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2007年12月31日 (月)

バッハルネサンス

没後約80年の間、一般聴衆から忘れられていたヨハン・セバスチャン・バッハ再発見の運動。断り無く用いればそういう意味だ。

1829年のメンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」蘇演、1850年バッハ協会設立、1874年と80年に相次いだシュピッタ「バッハ伝」の刊行、さらには1851年から1900年まで続いた「旧バッハ全集」の刊行などが主なエポックだ。新バッハ全集の完成はつい最近だったからバッハルネサンスはまだ続いているとも思われる。

私自身は見ての通りのブラームス好きだから、興味の対象は圧倒的にブラームス中心だ。バッハはブラームスに続く第2位の位置にいるが、気合いを入れて接しているとは言えない状態だった。

約1年と少し前、昨年の秋から風向きが変わった。バッハの「無伴奏チェロのための組曲-ヴィオラ版」に親しく接するようになったのだ。そこからバッハを聴く機会も増えてきた。ひなまつりにはバッハを左大臣に抜擢した。さらに5月のヴァイオリン発表会で次女がイ短調のコンチェルトを弾いた。そして決定的なキッカケは長男の英国研修だ。4週間の研修の無事を祈って「ブラームス断ち」を敢行した。28日間聴くことが出来ないブラームスに代わって聴きまくったのがバッハだった。曲を聴くだけにとどまらない。伝記や研究書を続けざまに読んだ。

もちろん、私のことだから、バッハの本を読んでいても常にブラームスが頭の中央にあった。バッハに関して申せばそういうけしからん読み方をしても違和感がない。バッハ関連の書物には、ブラームスに関係の深い記述が高い頻度で飛び出すのだ。伝記にはさすがにブラームスという記述は出てこないが、研究書特に研究史になるとブラームスは常連でさえある。ブラームス側の伝記にはバッハの関連の記事が頻繁に現れるが、バッハの研究史の中でも、ブラームスはちょっと目立つ存在なのだ。おそらく当時のバッハ研究の最先端の知識をブラームスは持っていたに違いない。

ブログ「ブラームスの辞書」のカテゴリー「65バッハ」には今日までに34本の記事が堆積し、さらに備蓄記事も10本ある。この半年、バッハは事実上ブログ「ブラームスの辞書」の隠しテーマになっていた。特に12月は、バッハに関する記事を意図的に集中させてきたことは、既にお気づきの通りである。私はブラームスが脳内でバッハに与えていたのと同等の位置づけを、バッハに与えたいと心から願うものである。

今年は、私自身のバッハルネサンスの始まりだった。

今日のこの記事により、2007年も365日休まず記事の更新が出来た。家族とブラームスそれからバッハに感謝したい。

2007年12月30日 (日)

ヨハネ受難曲

バッハの真作とされる2曲の受難曲のうちの一つ。もう一方は「マタイ受難曲」だ。

日本語標記では「ヨハネ受難曲」なのだが、英文では「Johannes Passion」と綴られる。「ヨハネス・パッション」だ。ブラームスのファーストネームと同じである。

感心しながら資料を調べていてぎょっとした。

「マタイ受難曲」の方は、メンデルスゾーンによる鮮やかな蘇演が有名になっているが、ヨハネ受難曲の方はどうなっているのだろうと思って資料を当たっていたのだ。限られた資料しか当たることが出来なかったから断言は心苦しいが、どうもベルリン・ジンクアカデミーによる演奏がこれにあたるかもしれない。

このベルリンでの演奏は日付が特定できないが、年は1833年である。いかにも私好みの偶然ではないか。ヨハネ受難曲の蘇演が、ヨハネス・ブラームス誕生の年かもしれないのだ。

ヨハネ受難曲の蘇演を喜んだ神様が、人々へのご褒美として、地上に遣わしたのがヨハネス・ブラームスのような気がしてきた。

来年もこういう偶然を大切にして行きたい。

2007年12月29日 (土)

メヌエットクライシス

来年早々にヴァイオリンのお弾き初め会がある。娘たちと3人で演奏することは既に10月22日の記事「ベートーヴェンのメヌエット」で述べた。ところが案の定、長女の部活の大会と重なってしまった。楽しみにしていたアンサンブル存亡の危機である。練習なら休ませるのだが、大会は優先させてやると約束していたから仕方が無い。

次女は仕上がっているので先生と相談したところ、長女のパートを先生が弾いてくださることになった。

本日のレッスンで、初めて合わせてみた。何だかちゃんと聴こえるので嬉しくなった。いいところを見せねばならないので、実は密かに練習していた。小規模の作品とはいえ、娘とのアンサンブルは格別である。合わせてみて明らかになったいくつかの課題を正月休み中に修正しましょうということになった。

私の音程がクライシスにならないよう、仕上げねばならない。

2007年12月28日 (金)

無いと聴きたい

ブラームスの伝記を読んでいると、バッハの名前がしばしば登場する。バッハ作品の演奏や編曲はブラームスにとって日常のことだったことが伺える。

カンタータ第44番。「人々汝らを除名すべし」の中の第4曲「Ach Gott,wie manches Herzleid」もブラームスのそうした取り組みの対象となった。原曲はテノール独唱にファゴットと通奏低音だ。この作品にブラームスが独自に通奏低音を施しているという。楽譜は1877年に出版されているらしい。

「通奏低音を施す」とはどういう意味か?

バッハの時代、通奏低音全盛期には、単音に数字を付与した楽譜を見て即興で和音をつけて演奏することが当たり前だった。そうした即興能力こそが演奏能力だったのだ。ところが時代が下って通奏低音の習慣がなくなって来ると、即興能力を持った奏者がいなくなってしまった。楽譜至上主義が増長した結果、楽譜に書いていないと弾けない人ばかりになってしまったのだ。そのため伝統の「単音プラス数字」の楽譜を通常の楽譜に読み下してやる必要が生じた。楽譜にさえ書いてやれば相当な難易度のものでも弾ける腕前の演奏家は少なくなってはいなかったのだ。

まさにその「読み下し」が「通奏低音を施す」ということなのだ。本来オルガン奏者のセンスにゆだねられる部分をブラームスが代行したと考えればいい。

「ブラームスが通奏低音を施した」と明記されたCDは今我が家に無い。根を詰めずに探しているのだが、見つけられない。

見つからないとなると無性に聴きたいのだ。

2007年12月27日 (木)

ドリアンブーレ

ブラームスよりかなり古い時代、ちょうどバッハの頃だ。最後に付与される調号を省略する慣習があった。現代ではフラット1個を付与されることが普通のニ短調が、調号無しで記譜されるという現象だ。この現象が起きているバッハの「トッカータとフーガニ短調」BWV538はハ長調の音階をレから開始するドリア調にちなんで「ドリアントッカータ」と呼ばれている。ブラームスの歌曲「幸せも救いも僕から去った」op48-6にもこの現象が起きている。古風な感じを出すために敢えて採用したのだと思う。

この周辺の話は2006年4月6日の記事「ドリアンリート」で言及した通りである。

バッハのトッカータも、ブラームスの歌曲も、理屈では判っていても実感としてはなかなか体験出来なかったが、この程演奏中に実例を見つけてしまった。

バッハの無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調BMV1009の5曲目にブーレがある。その中間部が変だなと感じたのだ。

バッハのあたりの古典組曲は調の選択が厳格で、ハ長調の組曲であるなら、それを構成する個々の舞曲つまりプレリュード、アルマンド、クーラント、サラバンド、ブーレ(メヌエットまたはガヴォット)、ジークは、全てハ長調となるのだ。唯一の例外は挿入舞曲と称されるブーレ、メヌエットまたはガヴォットの中間部が、同主調に転ずることが許されているに過ぎない。

つまり無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調のブーレはもちろんハ長調なのだが、中間部はハ短調になって然るべきなのだ。ところが調号を見るとフラットが2個、シとミについているだけである。ハ短調ならばこれらに加えてラにもフラットが付く必要がある。これはまさに最後に付与される調号が省略されていることに他ならない。放置するとラはいつもAである。

使い勝手は悪くない。ハ短調の旋律的短音階を奏する時、シにナチュラルを置くだけで事足りるからだ。

無伴奏チェロ組曲をずーっとヴィオラ版で練習していて気付いた。短調の曲において最後に付与されるべき調号を省略することの意味が判ったような気がした。同時に新たな疑問が湧いてきた。なぜこの記譜法が廃れたかである。

