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2007年10月31日 (水)

30ヶ月連続フルマーク

本日のこの記事が無事にアップされたことによって、ブログ「ブラームスの辞書」は30ヶ月連続して毎日更新を達成したことになる。開設は2005年5月30日だったから、最初の月は2日だけだが、その後29ヶ月一日も欠かさず記事の更新が出来た。

ブログの右サイドバーにカレンダーがある。記事が更新された日には、日付の数字の下にアンダーバーが示される。月間全ての日にこのアンダーバーが付いた月が30ヶ月続いたということだ。

同じく右サイドバーのバックナンバーをクリックすると2005年5月を皮切りに、2007年10月まで30個の月がズラリと並ぶ。どの月もみな更新の抜けた日がない。

なんだか面白くなってきた。

2007年10月30日 (火)

主語脱落

10月27日の記事「根音省略」および昨日の「主題提示の隠蔽」に関連がある。

27日の「根音省略」は、ブラームスがしばしば和音の根音省略形を用いて調性の曖昧さを楽しむという趣旨だった。主役になる音を意図的に省くことで得られる「どっちつかず感」が狙いだろう。あるいは、主和音の提示そのものが延々と忌避されることも少なくない。ラプソディーop79-2におけるト短調は、そうした位置付けにある。意図的に隠すことでかえって調性感が強まっている。「主和音の連打も結構だがね」とでも言っていそうである。

昨日の記事「主題提示の隠蔽」は、楽曲の最初の主題提示が意図的に省略またはぼやかされていることに言及した。

和音における根音、楽曲における主題提示つまり主役が隠されるという意味だ。

主役を隠すことは、古来日本語でも行われてきた。古典文学ではしばしば主語の省略が見られる。いや主語を省くほうが普通だったりもしている。源氏物語はそうした形式の典型だ。あれだけの登場人物が錯綜する複雑な物語ながら、判る人には判るとばかりに頻繁に主語が省かれる。前後の文脈と敬語の用いられ方で、主語が判るのだ。現代語訳では、わかりやすさに配慮して主語が補われていることが多い。「5W1H」に飼い慣らされた現代人は主語がないと不安なのだ。不安の解消と引き替えに、原文のリズムは失われる。敬語への意識も薄まる。

言わぬが華なのである。言わぬところに余情が生まれ、読み手がそれを補うことで味わいの幅が広がると思う。おそらくそれは「ロマン」と呼びならわされているものに近いのだと考えている。主語が明らかなのは、むしろ野暮と思われていた節がある。「あからさま」があまり好ましいニュアンスではないのは、その名残りだと思っている。

本日のこの記事をブラームスネタだと感じた人はブログ「ブラームスの辞書」の読み過ぎの疑いがある。

2007年10月29日 (月)

主題提示の隠蔽

おかしな用語だ。もちろん私の造語である。「主題再現部の隠蔽」であれば、少々詳しいブラームス関連本では言及されている。主題の再現を意図的にぼかすというブラームスの手法のことを指している。

それに対して本日のお題「主題提示の隠蔽」は、主題の最初の提示がぼかされているまたは意図的に省略されているケースだ。主題提示が隠蔽されているのだから、その瞬間はわかりにくい。後で振り返ってみて「そう言えばあのとき」というパターンのことを指している。そのぼかし方のさじ加減は簡単ではない。ボカシがきつすぎて、「そう言えばあのとき」と気づいてもらえなかったら元も子ないからだ。

ヴァイオリン協奏曲の第1楽章。61小節目から木管楽器が1小節毎に下降する。行き着く先の65小節目からグルグルと渦巻くような螺旋階段状の動機が現れる。2小節後にこれが弦楽器に受け継がれることになる。何かが始まりそうな予感に満ちてはいるのだが、このときには何も起きない。

さてさてやがて独奏ヴァイオリンが登場した後、198小節でも上記61小節と同じ局面が現れる。螺旋階段状動機までキチンと現れる。また何も起きないのかと思いいきや、今度は独奏ヴァイオリンが満を持して華麗な第2主題を提示する。206小節目のことだ。この一連の流れは延々と20小節も続き第1楽章の見せ場の一つになっている。ここに至って聴き手は管弦楽のみの提示部69小節目からこの20小節がゴッソリと省略されていたと気付くという寸法である。

同様な例は、第3交響曲第4楽章にも存在する。240小節目のチェロとコントラバスに第4楽章第1主題が出現するに及んで、同楽章の98小節目ではこれが伏せられていたことが判明する。

第1交響曲第4楽章にもある。ベートーヴェンの歓喜の主題との類似がいつも取り沙汰されるあの主題が奏でられるとき、実は、第4楽章の冒頭でその旋律の亡霊がヴァイオリンによって仄めかされていることが判る。

ブラームスの作品はしばしば「噛めば噛むほど」と表現される。この表現は言外に「一度聴いただけでは判らない」というニュアンスを匂わせている。主題提示を隠蔽なんぞされたら一度聴いても判らないのは当たり前である。しかししかし、この辺りがブラームス節の根幹のような気がしている。

2007年10月28日 (日)

献本行脚⑦

長男の通う高校の図書館に「ブラームスの辞書」を献本した。

好天に恵まれた1日を長男の通う高校の文化祭で過ごした。私が中学の時に国語を教えてくれた先生と偶然再会した。お顔と胸の名札で確信できた。声をおかけしたら、程なく思い出してくださった。昨年の7月23日の記事「学校説明会」でも言及したが、どうも長男の学校がらみでは何かと奇遇が多い。

長男の所属するクラスの展示は、なかなかの力作だった。畳3枚分くらいの大きな絵だ。発泡スチロールのボードに絵の具で色をつけた爪楊枝をビッシリとさしてある。葛飾北斎の赤富士だ。見る角度によって微妙に色合いが変わり美しい。そういえば耳に茶色の絵の具をつけて帰宅したこともあった。

どさくさに紛れて司書の先生を探し出して「ブラームスの辞書」を差し上げた。長男のクラスと名前を告げてお渡しした。立派なブラスバンドがあるので、音楽を志す生徒が数多くいると思う。長男が通うというのもきっと何かの縁だ。

2007年10月27日 (土)

根音省略

話を判りやすくするためにハ長調を例にとる。ハ長調の主和音といえば「C-E-G」である。いわゆる「ドミソ」だ。この3つの音の内「C」が第一音あるいは主音と呼ばれる一方で「根音」と呼ばれている。「第一音」「主音」「根音」どれをとってもいかにも大切そうな感じがする。

詳しいことは私の手には余るがもう少し続ける。声部の数の都合で、これらの音のうちどれかを重複せねばならなくなった時、もっとも無難とされているのが「根音」の重複だ。ちなみに一番いけないのが「第3音」の重複だそうだ。「E」である。逆に何かの都合でどれかを省略せねばならなくなったときは「第5音」(G)の省略が無難らしい。第3音の省略をすると長調なのか短調なのか判らなくなるし、根音の省略は何調か判らなくなるからだ。

無難とは言えないが根音が省略されることもある。それが本日のお題「根音省略」だ。ブラームスの和音遣いの特色としてあげられていることもある。曖昧を自在にもてあそぶブラームスにとっては、「何調か判らなくなる」というリスクはかえって強力な表現のツールになる。昨年9月21日の記事「曖昧を味わう」でも述べた通りである。それどころかその記事で言及した「まどろみはいよいよ浅く」の冒頭こそが「根音省略」の例にもなっている。

