劇的でメランコリック」だということを何とかして伝えるために一番効果的だとブラームスが考えていたことに他ならない。このときまでに成立していたヘ短調の作品は下記の通りである。

  1. ピアノソナタ第3番op5
  2. 「夜中に何度飛び起きたことか」op32-1
  3. 「光も輝きも何と早く消えうせることか」op33-11
  4. ピアノ五重奏曲op34
  5. 二重唱曲「エドワード」op75-1

ブラームスがヘ短調に対して抱いていた感じがおぼろげながら想像できる。特に上記のうちの5番目は、作品10-1ピアノのためのバラードの下敷きとなったテキストがテノールとアルトによって歌われる二重唱だ。「父殺しを息子に問い詰める母」という陰鬱な内容をトレースするための選ばれたのがヘ短調だということになる。実際に歌詞が歌われることのない作品10-1ではニ短調だったが、こちらはいっそう生々しい効果を狙った結果だと思われる。

おそらくヘ短調に限らず全ての調に同様な具体的イメージを持っていたことは想像に難くない。

2007年9月25日 (火)

ピツィカートオプション

9月18日の記事「ピツィカート」でブラームス作品に現われるお気に入りのピツィカートを列挙した。

その10番に挙げたチェロソナタ第2番第4楽章128小節目には「pizz」があり、「marcato」とも書かれているのだが、同時にもう一つ奇妙な指定が置かれている。

「ad lib col arco pp e staccato」アルコつまり弦楽器通常の弾き方でもよろしい。その場合は「pp e staccato」でねとひとまず読んでおく。

第4楽章冒頭主題が、最後に回想される大事な場所だ。この場所をアルコで弾いているCDには出会ったことがない。135小節目アウフタクトでアルコに復帰する際のピッツィカートとの音色の差が売り物だから、ここをわざわざアルコで弾く積極的な理由は無かろうと思う。アルコという選択の余地を与えるのはお節介だと感じる。

そこで「ad lib col arco pp e staccato」解釈の見直しを試みる。「アルコでもいいからね。その場合はpp e staccato」だよ」という解釈ではなく、「pp e staccatoで弾ける人はアルコで弾いてもかまわない」と解するべきだと思う。わずか16小節後に控えたエンディングへのアプローチの起点だと思えばけして突飛な解釈ではあるまい。

2007年9月24日 (月)

エドワードのバラード

「バラード」は一般に「Ballade」と綴る。中世フランスのシャンソンが起源らしい。「叙情的なリート」の対立概念として「叙事的なバラード」というイメージが定着していった。器楽曲にも転用されるようになって行くが、何らかの叙事的事項との関連を想定していると思われる。

ブラームスでは、以下の通りの実例がある。

  1. 4つのバラード作品10
  2. バラードとロマンス作品75
  3. バラード作品118-3

中でも作品10番の4曲のうち第一番は特に有名だ。スコットランドのバラード「エドワード」によるという具合に出典が明記されている。生涯標題音楽に距離をおいたブラームスにしては珍しい部類に属する曲だ。母と息子の対話調のテキストだが、父親殺しを母が息子に詰問する陰惨な内容だ。ブラームスはこのアウトラインを音楽で忠実になぞっている。なるほどバラードと名付けるだけのことはある。しかし2番以下はバラードでなければいけない理由は、必ずしも明確ではない。

それより作品75は興味深い。「バラードとロマンス」というタイトルの元に4曲が収められているが、そのうちの1番は作品10-1のバラードの出典となったスコットランドの古詩がそのままテキストになっている。作品10-1のニ短調に対してこちらはヘ短調だ。ニ短調よりさらに陰鬱な感じ。アルトとテノールによって対話調の歌詞が実際に歌われて行く。

作品75の4曲は2重唱が集められている。4曲のうちどれがバラードでどれがロマンスなのか明記されていないが、作品10との関連から1番はバラードにあたると見てよかろう。若い男女の会話になっている3番がロマンスで、親子の会話の3曲がバラードかもしれぬが、2番と4番にバラードと呼ばねばならない必然性は認めにくい。

ともに4曲から構成されるなど作品10と作品75には共通のバックグランドが感じられる。

問題は、作品118-3だ。何故この曲がバラードなのか全く手掛かりが無い。やれやれ。

2007年9月23日 (日)

精霊の主題

ロベルト・シューマンの晩年を襲った心の病の症状の一つに幻聴がある。A音が絶え間なく聞こえたり、天使が決まった旋律を繰り返し奏でたりという具合だったとされている。作曲家の性というべきか、シューマンは自らを苦しめる旋律を作品に用いている。ヴァイオリン協奏曲第2楽章や、「精霊の主題による変奏曲」にその旋律が現れるという。

ブラームスもまたこの旋律を用いて変奏曲を書いている。「シューマンの主題による変奏曲op23」である。当代きっての変奏曲の泰斗ブラームスによれば、変奏には向き不向きがあるという。何でも変奏曲の素材になる訳ではないということなのだ。旋律の美しさは当然として、ベースラインがしっかりしていることが無視し得ぬ条件だったりする。つまりブラームスによって変奏の題材に選ばれたということは、ブラームスの採用基準をクリアしていたことに他ならない。恩師への追慕、クララの機嫌取りなんぞで決定するはずもなく、ましてやシューマンの心を苦しめた旋律という興味本位であるはずもない。

健気と言うか、いじらしいというかブラームスはこの主題を変奏曲の題材に用いたことについてクララがヘソを曲げやせぬかと気を遣っていたという。結論から申せば、クララは大人の対応に終始したものと思われる。なぜならばこの変奏曲は、シューマン夫妻の三女ユーリエに献呈されている。言い伝えによると、ユーリエは最も色濃く母クララの面影を受け継いでいたという。夕顔の遺児・玉鬘みたいな存在だ。ブラームスの密かな思いの対象でもあったユーリエに、母クララの逆鱗に触れるような作品を献呈するはずがない。