2007年12月26日 (水)

嬉しい誤算

ブラームスの訪問を受けたロベルト・シューマンは自らが創刊した音楽雑誌に、ブラームスを紹介する記事を投稿する。「Neue Bahn」(新しい道)と題されたその記事は、ブラームスを発見した喜びに満ちている。

ブラームスはその時点での自作をシューマンに聴かせたに決まっているが、我々後世の愛好家から見れば、全作品のほんの一部、つまり初期と位置づけられる創作期に属する数点と、破棄されて今は失われた作品だけだったはずだ。シューマンはたったそれだけを聴き、あるいは楽譜を見てブラームスを「天才だ」と断じて、栄光を予言する。

月日を経てドイツレクイエムの初演に立ち会ったクララ・シューマンは「ロベルトの予言通りね」と涙にくれる。創作面でのブラームスはロベルトの予言に恥じない成果を残したと思う。クララ・シューマンの折り紙付きである。

もう一つ「新しい道」では言及されていないことがある。それがバッハだ。

シューマンはバッハに心酔していた。「BACH」を音名とみなした作品も残している。ブラームスを世に紹介した著述の分野でも頻繁にバッハを取り上げている。メンデルスゾーンの「マタイ受難曲」蘇演を契機に始まったバッハルネサンスは、バッハ作品の演奏機会の増大につながりはしたものの、試行錯誤の域を出ずにいた。バッハ作品を不完全と見なしてあられもない加筆を施した演奏や、ロマン主義に首まで浸かった解釈に基づく演奏が巷に溢れた。シューマンはそれらを批判する一方で、全ての演奏の規範となる基本的な楽譜の必要性を説いた。

そうした考えに賛同する人々が集まって、バッハ没後100年の節目にバッハ協会が設立された。シューマンはその設立発起人たる位置づけだ。

そしてブラームスはまさにバッハの作品の解釈、演奏の両面で、シューマンの理想を実現する存在になっていった。バッハ作品は出来る限り原点に近い形で演奏されるべきだという現代にまで続く考え方を頑なに貫いたのがブラームスだった。

「新しい道」で作曲家ブラームスの前途を予言した時点で、シューマンの脳裏に、バッハ研究家ブラームスの具体像が浮かんでいたかどうか定かではないが、「新しい道」の言及せぬ部分でブラームスはシューマンの理想を実現した。シューマンにとっては思わぬ余録だろう。

2007年12月25日 (火)

クララからのプレゼント

1855年12月25日。クララ・シューマンは22歳のヨハネス・ブラームスにクリスマスプレゼントを贈った。ブラームスのシューマン家訪問から2年が経過していた。

何を贈ったのか。それは1851年にライプチヒ・バッハ協会から刊行されたバッハ全集の第1巻だ。新バッハ全集が刊行された今となっては、区別のために「旧バッハ全集」と呼ばれているが、当時は「旧」の文字なんぞ付いていなかった。

「我が愛する友・ヨハネス・ブラームスへ。始まりとして」というクララ・シューマンのメッセージが添えられていたという。

1850年クララの夫ロベルト・シューマンを中心に設立されたバッハ協会の目的は、信頼すべき楽譜の提供だったからその第一巻はまさに待望の初収穫であった。

何よりも嬉しいこと、それは、クララがブラームスをバッハ全集第1巻を贈るに足る人材だと判断したことだ。「豚に真珠」「馬の耳に念仏」「猫に小判」だとは思わなかったのだ。ブラームスの喜びはいかばかりだったろう。

クララの判断はこの上なく正しかった。ブラームスはこの後、次々と発行されるバッハ全集諸巻の熱心な購読者になった。ブラームスの遺品となったバッハ全集はそのほとんどが、彼自身による無数の書き込みとともに、現在もウイーン楽友協会に伝えられているという。

その意味でクララのクリスマスプレゼンントは、まことに理にかなったものだった。第1巻に収められているのは、カンタータの1番から10番までだ。このうち4番と8番は、合唱指揮者ブラームスのはずせぬレパートリーとなって行く。特に4番は、早くもデトモルト在勤中に取り上げられている。このようなバッハのカンタータの演奏体験は、ブラームスをバッハ研究の第一人者に押し上げたばかりか、19世紀後半のバッハ復興を実技面から補完補強するものとなった。

やがては1882年に死去したノッテボームの後任としてバッハ全集の編集陣への参画も要請されるほどのバッハ研究の泰斗と目されるまでになった。

クララの慧眼を喜びたい。

2007年12月24日 (月)

スラーに物を言わせる

12月11日に「スラーは奥が深い」と書いた。今日はその一例である。

第4交響曲第3楽章の話だ。例によって譜例なしの無茶な展開である。

4分の2拍子ハ長調、Allegro giocosoで始まる「ドシラソファ~ソ~」という冒頭の主題は、スラー無しには立ちゆかない。たった2小節の間に、スラーが2本、スタッカート1個そしてアクセント2個が、ひしめき合っている。これらのパーツは小節の頭打ちに特化した、ホルンの1、2番とトランペットおよびティンパニを除く全ての楽器において同じ配置のされ方をしている。

まずはスラーだ。この2個のスラーが指向するのはシンコペーションだ。それが上から下まで全ての楽器を貫いている。そして交響曲では唯一、楽章の冒頭に「ff」が置かれている。並の決意ではない。

2小節目の2つの4分音符にはアクセントが要求されている。2拍目はともかく1拍目は、難解だ。前の小節の末尾の音からスラーが連結されていて、形の上ではシンコペーションを打ち出しているのに、スラーの到達点の音にアクセントが置かれるのは不可思議だ。

しかし、こうした構造は断固として貫かれる。30小節目で冒頭主題が回帰する際にも、この枠組みが守られる。主旋律は低弦に移されている。冒頭ではソプラノで提示された主旋律が、後にバス声部に潜り込むのは、続く第4楽章の先取りとも思われる。しかしそんな中でも「スラー2個、スタカート1個、アクセント2個」の5点セットは不変だ。

少なくともこのスラーがなかったら旋律の表情は全く変わってしまう。その重要性は音符と同等かそれ以上だ。

2007年12月23日 (日)

3大B再考

11月27日の記事「3大Bの自覚」の中で、ベートーヴェンとバッハが「2大B」と呼ばれていた形跡がないと書いた。本日はその視点から再論を試みる。

バッハの受容史を記した本には、バッハルネサンスとも呼ばれるバッハ再興の動きがあったことが例外なく語られている。1750年のバッハの死から約80年、一部の専門家をのぞいてバッハが忘れ去られていたという。バッハの存命中でさえ、その晩年には飽きられていたと証言されている事も多い。さらにバッハの名声は作曲家というよりも、オルガン演奏のスペシャリストという側面に支えられていたともいう。

つまり1750年から、メンデルスゾーンの「マタイ受難曲」蘇演までの80年、バッハは一般大衆からは忘れられた存在だったのだ。ベートーヴェンの生涯1770年~1826年がすっぽりとその期間に収まっている。当時は断り無く「バッハ」と言えば次男の「カール・フィリップ・エマニュエル」だったのだ。無論ベートーヴェン自身は父バッハも知っていたが、一般大衆はそうは行かなかったのだ。だからベートーヴェンがどれほどその巨人振りを発揮しようとも、バッハを引き合いに出して「2大B」と呼ばれるハズがないのだ。一部の学者が仮にそう呼んだとしても、そうした言い回しが大衆に支持にされることは絶対にあり得ぬ状況だったのだ。

ベートーヴェンの生涯が、バッハが忘れ去られていた時代にピタリと重なる一方、ブラームスの1833年~1897年という生涯は、バッハルネサンスの時期にピタリと重なる。メンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の蘇演は、ブラームス誕生の4年前の出来事であるし、ライプチヒにバッハ協会が設立されるのは、ブラームスのシューマン家訪問の3年前だ。そしてそのバッハ協会が目指した「バッハ全集」の刊行は、ブラームス没の2年後に完結するのだ。

19世紀後半の音楽愛好家から見れば、ブラームスの躍進とバッハの再興は同時に進んだと見るべきなのだ。記憶に新しいベートーヴェンに加え、片や新人、片や復活とは言え、進境著しい2人を組み合わせて完成したのが「3大B」の概念だった。