さらに属7和音で根音省略が起きるとどうなるか。コードネームでいう「G7」を例に考えてみる。「G-H-D-F」だ。ハ長調のトニカ「C-E-G」に行きたくなる機能を持つのだが、この4つの音から本日話題の根音「G」が省略されると「H-D-F」になる。短3度の堆積した形になる。この3つの音の両端「H」と「F」はいわゆる増4度の音程だ。ピアノの白鍵で増4度を表わすことの出来るのは唯一「HとF」だけだ。

響かぬといえば響かぬのだが、バッハやブラームスにかかると抗し難い魅力を発するスパイスになる。

2007年10月26日 (金)

音楽史

歴史についてしばしば語られる切り口がある。「敗者の歴史は残らない」である。断言には慎重を期さねばならないが、なるほどと思わせるものもある。古来中国では皇帝の特権として歴史書の編纂があった。新しく成立した王朝は、その一つ前の王朝の歴史書を編纂するのが常だった。平和的に王朝が交代する「禅譲」は希だったから、大抵は変り目に戦争が起きている。その戦いに負けていれば単なる反乱軍だったのが、勝ったために新王朝の開祖となるという構図である。勝った側は、その戦争がいかに大義に満ちたものだったかを宣伝しなければならない。歴代中国の歴史書は王者の支配の根拠を確認することが主眼の一つになっている。前王者が残忍に描かれていたりするのもその延長線上にある。

日本の歴史を見ても悪役扱いの人物にはこうしたフィルターがかけられていた可能性もある。正史というものは古今東西を問わず常にそういう性格を帯びる。

他にもある。「成功した侵略は侵略と書かれない」である。侵略が成功してしまえば、歴史書を作る権利は侵略した側になるから、大義名分を作り上げることは容易だし、少なくとも侵略の言い訳をすることが出来る。語感の悪い「侵略」という言葉をわざわざ用いる王者はいない。歴史を細かく見れば、「侵略」という用語を注意深く回避している例がいくつか散見される。

「音楽史」を音楽の歴史と捉えるとき、そうした意味の「勝者」は誰なのだろう。全ての民族には独自の音楽がある。それぞれが独自の発展を遂げているのだから民族の数だけ音楽史があることになる。一方で断り無く「音楽史」という言葉を用いた場合、特定の国への偏りが見られること周知の通りである。発信側も受け手も自然にそれを受け入れているが、妙な話である。日本の学校で教える「音楽史」に限れば勝者は「ドイツ音楽」に見える。

「民族音楽」「民俗楽器」「国民楽派」「民謡」などという言い回しは、ある意味で勝者の傲慢さに通ずると思う。一部の、というよりおそらくキリスト教の教会音楽が「楽譜の発展」「天才の出現」「産業革命」等の恩恵を受けて興隆したことは事実だが、音楽史とイコールで結びつけられる程のことではあるまい。

図らずもその勝者たるドイツ音楽の中にあって、図らずも「3大B」のアンカーという位置付けにあるブラームスが、「民謡」を愛していたことはある種の救いと感じる。

2007年10月25日 (木)

第4交響曲の恩人

今日10月25日は第4交響曲の初演された日だ。1886年のことである。ブラームス最後の交響曲として愛されている。特にその第4楽章はパッサカリアという異例の形態を採用したことで名高い。バッハのカンタータ第150番「主よ、我汝を仰ぎ望む」の終末合唱のシャコンヌ主題を原型にしている。

バッハはその死後80年にわたり、作曲家としての存在を大衆から忘れ去られていた。印刷譜の形で残された作品はわずかで、大半は自筆譜を含む筆写譜が伝承の媒体である。自筆譜が現存せず、他者の手による筆写譜だけがよりどころという作品も珍しくない。

クリスチャン・フリードリヒ・ペンツェルという人がいる。ライプチヒトマス学校の生徒で、おそらくはバッハの弟子だとされている。若い頃からバッハの作品に親しみ、バッハの長男・ウイルヘルム・フリーデマン・バッハと親交があった関係で、バッハ作品の自筆譜を筆写している。ウイルヘルム・フリーデマン・バッハが相続した楽譜は後年散逸の憂き目に遭ったものが多いが、ペンツェルが筆写していたものは散逸を免れて現在に伝えられた。

ブラームスの第4交響曲のフィナーレの下敷きになったカンタータ第150番は、ペンツェルの筆写譜が無かったら伝承されなかった。他の誰もカンタータ150番の筆写譜を残していないのだ。ブラームス第4交響曲のフィナーレは、ペンツェルの筆写譜のおかげで「首の皮一枚」で散逸を免れたカンタータ第150番が土台になっている。ペンツェルがいなかったら第4交響曲は、大きく姿を変えていたと思われる。

ブラームスの事だから、別途素晴らしい交響曲を仕上げたとは思うが、第4楽章と第1楽章の密接な関連を思うとき、第4楽章が別物になったら第一楽章、ひいては全体にまで影響が及ぶと感じる。

2007年10月24日 (水)

性格作品

おそらく「キャラクターピース」の訳語だと思われる。英語で「Charactor piece」と言われればそれなりのニュアンスと認識出来るのだが、これを日本語に転写するとなると途端に難問となる。

ブラームスの独奏ピアノ曲には「キャラクターピース」とくくられる一群の作品がある。「インテルメッツォ」「カプリチオ」「ラプソディー」「バラード」「ロマンス」「スケルツォ」「ワルツ」である。これらの作品を群れとして一括して指し示す言葉が「キャラクターピース」だというイメージだ。この概念を使うとブラームスのピアノ独奏曲は「ソナタ」「変奏曲」「キャラクターピース」という3つに、きれいに分類することが可能だ。

「キャラクター」を辞書で引けば「性格」とあるし、「ピース」は作品だから、併せて「性格作品」となるのだと思うが、違和感は相当なものだ。「ピアノ小品」あるいは単に「キャラクターピース」で良いと思う。

ブログ「ブラームスの辞書」では何度も引用言及しているトマス・シューマッカー先生の著書はまさにこの名前を背負った「ブラームス性格作品」となっているのだ。ブラームスの一連のピアノ小品演奏の指針として目から鱗の本だ。一流ピアニストの目の付け所を垣間見ることが出来て貴重だ。これだけ細かなことをいちいち考えているということが、素晴らしい。作品について楽譜を参照しながらあれこれと考えることが、演奏面でプラスになると著者が考えている証拠だ。

だからこそ、このタイトル中に現れる「性格作品」という表現がどうも浮いてしまっている。日本語としての収まりという点に不安が残る。先生自身はもちろん日本語のネイティブな使い手ではないから仕方がないとは思うが、著書の内容が素晴らしいだけに残念だ。

2007年10月23日 (火)

回収漏れ

パガニーニの逸話を思い出して欲しい。彼はヴァイオリン演奏のテクニックが他人に漏れるのを恐れていた。演奏会の後には自ら楽譜を回収したという。そりゃそうで、録音技術の無かったころ、音楽は生まれて消えて行く泡のような存在だったから、楽譜さえ回収してしまえば、第三者によるテクニックの模倣はほぼ不可能だった。

ブラームスも自作出版についての慎重さにおいては人後に落ちない。クララやヨアヒムからの助言、仲間内での試演を経て出版するのが常だった。それどころか初演後も作品の推敲を続けなかなか出版を許可しなかった。出版前の演奏には手書きのパート譜が使われ、演奏終了後には回収されたという。複写機の無かった時代、回収さえしてしまえば一応安心だった。「回収さえしてしまえば」である。

