ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007年11月30日 (金)

聴き合う

今日で長女の期末試験が終わった。久々にじっくり練習した。アンサンブル練習の一環の「ホーム・スイート・ホーム変奏曲」を一緒に弾いた。弾き始めて程なく、ルンルン気分になった。

この曲2本のヴァイオリンとピアノという編成になっている。1番が生徒で2番を先生という構図だ。今は娘たち二人とも1番の生徒用を練習している。今日は私が2番を弾いたのだ。

試験前で練習を手加減していたが実はここ2週間程長女とはケンカ腰だった。譜面づらは難しくもないし、譜読みも終わっているのに、何だかしっくり来ないのだ。テクは妹より上のはずなのにアンサンブルしていて面白くない。「人の音を聴け」と叱りっぱなしだった。弾けているハズだという自覚が下手に備わってしまっているだけに、アンサンブルの実感がもてないとストレスになる。「悪いのはパパの音程じゃないの」みたいな無惨な反応だった。

今日は違った。初めて音楽が流れた感じがした。弾きながら途中で楽しくなった。フレーズの切れ目切れ目で長女がこちらに聞き耳を立てているのが解った。一度も止まらずに最後まで弾けた。「ふーっ」と一息ついて、「お前今日は、人の音聴いてただろ」と水を向けると「何で解るの?」と逆に問われた。「そりゃあ解るよ。それが音楽だよ」と偉そうに答えておいたが嬉しかった。「自分が間違えてもいいから、パパの音をただ聴くことだけがんばった」と言っている。「人の音を聴け」とあんまりうるさいから意地になって聴いたという感じに近い。曲がさほど難しくないからそれでも間違えずに弾けるのだ。先生の意図はこの点にあったと思う。

これは相当嬉しい。

2007年11月29日 (木)

開放弦

弦楽器において、左手で弦を押さえず音を出すことを「開放弦を鳴らす」と呼んでいる。ヴァイオリンを例にとると高い方から「E、A、D、G」となる。楽譜上では、音符の上または下に数字の「0」を書き添えることで「開放弦を使用せよ」の合図となる。開放弦を使用しないと出せない最低音だけは、この「0」が省略されるのが普通である。

習得の初期の段階において「開放弦」に関連していくつかの約束を教えられる。

  • 上行の音階の時は開放弦を使う。
  • 反対に下降の時は第1ポジションの4の指を使う。
  • 第1ポジションで上行するとき、開放弦が鳴り始めるまで直前の3の指を弦から離してはいけない。
  • 一番高い弦(ヴァイオリンならE)は金属音がするので出来れば開放弦を使わないようフィンガリングやポジションを工夫する。

実際にはこの原則通り行かないこともしばしばで、上級者ほど開放弦を上手に使っている。開放弦は使い方次第だということがだんだん判ってくるという寸法だ。開放弦だからといって音質が変わってしまうのは、弦のせいではなくて、むしろボウイングのせいであることがほとんどだという。実際のところ開放弦の制約はヴィブラートがかからないことくらいではないだろうか。チューニングさえ完璧なら、開放弦では絶対に音程をはずさずに済むのも心強かったりする。

古今の作曲家はみな、開放弦のこうした性格を知っていた。そしてむしろそれを利用した形跡さえある。重音奏法をする際、いくつかの音が開放弦であることは、とてもよくある話だ。ブラームスにもこうした意図的な開放弦の使用例がある。

  1. 弦楽六重奏曲第2番第1楽章冒頭のヴィオラ
  2. 弦楽四重奏曲第1番第3楽章のトリオのヴァイオリン
  3. 交響曲第1番第2楽章54小節目2拍目裏のヴィオラ
  4. 交響曲第4番第4楽章77小節目のヴァイオリン

上記のうち1,2,4の3例は指で押さえて出す音と開放弦で出す音を急速に交代させる用法になっている。六重奏の方は半音違いの音だが、四重奏の方は同じ音だ。同じ音を移弦して弾くことにより特殊な効果を発生させている。3番目は、大したことはないのだが単に珍しいだけの場所だ。ハ音記号の五線の下に引かれた2本目の仮線に貫かれた音符が書かれている。黙っているとヴィオラのC線の半音下のHなのだが、これに♯がついて実音Cとなるので、C線開放弦でOKという寸法だ。この位置に音符が来るとギョッとする。

思うにブラームスが用いた最も印象的な開放弦は第1交響曲中にある。第4楽章61小節目のヴァイオリンだ。ベートーベンの第九交響曲の主題との関連ばかりが噂される例の旋律だ。Gの開放弦がアウフタクトに配置されCに跳躍する。第1交響曲も大詰めという気分にさせられる瞬間だ。このころになるとチュウニングが狂っていることも危惧されるが、ブラームスは臆する様子もない。第4楽章の前にチュウニングするなど考えにくい中ではあるが、このG線の開放弦の音がしこたま強調される作りになっている。

2007年11月28日 (水)

シュピッタ

フィリップ・シュピッタ(1841-1894)は、19世紀最高のバッハ研究家だ。バッハ関連の書物の中では頻繁に見かける名前だが、ブラームス系の書物にもお友達として、しばしば登場する。

ブラームスとシュピッタの交際は、1868年シュピッタがブラームスに宛ててドイツレクイエムを賞賛する書簡を送ったことがキッカケとなった。ブラームスはすぐに返信をした。すでにそのときブラームスは音楽雑誌に掲載されていたシュピッタのバッハ関連の論文を評価していたことから、2人の仲は急速に親密度を増した。8つ歳下とはいえ気鋭のバッハ研究家が初演間もないドイツレクイエムを賞賛したことは、宗教作品としての真価を決定付けるものだった。

2人の往復書簡は数十通に達した。バッハ関連の情報交換と、ブラームス作品についての意見交換が主たる用件だ。シュピッタがカンタータ第4番の演奏に際して、ブラームスによる和声付けが施されたオルガンのパート譜の貸し出しを所望したり、シュピッタの大著「バッハ伝」に対する感想を求めたりだ。

1874年にはシュピッタからブラームスにバッハのカンタータ第150番の筆写譜が贈られている。ご存じの通り、このカンタータの終末合唱は11年後に第4交響曲のフィナーレのパッサカリア主題のベースになるものだ。

ブラームスが、19世紀最高のバッハ研究の泰斗から一目置かれていたことは、間違いない。ブラームスは作曲ばかりでなくバッハの研究者、校訂者としても一流だったのだ。

2007年11月27日 (火)

3大Bの自覚

バッハ、ベートーヴェン、ブラームスの3人をもって、「ドイツ三大B」と表現したのはハンス・フォン・ビューローだという。その後1世紀を経て、この言い回しが廃れずに残ったことからみて、それなりの説得力を伴う主張だと推定出来る。

アンカーのブラームスの登場までバッハとベートーヴェンの2人を「2大B」と一括していた形跡は無いから、ブラームスの出現こそが、この言い回しのキーになったと感じる。

肝心のブラームス本人が、この言い回しをどう考えていたかの資料は見当たらない。慎重居士のブラームスのことだから、積極的に同意のコメントを発したとは考えにくい。

ブラームスは1872年秋から1875年春までウイーン楽友協会音楽監督の地位にあったが、その最後のシーズンの選曲を調べていて興味深い事実を発見した。

  • 1874年12月 6日 ベートーヴェン:ミサソレムニス
  • 1875年 2月28日 ブラームス:ドイツレクイエム
  • 1875年 3月23日 バッハ:マタイ受難曲