9月23日にピッタリの話題だ。作品9も作品23も「シューマンの主題による変奏曲」だからだ。

2007年9月22日 (土)

日本最古のピツィカート

源氏物語に登場する女性のうちで薄幸の美女代表格に夕顔がいる。元は高貴な身分ながら隠遁している。立ち居振る舞いから只者ではないと踏んだ光源氏が通い詰めるが、物の怪に取り憑かれてあっけなく死んでしまう。

源氏物語では物の怪に襲われた様が、かなりリアルに描かれている。異変を知った光源氏が随身(ずいじん)を呼ぶ。言わばボディーガードだ。駆けつけた彼らが何をしたかというと、これが「弦打ち」である。「つるうち」と読む。生身の人間が物の怪相手に出来ることなど限られているのだろう。火を灯して明るくして、声を出して弦打ちをしたのだ。「弦打ち」とは、弓に張られた弦を手で弾くことだ。魔よけの効果があると信じられていたらしい。本来の機能である矢を発射する道具という側面に加えて、こうした機能が付加されていたと見るべきだ。同じサイズの弓に、同じ材質の弦を、同じ張力で張れば同じ音になったと思われる。矢を遠くに飛ばすことの出来る弓ほど高い音がしたハズだ。それと引き換えに、半端な力の持ち主には扱いにくくなることも広く知られていただろう。急を聞いて集まった随身たちが皆同じ規格の弓だったとしたら、ほとんどユニゾンになったに決まっている。ピタゴラスの法則は平安時代の日本でも成立するのだ。音にまつわるこのあたりの不思議さは、霊的な力の存在を想起させるに十分だったと思われる。

これを称して「日本最古のピツィカート」と呼びたいところだが、実はもっと遡る例があると睨んでいる。

万葉集巻の三。間人連老(はしひとのむらじおゆ)の作とされる歌。

やすみしし わご大君の 朝には とり撫でたまひ 夕べには い寄り立たしし 御執らしの 梓の弓の 中ハズの 音すなり 朝狩に 今立たすらし 夕狩に 今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 中ハズの 音すなり 

高貴な人物の狩の描写だ。家来を大勢連れての大がかりな狩である。「ハズ」は実は漢字である。弓偏に耳と書く。弓の両端の弦を括り付ける部分だ。何を隠そう「中ハズの音」は古来学者たちを悩ませて来た言葉だそうだ。「中」を「カナ」の誤りとする苦し紛れの解釈もされている。金ハズとすることで金属製のハズを想定し、それらがガチャガチャとぶつかり合う音とする立場だ。実はこの立場が学界の定説だったりもする。

私はここでいう「中ハズの音」これこそが「ピツィカート」ではないかと考えている。ハズとハズの中間を弾くという意味が「中ハズの音」にこめられていると思う。「中ハズの 音すなり」が二度までも歌われていることを思うと、この歌の焦点であるとさえ感じる。素人の直感だが、この音は、ハズが触れあうという偶発的な音ではなくて、意図的に鳴らされた音のような気がする。狩の収穫あるいは安全を祈っての儀式で弓の弦を手で弾いていたのではないだろうか。

時代的には斉明天皇の時代の歌とされているから、先の夕顔よりは古い。単に琴を弾ずるという記述であればもっと遡る例もあるが、独断でこちらを「日本最古のピツィカート」と認定したい。 

2007年9月21日 (金)

松ヤニの谷

「松ヤニ」は弦楽器奏者の必需品だ。弓の毛に塗って摩擦力を得るためのものだ。弓の毛替えをした直後、松ヤニを塗る前の弓では、からきし音にならないことから、必要性は明らかである。弦楽器は、馬の尻尾の毛に、松ヤニを塗って、羊の腸を鳴らすのだ。

我が家で使用するのは、ごくごくオーソドックスな松ヤニだ。ヴァイオリン、ヴィオラ共用とのことで、私と娘らが交互に使っている。グレードはいろいろあるようだが「音程が良くなる」とか「スピッカートが上手くなる」とか「重音がはまる」だとかいうスペシャルな松ヤニは無いようだ。ましてやブラームス専用の松ヤニも売られていない。

使って行くうちにいつの間にか、塗りやすい箇所が決まってきてその場所だけ松ヤニが摩耗して出来るのが「松ヤニの谷」だ。私は粗忽者なのでよく松ヤニを落として割ってしまった。だから谷が出来る前に新しく買ってばかりいた。娘と楽器を始めた頃、松ヤニを不思議そうに見ていたので、「この松ヤニに谷が出来る頃上手になれるよ」と教えた。早く谷を作りたいからといっても、塗りすぎは良くない。練習の後は弦やボディあるいは弓についた松ヤニをキッチリ拭き取らねばならない。

最近、谷が出来てきた。もったいないので十文字にしている。プラスのドライバーでもあてたいような見事な形状である。

2007年9月20日 (木)

風の景

秋である。

個展の案内状が1通舞い込んだ。初めての自費出版本「ブラームスの辞書」の出版でお世話になった石川書房の社長さんは、実は版画家である。それもパソコンを駆使したハイテクの版画だ。出版関係の一連のやりとりが終わった後もご縁があって案内状を送っていただいている。

<石川勝一版画展>「風の景」

  • 日時 2007年10月1日(月)~10月6日(土)午前11時~午後7時
  • 場所 ギャラリー銀座

「ブラームスの辞書」の装幀をほとんど全てお任せした。カバーのデザインなどは先生の芸術に連なっていると感じられる。出版後もたびたびブログ「ブラームスの辞書」にアクセスして応援してくれている。装幀を誉められた情報があればメールでお伝えもしている。「ブラームスの辞書」の動向に一喜一憂してくれているのだ。

是非会場を訪問することをおすすめしたい。「ブラームスの辞書」のカバーの故郷の空気を堪能できること請け合いだ。先生を見かけたら「ブラームスの辞書」のネタを振っていただくと喜ぶ顔を見せてもらえると思う。

石川書房

2007年9月19日 (水)