その回収に万が一不備があったらどうなるかという例が第一交響曲で起きてしまった。第一交響曲は現在流布する形に落ち着いたのは初演後しばらくたった後だった。特に第2楽章は、「A-B-A-C-A」という形で初演されながら、「A-(B+C)-A」の形に切り詰められた。こうした作品の改訂の証拠を滅多に残さないはずのブラームスに何が起きたかというと、つまりそれが本日のお題「回収漏れ」だ。初演に使用されたパート譜のうちヴァイオリンとヴィオラのパート譜が一部回収を免れ後世に伝えられた。学者たちはそれらを手がかりに初演時のスコアを復元したのだ。

コミック「のだめカンタービレ」第8巻111ページでは、カイドゥーンが第1交響曲のトレーニングに飛び入りし第2ヴァイオリンとヴィオラにネジを巻くシーンがある。これは第2楽章の57小節目だと推定出来る。つまりこのあたりヴァイオリンやヴィオラにとっては難所だ。初演にあたってこうした難所を練習するために楽譜を自宅に持って帰っていたために回収を免れたのかもしれない。楽しい想像が膨らんで行く。

それにしても回収を免れたのがトロンボーンの楽譜じゃなくて幸いだった。もしトロンボーンの楽譜だったら、総譜の復元が出来たかどうか怪しい。

2007年10月22日 (月)

In stiller Nacht

「静かな夜に」と訳される民謡。「49のドイツ民謡」WoO33の第6巻の7曲目で全体の42曲目に相当する。この民謡集の最後の7曲は合唱用なので、独唱用の大トリを飾っていることになる。

ところが、民謡としていろいろな意味で異例なことが溢れている。まずは拍子。民謡としては大変珍しい2分の3拍子になっている。それだけでも相当異例なのに、さらに8分音符5個分が第1小節目の前に飛び出す弱起になっている。「8分音符5個分のアウフタクト」は民謡では他に例が無い。最初から2小節目の終わりまで、2分音符5個の間、「molto legato」と記されたピアノ伴奏が8分音符1個分だけ声のパートに先んじるフレーズが続く。ピアニスト、声楽家どちらにも完璧なリズム感を要求している。この8分音符一個のズレが、手を替え品を替えこの先もずっと付いて回る。

テキストの内容も珍しい。何が悲しいのかは明らかにされないまま、ひたすら詩人の悲しみが描写される。この悲しみと若干の甘ささえ孕んだ夜の情景の対照が、作品の狙いなのではないかと思われる。Langsamの指定に乗ってゆったりと歌われるホ長調が、かえって悲しみの深さを印象付けている。

一般に民謡の世界では、恋の表現を意図するテキストが多い。好いた惚れたが割とストレートに歌われる。失恋や別れを扱うにしてもどこかユーモラスな雰囲気が漂う。この曲のように何だか得体のしれない悲しみが、甘美な夜の描写とマッチングされるのは作品43-2の絶唱「五月の夜」に通ずるものがある。

民謡らしからぬ凝った内容を持っていると思うが、ただ聴いている分には耳に心地よい甘美な夜の描写だ。テキストの意味がわからずに聴いていた頃、「聖しこの夜」に似た雰囲気なのでクリスマスソングかと思っていたほどだ。

実は正直なところ、ブラームスの民謡中で一番のお気にいりである。15小節目から歌のパートにはクララのテーマ「A-Gis-Fis-E」まで現われて曲が結ばれている。

クララのテーマ

2007年10月21日 (日)

ウィルヘルム・ルスト

Wilhelm Rust(1822-1892)はバッハ研究の第一人者だ。バッハ協会が目指す「バッハ全作品の刊行」という大事業にあたって、1853年30歳そこそこの若さで校訂者の一人に列せられた。祖父が、バッハの2人の息子カール・フィリップ・エマニュエル、ウイルヘルム・フリードリヒと親交があったという。以後1881年までバッハ全集各巻のうち26巻もの校訂に携わった。

そのバッハ全集は、当時のバッハ研究の粋を集めた一大プロジェクトだった。中でも校訂報告に力が注がれ、後に続く作曲家全集の規範となったという。まさにこの全集の白眉というべき校訂報告を含む序文(Vorwort)の執筆を担当したのがルストその人だった。序文の執筆を任されたのだから、ルストの位置付けは編集主幹とでも解されよう。

さて時は下って1879年。ブラームスは、ライプチヒ・トマス教会のカントル就任を打診される。トマス教会のカントル、略してトマスカントルは、バッハが最後の27年間勤め上げた役職だ。トマス教会がブラームスに白羽の矢を立てること自体、ブラームスのバッハに関する深い造詣に対する世間の評価をうかがわせるものだ。ライプチヒがピアノ協奏曲第一番の初演で煮え湯を飲まされた街であることを考えると、隔世の感がある。

結局ブラームスはこの申し出を辞退する。代わってトマスカントルに就任したのが、本日話題のルストだった。ブラームスより11歳年長で、ライプチヒ・バッハ協会の重鎮にして、バッハ全集編集主幹格のルストよりブラームスの優先順位が上だったということに他ならない。既にドイツレクイエムがブレークし、交響曲も2番までが世に出ていた。作曲家ブラームスの名声で下駄が履かされていたことを差し引いても、バッハ解釈者としてのブラームスの位置付けが相当な高みに達していたことは動かし難い。

何だか嬉しい。

2007年10月20日 (土)

ベートーヴェンのメヌエット

お正月恒例のお弾き初め会の曲目選びが始まった。

それぞれ独奏の曲を1曲ずつとアンサンブル1曲と決めているが、このほどアンサンブル曲について先生から提案があった。お弾き初めは元々発表会よりは気軽に弾くことが主眼なので、子供たちと一緒に親の出番も設けるらしい。

先生が探してくださったのが「ベートーヴェンのメヌエット」だ。1795年に作曲された「6つのメヌエット」WoO10の2番ト長調である。元々は管弦楽用だったらしいが、ピアノ編曲版しか伝えれていない。ヴァイオリンとピアノ用にも編曲されているおかげでピアノやヴァイオリンの発表会の常連である。

その曲がヴァイオリン2本とヴィオラ用にアレンジされた楽譜があるので、お父さんも一緒にどうぞというのが先生の提案だった。テクニック的に余裕のある曲で楽しみましょうという狙いだ。

ヴァイオリン2本とヴィオラとはまるで我が家用みたいで嬉しい。娘の意向なんぞ聞かずに即刻了承した。しばらく楽しめそうだ。

2007年10月19日 (金)

ブラームスの音楽履歴書

マエストロ・ブラームスの音楽履歴書を作ってみた。音楽之友社刊行西原稔著の作曲家◎人と作品「ブラームス」から拾い出した。

  • コッセル先生の音楽教室 7歳1840年からハンブルグでレッスン。
  • マルクセン先生の音楽教室 10歳1843年からハンブルグでレッスン。
  • デトモルト宮廷音楽家 24歳1857年から3年間。
  • ハンブルグ女声合唱団指揮者 26歳1859年から
  • ウイーンジンクアカデミー指揮者 30歳1863年から1年間
  • ウイーン楽友協会音楽監督 38歳1871年から4年間
  • 学問と芸術のためのマクシミリアン勲章 40歳1873年 
  • プロイセン芸術アカデミー名誉会員 41歳1874年
  • ブレスラウ大学名誉博士号 46歳 1879年
  • マイニンゲン公ゲオルク2世より叙勲 48歳1881年
  • ウイーン音楽家協会名誉会長 53歳1886年
  • 学問と芸術のための勲功騎士 54歳1887年
  • メクレンブルク大公より叙勲 55歳1888年
  • ハンブルグ名誉市民 56歳1889年
  • オーストリア皇帝よりレオポルド勲章 56歳1889年

