中断の事情
第一交響曲の着手から完成までに横たわる21年の歳月について、後世の愛好家たちは様々な議論を積み重ねてきた。
私自身も折りに触れて言及してきた。2005年11月7日の記事「踏ん切りのためのハ短調」がその代表だ。
さて、本年11月15日「カンタータ21番」と同26日の「音楽監督」の中でブラームスが就任した2つのポスト「ジンクアカデミー」と「楽友協会」の音楽監督について述べた。本日は第一交響曲作曲の中断について、そうした観点から再論を試みる。
第一交響曲の作曲は1862年に第一楽章を書き上げたところで、表面上動きを止める。物証の確かなところでその再開は74年だ。つまり1862年から1874年までが表面上の中断期間だ。ここで先に挙げた「カンタータ21番」と「音楽監督」を参照して欲しい。ジンクアカデミー指揮者就任と楽友協会音楽監督辞任のタイミングが1862年から1875年になっている。後者は1874年秋から続くコンサートシーズンの終了を待ってということなので実質1874年になる。
2つの重要なポストを歴任し音楽監督、指揮者としての知見を積み上げたことは確実だ。ドイツレクイエムはこの間の68年に完成しているが、実は「リナルド」op50「アルトラプソディ」op53「運命の歌」op54「勝利の歌」op55などの管弦楽付き合唱曲が集中して完成している。このうちの最後の「勝利の歌」が1871年、つまり楽友協会音楽監督受諾の年だ。
- 1862年夏 第一交響曲第一楽章完成
- 1863年5月 ジンクアカデミー指揮者に就任
- 1864年4月 ジンクアカデミー指揮者辞任
- 1868年 ドイツレクイエム完成
- 1871年 勝利の歌完成
- 1872年 楽友協会音楽監督就任
- 1875年 楽友協会音楽監督辞任
- 1876年 第一交響曲完成
第一交響曲中断の12年のうち最初と最後の計4年は重要ポストにあった。その中間の8年に重要な管弦楽付き合唱曲の作曲が集中していることになる。これをジンクアカデミーでの経験が物を言ったと考えて誤ることはあるまい。併せて管弦楽作品を生み出す準備にもなっているのだろう。
2つのポストにおける経験と、大規模合唱作品を生み出したことがもろもろ全て第一交響曲に注ぎ込まれたと解するのが自然である。
ワケのわからぬ21年ではないし、ベートーベンの足音に無闇におびえていたわけでもなさそうだ。逆に、これだけ徹底して声楽と管弦楽の混在した曲を取り扱う経験を積みながら、交響曲には声楽を加えなかったことこそ特筆大書すべきであろう。
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