マグネット

8月16日の記事「キーホルダー」を読んでいてハタと思い出した。我が家のブラームスグッズで大切なものを記事にしていなかった。ブラームスマグネットだ。冷蔵庫の扉にペッタンと貼り付けてメモを挟んだりというグッズである。新婚旅行の際にウイーンで買い求めたものだ。ご覧の通りの貫禄である。

Photo

夏は特に冷蔵庫に用が増える。その度にブラームスと対面しているという訳だ。白基調とはいえあまり涼しそうではないのが難である。

2007年9月18日 (火)

ピツィカート

「pizzicato」と綴られるイタリア語。弦楽器の奏法の一つ。弓で弦をこすって発音する通常の奏法に対して、指で弦を弾いて発音すること。楽譜上ではいつも「pizz」と略記される。何も記載が無い場合は通常奏法「arco」を意味するので「pizz」が「arco」に対して従属的な位置だと判る。

ブラームスの作品にもたくさんの「pizz」が出現する。このうち印象深い場所を以下に列挙する。

  1. チェロソナタ第2番第2楽章冒頭この場所をはずしてはいけない。ブラームス中もっとも目立つ「pizz」だと思われる。合計13回の「pizz」で鳴らされる「pizzの聖地」である。
  2. 交響曲第1番第4楽章6小節目から6小節間、および16小節目から4小節間クララへの誕生祝いのホルンの旋律に先んじる混沌の中である。
  3. 交響曲第2番第3楽章冒頭。ノーブルなオーボエの旋律を支えるチェロだ。この楽章の持つ突き詰めないユーモアの象徴とさえ位置付け得る。
  4. 交響曲第1番第4楽章。47小節目。トロンボーンの至高のコラールの冒頭に、密かに重ねられている全弦楽器だ。直前までスラー付き移弦のトレモロで空気になっていた弦楽器が、突然pizzに転ずる。「p dolce」があてられたトロンボーンの発音とシンクロさせねばならないが、ここをpizzでと思いつくブラームスの発想まで鑑賞の対象である。
  5. ピアノ四重奏曲第3番第1楽章28小節のヴィオラ、29小節のヴァイオリン。両者ともオクターブ上昇のpizz2個なのだが、ビッグバンの引き金になっている。なんだか知らぬが緊張度の高さだけならトップクラスである。
  6. 交響曲第4番第2楽章5小節目。冒頭ホルンの信号を受けて滑り出すクラリネットに寄り添う全弦楽器である。この場所では全弦楽器なのだが、64小節目からの再現部ではヴィオラだけ、pizzに転じることなく主旋律を担当する。
  7. 交響曲第4番第4楽章9小節目。冒頭から8小節かけて第一主題の提示が終わった後を受ける全弦楽器だ。4分の3拍子の2拍目を強調してシャコンヌであることを鮮やかに印象付ける。
  8. 弦楽六重奏曲第1番第1楽章387小節目。楽章も終盤近く、「poco piu moderato」を合図に始まるレントラーが第2チェロを除く弦楽器のpizzになっている。最後の3拍でarcoに復帰するのも効果的である。
  9. ヴァイオリン協奏曲第1楽章206小節目のコントラバス。第2主題を下から支える屋台骨だ。独奏楽器の奏する旋律は事実上2分の3拍子を志向する中、コントラバスのpizzだけが頑固に4分の3拍子を守り続け、この場所がブラームスお得意のヘミオラであることをアピールしている。
  10. チェロソナタ第2番第4楽章128小節目。第一主題がpizzで奏でられる。しかしこの場所の本当の狙いは134小節目でarcoに復帰する際の音色の落差だろうと思われる。

10箇所ではとても足りない。以下番外には順位はつかない。

  • 第4交響曲の第3楽章の167小節目。
  • 第4交響曲の第1楽章245小節目のチェロ。
  • 第1交響曲第1楽章36小節目のチェロ。
  • ピアノ四重奏曲第1番第1楽章362小節目。
  • 第3交響曲第1楽章31小節目のコントラバスとチェロ。

arcoで弾かせるかpizzで弾かせるかのブラームスの脳内基準は未だに全貌を把握できていない。

2007年9月17日 (月)

人物のカテゴリー

ブログ「ブラームスの辞書」には様々な人物が登場する。それらの人物たちをカテゴリーによって分類している。

  • 11人物 ブラームスの知人たち。演奏家もここに入れている。
  • 18作曲家 ブラームス以外の作曲家はこの中。
  • 50家族 子供たち、母、父、妻。
  • 54仲間 私自身の知人をここに集約。
  • 62のだめ のだめの登場人物はここだ。
  • 63クララ 
  • 64シェーンベルグ ピアノ四重奏第1番を管弦楽に編曲してくれた功績により。
  • 65バッハ 

なんとも独断に満ちたカテゴライズである。楽聖、神童、詩人みな一山いくらで「18作曲家」に放り込んでいる。名だたるマエストロに至っては「11人物」の中で雑魚寝させてしまっている。その一方で、「のだめ」や「家族」にカテゴリーを一つあてがっているのだから、いささかバランスを失している。それこそがブログ「ブラームスの辞書」の個性であると開き直るばかりだ。

そんな中でクララ・シューマンと、ヨハン・セバスチャン・バッハそれにシェーンベルグだけが独自にカテゴリーを有している。シェーンベルグはト短調ピアノ四重奏曲を管弦楽に編曲した熱意に応える為の措置である。クララとバッハは説明がいるとは思えない。この2人への敬意なくしてブラームスを論じることは片手落ちである。ブラームスが心の中で設定していたのと同等の位置付けをブログ「ブラームスの辞書」でも奉りたいと心から思うものだ。

さて重要な人物2人がカテゴライズされてない。一人はヨハネス・ブラームス自身だ。ブログ「ブラームスの辞書」自体が巨大なブラームスのカテゴリーだから、カテゴリー「ブラームス」が存在する方が不自然だと考えた。昨年末のカテゴリー体系の改定まではカテゴリー「ブラームス」を持っていたが削除した。