華麗な経歴である。ブラームスの世間での評価がかなりパラレルに反映していると思われる。ウイーンを二分した音楽論争のさなかにあって、しばしば反対派の誹謗中傷の標的にされたブラームスだが、世の中では着実に評価を上げていたと推測できる。勲章一つ一つの意味や重みについて実感が湧かないが、オーストリア皇帝から勲章を貰うというのは相当なものなのだろう。

よく見ると面白いことにも気付く。1875年にウイーン楽友協会音楽監督を辞して以降は、叙勲と名誉職の記事ばかりになり、いわゆる定職ついていない。「作曲だけで飯を食う」とはこういうことを言うのかもしれない。

このほかにブラームスが辞退した役職もある。

  • ケンブリッジ大学名誉博士号 43歳1876年
  • ライプチヒトマス教会カントル 46歳1879年
  • ハンブルクフィルハーモニー音楽監督 61歳1894年

辞退した役職まで何だか華麗に見えるから不思議である。

周辺にたくさんの賛美者を従え、華麗なサロンの主役になるのも結構だが、つつましい日常生活をしていても世間からはキッチリ評価されるということだろう。

2007年10月18日 (木)

パロディ

他の芸術作品を、揶揄・批判・風刺の目的で模倣した作品のことや、その手法を指す。そこまで厳格に考えずに、「単なる真似」を指す場合もある。広い意味では「替え歌」や「本歌取り」も含まれるのではないかと思う。コミカルなニュアンスを含む場合も多い。

一般の辞書を引いてたどり着く意味は上記の通りなのだが、バッハの作品を研究する分野においては別の意味を持つ。

既存作品を元に、「歌詞を差し替えて別の目的の作品に転用すること」をパロディと呼んでいる。受け持つパートや旋律、リズムに少々手が加えられることも許容範囲である。パロディは、バッハ研究における重要で広大な分野になっている。彼が後半生を捧げたライプチヒのトマス教会カントルの職務は、毎祝日の礼拝用にカンタータを作曲する義務を負ったから、次々と容赦なく訪れる締め切りに間に合うようカンタータを提供せねばならない現実的なノルマになっていた。他人の作品を上演することもあったし、過去の自作を改訂して上演することもあった。教会とは無縁な世俗カンタータの歌詞を取り替えて教会カンタータに仕立てたことも1度や2度ではない。バッハがそれ、つまり「パロディ」を後ろめたいことと考えていた形跡は全く無いという。それどころか、パロディであることさえ感じさせぬ出来映えの作品が続く。

職務上のノルマに追われることの無い自由な立場だったブラームスには、バッハ的な意味のパロディ作品は無い。仮にあったにしても、そうした痕跡を全く残さずに処分してしまうのがブラームス流だ。

作品97-1「小夜鳥」の旋律は、元々作品106-5「さすらい人」に用いられていた旋律だという。ブラームスは「小夜鳥」への転用元になった「さすらい人」に新たな旋律を与えた。元と同じヘ短調になっているという整合性が心地よい。「さすらい人」にはこの旋律の方がふさわしいと思うのは慣れのせいばかりとも言えまい。

ブラームスの作曲家としての本能が、そう命じたとしか言えない。職務上のノルマに追われての窮余の策ということはなく、芸術上の判断だ。

2007年10月17日 (水)

ショパン

言わずと知れた「ピアノの詩人」だ。1810年生まれで1849年、ブラームス15歳の時に没している。今日が没後158年にあたるという。ピアノの演奏会では最も取り上げられることが多いと思われる。ピアノを志す者にとってブラームスを避けて通ることは出来てもショパンは絶対に避けて通れぬ作曲家である。

ショパンが没したころ、ハンブルグのマルクセンの門下でピアノと作曲を勉強していたブラームスもショパンを当然知っていた。少なくともショパンの作品には接していたことは確実だと思われる。

一方で奇妙な事実も伝えられている。シューマン邸を訪問する前にリストを訪問したことはよく知られている。自作を演奏するよう薦められたが辞退したという。それならという訳でもなかろうが、リストはブラームスが持参した「スケルツォ」op4を初見で完璧に弾いたと言われれている。演奏後リストの取り巻きの中からショパンのロ短調スケルツォに似ているとの指摘があった。ブラームスはそれに対して「ショパンは知らない」と答えたと記録にある。

ショパンを知らないとはこれいかにである。

マルクセンの元での学習がバッハ、ベートーベンを筆頭とする古典を徹底的に叩き込む方針だったとは言え、ショパンを知らないとは考えにくい。原文のニュアンスが全く判らないので断言は慎みたいが、気になる。

「ショパンのその曲ロ短調スケルツォは知らない」の意味と解するのが現実的だろう。もう少し飛躍が許されるなら、自作をあっさり初見で弾かれた軽いショックと、ショパンとの類似をいきなり指摘されたある種の不快感の表出だったのではあるまいか。「ショパンなんぞ参考にしてはいません」というニュアンスがこもっていたかもしれない。他人の過去の作品に似ていると言われるのは、あまり面白いことではあるまい。

言った方も言った方だ。初めて聴くブラームス作品に機転の利いた感想が思い浮かばず、ましてや良いとも悪いとも断言出来ず、とっさに過去の著名な作品との類似を指摘して見せたといったところではあるまいか。今更リストの腕前を誉めても仕方ないからかもしれない。

だからブラームスは早々とリスト邸を辞し、やがてシューマン家の扉を叩くことになる。

2007年10月16日 (火)

頼むぞop122

10月7日の記事「ハンブルグコネクション」で報告した通り、「ブラームスの辞書」をハンブルグのブラームスムゼウムへ献本することになった。

昨夜、そのための1冊を手渡す名目で飲んだ。

ブラームスムゼウムへ献本する「ブラームスの辞書」の番号に何を選ぶかこのところずっと考えていた。やはりこれは、ブラームス本人に捧げるという感覚が強い。だからうかつな番号では将来禍根を残しかねない。

熟考の末決定したのがop122だ。長女からop1を取り上げてとも考えたが、思いとどまった。5月11日の記事「ブラームスに捧ぐ」でも述べたが、op122はブラームス最大の作品番号で「オルガンのための11のコラール前奏曲」である。これをブラームス用として販売在庫から別扱いにしておいた。このたびの献本にはこれをあてることにした。

おとといの夜は「ブラームスの辞書」op122を枕元において寝た。「ブラームスの辞書」全329部の代表でドイツ・ハンブルグに渡り、ブラームスムゼウムに赴くというコトの重みをじっくりと言い聞かせた。

ブラームスの故郷ハンブルグはもちろん、ウイーンからも遠く離れた日本で、日本人の私が書いた本の行く末が楽しみだ。

というような話を棚に上げて延々と盛り上がった。忙しい欧州出張の最中に、私の「ブラームスの辞書」のことを考えていてくれたことが嬉しい。持つべきものは云々では月並みが過ぎる。

面と向かって礼を言うのは照れるからブログで重ねて言及する次第だ。

ついでにウイーンへの出張は無いのか聞こうと思ったが呑み込んだ。

2007年10月15日 (月)

露払い

横綱の従者2人のうち先導役を努める力士のこと。後ろに従うのは太刀持ちだ。

「露払い」という言葉を聞いて何故か思い出すのが、インテルメッツォop118-1だ。この曲調のどこがインテルメッツォなのか古来憶測を呼んでいる。以下に作品118の6曲を列挙する。

  1. インテルメッツォ イ短調 Allegro non assai,ma molto appassionato
  2. インテルメッツォ イ長調  Andante teneramente
  3. バラード ト短調 Allegro energico
  4. インテルメッツォ ヘ短調 Allegretto un poco agitato
  5. ロマンス ヘ長調 Andante
  6. インテルメッツォ 変ホ短調 Andante,largo e mesto

