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2008年3月31日 (月)

ルネサンスの予感

昨年1年が私のバッハルネサンスだったことは既に述べた。おかげで今やバッハラブである。これが元来のブラームスラブと矛盾しないことにも言及した。

次なるルネサンスは誰だろうか考えてみた。以下ありそうな順に列挙する。

  1. シューベルト 忘れられた歌曲の再興にブラームスの功績が大きい。最有力候補。
  2. メンデルスゾーン バッハへの傾倒は魅力。対抗馬は彼かも。
  3. クララ・シューマン 立派な作曲家だ。考慮されて良い。
  4. ヴィヴァルディ バッハが熱心に研究したことは明らかだ。注意が必要。
  5. ヘンデル
  6. ドヴォルザーク ブラームスの助力により世に出た。好感が持てる。
  7. ハイドン
  8. シューマン ブラームスの恩人であることは間違いないが、マイルネサンスの対象になるかどうかについては優先順位はやや下がる。
  9. ベートーヴェン いつか来た道を辿るのも悪くないが、今更感も漂う。
  10. モーツアルト

こんなところである。

いつ始まるとも判らぬし、一生始まらないかもしれない。蹴躓いた拍子に始まることもある。

2008年3月30日 (日)

曖昧と確信の狭間で

ブラームス節の根幹が「曖昧さ」にあることは、ブログ「ブラームスの辞書」で何度も述べてきた。その曖昧さは多岐にわたる。「調」「形式」「リズム」「旋律」の諸点における「曖昧さ」こそがブラームスの魅力になっていることは、下記の通り折に触れて言及してきた。

忘れてはならないことが一つある。ブラームス節の根幹を形成するとは言っても「曖昧さ」だけで作品が出来上がっている訳ではない。「曖昧さ」はいつも「確信の深さ」とセットになっている。ブラームスにおける「曖昧さ」は「確信の深さ」を写すツールなのだ。和声においてしばしば「衝突と解決」と言い表されている二面性に似ている。そうした対比の鮮やかさこそがブラームスの意図なのではないかと思っている。

中学高校とベートーヴェンにのめり込んでいた私の脳味噌にとりついて、わずか半年で主役の座についたブラームスだが、今にして思うと本日話題の二面性にすっかり打ちのめされたと説明し得る。表裏一体の関係にある「曖昧さと確信」の妙が決め手だ。誤解を恐れずに断言すれば、そこにベートーヴェンに無い物を見たのだ。19歳の私の脳味噌がベートーヴェンの音楽は「確信」だけで出来ていると直感したと言い換えても良い。中学高校の時代はそれでよかった。学生オケ2年目を迎えた19歳の私が急激にブラームスに傾いた理由はおそらくそれだ。

いくつか味わったささやかな挫折もきっと関係しているだろう。音楽面そして恋。いけいけだけでは収まらない「心の変化」が起きたのだ。変化によって出来た隙間にブラームスの音楽が過不足無く収まったのだ。

2008年3月29日 (土)

チェロ版FAEソナタ

ピアノとヴァイオリンのためのスケルツォハ短調。通称FAEソナタのヴィオラ版は既に手に入れたことは2006年12月10日の記事「意外な当たり」で述べた。

今度はそのチェロ版を見つけてしまった。「所詮編曲物だからねぇ」と憎まれ口をききながらホクホク顔で即買いしてしまった。

プラハ生まれのチェコ人、ミカエルなんとかという男性チェリストが弾いている。曲が好きなこともあって、結局何で弾かれてもそこそこ感動してしまう。CD批評家としては失格だ。

こうなるとコントラバス版でもありはしないかと心配になる。

2008年3月28日 (金)

4手用

ピアノの演奏形態に関する言い回しだ。1台のピアノを2人のピアニストが演奏するための楽譜には「4手用」と書かれる。「2台のピアノのための」というのとは区別される。つまりは連弾である。猫の手や魔女の手を借りたいという意味ではない。

ブラームスにはこの「4手用」という形態を愛していた形跡がある。ワルツ、ハンガリア舞曲など豊かな実例がある。目的はクララといっしょに弾くためではないかなどという野暮な勘ぐりをしたくなる。

もちろんブラームスは「2手用」つまり普通のピアノ独奏曲もたくさん書いている。作品番号の無い作品をあたると左手のみの「1手用」まで存在する。「1手用」「2手用」「4手用」があるのだから、もしかしてと考えていて面白い話をみつけた。

