尊重すべき欠落
古典派からロマン派の時代にかけてピアノという楽器の機能が飛躍的に発展したことはよく知られている。音量、音域、耐久性の面で画期的な楽器になった。「旋律」「リズム」「ハーモニー」といういわゆる「音楽の三要素」をたった一人の奏者で概ね不足なく表現することが可能になった。大オーケストラの響きでさえ投影することが出来るようになった。
人々はピアノという楽器の表現力に夢中になり、結果としておびただしい量のピアノ曲が生まれた。その他大編成の楽曲をとりあえずピアノで鳴らしてみて全体を大づかみするという機能も貴重だった。
それは結果としてピアノ以外の楽器が、表現力という面で相対的に地位を下げることにつながった。ピアノによる伴奏があることが当たり前になったことにも現れている。黙ってヴァイオリンソナタといえばピアノに伴奏されることが当たり前なのだ。無伴奏の作品は珍しい例外となって行くのに、ピアノ独奏曲が「無伴奏ピアノのための」と形容されることはない。
だから、ロマン派の作曲家たちはバッハの無伴奏作品を「不完全なもの」と認識した。無伴奏ヴァイオリンのための一連の作品にピアノやオーケストラの伴奏を「私が補ってあげますよ」とばかりに施してしまう例が少なからず現れた。欠落があるのを放っておけないというニュアンスである。ヴァイオリンやチェロ、フルートが無伴奏であることを「補うべき欠落」だと見なしたのだ。
ブラームスは違う。
ブラームスはそれを「尊重すべき欠落」とみなした。ピアノパートの欠落という事実を表面上の問題として退けた。無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータから名高いシャコンヌを編曲するにあたり、作曲者バッハが無伴奏であることで感じた制約、あるいは無伴奏であることを選んだ意図をそのまま保存しようと考えた。原曲を今一度聴いてみるがいい。ヴァイオリン1本の作品ながら、そこには「気高い旋律」「多彩なリズム」「豊かな和声」がある。いわゆる音楽の三要素が何一つ欠けていない。図らずも表現力豊かなピアノに転写するにあたりブラームスは「余計なことをしない」ということを肝に銘じていたと思われる。ピアノの表現力の豊かさが、この場合下手をすると邪魔なのだ。今目の前にある機能を敢えて使わないということは、豊かな機能を目一杯使うよりも数段強固な意志が必要だと思う。
だから「左手のための」なのだ。両手が前提のピアノ演奏から意図的に右手の参加を奪うということを通じて無伴奏という形態を選んだバッハと精神的に連帯したのだ。
クララ・シューマンの右腕の負傷は口実に過ぎまい。クララは、見舞いに送られた曲を見て喜んだと思われる。見舞いが嬉しかったのではない。ブラームスが意図したバッハとの連帯に心から賛同したと思われる。2人の交流が素晴らしいのは、こうした点で阿吽であったことだ。
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