調性を順に並べるとイ短調→イ長調→ト短調→ヘ短調→ヘ長調→変ホ短調となっている。「A-G-F-Es」だ。クララのモチーフ「A-Gis-Fis-E」と似ている。10月13日の記事「仲直りの切り札」の中でこのことを指して「クララのモチーフの草書体」と称している。

このことは1番2番を一組、4番5番を一組と考えることを示唆する。つまり長短の同主調どうしをペアだと解釈するのだ。1番と4番は、2番と5番それぞれの「露払い」だというわけだ。作品118の6曲をこうして眺めると4曲となり、4つ全てが短調で立ち上がることになる。

「露払い」である1番と4番は短調でありながら、曲の末尾では長調に転じている。続く作品の冒頭の呼び水になっている。

特にイ短調と呼びならわされている1番は、調が曖昧だ。イ短調の主和音がかなり意図的に避けられている。その曖昧さを味わう音楽であることは間違いない。そしてその最後の和音はCに付与される臨時記号によってイ長調に転ずる。最高音に第3音のC♯を頂く終止和音は、続く2番イ長調Andante teneramente の冒頭を雄弁に予告してはいまいか。Andante teneramenteの2番冒頭と酷似した終止和音、この澄み切った和音を最後に鳴らすことが1番イ短調の目的という気さえしてしまう。荒れ狂った風雨の最後の一滴のようなキラリ感である。これに台風一過のAndante teneramente が必然として続くのだ。

作品118-2は、私にとって別格のインテルメッツォだ。だから1番イ短調のインテルメッツォにはこの2番のための「露払い」機能を想像してしまう。

して見ると3番ト短調は「太刀持ち」かもしれない。

2007年10月14日 (日)

スイッチ探し

10月14日は隠れた記念日である。7年前の今日、娘たちがヴァイオリンを始めた。初めてレッスンに行った日である。長女が小学校1年生、次女が幼稚園の年中さんだった。何気なく誘って、はっきりとした拒絶がなかったことをいいことに、速攻で楽器を買い、先生を決めて有無を言わせずレッスンを始めた。

あれから7年が過ぎる。山有り谷有りの7年だ。一言でいって「スイッチ探し」の7年だと位置付けることが出来る。音楽をヴァイオリンをはたまたブラームスをいつの日か好きになって欲しいと願い、そのスイッチがどこにあるかの模索そのものだった。今もスイッチは見つかっていない。元々そなわってないかも知れないのだ。同じ親から生まれた姉妹とはいえ、同じ場所にスイッチがあるとは限らない。彼女たち自身もどこにあるか判っていない。それどころかそのスイッチを押されたいと思っているのかさえ不明だ。私はそのスイッチを押したい。

自分がブラームスや音楽やヴィオラを好きになった過程を思い出して導いてもみたが、やや無理がある。私自身のスイッチは誰にも押されずに自動的にONになった。DNA埋蔵型のスイッチだ。

スイッチは押せていないというのに、ヴァイオリンを媒体とした親子コミュニケーションは極上だ。結論を急がない決意で始めてから7年、当初は無限とも思えた時間が容赦無く過ぎて行く。今は微妙。まだまだ諦めるのは早いが、油断は禁物な時間帯だ。

一瞬でいい。音楽で、鳥肌の立つ感動を味わわせることが出来たら、その効果は一生持続するはずだ。

スイッチはどこだ。

2007年10月13日 (土)

仲直りの切り札

クララとブラームスのつきあいは、ヨハネス・ブラームスのシューマン家訪問から、クララ自身の死まで総延長43年にも及ぶ。基本的な部分で意気投合出来ていた2人ではあるけれども、不和に陥った時期もあった。

ロベルト・シューマンの作品出版をきっかけに生じた行き違いは、とりわけ深刻だった。約1年実質上の絶交状態だったという。初老にさしかかっていたブラームス、楽壇の大御所となっていたブラームスだけれどもクララとの1年に及ぶ絶交状態は相当堪えたと思われる。クララの怒りは深く、この溝は解消不能にも思えるほどだった。

耐えられなかったのは、もちろんブラームスの側だ。絶交状態の解消に一計を案じた。ブラームス自身に「仲直りの切り札」という意識があったかどうかは定かではないが、後世の愛好家の目から見れば、起死回生の策に見える。1892年のクララの誕生日に作品118のピアノ小品6曲を添えて、許しを請うたのだ。

結果は吉と出る。「あなたの贈ってくれた作品に免じて元の鞘に収めましょう」というクララの返事がブラームスを驚喜させたことは想像に難くない。

これでも許さぬようだったら、クララ株は大暴落だ。世界遺産級の珠玉の作品と引き替えに許せぬ怒りなどあるはずもない。クララだっておそらく仲直りの機会を伺っていたと思う。「贈られた作品に免じて」という言い回しのチャンスをクララに与えたと解したい。

我々愛好家はその切り札「6つのピアノ小品」op118を知っている。6つの作品の調性を順に並べると、クララのテーマが草書体で現れることも知っている。そして何よりも理屈の要らぬ程の作品の美しさを愛している。だからこそ「作品に免じて許す」という行為に、説得力が宿るのだ。クララの面子も保てるではないか。

2007年10月12日 (金)

卒業試験

卒業シーズンと言えば普通3月である。だから卒業試験だってその頃だ。2月か3月に卒業認定のために課される試験だと解するのが自然だ。場合によっては1月ということがあるかもしれない。

先月のことだった。卒業試験でブラームスの「4つのバラード」作品10を4つ全て弾き、あわせてアナリーゼも書かねばならないというピアニストが私の「ブラームスの辞書」を参考にしているということをお聞きした。彼女(そうそのピアニストは女性だ)は「ブラームスの辞書」opus23の持ち主でもある。

2月か3月の卒業試験で弾く曲が既に9月に決定していて、譜読みの真っ最中ということに、まず驚いた。次の瞬間には嬉しさがジワリとこみ上げてきた。彼女が学生生活の集大成にと選んだ曲がブラームスだということだ。つまり相当好きだということが判る。さらに私の「ブラームスの辞書」が演奏やアナリーゼの参考になると感じてくれているということだ。この使われ方は「ブラームスの辞書」の執筆意図の核心を深々と貫くものだ。

著者としてこれほど嬉しいことはない。この嬉しさと感謝を何とか形にしたいと考えてブログ「ブラームスの辞書」上で彼女への応援のメッセージを刻印することにした。

お気づきの方も多いと思う。ここ約3週間に公開された記事には「4つのバラード」作品10に関連する記事が頻発した。以下の通りである。

この他9月26日の「ヘ短調」と9月28日の「夜の気分」もかすかに関連がある。感謝を形にするつもりが、いつのまにか自分が夢中になってしまったこともこの際告白せねばなるまい。

それから一連のシリーズの初回「エドワードのバラード」の前日9月23日の記事「精霊の主題」は「シューマンの主題による変奏曲」作品23のエピソードの紹介になっているが、実はこの記事は「ブラームスの辞書」op23の持ち主でもある彼女への挨拶のつもりで配置したものである。

「ブラームスの辞書」が「4つのバラード」作品10に挑む際のお守りになることを祈ってやまない。

ブラームスのご加護を。

2007年10月11日 (木)

senza troppo

「senza」の用例でもっとも目にするのは恐らく「senza sord」だろう。「装着済みの弱音器をはずせ」という指示だ。「senza」は英語で言うところの「without」つまり「~なしで」である。ところが「senza sord」以外の用例となるとかなり希少だ。