もう一人は私自身。プロフィール欄には不完全な情報しか載せていない。何と意地悪なと思われているかもしれないが、私自身のことはブログや書物をじっくり読む中から感じ取ってもらいたいという気持ちの反映である。自らのキャラを手っ取り早く伝えようとは考えていない。

2007年9月16日 (日)

完全平方数

平方根が整数になる数とでも言っておく。1から始まって以下、4,9,16,25,36,49という具合に無限に続いて行く。0を起点に奇数を小さい順に加えて行った数とも言い換えることが出来る。これ以外の整数の平方根は、循環しない無限小数になってしまう。ピタゴラスの定理とも関係があって何やら神秘的な感じがする。

4つ存在するブラームスの交響曲は、どれも4つの楽章を持っている。「4×4」が透けて見える。ブラームス好みのシンメトリーが実現している。「4×4」と言えば16曲存在するワルツも何やら怪しい。元々連弾用なのだが、本人の手によって独奏用に編曲されている。その際、13番以降の4曲だけが半音低く移調されている。

3曲存在するヴァイオリンソナタの1番と2番は、どちらも3つの楽章を持っている。もし第3番が3楽章制のソナタだったら「3×3」が完成していたところだが、惜しくも4楽章になっている。

最近のめり込んでいるバッハの無伴奏チェロ組曲は全部で6曲ある。それら全てがプレリュードからジークに至る6つの曲からできている。つまり「6×6」になっているということだ。

ブラームスにもまだある。作品番号は振られてはいないが「49のドイツ民謡集」は、7曲ひとかたまりとして扱われている。つまり「7×7」である。もしかすると少しはブラームスに意識があったかもしれないと思い始めている。

今日は9月16日だ。

2007年9月15日 (土)

ちゃぶ台

昔、国民的な人気を誇った野球アニメがあった。いわゆる「スポーツ根性路線」の保守本流という位置づけだった。主人公の父親は、貧乏を顧みずに頻繁にちゃぶ台をひっくり返した記憶がある。その手のキャラの父親もちゃぶ台も現代日本ではほぼ絶滅したのではないかと思う。

ピアノ協奏曲第1番の第1楽章311小節目を聴くと「ちゃぶ台ひっくり返し」を思い出す。307小節目で第1ヴァイオリンがハイノートのAで運命動機ををかき鳴らす。あたり一面の属和音の中、やがて独奏ピアノが後打ちに回り、「ソ-ファ-ミ」と下降する。でもってゴールは310小節目だ。下降音型「ソ-ファ-ミ」の到達点としては当然過ぎる「レ」である。きっとコードネームでいうと「A7→Dm」なのだと思うが、不思議なことがある。到達点の310小節目には「D」以外の音が無いのだ。「Dm」つまりニ短調なら当然「D」との共存が期待される「F」も「A」も存在しないのだ。スコアの上から下まで全て「D」である。この協奏曲は「ニ短調」という先入観のせいで「A7→Dm」だと勝手に思いこんでしまうという訳だ。

私が「ちゃぶ台ひっくり返し」だと感じる原因は次の311小節目にある。前の310小節目、圧倒的な説得力で「D」にたどり着き、そのまま低音に「D」が保留される中、独奏ピアノはあっと驚くホ長調の和音をぶつけるのだ。「E-Gis-H」である。ひっくり返しと感じる原因はこの唐突で強烈な「ホ長調」だ。ひょっとして「ダブルドミナント」かとも思うし、無理矢理コードネームにすると「E7/D」なのだろうと思うのだが、そんな屁理屈は、ちゃぶ台と一緒にどっかに吹き飛ばされてしまう。

310小節の「D」が他に何も伴わなかった意味がこの瞬間に明らかになる。主音だったはずの「D」は瞬間的に「第7音」に早変わりなのだ。「D」を軸足にしてクルリと裏側に抜ける感じである。裏側に抜けるのに「F」や「A」が下手に鳴っていると足手まといなのだ。現実に鳴っていなくても聴き手は勝手に「Dm」と思いこむから大丈夫という星一徹・・・・じゃなかったブラームスの計算が透けて見える。

ピアノ協奏曲第1番の中で一番好きな場所だ。

2007年9月14日 (金)

生鮮ネタ

食料品を扱うスーパーマーケットが特定の地域に密集している場合競合が起きる。勝ち抜きのポイントの一つが生鮮食料品だという。肉、魚、野菜だ。これらの商品の品揃え、鮮度、品質が良くて価格が安いと鬼に金棒だ。全ての分野が得意という店は少ないが、どれか一つが群を抜いているだけで相当な武器になるらしい。

味噌や醤油などの調味料は、一度買い求めたら相当な大家族でもしばらくは無くならない。つまり毎日買う必要がないのだ。昔乾物と言われていた食品がほぼこれに相当すると思われる。本日話題の生鮮品はおいしく食べようと思ったら毎日買いに行く性質のものだ。だから地域の競合を勝ち抜くためのポイントになるのである。

生鮮品の特色は「放置すると古くなる」ことにある。「鮮度が落ちる」とも言い換えられる。食品は大なり小なりそういうものだが生鮮3品は特になのだろう。乳製品や卵、惣菜もこの仲間かもしれない。

ブログやサイトを飾るコンテンツを上記の物差しで分類してみる。

<生鮮ネタ>演奏系の情報は放置すると古くなりやすい。新しい演奏が出るたびにベスト選の顔ぶれが変わってしまい更新が必要になることも多かろう。CDの発売や廃盤も更新のキッカケになる。マメな更新が必要なのだ。

  • ブラームスのディスコグラフィー
  • ブラームスおすすめCD
  • 演奏会評

<乾物ネタ>ブラームスの未発表作品の発見が相次がない限り作品系の情報は変動がない。作品に与えられる評価が時代によって変動することはバッハを持ち出すまでもなくあり得る話であるが、頻度としては多くない。作品の解釈は時代により人により揺れるから乾物ネタと断言するのは勇気がいる。

