パロディ
他の芸術作品を、揶揄・批判・風刺の目的で模倣した作品のことや、その手法を指す。そこまで厳格に考えずに、「単なる真似」を指す場合もある。広い意味では「替え歌」や「本歌取り」も含まれるのではないかと思う。コミカルなニュアンスを含む場合も多い。
一般の辞書を引いてたどり着く意味は上記の通りなのだが、バッハの作品を研究する分野においては別の意味を持つ。
既存作品を元に、「歌詞を差し替えて別の目的の作品に転用すること」をパロディと呼んでいる。受け持つパートや旋律、リズムに少々手が加えられることも許容範囲である。パロディは、バッハ研究における重要で広大な分野になっている。彼が後半生を捧げたライプチヒのトマス教会カントルの職務は、毎祝日の礼拝用にカンタータを作曲する義務を負ったから、次々と容赦なく訪れる締め切りに間に合うようカンタータを提供せねばならない現実的なノルマになっていた。他人の作品を上演することもあったし、過去の自作を改訂して上演することもあった。教会とは無縁な世俗カンタータの歌詞を取り替えて教会カンタータに仕立てたことも1度や2度ではない。バッハがそれ、つまり「パロディ」を後ろめたいことと考えていた形跡は全く無いという。それどころか、パロディであることさえ感じさせぬ出来映えの作品が続く。
職務上のノルマに追われることの無い自由な立場だったブラームスには、バッハ的な意味のパロディ作品は無い。仮にあったにしても、そうした痕跡を全く残さずに処分してしまうのがブラームス流だ。
作品97-1「小夜鳥」の旋律は、元々作品106-5「さすらい人」に用いられていた旋律だという。ブラームスは「小夜鳥」への転用元になった「さすらい人」に新たな旋律を与えた。元と同じヘ短調になっているという整合性が心地よい。「さすらい人」にはこの旋律の方がふさわしいと思うのは慣れのせいばかりとも言えまい。
ブラームスの作曲家としての本能が、そう命じたとしか言えない。職務上のノルマに追われての窮余の策ということはなく、芸術上の判断だ。
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