ブラームスのピアノ曲は彼の中低音域偏愛を反映してか、ピアノの左手が酷使される傾向にある。そのことを指して「ブラームスのピアノ作品は左手が2本要る」と評される。言い得て妙だと感心していたが、つまりこれは「3手用」だ。

忙しさのあまり演奏者が譜めくり出来ない連弾曲の場合、譜めくりをする手をいれて「5手用」などと洒落てみたい。

「6手用」や「7手用」を発見したらまたブログで報告するが、これとは別におバカな疑問がある。「4手用」作品では、ペダルはどうするのだろう。3つあるピアノのペダルを踏むのは4本の足の中でどのように分担されているのだろうか。ペダルを必要とする側のパートの奏者が踏むのが自然だと思う。楽譜上でのペダルに関する指示がそのように配置されていると考えたい。ところが遊び半分で楽譜を当たって驚いた。ワルツの4手用の楽譜には1箇所もペダルの指示がない。同じワルツでも独奏用の楽譜にはペダルの指示がある。

ワルツは4手用が原曲だから、それを独奏用に編曲するにあたって、ペダルの指示を加えたのだろうか。我が家の楽譜がいい加減で、元々あったペダルの指示をカットした可能性さえあって悩ましい。

2008年3月27日 (木)

バッハさんこんにちは

本日のこの記事でブログ「ブラームスの辞書」開設以来の記事が1080になった。一昨年2006年12月29日の記事「モーツアルトに並ぶ」で予告したとおり、無事バッハに追いついた。

バッハの膨大な数の作品を整理するBWV番号の最大値に並んだということになる。BWV1080を背負うのは「フーガの技法」である。ブラームスのチェロソナタ第一番の中のいくつかの主題がフーガの技法に関連があるとされている。最近研究の成果が反映して1080を超える番号の作品も知られるようになって来ているが、ひとまず区切りである。

明日には、駄文の堆積が数の上ではひとまず、バッハを抜き去ることになる。何だか太陽系を離れて未知の世界に旅立つような感じである。

2008年3月26日 (水)

トリプル皆勤賞

子供たち全員の3学期が昨日までに終わった。

長男は3年皆勤で乗り切った中学校生活に次いで高校でも1年目に皆勤を達成した。長女もまた小学校5年から続く皆勤の記録を今年も継続した。2人とも通算4年連続の皆勤賞である。

昨年お兄ちゃんお姉ちゃんが皆勤賞でう~んと誉められるのを見て悔しい思いをした次女は、見事にリベンジを果たし小学校最後の1年を皆勤で乗り切った。

ということはつまり3人の子供たち全員が今年1年学校を休まなかったということになる。これは我が家初の快挙だ。昨年度までの3年間、次女の欠席がこの記録の達成を阻んできた。もちろんずる休みではないのだが、悔しい思いをしてきたハズだ。だから次女にとっては4度目の正直だ。

昨今教育現場には昔には無かった課題も多いと聞くが、我が家の方針は「まず休まずに学校に行くこと」だ。これは私が小学生の頃から不変である。成績の善し悪しにも増して重視している。

ブラームスが父親の思い出を語った中に、興味深い証言がある。音楽之社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻116ページだ。「一度だけ学校をさぼって遊んだことがある。そのときにオヤジにひどく叩かれた」というブラームスの回想をジョージ・ヘンシェルが証言している。ブラームスはこの件を「人生でもっとも恥ずべき日だった」と評している。ブラームス家の教育方針とまで申しては大げさだが、きっと我が家の考えに通ずるものがあったのだろう。

2008年3月25日 (火)

poco a poco in tempo

難解を極める「in tempo」と「a tempo」の区別問題のヒントになるかもしれないネタである。

この両者とも書かれたその場、その瞬間からテンポリセット機能を発揮するという点において相違はない。それに対して本日話題の「poco a poco in tempo」は少し趣きが違う。「ここから時間をかけて本来のテンポに復帰せよ」と解される。本来のテンポへの復帰の動きが始まる場所を指し示している。ブラームスには以下の通り6箇所の用例がある。