バッハの受容史の上にベートーヴェンとブラームスの人生をプロットしてみると片や「忘却期間」片や「復興期間」に、見事に収まっている。このあたりの辻褄が今日まで「3大B」という言い回しが廃れていない原因の一つかもしれない。

2007年12月22日 (土)

ほととぎす三題

鳴かぬなら殺してしまえほととぎす 織田信長

鳴かぬなら鳴かせてみようほととぎす 豊臣秀吉

鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす 徳川家康

戦乱の世を終結に導いた3人の英雄のキャラを上手に詠み込んだとされているおなじみの句である。たった15文字の俳句調であり、しかもそのうちの7文字の違いだけを用いて3人のキャラの違いを鮮やかに要約していると目される。ご本人たちの感想が聞きたいくらいだ。

彼らが本当にこれらの句を詠んだのかと詮索するのは野暮だろう。7文字の違いに託して彼らのキャラをもっともらしく詠み分けていると世間が思うからこそ長く言い伝えられているのだと思う。

3人と言えば我が家の子供たちだ。同じ親から生まれたとは思えない多彩なキャラで退屈しない。長男は家康かな。おっとりしている次女が家康かもと思ったが、好奇心旺盛で創意工夫に長けているので秀吉のような気もする。当然頭の回転が速く仕切り屋で、時に気短かの長女は信長だ。

つまり

  • 信長 長女
  • 秀吉 次女
  • 家康 長男

となる。

この分類でいうとブラームスは家康かなと思う。根拠は全くない。何となくそう思うというだけだ。3大Bの最後に現れておいしいところを持っていったからかもしれない。

単なるお遊びである。今日は信長になぞらえられた長女の誕生日でもある。どうせなら絶世の美女と謳われた信長の妹・お市にあやかりたいものだ。

2007年12月21日 (金)

ソミシド

ブラームスはハ短調のソナタを以下の通り4つ書いている。

  • 弦楽四重奏曲第1番op51-1
  • ピアノ四重奏曲第3番op60
  • 交響曲第1番op68
  • ピアノ三重奏曲第3番op101

一昨年11月5日の記事「踏ん切りとしてのハ短調」にも書いている。

この中でも言及しているピアノ四重奏曲第3番の話である。第3楽章アンダンテは、思い込みの部分を含めるとブラームスがチェロに与えた最高の旋律だ。「最高の旋律の一つ」のような腰の砕けた表現では役不足である。批判覚悟で断言せねば私の思いは伝わらない。付け加えるとすれば、これがヴィオラではない無念さだけだ。

ハ長調で終止した第2楽章スケルツォを受けて鳴るGisのなまめかしさを味わいたい。調号はシャープ4つを背負っているがチェロは「Gis-E-C-A」と始まる。つまり放置するとCisになってしまう音にナチュラルが付与されている。ホ長調とイ短調の境目をさまよう旋律だ。試しにピアノで「Gis-E-Cis-A」と弾いてみて欲しい。悪くはないが単に甘いだけの長調である。続いて「Gis-E-C-A」と弾くとたちまち私の言いたいことが判るはずだ。一瞬「C」に触ることで広がる世界の奥深さを味わうべきだ。甘さに加えて切なさも同居している。

「Gis-E-C」というこの音型は、「ホ長調発イ短調行き」を暗示する一方で「C」を「His」と読み替えると、たちどころに嬰ハ短調の色彩を帯びる。もし終着が「A」でなく「Cis」ならば「Gis-E-C(His)-Cis」となるからだ。このことはやがて来る第4楽章で重要な鍵となる。

第3楽章の冒頭にこの音型を採用したブラームスの頭にはそのことがあったと推測できる。謎解きは第4楽章にある。ピアノのシンプルな伴奏に乗って走り出すヴァイオリンの旋律の冒頭が「G-Es-H-C」になっている。第3楽章冒頭の「Gis-E-C」という音型をそっくり半音下にずらした形になっている。こちらの「H」は強く「C」を求める音になっていて、ハ短調を強く印象づける。

実は、密かに確信していることがある。バッハの無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調の第4曲の冒頭との関係だ。このサラバンドもまた「ソミシド」で立ち上がっている。「G-Es-H-C」だ。ここでは重音奏法が使われないことに加えて、「シド」に代表される半音の進行が随所にちりばめられていて、さめざめとした空気を作り出す。

あるいは、ジンクアカデミーデビューの演奏会で取り上げたカンタータ21番の第3曲の冒頭もオーボエが「G-Es-H-C」と奏して立ち上がる。

この音列の中央に鎮座する「Es-H」はハ短調の第3音と第7音が作る長3度である。実は昨日の話の続きになっている。

2007年12月20日 (木)

長3度のトリック

「長3度」とは半音4つ分あるいは全音2つ分を隔てた音程。Cを基準にすれば「E」または「As」でこの音程になる。

根音と完全5度上の第5音の間に差し込まれる第3音が、根音から見て長3度の関係にあれば長調になり、短3度なら短調になる。だからという訳でもないだろうが、「長3度」は何かと長調のイメージがある。「C」と「E」からハ長調を思い浮かべるのが自然だという訳だ。ブラームスは聴き手の中にあるこの「自然だ」という意識をしばしば逆手に取る。

旋律的短音階を思い出して欲しい。第7音が半音高められて導音の機能を付与されることがポイントだ。この第7音と第3音で作る音程が、本日話題の「長3度」になっているのだ。ハ短調を例に取れば「H」と「Es」ということになる。「Es」を「Dis」と読めばロ長調を思い浮かべるところである。

「長3度」という音程には「長調の第1音と第3音」に加えて「短調の第7音と第3音」という側面があるということだ。「異名同音」を同じ音とみなすことにより開拓された話題と解することも出来る。

最近短調の作品を聴く楽しみの一つになっている。耳から鱗が落ちる場合が多い。

2007年12月19日 (水)

照れ隠し

クララ・シューマンが右腕を脱臼したとき、ブラームスが見舞い代わりにと贈ったのが左手のためのシャコンヌだ。バッハ作の無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調BWV1004の終曲「シャコンヌ」をピアノ左手用に編曲したのだ。

ブラームスのクララへの思いと、バッハへの傾倒振りが存分に込められている。この編曲についてブラームス自身の言葉が残っている。このシャコンヌは大好きで好んで聴いたが、友人の大ヴァイオリニストであるヨアヒムもなかなか弾いてくれないから、仕方なくピアノに編曲して自分で弾いたのだという。クララへの見舞いは一面に過ぎない。微笑ましいものがある。照れ隠しで悪いなら、負け惜しみである。クララが右手を脱臼しなかったら、通常通りの両手用にしたのだろうか、あるいは脱臼したのが左手だったらどうしたのだろうと考えると退屈しない。

バッハへの傾倒でいうならヨアヒムだって負けてはいない。ヨアヒムにとっても最高の作曲家という位置付けである。だからといって当代屈指のヴァイオリニストがシャコンヌばかりを弾いてもいられぬのだろう。ブラームスは友人のよしみでヨアヒムにシャコンヌを弾くようねだるが、毎回は応じてもらえなかったと思われる。ヨアヒムのシャコンヌなら私だって聴きたい。

ヨアヒムの立場になってみると、たまにブラームスやクララといっしょに時を過ごすのなら、無伴奏ヴァイオリンのための曲ではなくて、ブラームスの室内楽を、クララやブラームスと演奏したかったのではないだろうか。

ぜーたくな人たちである。

2007年12月18日 (火)

異名同音

「違う音名を背負った同じ音」という程の意味。たとえば「変ロ」と「嬰イ」だ。ピアノで弾こうと思うと同じ鍵盤になってしまうと言い換えてもいい。

しかし、この概念が定着するには調律方法についての長い論争があった。同じ鍵盤を押すことになる違う音を「異名同音」と呼び、同じ音だとみなすこと自体が平均律と呼ばれ、論争に対する一つの解決策の提案だったことは既に今年12月1日の記事「平均律クラヴィーア曲集」で述べた。バッハが自ら作品で手本を示したこともあり、結果として作曲の幅が広がったことは間違い無いのだろう。