  • ブラームスの作品一覧表
  • ブラームスのおすすめ作品
  • ブラームスの作品アナリーゼ

ブログでも本でも「ブラームスの辞書」は乾物ネタに偏っている。楽譜上に出現する「音楽用語」を出版社が勝手にいじる可能性は大きいが、乾物ネタだろう。して見ると「ブラームスの辞書」は生鮮ネタにからきし弱い。

生鮮ネタに弱いというのは、スーパーの競合だったら完敗である。総合食品スーパーとしては生き残れまい。思い切った専門店化が必要である。総合的な品揃えをあきらめて特定分野に徹底的にこだわるということだ。

手っ取り早く専門店の雰囲気を出すのは意外と簡単だ。バイヤーの名刺を持って仕入れをするようではいかんのだ。気むずかしそうなオヤジが儲けや見てくれを度外視して道楽でやっているという雰囲気が大切である。しばしばどちらが客か判らないくらいの応対も持ち味のひとつになる。こちらを目指すべきであることは明らかだ。

2007年9月13日 (木)

クララ・シューマンの位置

ブラームスにはある習慣があった。自作を出版する前に、未発表の楽譜をクララ・シューマンに届け批評を乞うたのだ。結果としてブラームスはクララ・シューマンの承諾を得て全ての作品を出版した。

ブラームスはしばしば、自作の良いも悪いも容赦なくコメントして欲しいと懇願しているばかりか、クララが作品に対して寛容になり過ぎないよう要請している。さらに具体的な作品名を挙げて、後世に残す価値があるかどうか、つまり出版する価値があるかどうかについても意見を求めている。出版によって作品が一人歩きを始める前に、最も確かで信頼できる第三者の目に判断をゆだねていたことになる。

クララ・シューマンはその意味でうってつけの人物だ。演奏の能力は言うまでもない。それに加えて、作品の解釈と理解を含む洞察力において比類の無い存在だ。

意見を求められたクララは、あらん限りの知識・経験・感性を動員してブラームスの草稿に向き合ったことは想像に難くない。クララがいつも楽譜の隅々まで熟読した上で、意見を聞かせてくれることをブラームス自身はよく知っていた。とりわけ作品に対するネガティブな意見ほど心を鬼にして率直に語ったことも容易に想像できる。たとえネガティブな意見であっても、ブラームスは自分なりに消化して必ず成果を結実させることを、クララもまたよく知っていた。ブラームス作品に限って言えば、クララとブラームスは基本的に波長が合っていたようだ。当代最高のピアニストにしてロベルト・シューマンの妻のお墨付き作品ばかりが作品リストに載ることのメリットは計り知れない。ブラームス作品が見せる生涯一貫して破綻のない水準は、こうした手続きにより一層盤石になっていたと思われる。

それにしても次々と手許に届けられる作品が、軒並み音楽史を飾り得る作品であることをクララはどう感じていたのだろう。それらの全作品を出版前にチェック出来るという自分の立場をどう受け止めていたのだろう。もしいくつかの作品についてクララが首を横に振っていたら、現代の演奏会レパートリーのいくつかが吹き飛んでいたことになる。あるいはCDショップのブラームス売り場が幾分縮小していたことになる。

ブラームスの音楽的な遺書とも目される「四つの厳粛な歌」op121は、出版に先立って、クララの判断を仰ぐことが出来なかった。他に「オルガンのための11のコラール前奏曲」op122が同様の位置付けにある。クララ・シューマンその人の死というシンプルで絶対的な理由のせいだ。もちろん、クララが生きていたとしても、きっと出版に同意していたに違いない。

今日はクララ・シューマンの誕生日だ。

2007年9月12日 (水)

三連符

基準の単位を3等分した音符。基準の単位とは様々だ。1拍だったり音符1個だったり、小節1個だったりする。小中学校の音楽の時間で学習する体系は2の倍数個に等分されてゆく音符が基本だから、三連符はそれらとはリズム的な衝突を引き起こす。作曲家たちはみな、そのことを知っている。ブルックナーの交響曲にはしばしばそれがモチーフとして現われ、「ブルックナー三連符」という異名も奉られているという。

ヘミオラ好きなブラームスもしばしば三連符を巧妙に用いている。「ブラームスの辞書」でもさすがにブラームスの三連符の全用例を列挙するには至っていない。マッコークルをでさえ不可能だろう。せめてブログ「ブラームスの辞書」で印象的な三連符の用例を挙げるにとどめたい。

  1. 交響曲第2番第3楽章4小節目および6小節目のオーボエ。第3楽章を率いるオーボエの旋律の中に現れる。チェロのチャーミングなピチカートに乗ってオーボエが軽いノリでサクサクと進んで行く。振り子を思わせる心地よいリズムは、4小節目と6小節目の3拍目の三連符によって要所を押さえられている。放置するとダラダラと流れかねない旋律が、この三連符によってキュッと締まる。ブラームスもこの三連符を大切と考えていた証拠に、この三連符の瞬間だけ、チェロのピチカートが動きを止める。
  2. 弦楽四重奏曲第3番第1楽章316~317小節目のヴィオラとチェロ。第1楽章も大詰め、312小節目からヴァイオリンは8分の6拍子、ヴィオラとチェロは4分の2拍子があてがわれ、リズム的衝突が意図的に作り出された中で起きる。この瞬間ヴィオラとチェロは4分の2拍子の1小節を3つに割るのだ。4分音符3つを束ねる形の「3」という文字が美しい。同じく322~323小節目のヴァイオリンは同様の音型でありながら、8分の6拍子に配慮して「3」の文字は出現しない。このあたり醍醐味である。
  3. チェロソナタ第1番第2楽章103小節目のチェロ。トリオに入ると8分音符の連続で旋律が構成されている。4分の3拍子を背負っていながら、感情の頂点付近で4分音符2個一組のフレージングに変わって音楽を先へ先へと急き立てる。煽りがあまりに急なので、音楽がまさに決壊する直前に、踏ん張りの利いた三連符が出現して煽りをなだめるという寸法だ。

