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2007年11月22日 (木)

生きがい

ブラームスはその晩年において、ドイツ音楽界の重鎮となっていただけに、交友関係は多岐にわたった。現在に続く出版社、ブライトコップフの社長とも親密な間柄だったと見えて、書簡の中で晩年の心境を打ち明けている。

長い人生の中で、「生きた甲斐があった」と思える体験が3つあったと言っている。

  1. 若くしてシューマン夫妻にめぐりあったこと。
  2. 1870年を経験できたこと。(普仏戦争か?)
  3. バッハの価値が高まり続けたこと。

特に注目すべきは3番目だ。過去の音楽への愛情がブラームスを構成する主たる要素であることは知っていたつもりだが、これほどとは思わなんだ。

さらにこの言い回し自体も含蓄に溢れている。ブラームスの若い頃に比べて、晩年の今はバッハへの世間の評価が高まったという事実認識が無ければ吐けないセリフである。

ともすると若きメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の再演があまりに眩しいため、19世紀のバッハ復興が、その一瞬で実現したかの錯覚に陥り易い。実際には「マタイ受難曲」の再演は華やかな象徴に過ぎないのだろう。1850年のバッハ協会の設立と、翌年から始まったバッハ全集の刊行によって、バッハルネッサンスは19世紀の後ろ半分をかけてジックリと進んだと解するべきなのだろう。まさにその歩みがブラームスの創作人生とピッタリ重なっている。

復興の機運こそあったが、まだ世間一般の認識が高まらぬ頃、たとえば1848年15歳での初リサイタルでバッハのフーガを取り上げたり、1850年代にデトモルトの宮廷でカンタータを演奏したブラームスにすれば感慨深いものがあったに違いない。

自作のことには全く言及せず、手放しでただバッハを称賛する姿勢が、毎度の事ながら奥ゆかしい。ブラームス節の典型である。

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