ブラームスは、平均律により広がった表現の幅を骨まで利用した。ブラームス節の根幹の一つでさえある。異名同音をピポットフットにした転調はお家芸だ。

私はこの「異名同音」のマジックが初めて身に沁みた日のことを一生忘れることが出来ない。

第4交響曲の第4楽章を練習していた時のことだ。周知の通りこの第4楽章は、バッハのカンタータ第150番の終末合唱の主題が投影している。

「E-Fis-G-A-Ais-H-H-E」

4分の3拍子8小節の主題は、上記の音列を1小節毎に割り付けるというシンプルな構造になっている。このうちの5つめ「Ais」(A♯)がバッハには無かったブラームス独自の工夫だ。この音こそ、主題が平版に陥ることがないようの配されたスパイスだと感じる。

私は209小節目から始まる第27変奏をさらっていた。直前の第26変奏に比べ明らかにダイナミクスと緊張感を落としたこの変奏は、クライマックスに駆け上る前のつかの間の癒しにも聞こえる。このあたりのヴィオラは、渋い旋律を放ってオケ全体をリードする。やがて問題の213小節目、ヴィオラは「B-A-B」と悠長に4分音符だ。ふとしたはずみで、この小節が第27変奏の5小節目だと気付いたのだ。背中に冷たい物が走った。とるものとりあえずスコアを見た。この「B」は上記音列「Ais」の読み替えられた姿だったのだ。

ブラームスがバッハの主題と一線を画するために配した「Ais」は、この周辺でのみ「B」と読み替えられている。ヴィオラはその核心を深々と貫く音を発していたのだ。

まさに異名同音の読替えにより、全く別の地平が開かれたかのようだ。このことに気付く前と後では私の出す音が違っていたとさえ思える出来事だった。だからブラームスはやめられないのだ。

2007年12月17日 (月)

古楽器をどうする

最近感じるおバカな疑問がある。

バッハがトマス教会のカントルに就任した1723年はカンタータの作曲と演奏が多かったハズだ。このとき演奏に用いられた楽器は、制作後何年経過したものだったのだろう?仮にである。仮に1720年制作の楽器が使われたとする。現代の古楽器演奏はそれをどう再現するのだろう。制作後3年の楽器で演奏されるのだろうか?それとも今となってはざっと300年前となる1720年制作の楽器をかき集めるのだろうか?当時の製法を忠実に再現したレプリカというのが現実的なのだと思う。バッハの当時の弦楽器は、制作何年後の楽器が平均値なのだろう。あるいは人によりまちまちだったのだろうか。古楽器演奏のための時代考証では、そのことが突き止められているのだろうか。弦楽器の奏者全員が同じ制作年の楽器を使うというのもリアルではなさそうだ。使用楽器の制作年のバラツキは考証上どのような扱いなのだろう。

古楽器演奏と言われるジャンルのコンセプトは「作曲された当時の演奏の忠実な再現」とされている。信仰の自由にも近い。もちろん厳密な歴史的事実と必ずしも一致していなくてもいいようだ。バッハはレプリカ楽器なんぞ使っていなかったに決まっているからだ。つまり「当時の再現」と申しても、現実に再現が試みられるパラメータと、試みられないパラメータが暗黙の内に決められているということだ。業界の自主規格でもあると話は早いのだが。

ブログ「ブラームスの辞書」として当然の疑問は、ブラームスはバッハ作品の演奏に際してどう考えていたのかだ。そもそもブラームスの時代に、現在のような古楽器という概念があったのかというところから始めねばならないのかもしれない。

ブラームスがバッハ作品を編曲するにあたっては、出来るだけ原曲の風合いを保存することを心がけていたことは既に何度か言及した。しからば、編曲ならぬ演奏ではどうだったのかというのは避けて通れぬ疑問だ。バッハの演奏のためにレプリカ楽器をかき集めたのだろうか。

ロマン派的感覚にドップリ浸かった解釈の演奏は固くお断りだったことは、想像に難くないが、バッハの在世当時の演奏の再現にこだわったかというとそうでもない。バッハの真意には敬意を払いながらも、演奏現場の実態や聴衆の耳にも下記の諸点で配慮した形跡がある。

  1. 通奏低音における即興性の扱い
  2. トランペットのハイノートや高速パッセージの扱い
  3. カンタータ演奏への女声の参加
  4. カンタータにおけるオルガンとチェンバロの併用

80年の間一般には忘れ去られていたせいで、演奏の形態の復元には、当時最先端の学者たちでさえ手を焼いていた。バッハへの敬意、演奏現場での経験、バッハ様式への精通、作曲の能力などの諸点について、高い水準でバランスがとれていたブラームスは、理論と実技の刷り合わせに多大な貢献をしたと思われる。

2007年12月16日 (日)

尊重すべき欠落

古典派からロマン派の時代にかけてピアノという楽器の機能が飛躍的に発展したことはよく知られている。音量、音域、耐久性の面で画期的な楽器になった。「旋律」「リズム」「ハーモニー」といういわゆる「音楽の三要素」をたった一人の奏者で概ね不足なく表現することが可能になった。大オーケストラの響きでさえ投影することが出来るようになった。

人々はピアノという楽器の表現力に夢中になり、結果としておびただしい量のピアノ曲が生まれた。その他大編成の楽曲をとりあえずピアノで鳴らしてみて全体を大づかみするという機能も貴重だった。

それは結果としてピアノ以外の楽器が、表現力という面で相対的に地位を下げることにつながった。ピアノによる伴奏があることが当たり前になったことにも現れている。黙ってヴァイオリンソナタといえばピアノに伴奏されることが当たり前なのだ。無伴奏の作品は珍しい例外となって行くのに、ピアノ独奏曲が「無伴奏ピアノのための」と形容されることはない。

だから、ロマン派の作曲家たちはバッハの無伴奏作品を「不完全なもの」と認識した。無伴奏ヴァイオリンのための一連の作品にピアノやオーケストラの伴奏を「私が補ってあげますよ」とばかりに施してしまう例が少なからず現れた。欠落があるのを放っておけないというニュアンスである。ヴァイオリンやチェロ、フルートが無伴奏であることを「補うべき欠落」だと見なしたのだ。

ブラームスは違う。

ブラームスはそれを「尊重すべき欠落」とみなした。ピアノパートの欠落という事実を表面上の問題として退けた。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータから名高いシャコンヌを編曲するにあたり、作曲者バッハが無伴奏であることで感じた制約、あるいは無伴奏であることを選んだ意図をそのまま保存しようと考えた。原曲を今一度聴いてみるがいい。ヴァイオリン1本の作品ながら、そこには「気高い旋律」「多彩なリズム」「豊かな和声」がある。いわゆる音楽の三要素が何一つ欠けていない。図らずも表現力豊かなピアノに転写するにあたりブラームスは「余計なことをしない」ということを肝に銘じていたと思われる。ピアノの表現力の豊かさが、この場合下手をすると邪魔なのだ。今目の前にある機能を敢えて使わないということは、豊かな機能を目一杯使うよりも数段強固な意志が必要だと思う。

だから「左手のための」なのだ。両手が前提のピアノ演奏から意図的に右手の参加を奪うということを通じて無伴奏という形態を選んだバッハと精神的に連帯したのだ。

クララ・シューマンの右腕の負傷は口実に過ぎまい。クララは、見舞いに送られた曲を見て喜んだと思われる。見舞いが嬉しかったのではない。ブラームスが意図したバッハとの連帯に心から賛同したと思われる。2人の交流が素晴らしいのは、こうした点で阿吽であったことだ。

2007年12月15日 (土)

編曲

音楽作品の演奏上の楽器編成を別の形態に変えること。元の作品の風味を損なってはならないことが不可避の前提となろう。

史上最も有名な編曲は、ムソルグスキーによるピアノ作品「展覧会の絵」を管弦楽に編曲したラベルのケースだろう。風味を損なわないどころか、原曲にない魅力まで付け加えることに成功している。この編曲がオリジナルだと思っている人も少なくないのではと思わせるものがある。

メンデルスゾーンの「マタイ受難曲」蘇演以来のバッハ再評価は、ロマン派の時代とピッタリ重なっている。名だたるロマン派の作曲家たちが、バッハ作品を各々の立場から編曲したことはよく知られている。特に編成の薄い器楽作品がそのターゲットになった。

