senza troppo
「senza」の用例でもっとも目にするのは恐らく「senza sord」だろう。「装着済みの弱音器をはずせ」という指示だ。「senza」は英語で言うところの「without」つまり「~なしで」である。ところが「senza sord」以外の用例となるとかなり希少だ。
本日の相棒「troppo」は「過剰」「余剰」の意味。もっぱら「non troppo」の形で用いられる。トップ系の表示に付されて「速過ぎ」を抑える効果を狙うのがブラームス風だ。
今日のお題「senza troppo」は「senza」の用例としても「troppo」の用例としても異例だ。
「4つのバラード」op10の4番の47小節目「Piu lento」に「Col intimissimo sentimento,ma senza troppo marcare la melodia」として現われる。「心から感傷的に、しかし旋律を際立たせることなく」とでも解されよう。
主部の4分の3拍子が4分の6拍子に転じるとともに、調性もシャープ6個の嬰ヘ長調に変わる。右手は4分音符を3つに割る一方、左手は4分音符を2分することに徹するが、ダイナミクスは最大で「p」にとどまる。要するに曖昧模糊、少なくともリズムの衝突を味わう音楽ではない。音の錯綜が作り出す靄だと感じる。
たちこめる靄の中、おそらくは右手の親指が旋律線をトレースする。私にはヴィオラの音域と感じる。何を隠そう本日話題の「Col intimissimo sentimento,ma senza troppo marcare la melodia」は、まさにこのヴィオラ状の旋律が必要以上に際立って聞こえぬようにと釘を刺しているのだ。音の錯綜する靄に旋律が溶け込むことを要求していると考えたい。音楽を聴かずに楽譜を眺めても、入り組んだ伴奏音形の隙間を縫うような旋律線が見て取れる。その上でさらに「際立つな」と念を押しているというわけだ。一面では1854年発表の初期作品ながら、後のブラームス節が早くも炸裂している。
一方でこの「Col intimissimo sentimento,ma senza troppo marcare la melodia」は、イタリア語の単語9個を費やしている。1度の指示で9つもの単語使用は、ブラームス作品中最多である。中期以降のブラームスは、言葉による指示が簡素化する傾向にあるから、言葉で説明しようとする姿勢は初期それもピアノ作品に固有な特徴だ。「ブラームスの辞書」が「初期ピアノ作品症候群」と名付けている現象の典型的な例に他ならない。
中後期以降、円熟期のブラームスなら音符並びの見てくれから感じ取れる部分を言葉で重ねて説明することはなくなる。もっとシンプルな指示を与えて「俺に言わせるのかよ」とウインクしてみせるに違いない。昨今はやりの「空気を読む」ということなのだ。
コメント