最後にとっておきの場所。私の宝物だ。ピアノ四重奏曲第2番第2楽章70小節目のピアノである。66小節目から弦楽器の控え目な伴奏に乗ってピアノは8分音符の連続からなる旋律を「p espressivo」で奏でている。右手と左手の仲むつまじいオクターブの旋律だけで十分美しいのだが、問題の70小節目の3拍目から三連符にすり替わるのだ。この変わる瞬間が何にも代え難い宝だ。

このところアクセス系のネタではしゃいでしまったので、現実に目を向ける意味でもガッツリのオタクネタをかましておくことにする。夢を見た後は足下を固めておかねばならない。

2007年9月11日 (火)

この調子で行くと

シアトルマリナーズのイチロー外野手がシーズンの開幕戦で3安打放ったとする。十分にあり得る話だ。それでも「この調子で行くと今年は486安打に達するかもしれない」という記事が翌日の新聞に踊ることは無い。かなりなゴシップ専門紙でもそれはあり得ない。

「この調子で行くと」というフレーズは使い方が難しいのだ。タイミングをはずした使い方をすると失笑のきっかけでしかない。

つい先日ブログ「ブラームスの辞書」開設以来の通算アクセスが60000万件に達した。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/09/post_fe94.html

この調子で行くと来年の今頃、ブログ開設以来の通算アクセスが10万に達するものと思われる。獲らぬタヌキの皮、それもLLサイズである。

けれどもこのところのアクセス10000に要する日数の推移を見ていると、年間40000アクセスはあてにしてもよいのではないかと感じる。9月3日からの1週間には週間アクセスの新記録1228件を樹立した。その前週更新したばかりの1061件をあっさり塗り替えた。9月に入ってからのアクセスの充実振りを見ていると、「この調子で行くと」というフレーズも場違いではない手応えがある。

素人の駄文満載のブログに10万アクセスとは夢のような数字だ。この1年は夢ともに歩む1年になりそうだ。

何だかささやかなイベントでも考えたい気分である。

2007年9月10日 (月)

第2巻表紙の謎

コミック「のだめカンタービレ」第2巻の表紙について以前から変だと思っていたことがある。ブラームスには関係ないのでずっとあたためていた。

のだめが持っている楽器は、ヴァイオリンだ。ピツィカートを試みるのだめの右手の指、あるいは肩あての形状など芸が細かいのは、毎度の事ながらさすがである。

この場面でのだめの左上方に譜面台がある。その上に置かれている楽譜は、ヴァイオリンの楽譜ではない。明らかに総譜である。ガッシリとしてお値段の張りそうな譜面台ではあるが、その高さからみて指揮者用とは思えない。

構図からはのだめが腰掛けているのか立ち上がっているのかも判断しにくいけれど、仮に立っているとすると、のだめの後方、つまり画面右枠外に指揮者がいて、譜面台上の総譜を見ているとも解し得る。そうなると、のだめを独奏者とするヴァイオリン協奏曲という想定も成り立つ。総譜がヴァイオリン協奏曲に見えないのが難と言えば難である。

やはり「演奏の合間にヴァイオリンで戯れるの図」である公算が高い。

本日9月10日は、「のだめ」こと野田恵のコミック設定上の誕生日だ。

2007年9月 9日 (日)

ジュラシックパーク

洋の東西を問わず人々は恐竜が大好きと見えて恐竜が登場する映画は多い。本日話題の「ジュラシックパーク」はその代表格だ。

琥珀の中に閉じこめられた吸血性の昆虫の遺骸に恐竜の血液が保存されている可能性が着想の原点だ。そこから恐竜一体分のDNAを入手して数千万年前に滅んだ恐竜を現代に蘇らせて、テーマパークを建設してしまおうという発想だ。空想と現実の境目が巧妙にぼかされている原作の描写は、見事なものだ。そのうえ目を見張るようなCGが圧倒的な説得力を発揮する。

残念ながらブラームスの血を吸った蚊の遺体をどこかから探し出して、ブラームス本人を復元しようというオチではない。本人に訊きたいことは山ほどあるのでそれはそれで興味深い。どうせなら遺伝子操作をして日本語を理解するブラームスを復元したいものだ。

「琥珀の中に完全保存された蚊の遺骸の中の血液からDNAを復元する」というアイデアが映画全体の肝になっている。このあたりのもっともらしさが本作のリアリティを高めている。技術的科学的な根拠は別として、世間が「なるほど、ありそうだ」と思うかどうかがSFとして成功するかどうかの分かれ目なのだ。

「ブラームスの辞書」は本もブログもある意味で「ジュラシックパーク」を目指したいと思っている。楽譜に封じ込められたブラームスの発想の復元が狙いなのだ。楽譜は「琥珀に閉じこめられた蚊」である。生物学者がそこからDNAを入手するように、私は楽譜からブラームスの思いを解き明かしたいのだ。

いつかブラシックパークを作ってみたい。

2007年9月 8日 (土)

野分

「のわき」と読む。「秋に突発的に吹く強風」のことを古来日本ではこう呼んだ。「太平洋上で発生した熱帯低気圧が云々」すなわち「台風」と説明して種明かしをしてしまうのは野暮の部類だろう。昔の人々は突然やってきて大暴れして、翌朝にはケロリと晴れ上がる気紛れな風だと思っていたはずだ。

源氏物語に「野分」の描写がある。光源氏が女性たちを住まわせている六条院の屋敷にも容赦なく野分は襲いかかる。秋の花々がすっかり荒らされたばかりか屋敷にも、野分の爪痕が残される。光源氏の長男・夕霧は、風で乱れた調度の隙間から、紫の上の姿を目撃してしまう。父光源氏は、意図的に紫の上を隠していたのだが、野分の悪戯で偶然見かけてしまうという筋立てだ。案の定夕霧は雲居の雁という恋人がいながら、紫の上に激しく心を揺さぶられるのだ。「なるほど父がひた隠す訳だ」という具合だ。夕霧の心の動揺は態度に表れたようだ。光源氏は、夕霧の態度から紫の上を見たことを察する。親子とはいえ油断も隙もないのだ。