ロマン派特有のオーケストレーションを施してしまった人も多い。華麗といえば聞こえがいいのだが、バッハにはいささか場違いと感じる。バッハ再評価も順風満帆だったわけではないといういことだ。つまり「最近再評価が進むバッハだが、オレならもっとよくしてやれる」と勘違いしてしまった人が少なくないということだ。

ブラームスのバッハに対する姿勢は、ロマン派時代としては少々異質だ。ブラームスもバッハの作品を下敷きにした編曲をしているが、原曲の風合いを損なわないという一点に関しては徹底している。「余計なことをしない」ことに徹している感じだ。クララの見舞いにと編曲された「左手のためのシャコンヌ」をブゾーニ版と比較するのが判り易い。

あるいは編曲とは別次元ながら、カンタータ第34番を指揮する際、原曲で要求されているトランペットの高音や、細かな動きのパッセージを木管に振り替えるという処置を施している。実際に演奏が聴けないのが残念だが、結果としてきらびやかな響きが抑制されたと見るべきだ。少なくとも華麗ではない。交響曲の中間楽章で金管楽器が降り番に回される効果に近い。バッハにつきものの通奏低音は、本来単音と数字だけを見て、奏者が自分のセンスで音を出すのが慣習だが、その手の即興のセンスを奏者に要求することを諦めた形跡がある。カンタータのオルガンパートにはブラームス自身による筆跡で和声が書き込まれ、数字和音からの即興を回避しているケースが見られる。当時のドイツのカンタータ演奏の現場ではこうした配慮が珍重され、高名な研究者からブラームスに楽譜の貸与の申し込みがあったほどだという。

編曲というよりも、実演に際しての現実的な措置という側面が強い。

2007年12月14日 (金)

C.P.E.バッハ

バッハの次男。カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ。人呼んで「ハンブルグのバッハ」。ハンブルグ音楽界の重鎮だった彼は1788年12月14日にハンブルグで亡くなった。ブラームスはおろか、彼の父や恩師のマルクセンでさえ生まれる前の話である。

クラヴィーアの演奏や作曲では名声が高く、生前は父バッハよりも高名だったというが、彼の作品のいくつかが父の作品として伝えられていることもある。

「フルートとチェンバロのためのソナタト短調BWV1020」もそうした作品の一つである。ブラームス存命中に刊行が準備された「旧バッハ全集」は、ブラームスの生前には間に合わず1900年になって全巻完結にこぎつけた。その中でこのソナタはバッハの作品として扱われている。ウイーン楽友協会に保存されているこの作品の筆写譜には、はっきり「C.P.E.バッハ」と書かれているにも関わらずだ。しかも今でこそ楽友協会資料室に収蔵されているが、元の持ち主は、何とブラームスだったのだ。ブラームスの膨大な古楽譜コレクションは、死後楽友協会に寄贈されて今日に至っているが、この楽譜もその一部だろう。

「旧バッハ全集」の編集に尽力した当時屈指のバッハ研究家フィリップ・シュピッタは、ブラームスの友人でもあったというが、ブラームスのコレクションを見せてもらってはいないのだろうか。

偽作問題研究者の間では常識とも言える法則があるという。「同一作品の作曲者が無名作曲家と有名作曲家であることを示す資料が並存する場合、大抵は無名作曲家の作品である」というものだ。C.P.E.バッハは父に比べれば相対的に無名であるから、その時点でこのソナタはバッハの手によるものではないと推定出来そうなものだ。あるいは、当時はその有名度が現在と逆だった証拠と解するべきかもしれない。

ブラームスは、この次男だけでなく長男の作品の出版に際して、校訂を手がけていたから、バッハの息子たちの書法にも精通していたと思う。このフルートソナタがバッハ作と扱われているのを見て、きっと皮肉の一つもぶっていたに違いない。

2007年12月13日 (木)

音の抑揚

ブラームス作品の弦楽器パートにはしばしば長いスラーが現れる。12月11日の記事「スラー」で述べた通りだ。それらは「弓の返し目」の表示ではなく「フレーズ」の表出だと書いた。本日はそれをさらに補足する議論だ。

ブログ「ブラームスの辞書」でしばしば引用言及しているトマス・シューマッカー先生の「ブラームス 性格作品」という本の146ページ目、インテルメッツォイ長調op118-2の冒頭の弾き方を論じた部分に「アウフタクトのスラーは音の抑揚を意味しており、2音で切ることを意味しているのではありません」とある。

この本は、ブラームスのピアノ作品について、一流のピアニストかつ札付きの愛好家の立場からその奏法をディープに論じていて飽きさせない。しばしば大胆な断言が脈絡もなく突然現れるので油断が出来ないのだが、ただいま挙げた場所はその最たるものだ。スラーに対する下記のような一般的認識に「音の抑揚」という新たな側面を開拓しているように思う。

  1. 弓の返し目
  2. 息の継ぎ目
  3. フレーズの切れ目

いったいこの場合の「音の抑揚」とは何だ。これが音の高低ではないことは明らかだ。突き詰めて考えても簡単に結論に達することは難しい。

何の前触れも示さないまま、ものすごい断言をしておきながら、シューマッカー先生は淀むことなく、「だからペダルはこう踏むべきだ」という超各論に入って行かれる。勢いにつられてぼんやりと読んでいると「音の抑揚」というニュアンスがスルリと入って来てしまう。それは何故かというと、あのインテルメッツォの冒頭の2音「Cis-H」と3音目の「D」を切ってはならぬという主張に説得力があるからだ。

それが、「音の抑揚」という概念とどうしてつながるのか私の理解力を超えている。それでも「切ってはならぬ」には説得力がある。「スラーの切れ目」なのに切ってはならぬ場合もあるということだ。

直感としてはYESなのだが、「音の抑揚」をスラーの機能と断ずる自信が持てないでいる。

2007年12月12日 (水)

ルードヴィッヒ2世

バイエルン国王。1845年生まれだ。18歳で即位したが40歳で謎の死を遂げる。芸術を深く愛する君主であったが、城郭建設への異常な傾倒など、その死以外にも謎が多いという。とりわけ作曲家リヒャルト・ワーグナーの支援者として名高い。

1873年12月12日ブラームスは「科学と芸術のためのマクシミリアン勲章」を受けた。何を隠そう、この勲章をブラームスに授けたのがバイエルン国王在位中のルードヴィッヒ2世だった。何かと奇行の多かったこの人、やっぱり変というか凄いというか無神経というか、このときにブラームスとともにこの勲章を受けたのがリヒャルト・ワーグナーだった。授与式は無かったのだろうか?あったらそこで二人が鉢合わせなどということも起きていたかもしれない。現代なら週刊誌が放ってはおくまい。

何しろ当時楽壇を二分した論争の当事者2人に同時に同じ勲章を授けてしまうのだから、今風に申せは「空気が読めない」といった感じだろう。ドイツレクイエムやハンガリア舞曲で、作曲家としての名声が固まりつつあったが、第一交響曲はまだ世に出ていない。慧眼といえば慧眼なのだが意外な感じは否めない。それでもブラームスは翌年に丁寧な礼状をしたためたというが、片方のワーグナーは気分を害したとある。ワーグナーにしてみれば「あんまりだ」という気持ちに違いない。20も年下のブラームスなんぞ「室内楽作曲家」くらいに感じていたから、同列に扱われて面白いハズがない。手厚い保護を受けているパトロンに石を投げられた気分だろう。

ブラームスの位置付けがそれほど上がっていたと見るのは無邪気が過ぎるかもしれない。楽壇の両巨頭に気前よく勲章をばら撒いて度量の大きいところをアピールしたのか、単なる国王の気紛れの可能性もあって悩ましい。

2007年12月11日 (火)

スラー

降参である。「スラー」の定義なんぞ恐ろしくて出来たものではない。

弦楽器の習い始めの頃、「スラーがかかっている間、弓を返してはいけません」と教わる。娘たちはレッスンの最後のソルフェージュで「スラーのかかっている途中で息をしてはいけません」と言われていた。つまりスラーの切れ目は「弓の返し目」であり「息の継ぎ目」であったのだ。「スラー」にそうした一面があることは事実だし、それがスラーの重要な機能であることは間違いない。

ところがブラームスはもっと別の意味のスラーが頻発していると感じる。弦楽器の楽譜に現実離れした長さのスラーがちょくちょく置かれているのだ。たとえば第2交響曲の第1楽章17小節目から26小節目にかけてだ。これを弓を返さずというのは全く現実的ではない。

