嬉しい誤算
ブラームスの訪問を受けたロベルト・シューマンは自らが創刊した音楽雑誌に、ブラームスを紹介する記事を投稿する。「Neue Bahn」(新しい道)と題されたその記事は、ブラームスを発見した喜びに満ちている。
ブラームスはその時点での自作をシューマンに聴かせたに決まっているが、我々後世の愛好家から見れば、全作品のほんの一部、つまり初期と位置づけられる創作期に属する数点と、破棄されて今は失われた作品だけだったはずだ。シューマンはたったそれだけを聴き、あるいは楽譜を見てブラームスを「天才だ」と断じて、栄光を予言する。
月日を経てドイツレクイエムの初演に立ち会ったクララ・シューマンは「ロベルトの予言通りね」と涙にくれる。創作面でのブラームスはロベルトの予言に恥じない成果を残したと思う。クララ・シューマンの折り紙付きである。
もう一つ「新しい道」では言及されていないことがある。それがバッハだ。
シューマンはバッハに心酔していた。「BACH」を音名とみなした作品も残している。ブラームスを世に紹介した著述の分野でも頻繁にバッハを取り上げている。メンデルスゾーンの「マタイ受難曲」蘇演を契機に始まったバッハルネサンスは、バッハ作品の演奏機会の増大につながりはしたものの、試行錯誤の域を出ずにいた。バッハ作品を不完全と見なしてあられもない加筆を施した演奏や、ロマン主義に首まで浸かった解釈に基づく演奏が巷に溢れた。シューマンはそれらを批判する一方で、全ての演奏の規範となる基本的な楽譜の必要性を説いた。
そうした考えに賛同する人々が集まって、バッハ没後100年の節目にバッハ協会が設立された。シューマンはその設立発起人たる位置づけだ。
そしてブラームスはまさにバッハの作品の解釈、演奏の両面で、シューマンの理想を実現する存在になっていった。バッハ作品は出来る限り原点に近い形で演奏されるべきだという現代にまで続く考え方を頑なに貫いたのがブラームスだった。
「新しい道」で作曲家ブラームスの前途を予言した時点で、シューマンの脳裏に、バッハ研究家ブラームスの具体像が浮かんでいたかどうか定かではないが、「新しい道」の言及せぬ部分でブラームスはシューマンの理想を実現した。シューマンにとっては思わぬ余録だろう。
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