本日の相棒「troppo」は「過剰」「余剰」の意味。もっぱら「non troppo」の形で用いられる。トップ系の表示に付されて「速過ぎ」を抑える効果を狙うのがブラームス風だ。

今日のお題「senza troppo」は「senza」の用例としても「troppo」の用例としても異例だ。

「4つのバラード」op10の4番の47小節目「Piu lento」に「Col intimissimo sentimento,ma senza troppo marcare la melodia」として現われる。「心から感傷的に、しかし旋律を際立たせることなく」とでも解されよう。

主部の4分の3拍子が4分の6拍子に転じるとともに、調性もシャープ6個の嬰ヘ長調に変わる。右手は4分音符を3つに割る一方、左手は4分音符を2分することに徹するが、ダイナミクスは最大で「p」にとどまる。要するに曖昧模糊、少なくともリズムの衝突を味わう音楽ではない。音の錯綜が作り出す靄だと感じる。

たちこめる靄の中、おそらくは右手の親指が旋律線をトレースする。私にはヴィオラの音域と感じる。何を隠そう本日話題の「Col intimissimo sentimento,ma senza troppo marcare la melodia」は、まさにこのヴィオラ状の旋律が必要以上に際立って聞こえぬようにと釘を刺しているのだ。音の錯綜する靄に旋律が溶け込むことを要求していると考えたい。音楽を聴かずに楽譜を眺めても、入り組んだ伴奏音形の隙間を縫うような旋律線が見て取れる。その上でさらに「際立つな」と念を押しているというわけだ。一面では1854年発表の初期作品ながら、後のブラームス節が早くも炸裂している。

一方でこの「Col intimissimo sentimento,ma senza troppo marcare la melodia」は、イタリア語の単語9個を費やしている。1度の指示で9つもの単語使用は、ブラームス作品中最多である。中期以降のブラームスは、言葉による指示が簡素化する傾向にあるから、言葉で説明しようとする姿勢は初期それもピアノ作品に固有な特徴だ。「ブラームスの辞書」が「初期ピアノ作品症候群」と名付けている現象の典型的な例に他ならない。

中後期以降、円熟期のブラームスなら音符並びの見てくれから感じ取れる部分を言葉で重ねて説明することはなくなる。もっとシンプルな指示を与えて「俺に言わせるのかよ」とウインクしてみせるに違いない。昨今はやりの「空気を読む」ということなのだ。

2007年10月10日 (水)

10度の跳躍

10度の音程と言えばかなりの間隔である。ヴァイオリンのA線の開放弦を基準にした場合、10度上の音は上に仮線を2本足して、その2本目に串刺しにされている「C」の音になる。つまり「3度上のオクターブ上」である。ピアノではなかなか届かない幅だろうが、届くと便利なのは事実だ。

ブラームスが好んだ「3度」「6度」の音程と密接に関係している。ヴァイオリン協奏曲第1楽章にはしばしば10度の音程を重音で取る場面が現れてヨアヒムを心配させた。下の音が開放弦で無い場合は、よいしょとばかりに指を拡張しなければならない。ポジションが低いほど拡張幅が大きくなる。

この間隔の乱高下は弦楽器やピアノにとどまらず、管楽器にとっても厳しい。クラリネットソナタには、クラリネット吹きには厄介な10度の跳躍が散りばめられている。

  1. 第1番第1楽章 6小節目。第一主題の2小節目のF→As
  2. 第1番第1楽章 8小節目。第一主題の4小節目のB→Des
  3. 第1番第2楽章 5小節目。第一主題の5小節目のF→As
  4. 第1番第2楽章 53小節目。第一主題再現の5小節目のF→As
  5. 第2番第1楽章 4小節目~5小節目。第一主題F→As 
  6. 第2番第1楽章 8小節目~9小節目。第一主題F→As
  7. 第2番第1楽章 106小節目~107小節目。第一主題の再現F→As
  8. 第2番第1楽章 110小節目~111小節目。第一主題の再現F→As

上記8例はいずれも「一つのフレーズが終わって、次のフレーズが10度上から始まる」のではない。一つの旋律の中に10度の跳躍が織り込まれているのだ。ブラームスの作品で同一の旋律線内における3度や6度の進行は珍しくないが10度の跳躍はさすがに珍しい。その珍しい例がクラリネットソナタに集中しているのは特徴的である。リヒャルト・ミュールフェルトの腕前に敬意を表してのことかもしれない。

しかも上記8例中2番以外の7例が「F→As」の10度である点特筆物である。ヘ短調で書かれている1番の第1楽章に存在する上記1,2番は「さもありなん」だが、それ以外の6例全てが「F→As」になっているのは、鮮やかでさえある。ブラームスの得意技「FAF」の投影さえ疑われよう。ブラームス関連書籍の中で頻繁に言及される「FAF」だが、この点を指摘しているケースは見当たらない。

これらの10度跳躍はブラームス本人によるヴィオラ版にもキッチリと保存されている。

10月10日にピッタリの話題である。

2007年10月 9日 (火)

インテルメッツォの二面性

「インテルメッツォ」はブラームスのピアノ作品に親しむ人々にとっては最早定番だ。中後期の小品のタイトルとしてまさに君臨しているという形容が相応しい。ブラームスにおけるインテルメッツォの初出はピアノソナタ第3番第4楽章だ。概ね遅めの突き詰めないテンポで淡々とした曲想が持ち味になっている。曲中に「marcato」が出現しないという特徴もある。大づかみに申せばカプリチオの対極と位置付けることが出来る。

一般的なインテルメッツォのイメージはこの通りだが実は厄介な例外が2つ存在する。

1つは作品118-1のイ短調のインテルメッツォだ。どちらかというと骨太なAllegroだ。ブラームスのピアノ作品への解釈でしばしば鋭い切れ味を見せる「ブラームス性格作品」の著者トーマス・シューマッカー先生もこのタイトリングには首をかしげておられる。

2つ目は「4つのバラード」作品10の第3番だ。ロ短調8分の6拍子のAllegroで、聴いたままの自然な印象はまさに「スケルツォ」だ。この曲が「スケルツォ」とされずに「インテルメッツォ」とされているのはいささか不可解である。ブラームスのピアノ作品に深く親しんでいる人ほど、違和感を覚えるはずだ。

「4つのバラード」はこの3番以外の3つにおいて「Andante」が標榜されている。4番でこそ「con moto」が付着しているがベースは「アンダンテ」だ。この3番はアンダンテの海に浮かぶ島、あるいはアンダンテ砂漠のオアシスという位置付けなのだ。つまりは気分転換だ。そして「8分の6拍子のスケルツォにはハ短調を採用する」というブラームスの癖を考えるとロ短調のこの作品にはスケルツォという文言を避けた可能性も浮上する。

インテルメッツォは気分転換という機能、あるいは4つのうちの3つめという位置から考えれば、ソナタの中間楽章に出現するケースと矛盾しない。このパターンの実例は作品5のピアノソナタと作品25のピアノ四重奏に出現している。つまり気分転換型のインテルメッツォは初期に現われるのだ。

その発生の初期においてインテルメッツォは気分転換型だったものが、中期後期と進むにつれてカプリチオの反対概念へと変容したと解したい。

それでもなお作品118-1は理解に苦しむ。作品117-1から作品118-2まで5曲連続するインテルメッツォの気分転換と考えるくらいしか思い当たる節がない。

2007年10月 8日 (月)