種明かしを先にするなら、このスラーは「フレーズの切れ目」を表わしている。一つながりのフレーズにスラーがかけられているのだ。「弓の切れ目」と「フレーズの切れ目」は慣れるまでは大変に紛らわしい。「弓の切れ目・返し目」であっても直ちに「フレーズの切れ目」だとは限らない。色分けでもされているといいのだがそうも行かない。結局一つながりの長い長いスラーは、その楽節の意味合いを考慮しながら何度か途中で弓を返すのだ。その返しどころの決定にはセンスが反映する。第1交響曲の第2楽章にもこの手のスラーが頻発する。このあたりの仕切りが甘いと「ブラームス舐めてンじゃないですよ」と叱咤されることになる。

まだある。このところ気になっているピアノ三重奏曲第1番の初版だ。第1楽章冒頭の旋律は、改訂版でも保存されているのだが、楽譜を見て驚いた。初版では第1楽章冒頭の芳醇な旋律にスラーがほとんど用いられていない。チェロにもピアノにも全く現われないのだ。これが第3楽章になると初版改訂版ともにスラーが同じ感覚で付与されているから、第1楽章の特別扱いが際立つ。「ブラームスの辞書」でもスラーはカウント対象にしていないが、何やら暗示的だ。

ひとまず奥が深いとだけ申し上げておく。

2007年12月10日 (月)

中断の事情

第一交響曲の着手から完成までに横たわる21年の歳月について、後世の愛好家たちは様々な議論を積み重ねてきた。

私自身も折りに触れて言及してきた。2005年11月7日の記事「踏ん切りのためのハ短調」がその代表だ。

さて、本年11月15日「カンタータ21番」と同26日の「音楽監督」の中でブラームスが就任した2つのポスト「ジンクアカデミー」と「楽友協会」の音楽監督について述べた。本日は第一交響曲作曲の中断について、そうした観点から再論を試みる。

第一交響曲の作曲は1862年に第一楽章を書き上げたところで、表面上動きを止める。物証の確かなところでその再開は74年だ。つまり1862年から1874年までが表面上の中断期間だ。ここで先に挙げた「カンタータ21番」と「音楽監督」を参照して欲しい。ジンクアカデミー指揮者就任と楽友協会音楽監督辞任のタイミングが1862年から1875年になっている。後者は1874年秋から続くコンサートシーズンの終了を待ってということなので実質1874年になる。

2つの重要なポストを歴任し音楽監督、指揮者としての知見を積み上げたことは確実だ。ドイツレクイエムはこの間の68年に完成しているが、実は「リナルド」op50「アルトラプソディ」op53「運命の歌」op54「勝利の歌」op55などの管弦楽付き合唱曲が集中して完成している。このうちの最後の「勝利の歌」が1871年、つまり楽友協会音楽監督受諾の年だ。

  • 1862年夏 第一交響曲第一楽章完成
  • 1863年5月 ジンクアカデミー指揮者に就任
  • 1864年4月 ジンクアカデミー指揮者辞任
  • 1868年   ドイツレクイエム完成
  • 1871年   勝利の歌完成
  • 1872年   楽友協会音楽監督就任
  • 1875年   楽友協会音楽監督辞任
  • 1876年   第一交響曲完成

第一交響曲中断の12年のうち最初と最後の計4年は重要ポストにあった。その中間の8年に重要な管弦楽付き合唱曲の作曲が集中していることになる。これをジンクアカデミーでの経験が物を言ったと考えて誤ることはあるまい。併せて管弦楽作品を生み出す準備にもなっているのだろう。

2つのポストにおける経験と、大規模合唱作品を生み出したことがもろもろ全て第一交響曲に注ぎ込まれたと解するのが自然である。

ワケのわからぬ21年ではないし、ベートーベンの足音に無闇におびえていたわけでもなさそうだ。逆に、これだけ徹底して声楽と管弦楽の混在した曲を取り扱う経験を積みながら、交響曲には声楽を加えなかったことこそ特筆大書すべきであろう。

2007年12月 9日 (日)

フォルテとフォルテシモ

一昨日の記事「ピアノとピアニシモ」の姉妹記事である。

一昨日「pとppの落差を強調したいからといって、p側をmpのつもりで弾いて欲しくない」という話を、大好きなインテルメッツォイ長調op118-2をネタに述べた。同じことがfとffの間でも起こり得るというのが本日のネタである。

第一交響曲第一楽章を思い出して欲しい。「Un poco sostenuto」と記された序奏だ。第一交響曲を壮大なドラマたらしめている原因の一つがこの序奏の存在だと感じている。ハ調で堂々と立ち上がる冒頭のダイナミクスは「フォルテ」「f」である。「フォルテ」に続く語句には役割によって若干の違いが出ているが、ベースになるダイナミクスは全てのパートで「フォルテ」だ。

30小節目、冒頭の旋律が5度上のト調で回帰する。参加する楽器の役割はほとんど変わらないまま調だけがト調にすりかわっている。この部分ダイナミクスはと見ると、驚くことに「フォルテシモ」になっている。ティンパニがトレモロになることで緊迫感が増強されているが、冒頭に比べて明らかに強く奏されねばならぬというブラームスの並々ならぬ意思が感じられる。序奏の重要性を考えると、こうしたダイナミクスの配置がいい加減だったとは考えにくい。

30小節目のフォルテシモを際立たせるために、冒頭のフォルテを、少し抑え目に「mfで弾け」という指揮者はいるだろうか?30小節目のフォルテシモをしっかり弾かねばならぬのは自明ながら、冒頭のフォルテもまた腰砕けでは困るのだ。ブラームス渾身の第一交響曲の冒頭を「mf」なんぞで始めてはバチが当たると思い込んでいる私は変だろうか。

ここらあたりの用語一個の出し入れを難解と決め付けて、解りやすくしたつもりで「mf」や「mp」での演奏を指示すると、音楽を見誤る。青少年や子供たちに対してさえ、事情を丁寧に説明すればきっと通じると思う。少なくともブラームスにおいては、この手のありふれたダイナミクス記号でさえ、十分な吟味を経て置かれているということを心に留めておきたい。

2007年12月 8日 (土)

示準化石

地質学の用語だ。その化石が産出することが、地層の年代特定の目安になっている化石のことだ。古生代の三葉虫、中生代のアンモナイトなどが有名だ。

「ブラームスの辞書」執筆準備で、ブラダス入力をしていて「mp」の出現に一定の傾向を感じていた。「mp」が第一交響曲以後に集中して現れる現象だ。音楽用語「mp」はブラームス創作の中期以降の「示準化石」だと感じたのだ。ところが、厄介なことにブラームス初の室内楽であるピアノ三重奏曲第1番の第4楽章64小節目のピアノの左手に「mp」が出現してしまうのだ。

いわゆる第2主題といわれる部分だ。旋律は「f」が奉られたピアノの右手に任されている。左手はチェロとともに特色ある後打ちの伴奏を形成する。つまりピアニストという一個の人格に別のダイナミクスを要求しているのだ。右手に「f」左手に「mp」だ。さらに伴奏の相棒チェロには「pesante」が加えられている。この「pesante」も第一交響曲付近に濃密に分布する用語だから、作品8というこの時期に出現するのは、場違いな印象である。

さあ困ったと思って、初版の楽譜をめくっていて驚いた。初版にはこの第2主題がごっそり抜けているではないか。つまり「mp」や「pesante」を含むこの第2主題は、1890年の改訂の際に挿入されたものだったのだ。中後期を指し示す「示準化石」が含まれる訳である。逆に申せばこのことで「mp」や「pesante」の示準化石としての有効性が追認出来たことになる。

示準化石「mp」をダイナミクスの目安程度の軽い気持ちで使われては困るのだ。

2007年12月 7日 (金)

ピアノとピアニシモ

もちろん「p」と「pp」のことだ。弱奏と最弱奏とでもいうのだと思う。ブラームスは当然これらが弾き分けられることを前提に楽譜上に配置している。

典型的な場所の一つが、インテルメッツォイ長調op118-2に存在する。Andante teneramenteと記された冒頭には「p」が置かれている。8小節後同じ旋律が確保されているところは「pp」にすり替わっている。冒頭との落差を聴かせる音楽になっている。実はこのインテルメッツォに挑もうという場合、この「pp」の鳴らし方が一つのヤマ場と言ってよい。聴き手を引き込むような深々とした「pp」で弾かれねばならない。