ご覧の通りだ。いわゆる3大Bを代表する宗教作品を1曲ずつ相次いで取り上げている。周知の通りバッハに交響曲は存在しない。また楽友協会音楽監督としては独奏ピアノ作品を取り上げるわけにも行かないから、この時点で3人が同じ土俵に上がるには大規模宗教曲しかない。これらが3人の代表的宗教曲であると断じてもどこからクレームは届くまい。しかも音楽監督辞任の直前に、畳み掛けるように集中している。何だかベートーベン、ブラームス、バッハというこの順番も奥ゆかしく見えるから不思議である。年代順に演奏して自らが大トリになることを避け、バッハに大トリを譲っているかのようだ。

さらにバッハを代表する宗教作品に「ロ短調ミサ」を持って来ないことにもある種の主張を感じる。「ロ短調ミサ」には集大成という側面はあるものの、バッハ生前に全曲演奏されていないという疑いがあることをブラームスは知っていたのではないだろうか。

ブラームスの脳裏に「3大B」めいた概念が無かったと言えるだろうか?

2007年11月26日 (月)

音楽監督

何らかの音楽系団体において、その団体の音楽的方針の決定権を有する者くらいの認識しか思いつかないが当たっているのだろうか。もちろんヒットエンドランや送りバントのサインを出したりはしないが、団体の性格によっては相当偉いということもある。

ブラームスは1872年のシーズンから3シーズンの間、伝統あるウイーン楽友協会の音楽監督に就任していた。このことは「相当たいしたモン」である。演奏会のプログラミング決定の最終責任者ということを意味する。

ブラームスの選曲は、これまた異例だったらしい。一言で申せば「渋い選曲」だ。4年間で演奏された交響曲はハイドンのハ長調と変ホ長調が各1度だけだ。交響曲といえば現代では演奏会プログラムの華である。オペラを別格とすれば4番打者みたいなものだ。それが4年間で2回とは驚きだ。案の定水面下でのブーイングは凄まじかったらしい。1875年春、辞任に至った原因の一つになったといわれている。

ブラームス自身の交響曲はまだ1曲も完成していないから仕方ないとして、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンといった面々の交響曲が全く取り上げられていないという徹底振りには、強固な意志さえ感じられる。リストの交響詩ならいざ知らず当事既に登場していた交響曲群を一顧だにしていない一方でベルリオーズの「イタリアのハロルド」が取り上げられていたりするから油断が出来ない。誰がヴィオラを弾いたのだろう。

2007年11月25日 (日)

新郎父挨拶

結婚披露宴での新郎新婦の失敗談は面白おかしく語られることが多い。他愛のないものから深刻なものまで品揃えには事欠かない。

私にもある。披露宴の最後で新郎の父が挨拶をすることが多い。私の時もそうだった。今は亡き父が親族を代表して挨拶した。父の挨拶が終わったあと、あろうことか新郎の私が拍手をしてしまったのだ。すぐに気付いてやめたがビデオにはバッチリ映っている。気付いたのは参列者の半分くらいだが、相当恥ずかしい。

しかしだ。言い訳をするようだが、つまり父の挨拶がそれほど素晴らしかったということだ。披露宴の日取りが決まったころから父はずっと挨拶文を考えて練習していた。長さはどの程度にしたらいいかとか、BGMはどうするとかうるさいばかりだった。元々そういうことが好きな父で人前で話すことが苦にならぬ方だから何とかなるだろうとは思っていた。

モーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」の最後を飾る「伯爵夫人よ許し給え」が弱音器付きの弦楽四重奏で奏でられる中、父の挨拶は始まった。

「水を打ったよう」というのはあのことを言うのだ。参列者は身じろぎもせずに父の挨拶に聞き入る中、清らかなモーツアルトがかすかに耳に触れている。悔しいがここはブラームスではなかった。

参列者への謝辞、媒酌人へのお礼、新婦実家へのお礼、親としての心境、新郎新婦への支援要請が淡々かつ雄弁にメモを見ることなく語られた。凄いというかさすがというか、裏方に回ったオーケストラの仲間への謝辞が一番丁寧だった。立て板に水というにはあまりに万感が込められていた。途中一回だけ言葉に詰まったが、まるで計算していたかのようなタイミングと長さの詰まりだった。声の張り、テンポが話の内容によって自在にコントロールされていた。約10分のスピーチだったがもっと聴きたいと思った。終わりよければ全てよしだ。父の挨拶一本で披露宴の余韻は極上なものになった。お開き後、これまた素晴らしい挨拶をしてくれた媒酌人が父に近づいて握手し抱擁していた。一世一代の挨拶だったのだと思う。

私は結婚披露宴の司会を23回やった。つまり新郎父挨拶を23回聴いたのだが、父の挨拶は群を抜いて最高の出来だったと断言していい。似た出来のものさえ無かった。今冷静になってビデオで観ても同じ感動が湧いてくる。

新婚旅行から戻り、媒酌人をつとめていただいた上司のところに挨拶に行くと、開口一番「お父さんの挨拶凄かったね」と言われた。「うまかった」ではなく「凄かった」と言われた。ご自身が人前で話し慣れている人なのだが、その誉め方は通り一遍のものではなかった。BGMを演奏してくれたオーケストラの仲間からも、「おまえが司会得意な理由が判った」と言われた。

昔からそういう父だった。

新郎父の心配事

2007年11月24日 (土)

県大会

長女のバドミントンが面白くなってきた。今年5月12日の記事「敵に塩を送る」でも言及した長女の部活の話だ。去る11月17日は父の没後10周年の記念の日であった。思いがけないコンサートに誘われたことは既に「耳の洗濯」の中で紹介したのだが、バドミントンの秋季大会の日でもあった。

長女の所属する中学は女子バドミントン団体戦で初優勝したのだ。もはやこれは完全に父のご加護だ。何度も優勝経験のある強豪校を接戦で破っての優勝だ。ここ数年一度も勝てていない相手だし、次だって勝てないかもしれないと長女も認めている。負けた学校の生徒何人かが泣いていたとも言っていた。準決勝でも番狂わせ気味の勝利だったというから、勢いに乗ったことプラス、相手の油断もあったのだろう。

ダブルス2組とシングル1人が対戦し2勝することで勝ち上がる。野球やサッカーと違って参加校が少ないので3連勝でいいのだが、娘の属する中学は創立以来今まで優勝出来なかったのだ。長女は第一ダブルスの一員として3連勝したという。当日はサラリとしていたが、翌日学校に行ったら何人かの先生から「おめでとう」と言われて実感が深まったと言っている。個人戦ではなく団体戦での優勝というのも素晴らしい。

今日県大会があった。市の大会優勝のご褒美である。秋のドライブをかねて家族で観戦に出かけた。私が子供の頃住んでいた場所の近所だ。これまた奇遇で私が中学3年の時にバスケットボールの市大会で3位になったその体育館だった。

2007年11月23日 (金)