玉入れの勝ち負け

体育の日。

運動会の定番競技に玉入れがある。綱引きや騎馬戦のようなパワー系ではないので、小さな子供にも人気がある。籠が据え付けられたポールをしっかりと抱いている役になると砂を浴びることになる。

決められた時間で多くの玉を籠に入れた方が勝ちだ。籠の中に玉が入っていく様子は外からも分かるが、実際に数えてみるまではどちらが多いかまでは判らない。勝敗の判定は玉のカウントで決せられる。みんなで玉を数える。代表者がカウントに合わせて玉を投げ上げる。投げる玉が先に途絶えたほうが負けだ。この時のドキドキ感が玉入れの醍醐味になっていると思う。いつ籠の中の玉が尽きるかという不安と相手が先に尽きたときの喜びは表裏一体だ。

玉をブログのネタに置き換えてみる。今日は記事がアップされた。でも明日は記事が途絶えるかもしれない。籠の中の様子を知っているのは投げ上げ係りたる管理人だけというささやかな優越感もある。既に投げ上げた玉は909個になった。

いつも見にいっているあのブログはどうだろう。こうしたささやかなドキドキ感は、玉入れと共通している。本当は玉が底を尽きそうなのに、素知らぬ顔で投げ続けるという「はったり」も時には必要だろう。

ご安心召されい。ブログ「ブラームスの辞書」の籠にはまだまだ玉が尽きる気配もござらぬ。

2007年10月 7日 (日)

ハンブルグコネクション

学生時代の仲間から、この秋一番の吉報が舞い込んだ。

大学オケで私の1つ下でコントラバスを弾いていた男がいる。恐らく一緒に過ごした時間は一番長かった。世話にもなったし世話もしたという間柄だ。彼は手間暇かけて大学を卒業しただけのことはあって、今では割と頻繁にドイツへの出張があるという羨ましい境遇だ。

先般彼がドイツ・ハンブルグに出かけた際、当地のブラームス・ムゼウムに立ち寄ったという。開館時間が短くて、なかなか立ち寄れずにいたらしい。今回立ち寄りが実現したついでに、「実は私の友人が日本でブラームスについての本を書いたので、ここに送ってもいいか」と、当地のブラームス協会員らしい受付の女性に尋ねたところ、あっさり了解と相成ったという。全部ドイツ語でのやりとりのはずだ。

現地へ送る手配は一切やるので1冊「ブラームスの辞書」を送ってくれというメールが、彼の奥様から届いた。その奥様も学生オケ時代のヴィオラ仲間だ。「ブラームスの辞書」op34の持ち主でもある。昔の仲間が集まる際の仕切り役は、このところ毎回彼女になっている。

異議があるはずもない。ハンブルグといえばブラームスの生まれ故郷だ。そこのブラームスムゼウムに「ブラームスの辞書」を献本出来るなんぞ、夢のような話である。

もちろん本の受け渡しを兼ねて一杯飲もうという下の句とセットだった。旨い酒になりそうだ。

2007年10月 6日 (土)

持ち物には名前

持ち物に名前を書くことは学校生活の基本だ。中学、高校と進むに連れて親が記名することは少なくなって行くが、小学校1年生の時は大変だった。教科書、ノート、ランドセル、上履き体操服、鉛筆、筆箱、消しゴムなどだ。集団生活しかも不慣れな学校だ。物は落とすものだという前提で名前を書いておくという訳だ。

物に名前を書くという行為は、ある種のマーキングだ。所有権の誇示に他なるまい。自分の本に蔵書印などを押すのもそうした意識の反映だと思われる。

こうした人間の心理は日本だけに限るものではあるまい。あるいは時代に左右されるものでもないと思う。物を集める趣味のある人、物を大切にする人はきっと名前を書きたいのだと思う。

ブラームスもきっとそうだ。ブラームスに愛用の辞書があればきっと、表紙に自分の名前を書いていただろう。

私の著書「ブラームスの辞書」は、カバーをはずして眺めると、表紙には題名が書いていない。背には書いてあるが表紙には題名の記載がないのだ。その代わりブラームスの筆跡で「Johannes Brahms」と書いてある。

001_4

つまり、ブラームスが愛用の辞書に自ら名前を書いてあるという雰囲気を狙ったデザインなのだ。「ブラームスの辞書」をデザインで表現したと言うわけだ。

こうしておくと、持ち物検査のときに、「ブラームスくんは、キチンと名前を書いてあって感心だ」などと言われるのだ。

2007年10月 5日 (金)

起承転結

文章作成の基本とされている。「説得力ある文章を書くためにもっとも効率が良いとされる話の展開」くらいの意味と捉えておく。おそらく外国語においても通じる原則だと思われる。4コマ漫画はきっと起承転結のもっともシンプルな現われだと感じる。

そのうちの3つめが「転」であることが、この構造の肝であるように感じている。「起」は落語で言う「まくら」かもしれない。ほとんどの場合「起」から「承」への話の展開にサプライズがセットされることはない。「ふむふむ」とばかりに粛々と進み、「転」に至って話が急展開する。そして気の利いたオチで結ぶのだ。つまり「結」である。

「4つのバラード」作品10の第3曲が、「インテルメッツォ」と名付けられながら、「Allegro」「フォルテスタート」という異例の立ち上がりを見せる事実上のスケルツォになっていることは、起承転結の「転」を指向していると感じる。第3曲は、冒頭左手によるロ音、嬰へ音で始まる。フォルテで打ち付けられるこの連打が、8分の6拍子の6拍目になっているということは実感しにくい。緊張して聴いていないと小節の頭だと感じてしまう。3小節目に至ってはじめて種明かしされる瞬間には、実質上のシンコペーションと感じることになる。私が第3曲を「転」だと感じる理由はこのあたりにもある。

2番以降の3曲には、1番ほどの標題性は認めにくいが、意味ありげな調性の配列といい、起承転結めいた曲想の配置といい、ブラームスが4曲を一組と考えていた痕跡が色濃く漂っている。

2007年10月 4日 (木)

呼びかけのイントネーション

「バラード」作品10-1は、スコットランドのバラード「エドワード」が下敷きになっている。大抵の楽譜には冒頭タイトル付近にそのことに言及した但し書きが添えられている。

トマス・シューマッカー著の「ブラームス性格作品」という本では、この作品を解説する譜例を挿入し、音符に実際のテキストを当てはめることを試みている。16ページのことだ。原作の持つ陰惨な内容が音楽でキチンとトレースされてるばかりか、テキストのフレージングとも鮮やかに呼応していることを指摘している。毎度の事ながらさすがである。

ご承知の通り、テキストの内容や意図あるいは抑揚にさえも敏感に反応し、文字通り1単語1フレーズごとにもっとも適した曲を付与することが、ドイツ・リートの醍醐味だが、この「バラード」作品10-1はまさにその条件にあてはまる。ブラームスが実際の出版に際し、この作品を歌曲「エドワード」としなかったのが不思議なくらいである。何故テキストのタイトルのみに言及するにとどめ、楽譜上にテキストを記することがなかったのか本人に訊いてみたいことの一つである。

さて、その譜例によれば、3小節目アウフタクトから3小節目冒頭にかけて「E→A」という5度下降と、その直後オクターブ下がった「E→A」の5度下降には、「Ed-ward」「Ed-ward」という呼びかけが当てはめれられている。呼びかけているのは母で、「エドワード」は少年の名前だ。「Ed」にあたるのが「E」で「ward」にあたるのが「A」である。