ブログ「ブラームスの辞書」上で再三引用しているトマス・シューマッカー先生の著書「ブラームス 性格作品」でもこの場所についての言及がある。実演奏上の注意の中でこの「pp」の重要性が仄めかされる。この「pp」を際立たせるために冒頭を強めに、「mp」で弾くべきとおっしゃっている。ダイナミクスの落差が大事という意味だろう。

シューマッカー先生にお言葉を返すようだが、賛成しかねる。ここの「pp」の聴かせ方が大切という点では全く同感で、冒頭の「p」を弱く弾き過ぎると困るという意図が理解出来なくもないが、その例えに用いられた「mp」は、ブラームス作品中において特異な位置づけにある言葉だ。「mpのつもりで弾け」という提案は、思慮に欠ける。「p」はあくまでも「p」のつもりで弾かれるべきだと思う。その後に「pp」を「pp」のつもりで弾くだけの事だ。「p」や「pp」を普段漫然と弾いているピアニストにとっては「mp」のつもりで弾かねばならないのかもしれないが、そうした怠慢のツケを「mp」に寄せてはなるまい。

言い換えると単に「pを弱過ぎるな」と言いたいがために「mp」をツールに使うなということだ。レッスンにおいても「mp」がこの手の使い方をされることは珍しくない。「ff」を際だたせるために、直前の「f」を「mf」でと要求するのと理屈は同じなのだが、ブラームスの「mp」の特異性が軽視されていると感じる。とりわけ肝に銘じておきたいのは「ブラームスはmpと書いていない」ということだ。「mp」として弾かれたいなら「mp」と書くはずだ。演奏の都合を優先した実務上の処置と混同して欲しくないものである。「pを弱過ぎるな」と言えば事足りる。「mpのつもりで」は余計だ。

Andante teneramente の冒頭はやっぱり「p」である。ブラームスが求めているのは「p」と「pp」の区別であって「pp」と「mp」の区別ではない。

世間様はどうあれ「僕の大事なmpを安易に使わないで」という感じである。ちょっとむきになった。

2007年12月 6日 (木)

平均律のしわ寄せ

本年12月1日の記事「平均律クラヴィーア曲集」と12月2日の記事「調性選択の三角形」と密接な関係がある。

もう一度第1交響曲の各楽章の調性を順に列挙する。

  • 第1楽章 ハ短調
  • 第2楽章 ホ長調
  • 第3楽章 変イ長調
  • 第4楽章 ハ短調

12月2日の記事「調性選択の三角形」はこの調の並びが4楽章制のソナタとしては異例であると申し上げた。12月1日の記事「平均律クラヴィーア曲集」の中で、長3度堆積の音列の例示として「C→E→Gis→His」を挙げ、両端の「C」と「His」が厳密には協和しないと述べた。この両者を無理矢理協和すると見なすところから平均律を説明しようと試みた。まさにその説明のために用いた音列「C→E→Gis→His」がそのまま第一交響曲の各楽章の調配置と一致しているのだ。

最後の「His」を「C」と見なすというしわの寄せ方こそが平均率の肝であるという文脈だった。楽章を追う毎に長3度ずつせり上がって、たどり着いた第4楽章が「嬰ロ短調」ではなくてハ短調になっている事実と呼応する。

第一交響曲側の肝は第3楽章にある。ここが嬰ト長調つまりGisdurではなくて、異名同音の変イ長調になっていることがポイントだ。この読み替えにより第3楽章から第4楽章への流れはスムーズになった。同時にこの読替は、シャープ4個のホ長調とフラット4個の変イ長調が中間に並ぶというブラームス好みのシンメトリーをも実現している。

GisとAsという異名同音の読替によりEdurホ長調の第2楽章とAsdur変イ長調の第3楽章に誤差が集約されることになる。独奏ヴァイオリンが第2楽章の最後でGisを延々と引き延ばすのはその誤差の心理的な埋め合わせに聴こえる。第2楽章でこそホ長調の第3音に相当するGisが、次なる楽章では変イ長調の主音へと変貌する。切れ切れのオーケストラを従えて保続するコンサートマスターのGis音がそれを象徴していると見た。オケ全員どころか、聴衆までもが心の中でGisをAsにと読み替えねばなるまい。

今年1月9日の記事「夢の通い路」もあわせて参照願いたい。

2007年12月 5日 (水)

微妙な空気

記事の堆積が1000に近づいてきたというのに、モーツアルトを積極的に論じた記事がほとんど見あたらない。モーツアルトのCDはブラームス、バッハに次ぐ数を所有しているし、嫌いという訳ではないのだが、どうもモーツアルトには脳味噌が敏感に反応しない。

記念イヤーは過ぎてもモーツアルトの人気は凄い。さらにブラームス本人もモーツアルトを畏怖していたと思う。

私の周辺の愛好家を見渡してもあからさまな「モーツアルト嫌い」はなかなか見あたらないのが現状だ。モーツアルトとブラームス。私が考える最大の違いは以下の通りだ。

好きと言うと理由を訊かれるのがブラームス。

嫌いと言うと理由を訊かれるのがモーツアルト。

今日はモーツアルトの命日である。

2007年12月 4日 (火)

熟田津

これで「にきたつ」と読む。万葉集中1、2を争う名所だが、現在のどこにあたるか不明な点も多いという。おそらく今の愛媛県松山市付近というのが学会の定説らしい。この地名を有名にしているのは、天武天皇の妃である額田王の御製だ。

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

熟田津で、船出しようと月を待っていたら、潮の具合も良くなった。いざしゅっぱーつ。

くらいの意味だ。中学生の頃初めて習った万葉集の歌だった。歌の意味を教えられて少し腑に落ちなかった。一言で言うと「月を待ってたんだろ」である。「月を待つ」と言いながら、「潮がかなった」といって勇んで出港とはこれいかにと感じた。10代の頃は疑問で仕方がなかったが今は何となく解る。

月の運行と潮の満ち干には密接な関係があることを、歌の詠み手も聴き手も共通に認識していることがポイントだ。

熟田津は待ちの港でもあるのだ。待ったのは照明としての月あるいは後押しとしての潮だ。流れの速い瀬戸内海だから、逆流にさからうのは避けるが賢明だ。

  1. 月を待つ
  2. 潮を待つ
  3. 月が出た
  4. 潮が良くなった

額田王は月と潮を待ったのだ。そして月も潮もOKになった。けれども上記1から4までを律儀に歌に盛り込んでいたら57577に収まらない。だから1番4番だけを抽出して歌ったのだ。月と潮の密接な関係を皆知っているから、2番「潮も待つ」3番「月はOK」は歌わなくても解るのだ。いやむしろそのキッパリとした省略ぶりこそが、描写の肝になってはいまいか。だからこの歌は「潮の具合が良くなったから、月は今いちだけど思い切って出港するぞ」という見切り発車の歌ではない。「月も潮もOK」と解するべきなのだ。歌に横溢する満を持したような響きが何よりの証拠だ。結句が「潮はかなひぬ」でも「潮がかなひぬ」でもなく「潮かなひぬ」になっていることもこのことを雄弁に物語っている。このあたりの省略全てを背負った「も」なのだ。

描写の贅肉を落とし、表現を切り詰めることが芸術作品の価値を高めることは、ジャンル、洋の東西を問わぬ真理だと信じる。

私は去る2006年10月19日の記事「作品8初版調査報告」でブラームスのピアノ三重奏曲第一番が作曲の35年後に本人の手により改訂されたことを話題にした。その両者をブラダスに取り込んで比較対照したのだ。改訂の真意に迫りたいと願ってのことだった。

そして最近またその改訂について考えさせられることがあった。あれこれを思い巡らせているうちに熟田津の歌にたどりついた。

熟田津の歌にたとえれば、1から4までを律儀に詰め込んだのがピアノ三重奏曲第1番の初版だ。35年の創作経験を積み「月と潮」の関連も知るに及んで、表現の無駄な重複に気付いたというのが真相ではないだろうか。ブラームスの行った改訂は上記の2と3を削る行為に相当するのであるまいか。