杞憂

取り越し苦労のことだ。出所は中国だ。物事をあらかじめ心配してそれが杞憂に終わるのは良いことだ。あらかじめリスクを察知して心配するからこそ、杞憂に終わることが出来るのだ。ぼんやりしていてリスクの存在に気づかず、いきなりトラブルに見舞われると「忘れた頃に云々」ということになる。

今日11月23日は初めての自費出版本「ブラームスの辞書」の執筆が始まった記念日だ。

ブラームスが楽譜の上に記した音楽用語全てをアルファベット順に網羅列挙するというコンセプトだけは決まっていたが、未定のことが多かった。未定の最たるものが総ページ数だ。「辞書」を名乗る以上ある程度の厚みが欲しい。その時点で頭の中にあったネタを文章にするだけでそこそこの分量になると見当をつけていた。もし万が一、思った程ページ数がふくらまなかった場合、「ブラームスの辞書」というタイトルを取り下げることも覚悟せねばならない。とはいえ予算の都合もあって思いの丈を全て盛り込んで250ページ程度に収まればいいと思っていた。

執筆開始後すぐ厚みが足りない心配は、杞憂と解った。譜例なし純粋に本文のみながら「A」の項目だけで70ページを超えてしまったのだ。ご予算上最適の250ページに収まる望みが完全に消えた。譜例を入れて書きたいだけ書いていたら1000ページにだって届きかねない。執筆を決意する時点で思い浮かんでいなかったネタが次々と湧いてきたことが原因だ。

最終的に、譜例173箇所総ページ数400で納めたが、当初取り上げていながら泣く泣くカットされたネタも少なくない。「synphonie」「sonata」「intermezzo」等の形式・ジャンル名もカットした。「Adur」「Cmoll」という調性を意味する語もあえなく姿を消した。涙を呑んだネタが今、ブログで次々と復活していることも見逃せない。記事が1000本にだって届く勢いなのはそのお陰でもある。250ページで終わるハズはなかった。

2007年11月22日 (木)

生きがい

ブラームスはその晩年において、ドイツ音楽界の重鎮となっていただけに、交友関係は多岐にわたった。現在に続く出版社、ブライトコップフの社長とも親密な間柄だったと見えて、書簡の中で晩年の心境を打ち明けている。

長い人生の中で、「生きた甲斐があった」と思える体験が3つあったと言っている。

  1. 若くしてシューマン夫妻にめぐりあったこと。
  2. 1870年を経験できたこと。(普仏戦争か?)
  3. バッハの価値が高まり続けたこと。

特に注目すべきは3番目だ。過去の音楽への愛情がブラームスを構成する主たる要素であることは知っていたつもりだが、これほどとは思わなんだ。

さらにこの言い回し自体も含蓄に溢れている。ブラームスの若い頃に比べて、晩年の今はバッハへの世間の評価が高まったという事実認識が無ければ吐けないセリフである。

ともすると若きメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の再演があまりに眩しいため、19世紀のバッハ復興が、その一瞬で実現したかの錯覚に陥り易い。実際には「マタイ受難曲」の再演は華やかな象徴に過ぎないのだろう。1850年のバッハ協会の設立と、翌年から始まったバッハ全集の刊行によって、バッハルネッサンスは19世紀の後ろ半分をかけてジックリと進んだと解するべきなのだろう。まさにその歩みがブラームスの創作人生とピッタリ重なっている。

復興の機運こそあったが、まだ世間一般の認識が高まらぬ頃、たとえば1848年15歳での初リサイタルでバッハのフーガを取り上げたり、1850年代にデトモルトの宮廷でカンタータを演奏したブラームスにすれば感慨深いものがあったに違いない。

自作のことには全く言及せず、手放しでただバッハを称賛する姿勢が、毎度の事ながら奥ゆかしい。ブラームス節の典型である。

2007年11月21日 (水)

ジョー・ディマジオ

ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグの次の世代を代表するニューヨーク・ヤンキースのスーパー・スターだ。背番号5は当然永久欠番である。

彼の誕生日は1914年11月25日だ。私の結婚記念日と同じだ。彼のことを記事にする機会をうかがっていたが、なかなかうまくこじつけられなかった。実は密かに今日という日を狙っていた。

彼ジョー・ディマジオの持つメジャーリーグ記録に連続試合安打がある。56試合にも及ぶその記録は、今メジャーリーグ打撃部門でもっとも更新が困難な記録の一つとされている。シーズン打率4割よりも分厚い運が必要だと思われる。「56」という数字はアメリカの野球ファンならば皆知っている神秘の数字である。「ハイドンの主題による変奏曲」を思い出してはいけないのだ。

夜8時頃ブログ「ブラームスの辞書」の本日のアクセス数が100に達した。これで9月27日以来56日連続して1日のアクセスが100を超えたことになる。従来の記録は本年5月7日以来続いた25日だったから大幅な記録更新だ。このところのアクセス増に感謝である。

大好きなジョー・ディマジオのこじつけにまんまと成功したということだ。今日途切れたらどうしようかドキドキしていた。更新の継続はたやすいが、アクセス系の継続記録は思うに任せないから感慨もひとしおである。

2007年11月20日 (火)

耳の洗濯

一昨日古くからのブラームス仲間と飲んだ。ワインと料理と話で満腹になった。実は、17日の記事「没後10年」でも述べたとおり、その日は父が没して10年の節目だったから、昼間のうちに記事をアップ、墓参りにも行ってきた。さっそくの御利益があった。

ノヴェロのワインが回り始めた頃、彼女が(そうその仲間とは女性なのだ)「知人がどうしても都合悪くなったコンサートがあるけど行く?」と切り出した。

  1. ブラームス ヴァイオリンソナタ第2番
  2. ブラームス ヴァイオリンソナタ第3番
  3. フランク ヴァイオリンソナタ
  • ヴァイオリン ギドン・クレーメル
  • ピアノ クリスチャン・ツィメルマン

耳を疑った。入手困難のプラチナチケットだ。このメンツにこの曲である、ノータイムでお受けした。その日から丸2日、ブラームスはおろか音楽を聴かなかった。腹を減らしておかねばならない。おいしいレストランに行く前と同じ心境だ。

昨夜その演奏会があった。高い位置後方から2人を見下ろす席。鍵盤と楽譜が丸見えだ。私ごときが言葉で説明可能な範囲をゆうに超えていた。こんなブログで屁理屈をこねているのが嫌になるくらいだ。休憩前にブラームス2曲が続けて演奏されたが、3番のフィナーレにさしかかった時「えーっ、こんなに早く」と感じた。ずーっと聴いていたかった。センスのいい譜めくりのお兄さんはえらくイケメンだった。何とこの方調律師だと休憩時間になってわかった。

昔からCDやDVDでは聴いていたが、昨夜は偽装の余地のない生の本物が弾いてくれている。このメンツだから、飛車角の競演になるのかなあと考えていたが、違った。強いて言えば飛車角ではなくて金と銀の競演だ。絶妙の距離と位置取りを保ってお互いを守りながら、玉の周囲を固めるような感じ。将棋名人が指す矢倉の絶妙の駒組みとでも申しておく。もちろん2人が守った玉はブラームスだ。