根拠は全くないが「野分」という言葉を聞いていつも思い出す作品がある。ピアノ小品集op118の中の1番目のインテルメッツォだ。イ短調Allegroがフォルテで立ち上がる冒頭は、「インテルメッツォ」としては異例だ。その異例さが何だか「野分」を連想させるのだ。

そしてop118-2の「Andante teneramente」は嵐の後・台風一過の秋空だ。

禁断のこじつけネタである。

2007年9月 7日 (金)

祝60000アクセス

台風9号が通算60000アクセスを連れてやってきた。

昨日一昨日と連続して200件に近いアクセスだった。今日も朝から好調でおそらく昼頃にブログ「ブラームスの辞書」開設以来のアクセスが60000件に到達した。

  • 10000アクセス 2006年 3月 8日 283日目
  • 20000アクセス 2006年 8月30日 458日目(175日)
  • 30000アクセス 2006年12月30日 580日目(122日)
  • 40000アクセス 2007年 3月28日 668日目( 88日)
  • 50000アクセス 2007年  6月21日 753日目( 85日)
  • 60000アクセス 2007年 9月 7日 831日目( 78日)

過去2年アクセス激減の憂き目にあった8月が好調に推移したことで、9月初旬の到達になった。更新幅は小さいもののアクセス10000件に要する日数が短縮している。1万アクセスに3ヶ月を必要としない流れはどうやら確立されたと見ていい。

意外な健闘を見せた8月の最終週(8月27日~9月2日)は、週間アクセスの記録を更新した。従来の記録を19件上回る1061件だった。そして9月3日から本日までの5日間でも週間1000アクセスのペースが維持できている。週間1000アクセスが日常のことになる日も夢ではなさそうだ。

日頃のご愛顧に感謝である。

2007年9月 6日 (木)

波が来ている

夏休みには、自由研究よろしく自発的に課題を設定してブラームスに関連した特定の分野への理解を深めることにしている。昨年はシェーンベルグで、今年はオルガンだった。年に一回くらいこのように脳味噌の中をかき混ぜるのは良いことだ。眠っていた細胞が目覚めて活動が活発になる。おかげで記事のネタをガンガン思いつく。ネタがネタを呼ぶという感覚だ。一つのネタの裏をとるために調べ物をしていて次を思いつくのだ。調べた結果、仮にガセネタだったことが解っても、またしばらく寝かせておくと良いこともあるかもしれない。ここ1ヶ月ほど思いつきの波が来ている感じだ。断片まで数えれば2~3個は毎日思いついている。近いうちにきっと訪れるスランプに備えてせっせと備蓄である。冬眠前のクマみたいな感じだ。

亥年の次女が今日誕生日を迎える。歳おんなだから12歳だ。おまけにクララ・シューマンと同じ乙女座である。秋篠宮家のおぼっちゃまと同じ日だ。

芸術の秋へまっしぐらだ。

2007年9月 5日 (水)

カンタータ150番

1707年22歳のバッハはミュールハウゼンという街の教会オルガニストに着任する。約1年の間いくつかのカンタータが作曲された。バッハの創作史を概観する立場からはミュールハウゼン時代はわずか1年ということもあり、後年のケーテン、ライプチヒ時代ほどの取り扱いを受けてはいないが、カンタータの作曲が始まったという意味では重要である。

その成果の一つが150番「主よあなたを求めます」である。音楽の友社が刊行する作曲家別作品辞典の「バッハ」では取り上げられていないが、私のようなブラームス好きにとっては避けて通れぬ事情がある。

終末合唱のベースラインが、第4交響曲のフィナーレ・パッサカリア主題の原型になっているのだ。ブラームスは親しい知人にバッハの主題を指して「変奏曲の主題に使えそうだ」という見解を示す一方で「少し手を加えねばならない」という見通しも明らかにしている。

原曲となった低音主題は4小節で、ブラームスの第4交響曲では8小節になっていることからも手を加えたことは明らかながら、最初の4小節の歩みは嬉しくなるほどそっくりである。近年のバッハ研究によると、この作品が現存最古のカンタータかもしれないという。その一方でこの作品には偽作説を唱える学者も存在する。

本年8月17日の記事で言及したように、ブラームスは「ルカ受難曲」については、親友であり当代屈指のバッハ研究の泰斗フィリップ・シュピッタの真作説に真っ向から反対する意見を述べ、後年にブラームスの主張が正しいことが実証された。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/08/post_9ecd.html

それほどの見識を持ったブラームスがカンタータ150番の偽作性に言及していないのは何故だろう。この先もし偽作であることが判明したらブラームスはきっと悲しむと思う。偽作とわかっていても第四交響曲のフィナーレにこのテーマを採用しただろうか。

超有名なカンタータは他にいくらでもあるのに、偽作の疑いがあるさほど目立たないカンタータの終末合唱の低音主題を引っ張り出してくるとは、この主題そのものによほどの魅力を感じた証拠だろう。作曲当時は偽作の疑いなど微塵もなかったか、ブラームス本人が真作だと確信していたからかもしれない。

いけない想像が一つ。ブラームスが「これならオレの方がうまく書ける」と思ったなどということはないだろうか。親しい知人に対してもけして口に出すことはなかったと思うが。

2007年9月 4日 (火)

桁数制限

ブラームスが自作の楽譜の上に記したダイナミクス記号には桁数の制限がある。ズバリ3桁である。「p」「f」は一桁。「mf」「pp」は2桁である。「ppp」「fff」が3桁だ。つまり「pppp」や「ffff」は存在しないということだ。「fp」系の用語に目を転じても4桁は存在しない。「ffpp」はあり得ないということだ。

著書「ブラームスの辞書」の中では、これらの現象がブラームスの読譜への配慮であると位置づけている。人間が一目でハッキリと認識できる桁数は3だ。4桁になると人によっては5桁との区別が怪しくなる。