だから1890年ピアノ三重奏曲第1番に施された改訂では、規模の縮小が大きな特色になっている。音楽表現上の「も」を発見したのだと思う。

音楽学上の詳細、作曲技法上のあれこれを論じる知識は持ち合わせていないが、万葉の昔、額田王の脳内で起きたことがブラームスにも起きたと確信している。

2007年12月 3日 (月)

ゴールデンコンビ

クララ・シューマンとヨハネス・ブラームスはしばしばピアノでアンサンブルを楽しんだ。公の演奏会ばかりではなく、夏の避暑地の別荘で仲間が集まってはサロンで室内楽を楽しんだ。ハンガリア舞曲、シューマンの主題による変奏曲、ワルツなどの連弾からop56やop34のような2台のピアノ作品に及ぶ。2人ともピアノの名手だったからそりゃあ凄い演奏になったのだと思う。2人の演奏と言えばピアノ共演を想像するのが自然だ。

もう一つだけわずかな可能性が残されている。

ブラームス指揮のクララ独奏によるピアノ協奏曲だ。この組み合わせによるブラームスのピアノ協奏曲の演奏の記録を調べてみた。たった1度だけ1861年12月3日に実現している。演奏されたのは第1番ニ短調だ。ブラームス28歳、クララ42歳だ。2番はとなると状況は厳しい。ピアノ協奏曲第2番の発表は1881年である。ブラームス48歳、クララ62歳だ。48歳のブラームスによる指揮は想像できるが、クララの独奏があり得るのか疑問である。現に演奏の記録が見当らない。この2人の演奏は、当時としてもある種の事件だろうから、実現していれば記録されるに決まっている。記録が無いのは実現していないせいだろう。

虎の子の1番の演奏が聴いてみたかった。

2007年12月 2日 (日)

調性選択の三角形

第1交響曲の各楽章の調性を思い浮かべて欲しい。

  • 第1楽章 ハ短調
  • 第2楽章 ホ長調 前楽章より半音4個上。
  • 第3楽章 変イ長調 前楽章より半音4個上。
  • 第4楽章 ハ短調 前楽章より半音4個上。

一般に解説書ではハ調を中心に上下3度の調で構成されているという対称性に言及されることが多いが、本日は角度を少し変えてみる。

ハ調を基準に「長3度」ずつ上の調が順次選ばれて元のハ短調に戻っているのだ。こういう例はブラームスの4楽章の作品において他に例が無い。あたかも一辺が半音4個で構成された正三角形のようだ。ブラームスで正三角形はこの1曲だけである。

ちなみに第2交響曲は直角三角形だ。

  • 第1楽章 ニ長調
  • 第2楽章 ロ長調 前楽章から半音3個下
  • 第3楽章 ト長調 前楽章から半音4個下
  • 第4楽章 ニ長調 前楽章から半音5個下

各辺の比率が3:4:5であるから、ピタゴラスの定理によればこれが直角三角形だということが判る。第2交響曲以外で直角三角形になるのは以下の通り6曲あるのだが、第1交響曲のような正三角形は他に存在しない。

  1. 弦楽六重奏第1番
  2. ピアノ四重奏曲第1番
  3. ピアノ四重奏曲第3番
  4. ピアノ五重奏曲
  5. 弦楽四重奏曲第1番
  6. 弦楽四重奏曲第3番

直角三角形のパターンは「3度関係2回と4度(5度)関係1回」と言い換えることが出来る。これを楽章の調性選択のパターンとして見るとき、ブラームスお得意の「3度」を長短各1回ずつに「4度または5度」という古典的な選択を各1回ずつブレンドしたと見ることが可能だ。何かとバランスのとれたこのパターン、実は第2交響曲を最後にパッタリと姿を消す。

代わって台頭するのが「直線型」である。中間楽章に第1楽章と同じ調もしくは同主調の採用が目立って来る。あるいは第2楽章と第3楽章で同じ主音が採用される。つまり上記のお遊びのルールに従った三角形が作れないのだ。いわゆる「三角形不成立型」である。さらに仔細に見ると面白いことが判る。ブラームスにおいてソナタの中間楽章に来る舞曲楽章は、けして第1楽章と同じ調性が現われないのだ。古典派のしきたりとの大きな違いである。古典派の慣習では、舞曲楽章は主調で書かれるのが普通だから、古典派のソナタは「三角形不成立型」なのだ。以下に挙げるブラームスの「三角形不成立型」は古典派のそれとは、舞曲に主調が現われないという一点において、一線を画している。

  1. ピアノ協奏曲第2番op83(Bdur-Dmoll-Bdur-Bdur)
  2. ピアノ三重奏曲第2番op87(Cdur-Amoll-Cmoll-Cdur)
  3. 交響曲第3番op90(Fdur-CdurCmoll-Fmoll)
  4. 交響曲第4番op98(Emoll-Edur-Cdur-Emoll)
  5. ピアノ三重奏曲第3番op101(Cmoll-Fmoll-Cdur-Cmoll)
  6. ヴァイオリンソナタ第3番op108(Dmoll-Ddur-Fismoll-Dmoll)
  7. 弦楽五重奏曲第2番op111(Gdur-Dmoll-Gmoll-Gdur)
  8. クラリネット三重奏曲op114(Amoll-Ddur-Adur-Amoll)
  9. クラリネット五重奏曲op115(Hmoll-Hdur-Ddur-Hmoll)
  10. クラリネットソナタ第1番op120-1(Fmoll-AsdurAsdur-Fdur)
  • 第2交響曲を境に、四楽章形式のソナタにおける調性選択のロジックが変わった可能性を考えたい。
  • 「三角形不成立型」は初期にも現れるから、初期から中期にかけては「三角形成立型」との混在だ。
  • 古典派の伝統もこの「三角形不成立型」だが、舞曲楽章が主調でないという点で、ブラームスの「三角形不成立型」とは区別が必要だ。

鹿島アントラーズの優勝を喜ぶガチンコネタである。そうでもしないと今日ばかりは鹿島ネタが爆発しかねない。

2007年12月 1日 (土)

平均律クラヴィーア曲集

言わずと知れたバッハの金字塔。24曲ずつからなる2巻で構成されている。BWVで申せば846から893までの48曲だ。ピアノの「旧約聖書」という比喩はことに名高い。

現在ではピアノの調律法として当たり前にもなってしまっている平均律だが、バッハの当時は、その可否を巡る議論が盛んだった。「C」を基準に5度ずつ上に音を辿って行く。「C→G→D→」という具合だ。この操作を12回繰り返すと「His」に届く。「Hのシャープ」だから実音「C」だと納得してはいけない。出発点の「C」から見て7オクターブ上の「C」にはならないのだ。あるいは3度の堆積で考える。「C→E→Gis→His」という具合に3度跳躍を3回繰り返してたどり着く「His」はこれまた「C」そのものではない。

つまりそれらの異名同音のズレをどう吸収するかについて数種類の調律法があり、平均律はそのうちの一つだったという訳だ。「C→E→Gis→His」という3度堆積で言えば、両端の「C」と「His」を完全なオクターブだと見なすことによって生じる誤差を、オクターブ内の全ての音程に広く薄く転嫁することと言い換えうる。

複数の調律法間の論争の中にあって、バッハ自身は平均律を支持を打ち出した。「平均律ならば、どんな調でも同じように作曲出来るンですよ。ほれこの通り」とばかりに取り出して見せたのが「平均律クラヴィーア曲集」なのである。

ここから延々と曲目解説に走らないのがブログ「ブラームスの辞書」である。

ブラームスからピアノを教えられた人々がしばしば、バッハの平均律クラヴィーア曲集を教材に使ったと証言している。あるいは、レッスンの合間に時間が空くと気分によってはブラームスがピアノを演奏してくれたという証言もある。こういう場合、自作を弾くことは滅多に無かったとも言われている。レッスンのちょっとした合間に平均律クラヴィーア曲集から1曲2曲を見繕ってサラリと弾くとは、風流の極致である。超絶テクニックてんこ盛りの作品を選ばぬという余裕のかまし方が素敵だ。そして何よりも多くの場合暗譜であったという。

ブラームスは「平均律クラヴィーア曲集」全48曲を暗譜していたらしい。きっと遠いハンブルグ時代、マルクセン先生のレッスンの頃、寝ても覚めてもバッハだったのだろう。

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