アンコールに応えて何度かステージに戻った中の2度はツィメルマンが出てこずにクレーメルだけが登場し拍手をあびた。ブラームスのソナタにおけるピアノの重要性やピアノの素晴らしいできばえを考えると、何もツィメルマンがそんなに遠慮することも無いのにと思った。何だかツィメルマンが凄く大人でカッコよく思えた。

ショパンコンクールの優勝者にして現代最高のピアニストが何も室内楽の伴奏なんかしなくてもと思ってはいけない。ヴァイオリンの名人芸を聴かせるソナタならいくつもあるが、ピアノの名人芸が聴けるヴァイオリンソナタなんぞそうあるものではない。ブラームスはうってつけだ。数の上ではもっとも多いと思われるツィメルマンサポーターの「何でショパン弾かないんだビーム」を封殺する極上の演奏だった。

弱音の美しさ、とろけそうな緩徐楽章とか、いくらでも思いつくが、昨夜のクレーメルを正確に表現することは不可能だ。

放心状態でロビーに至る階段を下りていたら、これまた女性の古くからのブラームス仲間と再会した。そのまま3人で近所の居酒屋に直行して飲んだ。

それにしても、あれだけの演奏を聴かされて第一ソナタ「雨の歌」が聴けないのはほとんど拷問に近い。

2007年11月19日 (月)

Selig

ドイツ語だ。「この上なく幸せな」「至福の」という意味の形容詞である。しかし一般の日本人には注意が必要である。断り無く用いられた場合でも宗教的なニュアンスを帯びていることが普通だからだ。日本人が普通に用いる「ハッピー」「ラッキー」「ついてる」とは重みが違うのだ。亡くなった人の名前の前に「故」という字を添えることがあるが、「Selig」にも同等の機能があることからも、軽々しい言葉ではないことは容易に推定できる。

つまりこの「幸い」とは、神の祝福を受けた状態そのもののことを指すということなのだ。

ブラームスの出世作にドイツレクイエムがある。ブラームス独特の宗教観、人生観、音楽観が全7曲を貫いている。旋律という切り口で見ると終曲第7曲には第1曲が反映している。第7曲の冒頭は第1曲145小節目の旋律で立ち上がる。「F-D-C-B-A」だ。第7曲の終末感を決定付ける147小節目は、第1曲の105小節目の旋律そのままだ。

旋律という切り口とは別にテキストを切り口に眺めてみる。

  • 第1曲冒頭 Selig sind die da Leid tragen「悲しむ者は幸いである」
  • 第7曲冒頭 Selig sind die Toten「死する者は幸いである」

驚いたことにどちらも本日のお題「Selig」で始まっている。前者は「マタイによる福音書第章4節、後者は「ヨハネ黙示録」第14章13節からの引用だ。出典を別の部分に求めながらもどちらの語句も「Selig」で始まるという点、ブラームスの明確な意図を感じる。ブラームスはテキストと旋律の両面で第1曲と第7曲に関連を持たせている。

特に第7曲は発想記号「Feierlich」(荘厳に)が単独で置かれている。「Feierlich」の単独使用は生涯でここ1箇所だ。単なる物理的なテンポの指定を超えた、特別なニュアンスの付加を意図していることは必然でさえある。第7曲冒頭の重要性は明らかである。

さて大小さまざまの偶然をいじくりまわす「ブラームスの辞書」ならではの話題が続く。

バッハの残してくれた約200の教会カンタータで本日話題の「Selig」という単語で始まるものが一つある。「Selig ist der Mann,der die Anfechtung erduldet」「試練に耐える人は幸いなり」がそれである。200もあってたったの一つとは驚きだ。もっとあるかと思った。

この作品のBWV番号を見て驚いた。何とBWV57である。ブラームスのお誕生日のことかと思った。

2007年11月18日 (日)

マルクセン没後120年

今日、この話題を取り上げるブログが日本にどのくらいあるのか興味深い。

エドワルド・マルクセンは1887年11月18日に没した。つまり今日が没後120年ということになる。現在では恐らくこの人はヨハネス・ブラームスの伝記の中で言及されることが一番多いのだろうと思う。

ブラームスが10歳の時から彼に師事した。当時ハンブルグ最高のピアノ教師で作曲家だったという。ブラームスの才能に驚いた最初の教師フリードリヒ・コッセルが、自らの師に紹介する形で巡り会うこととなった。

ブラームスの創作の基盤となった古典への敬意は、マルクセンによって徹底的に植え付けられたものだという。10歳の少年に対して知識をただ詰め込むだけではなく、それらの情報が体系的に与えられたことが重要である。ブラームス自身、マルクセンから吸収した古典の知識が自らの創作の重要な基盤だったことを十分に認識していたと思われる。ブラームス初リサイタルのプログラムにバッハのフーガが入っていた。バッハルネサンスがまだ緒についたばかりのこの時代にU-15の分際でバッハが取り上げられたのは、マルクセン先生の指導の賜物だと思われる。

後年ブラームスはピアノ協奏曲第2番をマルクセンに献じてその恩に報いている。先生は弾きこなせたのだろうか?

2007年11月17日 (土)

没後10年

父がこの世を去ったのは1997年11月17日だったから、今日で丸10年が経過したことになる。思えば父の死んだ頃が我が家にとって最悪の時期だった。妻の死を家族一丸で乗り切ろうとしていた矢先の出来事だった。長男5歳6ヶ月、長女3歳11ヶ月、次女2歳2ヶ月だ。長男でさえ小学校に上がっていなかった。3人合わせた体重が私の半分にも満たなかったのだ。父の葬儀の時、次女が泣きやまず喪主であった母が一時退席する始末であった。

家族思い子煩悩を絵に描いたような父の死は、大打撃だったのだが、子供たちはそれを認識することも出来ぬ幼さだった。悲しむ暇もないという表現が一番適切だったと思う。

今、上から15歳13歳12歳となった。長男の身長は私を追い抜かんばかりの勢いだし、娘たちも祖母に追いつく。食卓ではいつもの通り話し声が絶えない。今年が祖父没後10周年であることなど忘れた話題ばかりである。今日も朝から部活に補習にとそれぞれ忙しかった。

最大の功労者である母はいつも話の中心にいる。父を思いやる日は、母の苦労を思う日でもある。

2007年11月16日 (金)

標題のニ面性

音楽作品に付与される標題は2つに分類出来ると思っている。

一つは個体識別の記号としての意味だ。一人の作曲家が同一ジャンルで多数の作品を残し、そのいくつかが愛好されている場合、それらを識別する必要が発生する。このとき作品に与えられるニックネームが、いつしか作品の標題と化すケースだ。調の名前や発想用語がこの機能を代行する場合も多々ある。作曲者本人でない第三者が付与するケースも少なくない。

二つめは、作曲者本人が作品理解の一助として自ら付与するケースだ。「なるほどおっしゃる通り」と思わず膝を叩きたくなるような標題や詞書きもある一方、いかにも怪しいものも散見される。