この事実を鮮やかに証明した実例がある。コミック「のだめカンタービレ」第17巻146ページだ。千秋真一の父・雅之の指が6本描かれている。のだめ読者の中には気付かずに通り過ぎた人も少なくないと思われる。指は5本であるという先入観も手伝っていたと思われるが、5本と6本の違いが一瞬で見分けにくいことは明らかである。

http://brahmsop123.air-nifty.com/sonata/2007/02/post_8c86.html

ブラームスの採用した桁数制限には、このような背景がある。ブラームスは演奏の経験からこうした自主ルールを設けていたことは確実と思われる。

2007年9月 3日 (月)

演奏効果

主に作品を解説する文章に現われて「演奏効果が上がる」「演奏効果が高い」等の使われ方をされている言葉だ。使われ方から類推して、「弾き映え」「聴き映え」の意味とも取れるが難解。ブラームスの作品は得てして「演奏効果が上がらない」「演奏効果に乏しい」「演奏効果が低い」と評されることが多い。

演奏家に要求するテクニックの難易度の割に、演奏を聴いた聴衆にはテクニックがあるように聞えないというニュアンスを濃厚に含む。「難しい割にそう聞こえない」ことを歓迎しない人々がいるということの裏返しだろう。聴衆に演奏者のテクが効率的に伝わらない作品が多いと言うことなのだ。少なくともブラームスの作品は一部にそう思われているということに他ならない。逆に「演奏効果が高い曲」というのは、大したテクもないのに上手に聞こえる曲という極論も透けて見える。「演奏効果が上がらない」ことを理由にプログラムへの取り上げをためらうという層は少なくないと思われる。作品の本質とは全く関係がないが、苦労して練習したのだから上手だと思われたいということなのだ。

「演奏効果」という言葉がこの意味で使われる限り、ブラームスは自作が「演奏効果が上がらない」と評価されることを喜ぶだろう。音楽作品は演奏家のテクニックの披露のためのツールではないと信じる立場の代表がブラームスだからだ。演奏のテクニックは作品が要求した場合にはじめて必要かつ最小の量を披露するものであって、テクの披露が演奏の目的になることを断固拒否する立場だ。

そうした性格をもったブラームスの作品を演奏してなお、上手と思わせるのが本当のテクニックなのかもしれない。

2007年9月 2日 (日)

アシストの有無

協奏曲は、独奏楽器に花を持たせて何ぼである。

ブラームスの協奏曲は、その点で一部からは受けがよろしくない。古くはサラサーテだ。ヴァイオリン協奏曲の第2楽章冒頭でオーボエが延々とソロを受け持つことに不快感を示したりしている。協奏曲に挑もうかという弾き手は、腕に覚えの強者ばかりだから、自らの存在感を聴衆にアピール出来て何ぼと考えてしまうのも無理からぬ話だ。どんな協奏曲を弾くかという選択にそうした要素が色濃く反映されることは、その意味で自然である。

ブラームスの協奏曲は、ソリストとしての腕前よりも、いかに楽曲に溶け込むかを要求する。ブラームスにとって自分の言いたいことを聴衆に伝えるために最適の形態が、たまたま協奏曲だっただけで、ソリストのテクを効率的に聴衆に伝えることは二の次と考えていた節がある。そうした曲の性格の範囲内で、どうすれば目立つかを弾き手に問う凄みが、ブラームスの協奏曲にはついて回る。楽譜通りに弾けるところから始まるといった側面も無視できない。

作曲家自身がヴァイオリニストだった場合、テクニックは大したことがないのに、難しそうに聞こえるというサービスパッセージを忍ばせることがあるが、ブラームスにはそれが少ない。

しかし、そこはさすがに協奏曲だ。独奏楽器が総奏に埋没してしまっては具合が悪い。ブラームスもその点には工夫をしている。オーケストラ側の長い和音を、拍頭のアタックだけにとどめたり、「fp」を多発したりだ。低音声部に対する「p marcato」の指定もこの一環だと思われる。特に独奏ヴァイオリンはピアノに比べてそうした音強上の配慮を色濃く受けている。

不思議なことがある。管弦楽が伴奏する合唱曲に出現する独唱者は、独奏楽器ほど音強上の配慮を受けていない。少なくとも楽譜上に痕跡が現れていない。演奏の現場では、歌手の力量・声質、オケの性格、ホールの特性に即して指揮者が自ら配慮をすることもあると思うが、楽譜上は手加減無しになっている。

仮にそれがソプラノ独唱であっても、大管弦楽の総奏の中で埋没することはないと、ブラームスが判断していた証拠である。ウイーン定住前の合唱指導の経験を思う時、人の声に対するブラームスのそうした考えは何やら示唆に富んでいる。

2007年9月 1日 (土)

8月のアクセス

「オルガン強化月間」の8月が昨日で終わった。

日本では8月15日の前後に民族の大移動がある。そのあおりを受けて我がブログ「ブラームスの辞書」へのアクセスも激減するのが恒例だった。少なくともブログ開設から2度経験した8月はその傾向が顕著だった。

だから今年もビクビクと覚悟していた。

ところが今年は勝手が違った。8月単月の1日アクセスは125.48日を記録して今年に入ってからの一日平均値を上回った。特に15日前後は覚悟を決めていたのだが、単純にアクセス数だけで比べるなら全く例月と同じだった。一番不安だった13日からの一週間には7日全て100アクセスを超え、841アクセスを記録した。1日平均アクセス120に達した。年間43000アクセスの水準を維持したということだ。

さらに押し詰まった8月29日には1日アクセスの最高記録299を達成した。従来の記録を57件も更新する新記録だ。100アクセスに達しなかったのは3日、11日、26日、31日の4日間だけという風の吹き回しである。

今年は民族移動の度合いが低かったのか、ブログアクセスの基盤が底固くなったのか判断出来ていない。ぐちゃぐちゃと理屈をこねずに喜ぶことにする。

わ~い。

ブログ「ブラームスの辞書」へのアクセスに感謝申し上げます。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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