  1. ピアノソナタ第2番op2第4楽章206小節目(213小節目in tempo)
  2. スケルツォop4 77小節目(84小節目)
  3. ホルン三重奏曲op40第3楽章39小節目(43小節目で明らか)
  4. 弦楽四重奏曲第3番第3楽章57小節目(?)
  5. カプリチオop76-1 52小節目(遅くも59小節目か?)
  6. バラードop118-3 74小節目(77小節目で明らか)

用例の後のカッコ内には、テンポの復旧を終える場所を推定した。上記3番と6番は、復旧目標地点が明らかであるが、それ以外は必ずしも明確ではない。復旧目標地点を弾き手の常識に委ねている怖さがある。目標地点が明らかでないと復旧のペースを設定することが出来ない。

「poco a poco a tempo」という用例が存在しないことは注目に値する。この点に「in tempo」と「a tempo」を分かつ秘密が隠されてはいないか、今後の課題である。

2008年3月24日 (月)

バッハの辞書

昨日一家総出で行った本の整理での話だ。行き場を失っていたバッハ関連書籍に新たな居場所が定まった。収納を手伝っていた長女が、ポツリと言った。

パパ、「バッハの辞書」は書かないの?

怖い物知らずとは恐ろしい。バッハの本がこんなにあるのだから、また本でも書く気かと思ったと言っている。

父)「ブラームスの辞書」は、ブラームスの楽譜が全部無いと書けないンだ。

娘)ブラームスの楽譜は全部あるの?

父)122作品ほとんどある。

娘)バッハは全部無いの?

父)1080だよ。ある訳ねーだろ!!

娘)せんはちじゅう!!

父)おまえが楽譜全部買ってくれたら書くよ。

娘)いくらするの?

父)1000万までは行かないかも。

娘)じゃあ無理だね。

こんな会話をしているから片づけの能率が上がらなかったのだ。

でも鋭い質問だ。私のバッハラブに気付いているのかもしれない。楽譜の購入には資金力が必要だが、ブラダス(むしろバハダスか?)への取り込みはブラームスよりは楽かもしれない。楽譜上の音楽用語はブラームスに比べれば極端に薄いからだ。

ネックがあるとすれば愛情の深さだ。バッハへの愛が急速に深まっていることも確かだが、まだ本を書くほどではない。

2008年3月23日 (日)

本の整理

我が家から小学生が居なくなったのを機会に家中の本を整理した。いわゆるお子様向けの本を大量に処分したのだ。合わせて父の死から10年の節目でもあり、父の蔵書を思い切って処分した。母に見立ててもらい、どうしてもというものだけはグルニエで保存だ。

昨年急激に増えたバッハ関係の書物が行き場を失って乱雑に積み上げられていたので、空いたスペースにおさめた。ブラームス系の書物とともに最上級の位置を与えた。

ブラームスの蔵書は膨大な量だったといわれている。現在ほとんどがウイーン楽友協会の所蔵になっている。ジャンルは音楽にとどまらず多岐にわたるという。本人の書き込みともあわせて貴重なお宝である。

ブラームスは楽譜と書籍だっただけまだましである。私はこれに加えてささやかな量のCDもある。

次の課題は、CDと楽譜の整理だ。

2008年3月22日 (土)

愛の歌

「Liebeslieder」の訳語だ。作品52の18曲が知られている。さらに「Neue Liebeslieder」作品65の15曲がこれに続く。両者に共通するのは、その特異な形態だ。

ソプラノ、アルト、テノール、バスの4名に連弾のピアノという編成になっている。ブラームス自身の編曲による歌唱抜き連弾オンリーのバージョンも出ている。合計33曲全てが4分の3拍子で書かれ、事実上「im Landler tempo」(レントラーのテンポで)という指定を持っている。

まずは編成だが、33曲全てにソプラノ、アルト、テノール、バスの4名の参加が求められている訳ではない。内訳は以下の通りだ。

  • 全員参加  19曲
  • ソプラノだけ  4曲
  • ソプラノとアルト 3曲
  • テノールとバリトン 2曲
  • アルトだけ 2曲
  • テノールだけ 2曲
  • バリトンだけ 1曲

何だか家庭的な匂いを感じる。音楽好きの一家が休日の昼下がりを歌で過ごすような感じだ。現在の日本ならカラオケかもしれないが、当時のドイツ・オーストリアにこうした編成の作品を求める土壌があったのかと想像したくなる。いわば「声楽四重唱団」の存在を前提にしなければ書きにくい作品だと思う。これが単なるピアノ伴奏ではなくてピアノ連弾の伴奏だというところがまた凝っている。この手の編成のニーズが本当にまとまった量存在したかどうかは怪しいとも思う。