いつの頃からか街角や公園に抽象的なモニュメントが設置されるのを見かけるようになった。説明板も一緒というケースも少なくない。タイトルに添えて作者の意図が書き込まれていることもある。「地球」「大地」「生命」「宇宙」を主体に「恵み」「鼓動」「いぶき」「営み」という語が順列組み合わせ的に絡むことが多い。「地球の恵み」という具合である。作者がそう言っているのを「おかしい」と言うことは誰にも出来ない。「地球の鼓動」「生命のいぶき」を具体的に見たことのある者はいないことも好都合である。それでも大人は判ったような顔で「フムフム」とうなずくが、子供は正直で「何これ?」みたいな反応も珍しくない。

作者自らが積極的に意味を説明しないと受け手には判らないということに他ならない。曲を聴いても判るまいという自覚が作曲者側にあるから、思わずコメントしたくなるという状況だ。厄介なのは説明を知った後に曲を聴いてもそうとは思えない場合だ。となると「作者が言ってるンだからそうなンでしょ」という落としどころしかなくなる。抽象芸術とは本来そういうものなのだろうが、上記2つめの意味の標題には、この類が相当数混入していることを覚悟せねばならない。

ブラームスは2つめの意味の標題に背を向けていた節がある。いわば「聴き手が作品を聴いて何をイメージするかに、作曲者が介入しない」という姿勢である。自作には「ジャンル名+調名」だけで十分と考えた。ジャンル名が未確立の分野、たとえばピアノ小品などのネーミングをたびたび出版社と相談したとされているが、結局「ピアノ小品集」としたまま出版してしまったという逸話もある。自作のタイトルに対するこの手の無頓着さは、自信の裏返しと見ることも出来よう。思いの丈は全て楽譜に盛り込みきったという強烈な自負だ。余計な先入観を聴き手に与えないという姿勢も伺える。

楽譜やCDや本を売るためというマーケティング上の要請で標題が必要というわけだ。標題が必要なのは、ブラームスではなくて周囲の人間ばかりなのだ。

2007年11月15日 (木)

カンタータ第21番

BWV21を背負ったハ短調のカンタータのことだ。バッハ29歳でワイマール宮廷のコンサートマスターに就任した年の作品とされている。

教会カンタータには、目的がある。歌詞の内容から教会のどんな行事のための作品かが判るのだ。当時の教会の祝日はわかっているので、それらを総合すると初演を含む演奏日の見当がつく。そういう見方をするとこのカンタータは三位一体の祝日の第3日曜日のための作品である。フラット3個を要するハ短調となっていることは三位一体との関係を仄めかしているとも考えられる。1714年6月17日ワイマールにて初演されたことは確実らしい。

どうもバッハはこの作品を重要視していた形跡があるという。時を経て改訂を施しながら演奏を重ねて行ったのだ。最近の研究によれば、本作品の成立事情を物語るように、改訂の各段階を反映した稿が3種あるのだ。それらは古い順にワイマール版、ケーテン版、ライプチヒ版と呼ばれている。

時は下って1863年11月15日、つまり144年前の今日、伝統あるウイーンのジンクアカデミー主席指揮者に就任したブラームスのデビュー演奏会のメインとなったのが、このカンタータ21番ハ短調BWV21であった。

話は替わる。第一交響曲が作曲の最初の痕跡から完成まで21年の時間が経過したことは、有名である。一口に21年というけれどもただ漫然と経過したわけではない。1855年の着手から7年後の1862年夏に第1楽章が一応の完成を見ている。「Un poco sostenuto」の堂々たる序奏は無かったものの、14年後に完成した際の第一楽章と概略において一致していることはクララ・シューマンが証言している。そこから1874年まで第一交響曲の作曲が進んだ形跡が全くないのだ。

作曲家ブラームスにとって6月から9月の夏が、創作のかきいれ時だったことは、よく知られている。だから62年夏の第一楽章完成の次の夏が来る前にジンクアカデミーの指揮者に就任してしまったことは意外に重要だ。半年後のデビュー演奏会の準備にとりかかったことは確実だからだ。第一交響曲に割く時間がとりにくくなったと解し得る。

このカンタータ第21番は、演奏時間に約45分を要する大作だ。ソプラノ、アルト、テノールの独唱に混声四部合唱、そしてオーボエ、ファゴット、トランペット3、トロンボーン4、ティンパニ、ヴァイオリン2部、ヴィオラ、通奏低音を要求する大編成となっている。これにクラリネットとホルンとコントラファゴットが加われば、第一交響曲の編成になる。アルト、テノールがそれぞれクラリネットとホルンに相当し、ソプラノは独奏ヴァイオリンだと想像するのは楽しい。

一方先に述べたように3種類の版が存在するから、指揮者としてそれらを評価して決定する作業もあったはずだ。何よりも不気味なのは、このカンタータが、他でもないハ短調だということだ。しかも終曲の第11曲ではハ長調に転じるのだ。こうした枠組みを観察すると、ハ短調の第1交響曲を構想中のブラームスにとって、このカンタータを指揮する経験がどれだけ有意義だったか察するに難くない。

かくして同年5月の就任から半年の準備期間をかけた満を持してのデビューは、玄人筋からの評価が高い。

オーボエの華麗なパッセージやヴァイオリンとオーボエのアンサブルは気のせいか第一交響曲に投影していそうな感じだ。また全曲の白眉第8曲で現れるソプラノとバスの二重唱は、独奏ヴァイオリンとホルンのからみを思わせる。

第一交響曲の肥やしにならぬハズがない。

2007年11月14日 (水)

レコードジャケット

中学3年の頃だったと思う。美術の授業の中でレコードジャケットのデザインをした。自分の好きな音楽作品のレコードジャケットをデザインするという代物だった。当時レコードと言えば30cmのLPだったから、レコードジャケットのデザインと言えば30cm四方の紙に各々のアイデアを盛り込むことに他ならない。曲のイメージと演奏家のイメージを加味する他、自分がその曲を好きであることを盛り込むことが大切だ。

当時筋金入りのベートーヴェン少年だった私は当然ベートーヴェンの作品を選んだ。選んだ曲は当時もっともはまっていた曲。弦楽四重奏曲第15番イ短調だった。中学3年の男の子としてはレアだと思う。文字のフォントや配置を工夫した自信作だったのだが、肝心のデザインが抽象画みたいになってしまい先生や仲間の賞賛を得ることは無かった。絵の腕前に問題があることは明らかだったが、理由はそればかりではなかったと思う。

同じベートーヴェンでも「運命」「田園」「英雄」の方が数段楽だったに違いない。弦楽四重奏曲第15番という曲が大好きな気持ちを盛り込めばいいのだが、言うは易しの難題である。詳細をイメ-ジ出来るだけの知識を私以外誰も持っていないから、批判もされない代わりに賛同もされないのだ。

ベートーヴェンの肖像も弦楽四重奏団の絵も不要と思った。ジャケットだから収録されている曲や演奏家についての最低限の情報は盛り込まねばならぬが、それ以外は浮かばなかった。

中学生ながら「絶対音楽」ってそういうものだと感じた。音楽の授業でも学べぬことが美術の時間に痛感出来た。

2007年11月13日 (火)