ブラームスは後になって、歌曲となっていてもおかしくないのにピアノ独奏曲としてしまった埋め合わせをしている。アルトとテノールのための二重唱曲「エドワード」作品75-1である。作品10-1の下敷きとなったテキストが本当に歌われるのだ。「エドワード」の名を母が2度呼びかける部分、3小節目4小節目は「C→G」「C→G」となっている。こちらは「4度下降」だ。

この前後の旋律の構造は全く似てないのに、「エドワード連呼」の部分だけはそっくりになっている。移動ドでいうと「レとソ」なのだ。難しく言うときっと「属和音の第五音と主音」なのだと思う。次なる母の問いかけの呼び水にもなっている。

エドワードへの呼びかけは下降が似合う。

2007年10月 3日 (水)

ゲーム差

リーグ戦形式で順位を争うスポーツで頻繁に用いられる概念。勝ち点が問題となる場合には用は無いが、勝率を競う場合には上位チームと下位チームの差を表現する手軽なツールとして重宝する。両チームの消化試合数に大きな差がある場合や、引き分けの取り扱いによっては不都合も生じるが、だいたいにおいて便利な尺度である。

ゲーム差という単語を本来の意味とは別に私独自の用い方をする場合が2通りある。

一つは作曲家の好き度合いを表現する場合だ。すでにお気づきの通り私はブラームスが大好きである。2番目に好きな作曲家はバッハだ。3位集団にはベートーベンや、ドヴォルザークや、モーツアルトやマーラーがいる。実際にはブラームスがダントツに好きで、バッハが来る。さらに大きく離れて3位集団だ。愛好家同士の会話に加わる際、「1位ブラームスと2位バッハのゲーム差が10ゲーム位です」などという。さらに「バッハは3位集団から6ゲーム離れています」と付け加えることもある。ここでは「ゲーム差」という概念はブラームスやバッハが特別の位置にあることを表現するツールになっている。

前置きが長くなった。本来の趣旨は「ゲーム差」という言葉の2番目の使い方だ。

複数の調がある時、その調が相互にどれほどの位置関係にあるのかを表現するツールとして「ゲーム差」という言葉を用いることがある。近親調、同主調、平行調、属調、下属調、遠隔調等々、複数の調の隔たりを表現する言葉には事欠かないが、書籍などの説明ではハ長調を中心の説明が目立つ。そのせいかハ長調を跨ぐ調性関係の認識に時間がかかるときが多い。たとえば変ロ長調とイ長調は、隔たりで申せばハ長調とロ長調と同じなのだがとっさに認識できない。

私の提唱する「ゲーム差」では、ハ長調とト長調のゲーム差は1になる。シャープ1個が付くことでハ長調はト長調になるからだ。フラット1個とて同様で、ヘ長調はハ長調から見て1ゲーム差だ。調号として付与されるシャープやフラットの数の合計である。ヘ長調とト長調はゲーム差が2になる。平行調の関係にある長調短調のゲーム差はゼロである。先のたとえで用いた「変ロ長調とイ長調」「ハ長調とロ長調」はともにゲーム差5の関係となる。

「ハ長調とロ長調」と考えればゲーム差は5だが、「ハ長調と変ハ長調」と読みかえるとゲーム差は7になる。つまりフラット系で計算した場合のゲーム差とシャープ系を辿って得られたゲーム差の合計は常に12になることがこの方法の味噌である。

ゲーム差6の時だけがシャープとフラットどちらを辿っても同じということになる。ハ長調を基点とすれば嬰ヘ長調である。この関係を「真裏の調」と名付ける根拠となっている。

2007年10月 2日 (火)

運を使う

9月20日の記事「風の景」で紹介した石川勝一先生の版画展に行って来た。

こじんまりとした画廊一杯に石川ワールドが広がっていた。

自費出版で満足が得られるかどうかの鍵は出版社選びが握っていると断言してよいと思っている。著書が満足なら、売れる売れないは二の次なのが自費出版だ。そういう意味で私が今「ブラームスの辞書」の出版に満足していることの最大の要因は、よい出版社にめぐり合ったことだと思っている。

インターネットで「自費出版」をキーワードに検索すると数万件がヒットする。出版社の情報ばかりではないから、地道に情報を取捨して数件の出版社とコンタクトしたが、ほとんどみな「原稿出来たらね」という反応だった。石川書房さんはそんな中で出会った。何より我が家から自転車で行ける距離だ。さっそくファミレスで落ち合って「ブラームスの辞書」の構想を聞いていただいた。まだブラダス入力が半分にも届かない頃だ。そしてその約1ヶ月後に「ブラームスの辞書」のカバーデザイン案を送っていただいたことで、事実上出版社が決定したと申して良い。ブラダス入力に悪戦苦闘していた頃、どれほど力づけられたか計り知れない。

自費出版を手がける出版社といっても系統は様々だ。自費出版は様々なアクションの集合体だから、出版社毎に得意な領域が変わるのだ。私が選んだ石川書房さんの得意分野は「装丁」だったのだ。「装丁」とは本の見てくれを整えて思わず手に取りたくなるようなデザインを考えることだという。本の内容はもちろん著者のキャラまでをも吸収し、最適な形態を与えるのが「装丁」の仕事だとも聞く。ましてや社長ご自身が最先端のハイテクを縦横に駆使する版画家なのだ。恐ろしいと言うか、のんきと言うか、先生や石川書房さんに関するこれらの情報を、私は後から知ったのだ。「運を使う」とはこのことだ。運を使ったのでなければ、きっとブラームスのお導きだ。

「ブラームスの辞書」の装丁をはじめてご提案いただいたとき、基調となるカラーがブラウンだった。カバーはもちろんカバーの内側もブラウン、本扉の自筆譜もブラウンだ。これには心底驚いた。私の好みの色がブラウンだと判ったのだろうか。私が心の中で抱くブラームスのイメージカラーがブラウンだと感じられたのだろうか。直接お会いした機会はうんと限られているのに何故私の「ブラウンラブ」を感じて下さったのか、不思議だった。

会場に飾られた37の作品たちを見て少しだけその謎が解けた気がする。どの作品も中間色が豊かに盛られている。時折置かれる原色でさえ微妙な色調の変化が施されている。石川先生が色彩や光に関する繊細な感性の持ち主だと素人の私でもわかる。私の「ブラウンラブ」を見抜くなどきっと朝飯前なのだ。

版画展「風の景」はまだあと4日続く。運を使いにおいでください。

2007年10月 1日 (月)

出会いと別れ

日本では春が、「出会いと別れ」の季節とされている。卒業入学を始めとする学校関係の区切りであり、年度末年度初めという社会の区切りにもなっている。引っ越し屋さんも忙しい季節だ。

欧米では、そうした区切りは10月にやってくる。

1853年9月30日。ヨハネス・ブラームスが初めてシューマン邸を訪問したとされる日だ。実際の初訪問は9月30日だったが、シューマン夫妻との対面は翌10月1日だったらしい。つまり、クララ・シューマンとブラームスの初対面が154年前の今日10月1日だったということになる。

出会いと別れはいつもついて回る。話は一気に42年後の1895年10月に飛ぶ。クララとブラームスの最後の対面だ。複数の資料を当たったが正確な日付は判明しなかった。確かなのは10月のある日ということだけである。このときブラームスがクララの家を訪問している。聴覚の衰えが進み、公の席での演奏から引退して久しいクララがブラームスの前で演奏した。バッハの作品とブラームスのインテルメッツォを数曲だったという。

これがブラームスとクララの最後の対面となった。このときから7ヶ月後クララはこの世を去る。そしてブラームスもその11ヶ月後に後を追う。神様は2人を10月に初めて引き会わせたことをしっかりと記憶していたかのようだ。

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ブラームスの辞書写真集

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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