類句
短歌や俳句において意味や調子が類似した句。自信の作に既に類句があることが判ると何やらがっかりである。鎌倉鶴ヶ丘八幡宮で、公暁に襲われて落命した鎌倉の右大臣・源実朝の辞世の歌が残っている。
出で去なば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘れるな(いでいなばぬしなきやどとなりぬとものきばのうめよはるをわするな)
自らの死を予期していたとも思えないが、事実上最後の歌とされている。一方天神様で名高い菅原道真公にも梅を詠んだ有名な歌がある。
東風吹かば匂い起こせよ梅の花主無しとて春な忘れそ(こちふかばにおいおこせようめのはなあるじなしとてはるなわすれそ)
実朝の歌と比べて欲しい。以下の諸点で両者は共通している。
- 庭の梅への呼びかけ
- 作者はその場を去ろうとしている
- 「仮に主が居なくなったとしても」という仮定を含んでいる
- 「春を忘れるな」が描写の急所である
つまりこの両者は「類句」ということになる。もちろん時代は道真の方が古い。これを盗用、亜流と蔑む者はいない。いつの頃からか「梅に留守を託す」という形式が確立されていたのではあるまいか。実朝が道真を意識していたこと疑い得まい。
これとは別に和歌の世界では古来「本歌取り」という技法が存在した。過去の作品を土台に、現在の叙景や叙情を詠むという手法だ。土台になる方の歌を読者が既に知っているということを前提に詠むのだ。元になった歌の存在を堂々と明示することが肝要だ。土台となった歌のことを「本歌」と言った。本歌が有名だった場合には、説明の必要は無かったと思われる。むしろ説明は野暮の部類だろう。土台となる歌がどれだけ自分流に消化されているかを競う意図がある。極端に言うと子供たちがよくやる「替え歌」のノリに近い。「替え歌」と言っても言葉尻を捉えただけにとどまってはならない。単なる「替え歌」との最大の違いは、「元になった歌への尊敬と敬意」である。
明らかに過去の歌を踏まえつつ、過去の歌への尊敬をベースに、現在の心情を盛り込み、時には必然さえ感じさせるという代物だ。
上記の定義の中の「歌」のところを「音楽」に置き換えてみるといい。ブラームスは西洋音楽の世界で「本歌取り」を実現させていると思われる。ロマン派の諸兄はもちろん、ベートーヴェンさえ貫いてバッハに至る歴史を感じさせつつ、ロマン的な心情をキッチリと盛り込んで余すところがない。時にはバッハさえ貫く歴史的な視点と感情のバランスが絶妙である。聴き手に「ああ、古典を踏まえているンだな」と思わせる一方で、単なる懐古趣味にとどまらないところがブラームスの真骨頂である。「古典への尊敬」に至っては筋金入りでさえある。
1219年1月27日源実朝没。新暦ならちょうど今頃だ。
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