長調は悲しい

晩秋から冬にかけて、澄み切った長調の曲を聴くと悲しくなることがある。長調の曲なら何でもという訳ではない。一部の曲でそのような経験をしたことがある。澄み切った長調の曲を、冬の良く晴れた日に屋外で聴くと悲しくなりやすい。携帯オーディオ史上画期的な1979年ウォークマンの発売以来、屋外で音楽を聴く機会が増えたこととも関係していると思う。「長調は陽気で短調は悲しい」という小学校以来の刷り込みを覆すケースが少なくない。昨年11月11日の記事「カノンのエコー」でも触れたが「パッヘルベルのカノン」はその代表である。モーツアルトのクラリネット協奏曲第2楽章もだ。

何故なのか理由を説明出来ないが、ブラームスでそのような経験をしたことがある作品を挙げてみる。

  1. ヴァイオリン協奏曲第1楽章冒頭
  2. ヴァイオリン協奏曲第2楽章冒頭
  3. インテルメッツォイ長調op118-2
  4. 交響曲第3番第2楽章
  5. 弦楽四重奏曲第3番第2楽章
  6. ワルツイ長調op39-15
  7. 「野のさびしさ」op86-2

一方、同じく長調でありながら、少なくとも悲しいとは感じない曲もある。たとえば交響曲第1番第4楽章61小節目のいわゆる「ブラームスの歓喜の歌」だ。長調なら何でもというわけでもないところが悩ましい。聴く時のコンディションにも影響されていそうで断言が難しい。こう考えて来ると短調の方は悲しみの表現というより情熱の表現のほうがピッタリとはまることが多い。むしろ短調の方が単純だ。一方の長調はなかなか一筋縄では行かない。

「深い悲しみを表現するとき、しばしば長調が用いられている」と断言したいが、あまりに主観的で、具体性に欠けるので独り言にとどめたい。

2007年11月12日 (月)

老舗

これで「しにせ」とも読む。格式と信用があって長く続いている店とでも定義出来よう。トップブランドとは少々違ったニュアンスだ。市場占有率の首位である必要は無さそうである。

どうせならブログ「ブラームスの辞書」がそう呼ばれてみたいものだ。ブラームスブログ業界なんぞというものがあればの話だが、その中で名誉ある地位につきたいと思う。「長く続いている」という条件は、ブログが続いてさえくれればいつかは満足することが出来るだろう。問題は「信用」である。こればかりは狙って獲得出来る性質ものではない。ネタの絶対数、更新の頻度、ネタのオリジナリティ、ブログのデザイン、コメントへの対応等々の条件が時間をかけて堆積して形作られるものだと思う。

そうそう、記事冒頭の定義の中に抜けていたことがある。それは「老舗」とは大抵他人が言ってくれるものだという側面だ。自分から「手前どもは老舗でござい」などと言うのはお里が知れてしまうというものだ。自分は粛々と日々の生業にいそしみながら、結果として周囲の誰かがそれを「老舗」の技だと称するのが美しい。そして不特定多数の人々がそれに同意することが最後の仕上げである。

やはり狙ってなれるものではなさそうだ。

老舗であるがゆゑの逆風にさらされることもあると思うが、修練だと思ってがんばりたい。

2007年11月11日 (日)

3+2+2+2

弦楽五重奏曲第2番op111の第1楽章の話をする。ユニークな8分の9拍子だ。1小節の中に8分音符が9個存在できる。普通はそれらが3個一組に括られている。いわゆる複合拍子というやつだ。第2主題と呼び習わされているところ26小節目では、ブラームスのヘミオラ好きが透けて見える。最初に楽譜を見たときには、思わず8分音符を数えてしまった。

29小節目のフレージングは「3×3=9」の表出になっていないのだ。小節冒頭こそ8分音符3個でまとまっているが、後半は8分音符2個ずつ3組のフレージングになっている。8分音符でいうと1個目、4個目、6個目、8個目に緩いアクセントが置かれている。つまり「3+2+2+2=9」になっている。聴いた感じは全く違和感がない。ブラームスによくあるケース「楽譜を見てびっくり」という典型だ。続く33小節目、35小節目も同様だ。

1890年11月11日つまり117年前の今日、ウイーンで初演された。作品番号といい、初演日といい「1」がやたらと重なっている。

だから今日11月11日を狙って記事にした。

2007年11月10日 (土)

ユーリエ・シューマン

1872年11月10日ロベルトとクララの3女ユーリエは、27歳でこの世を去る。母クララの面影をもっとも色濃く受け継いだユーリエはブラームスの密かな思いの対象だった。シューマン家に出入りしていたブラームスは、ユーリエをとりわけかわいがっていたともいう。彼女の結婚に衝撃を受けたブラームスが「アルトラプソディ」を作曲したことは、よく知られている。

クララは4人の子供に先立たれている。女の子はこのユーリエただ一人だ。周囲の証言によればユーリエは繊細な外見の通り、病弱だったからクララも心配していたという。

そのユーリエは1869年に結婚してから2人の子供を産んでいる。そして亡くなった時、3人目を身ごもっていた。病弱のユーリエが3年の間に2人産み、さらに3人目を妊娠中とは恐れ入る。気の毒だ。

ユーリエの長男はエドワルド、次男はロベルト、妊娠中の子供はキアラという女の子らしい。キアラはロベルト・シューマンの謝肉祭に登場する名前で実はクララの象徴である。この時代に妊娠中の胎児の性別がどうしてわかるのかはおくとしても、エドワルド、ロベルト、キアラというのは何やら象徴的だ。

ロベルトはもちろん父の名前だ。キアラがクララとすると、残るエドワルドが気になる。祖父母の名前に因んだ名付けをすることはよくあるのだが、それなら長男にロベルトと命名しそうなものだ。エドワルドという名は父ロベルトに因んだ名付けより優先順位が高いと思われる。ユーリエの兄弟にエドワルドという名前の持ち主はいない。もしも父方のマルモリート伯爵の類縁にエドワルドの系統の名前の持ち主がいるなら一応納得である。

これより今や定番とも化したお叱り覚悟の深読みに走る。

ブラームスの作品10に「4つのバラード」がある。ニ短調を背負った第1番はスコットランドの古詩「エドワード」が下敷きになっている。この「エドワード」をドイツ語読みにすると「エドワルド」になるのだ。エドワードは主人公の少年の名で、このテキストはエドワードとその母の会話体になっている。エドワードによる父殺しを母が詰問するという悲惨な内容だ。

古来一部から、エドワードをブラームス、母をクララ、父をシューマンという役回りを想定する説があった。私自身はただちにうなずきにくいと思うが、ユーリエの3人の子供の名前を知った時真っ先に思い出したのがこの作品だ。ロベルトより優先順位の高いこのエドワルドはブラームスを象徴しているのではないだろうか。ユーリエは当然「4つのバラード」作品10を知っていた。少女時代、姉たちをさしおいてかわいがられた記憶が投影してはいまいか。もしかするとブラームスの密かな思いを察していた可能性さえ想像してしまう。

2007年11月 9日 (金)

ダヴィッド同盟

ロベルト・シューマンが考案した空想の団体。保守的な考えに固執した古い芸術を打ち破るために戦って行く人の集まりだという。

シューマン自身の二面性をそれぞれ擬人化したフロレスタンとオイゼビウスが中心人物だ。「ダヴィッド同盟舞曲集」なる同盟歌もある。ショパンやメンデルスゾーンがメンバーとされている他、キアラという名前でクララも加わっている。

シューマンの空想の産物だから、入会手続きや規約がある訳ではない。どこかにオフィシャルな会員名簿でもあるといいのだが。

ブログ「ブラームスの辞書」の立場として当然発生する疑問は、ブラームスはダヴィッド同盟のメンバーだったのかどうかだ。「保守的な考えに固執した古い芸術を打ち破るために戦って行く人の集まり」という概念はどうもブラームスに似合わない。どんなドイツ語がこのように訳されたのか判らないままイメージやニュアンスだけで断言するのは、いささか心許ないがブラームスの作品群を俯瞰して感じるところとは微妙なズレがあると思う。。「無闇にやたらに新しさを求める人と戦って行く人の集まり」だとしたらあり得ると思う。肝心のシューマン自身、ブラームスの登場をセンセーショナルに紹介したとき、ブラームスをダヴィッド同盟の同志として認識していたのだろうか。

入会の申し込み用紙くらいは渡されたかもしれないが、少なくともブラームスは進んで入会を希望しなかったのではないかと思う。ロベルト・シューマンへの感謝や尊敬と、ダヴィッド同盟への入会とは話が別である。

2007年11月 8日 (木)

祝70000アクセス

本日朝7時半頃、ブログ「ブラームスの辞書」開設以来のアクセスが70000件に到達した。

  • 10000アクセス 2006年 3月 8日 283日目
  • 20000アクセス 2006年 8月30日 458日目(175日)
  • 30000アクセス 2006年12月30日 580日目(122日)
  • 40000アクセス 2007年 3月28日 668日目( 88日)
  • 50000アクセス 2007年  6月21日 753日目( 85日)
  • 60000アクセス 2007年 9月 7日 831日目( 78日)
  • 70000アクセス  2007年11月 8日 893日目( 62日)

さすがに芸術の秋と言うべきか60000アクセスからの62日間、アクセスウォッチャー的にはサプライズの連続だった。

  • 8月27日から連続して9週間、週間アクセス数が1000を超えた。
  • 9月27日から42日連続して、一日のアクセス数が100を超えた。ということはつまり今日もまだ続いているということだ。
  • おかげさまで10月一ヶ月間、1日のアクセスが100に届かない日が無かった。月間全て100アクセスを達成したのはこれが初めてだ。
  • 昨日一日のアクセスが548を記録した。従来の記録は299だったから、ちょっと怖いくらいの更新振りだ。

これらのサプライズに支えられた結果、アクセス10000の所要日数が70を切った。62日とは驚いた。なんだかこのところブログ「ブラームスの辞書」へのアクセスが一段と底堅くなった印象だ。

日頃のアクセスに対して、まとめて感謝する次第である。

2007年11月 7日 (水)

カンタータ60番

バッハのカンタータ「おお永遠、そは雷の言葉」BWV60だ。1723年11月7日に初演された。ブラームスはウイーン楽友協会の音楽監督として1873年12月7日にこの作品を演奏している。

生涯に約300曲作られ、そのうちざっと200曲か現存するバッハのカンタータ。特にライプチヒのトマスカントルに就任して以降、毎週日曜日の礼拝式を自作のカンタータでまかなおうと志した。その結果当時はもちろん現代に至るまで、信仰厚い善男善女が教会に集ってバッハに浸った。きっとこれがドイツなのだ。ドイツの庶民にとって日曜日に教会に行くことはバッハのカンタータを聴きに行くことと限りなくイコールに近い行為だったのではあるまいか。

まさにそのドイツでブラームスの地位を不動にしたのはドイツレクイエムの成功だ。そのフィナーレ第7曲の冒頭は「ヨハネ黙示録」第14章13節から採られている。

 「Selig sind die Toten」と始まる。「今より後主にあって死するものは幸である」という意味だ。この冒頭の「Selig」の「Se」が引き伸ばされる中、弦楽器が虹をかけてゆく様は天上のようだ。ここを聴くために「ドイツレクイエム」があるような気にさせられる箇所だ。

実は本日のお題「カンタータ60番BWV60」の第4曲にもこのテキストが現われる。アルトのレチタティーヴォに導かれて歌いだすバスのアリオーソが、そっくりそのままドイツレクイエム第7曲冒頭のテキストになっている。「Selig」の「Se」が付点2分音符によって引き伸ばされる歌い出しまでそっくりである。ドイツレクイエムも終盤、フィナーレにたどり着いた聴衆は、この歌い出しを聴いてバッハを想起することは間違いない。信仰に篤い聴衆ほどそれを感じ取るはずだ。

ドイツレクイエムのしめくくりにこのテキストを持ってきたブラームスの脳裏に、カンタータ60番があったと思う。晩酌のビールを賭けてもいい。

2007年11月 6日 (火)

作曲の報酬

作曲家に限らず偉人と貧乏の話は半ばつきものである。

伝記という物はとかく主人公の偉さをアピールするものなので、「貧乏にも負けずに」という構図がどうもピッタリ来るらしい。お金持ちの家に生まれたメンデルスゾーンは例外だ。

ブラームスも貧乏な家に生まれたと記述されることが多い。生活のために10代前半から酒場でピアノを弾いていたとされている。

シューマンによるセンセーショナルな紹介をキッカケにブラームスのサクセスストーリーが始まったと考えてよい。ピアノも作曲も弟子をほとんどとらなかったブラームスはほぼ作曲だけで生活していた。偉くなった後もお金に執着していなかったのは多くの関係者の証言するところである。財産管理も友人任せで匿名の寄付も数多く行っていたという。

ブラームスの収入の源泉は作曲だ。作品の出版に伴って出版社からもたらされる報酬が大部分と考えて良い。1860年代、作品番号でいうと30番台までは1作200~300マルクで、ドイツレクイエムの成功によりそれが1500マルク前後に跳ね上がった。報酬額は最終的には交渉事なのだが出版社にとってはコストだから、無謀な譲歩をしたとは思えない。作品の価値が一定の仕組みによって金額に投影されていたことは確実である。ブラームスへの報酬や印刷コストを売上によって回収しなければならないのだ。作曲家の名声、曲の話題度や規模が綿密に織り込まれていたに決まっている。

じらしにじらした甲斐もあってか第1交響曲には15000マルクが支払われたという。出版社の支払い能力の上限に近い数字だという。数字は作品の規模によっても代わるが、続く3曲の交響曲も同等の金額だったらしい。出版社から見たブラームスの価値は終生揺らぐことはなかった。それどころか現在もなお微動だにしていないと見るべきだろう。楽譜ショップやCDショップの店頭を見れば明らかだ。

当時の通貨マルクを現在の円に換算する参考資料がある。音楽之友社から刊行されている「ブラームス回想録集」第2巻111ページに「1000マルク=約50万円」の記述がある。仮にこれを適用すれば、第1交響曲への報酬は750万円になる。これはおそらく原稿の手渡しとともに払われる原稿料あるいは作曲料という位置づけだろう。楽譜の売れ行きに比例して払われる印税は別カウントだったと思われる。

第1交響曲を皮切りに矢継ぎ早に大規模な管弦楽曲が生まれたが、独身のブラームスが質素な暮らしをするのであれば、おつりが来ると思われる。

高いのか安いのか判断に苦しむ。750万円は庶民には大金だが人類の遺産であると思えば断固安い。実は実質的な価値はもっと高かったと思われる証拠がある。この数字15000マルクは、出版社ジムロックの支払い可能な限界の額だという。ブラームスの作品の価値は別系統の、出版社の支払能力というリミッターが働いていた可能性が高い。

2007年11月 5日 (月)

悩ましいこと

ブログの記事の備蓄が相当数たまってきた。良いことには違いないが、悩ましいことも起きる。

ブログの内容についてコメントやメールで来訪者と話をしていると、既に書き終わっている記事の内容にかぶることがある。うかつにコメントすると公開予定の記事に影響が出かねないケースがある。あるいは、既に公開済みの記事だったか未公開の記事だったかうろ覚えな時がある。来訪者とのこうした会話をキッカケでネタを思いつくこともあるので、貴重だが、用心していないとネタばれのリスクがいつもつきまとうので悩ましい。

質問をお受けして「その話は書いたはずだが」と思ったら先付けのネタだったということも少なくない。こうしたやりとりが公開の予定日を前倒ししたりの微調整に繋がって行くこともある。中には、腹の中を見透かしたようについ昨日ネタを備蓄した記事の真っ芯を貫くような質問もあって、面食らうこともある。

ブラ-ムスネタで盛り上がるのは歓迎だが、少し悩ましい。

2007年11月 4日 (日)

無言歌

「Lied ohne Worte」の訳語だ。「歌の無い歌曲」くらいの意味。ピアノ小品の1ジャンルを形成するに至っている。メンデルスゾーンの創始であることが確実視されている。メロディアスなピアノ小品だ。

ブラームスには無言歌とタイトリングされた作品は無い。無いのだがいけない想像を膨らませてしまっている。「8つのピアノ小品」op76は、「パガニーニの主題による変奏曲」op35以来遠ざかっていた久々のピアノ独奏曲だ。ソナタや変奏曲は二度と書かれることは無く、こうしたピアノ小品が中期後期のホームグラウンドになる。まさにピアノ作品の中期開幕を告げるモニュメンタルな作品だ。

ひょっとしてブラームスの脳裏に無言歌がかすめていなかったかと考えている。少なくとも声楽曲とピアノ曲の中間を狙った意図はなかったかと考えている。理由は2つある。

1つは作品76を構成する8曲のうち5曲の冒頭指定がイタリア語とドイツ語の併記になっている。発想用語にドイツ語を用いる事自体は珍しくないが、器楽曲に限ればこの作品が唯一である。声楽曲の専売特許であるところのドイツ語の発想記号が偶然とは思えぬ頻度で現われている。

2つめは「voce」系の多用だ。「sotto voce」「mezza voce」という声楽由来の楽語使用が目立つ。作品76-1には楽曲冒頭からの単独使用が初めて試みられている。

無言歌とは断言できないまでも全く新しいピアノ独奏曲のジャンル開拓を試みたのではないかと考えている。

そのメンデルスゾーンは1847年11月4日に没したから、今日は没後160周年のメモリアルデーである。

2007年11月 3日 (土)

ハンブルグから

「ブラームスの辞書」がハンブルグのブラームス博物館に献本されることになった経緯は今年10月7日の記事「ハンブルグコネクション」と16日の記事「頼むぞop122」で言及した。

現地への発送を手配した友人のところに献本を感謝するメッセージが届き、さっそく私のところに転送してくれた。差しさわりのありそうな部分を抜いて原文を載せる。「○○○」はその友人の名前である。「◇◇◇ ◇◇◇」もまた個人の名前であることは申すまでもない。

Dear Mr. ○○○,

thank you very much for your kind donation to our museum! We have
received the book by Tatsuya Nakano today. It will be a highly
appreciated part of our library - and especially for our visitors from
Japan.

Best regards,


Dr. ◇◇◇ ◇◇◇
Johannes-Brahms-Gesellschaft Hamburg

「ブラームスの辞書」op122が無事にハンブルグに着いた。ブラームスの故郷の風にあたって喜んでいると思う。

今日のこの記事でブログ「ブラームスの辞書」は開設以来の連続更新日数が888日になった。縁起がいい。

2007年11月 2日 (金)

奇数小節フレーズ

ブラームス節の柱の一つ。ブラームスの書く主題は、奇数小節のフレーズから構成されることが多い。

2小節で動機、動機が2つ集まった4小節で小楽節を構成し、さらに小楽節が2つ集まって8小節の大楽節を形成すると、大抵の音楽入門書に書かれている。私も中学時代にそう習った。例外も存在するが18世紀中盤からの100年間、欧州特にドイツ系の音楽にあてはまると補足されている場合もある。

つまりブラームスの創作年代の少なくとも前半は、その100年間にかすっていると言っていい。ドイツ音楽のガチガチの継承者と認められながら、ブラームスは自作の主題に奇数小節フレーズを用いることが無視しえぬ頻度で起きている。

すぐに気付く箇所を試しに列挙してみたい。

  1. ピアノ四重奏曲第1番第4楽章 3小節フレーズ
  2. ハイドンの主題による変奏曲冒頭 5小節フレーズ
  3. 第1交響曲の第3楽章第1主題 5小節フレーズ→7小節フレーズ
  4. 弦楽四重奏曲第2番第4楽章 3小節フレーズ
  5. クラリネット五重奏曲第3楽章 5小節フレーズ

このほか晩年のピアノ小品の中にも奇数小節フレーズが溢れている。

他の作曲家の例を良く調べないと「ブラームスの特色だ」などとは断言できないが、ブラームスの魅力の源泉の一つであることは疑い得ない。2-4-8の積み重ねで得られる整然とした形式感を敢えてはずしたフレージングが彼の狙いだと思われる。シンメトリーな美しさを意図的に壊して得られる破調を、表現のツールにしていたものと考えている。奇数が2で割り切れぬことから来る頑固なイメージも想定のうちだろう。

俳句や短歌の達人が、時として意図的な「字余り」で予期せぬ効果を狙うのと同根だと思われる。

2007年11月 1日 (木)

喉を鳴らす仔猫

1894年11月。ブラームスは出来たばかりのクラリネットソナタをクララに聞かせるために、ミュールフェルト等第一級のメンバーとともにフランクフルトを訪れた。

ミュールフェルトのクラリネット、ブラームスのピアノによるアンサンブルだ。聴覚の衰えが見られるクララはピアノを弾くブラームスの隣に座って譜めくり役となった。ブラームスは楽章ごとにクララの顔を覗き込み次に進む許可を得ながら弾いたという。

これらの光景があたかも見てきたように再現できるのは、当時18歳になっていたクララの孫フェルデナンドが書き残した日記のおかげである。18歳の少年は当時すでに作曲界の大御所であったブラームスを「彼は喉を鳴らして甘えている柔らかな仔猫のようだ」と評している。さすがのブラームスもクララの前ではこんなモンだったのだ。ブラームスの健気さが余すところ無く伝えられているばかりか、年老いてなお毅然としたオーラを放ち続けるクララの姿さえ髣髴とさせる。

このときヨハネス・ブラームス61歳。猫なら化けている年頃かもしれない。

« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
無料ブログはココログ