他の作曲家には例を見ないからだ。ハイドンが創設し、ベートーヴェンが完成に導いたという弦楽四重奏曲ならば、既に確固たる市場が存在し、作り手もその市場への供給を前提に作品を生み出し、それがさらに弦楽四重奏人口を増やすという再生産のフローが出来上がっていたと推定できるが、「声楽四重唱」ではそうも行くまい。弦楽四重奏団やピアノ三重奏団が常設団体として数多く存在することとは対照的である。この2種の団体にプラス1あるいはマイナス1で大抵の室内楽は演奏が可能である。現在まで続く室内楽の隆盛はこのことが寄与していると思われる。

これに対して先の「声楽四重唱団」はいかにも分が悪い。CDを発売しようと思うと、そこそこの歌い手4人とピアニスト2人をかき集めねばならない。コンサートでも事情は同じだ。

作品自体に罪はないが、CDの種類も少ないし、演奏会のプログラムに取り上げられることも少ない。よっぽどのブラームス好きでなければ触れ合うことがない。

ブラームスへの愛の深さが試される曲である。

2008年3月21日 (金)

響き合う二人

私はもう既にバッハを愛していると申してもいいだろう。私の脳内で昨年始まったバッハルネサンスの結果、私はバッハを深く愛するようになった。

今から29年前ブラームスがベートーヴェンにとって代わったときとは事情を異にする。あのころは一途だった。ブラームスへの思いが深まるのと平行して、ベートーヴェンへの熱意が嘘のように冷めていった。

今度は違う。2人はまるでフーガの声部のように響き合う。バッハへの傾倒は、ブラームスへの熱意を冷ますどころか、別の魅力を発見する引き金になっている。バッハは、先行するブラームスから29年遅れて動きだしたフーガの応答句のようだ。二人はお互いを引き立て合いながら密接不可分に絡み合う。時に相い和し、時に反行しながら、お互いの声部の魅力を写し合う。おそらくそれはブラームスの意思。ブラームスが世に出たとき既にこの世にいなかったバッハはただ黙ってそこに居るだけだ。単に私ののめり込み歴が逆になっているだけに過ぎない。

ブラームスの書物に現れるバッハへの言及箇所を深く見つめ、そこで言及されたバッハ作品を改めてじっくりと聴いた。バッハが生涯の楽器としたオルガンを用いたブラームス作品に親しんだ。イ短調のコンチェルトを娘と合奏した。さらにブラームスが暗譜したという「平均律クラヴィーア曲集」をブラームスになったつもりで聴いた。そして今インヴェンションに夢中だ。

ベートーヴェンとバッハではかくも位置づけが違うのだ。この先私がいくらバッハに傾倒しようとも、そのこと自体が私のブラームスラヴに影響することはないだろう。バッハへの理解を深めることはブラームス作品の味わいを深めることに多大な貢献をする。

二人はフーガの声部のようだ。

2008年3月20日 (木)

クラシカルなコミック

最初の発表から20年以上続いているコミックがある。あるいは既に最終回が公開されて20年以上経つのに未だに人気が衰えないコミックもある。その作品が世代を超えて人々に訴えるものを持っているというこのなのだと思う。

今をときめくコミック「のだめカンタービレ」はどうだろう。単行本はバカ売れし、テレビアニメ化されればこれも大ブレークし、実写版も視聴率を荒稼ぎしている。大枚はたいて海外ロケが敢行されるのは、ひとえに視聴率が見込めるからだ。

クラシック音楽業界も、いわゆる「のだめ特需」に沸いている。

これが、一時のブームで終わるのか、ずっと続くのか関心を持っている。ストーリーの流れから見て、いつの日か必ず最終回がやってくる。その最終回の後も長く語り継がれるかどうかは、ブログ「ブラームスの辞書」にも影響がある。カテゴリー62番に「のだめ」を設定して既に50に近い記事が堆積した。もし「のだめ」が人々から忘れ去られてしまったら、そのカテゴリーの記事が浮いた存在になってしまう。今でこそアクセス面では多大な貢献をしてくれているカテゴリーだが、20年後に読まれた場合、「はぁ?」となってしまうのか、やっぱり「なっるほど」になるのかの差は大きい。

おそらくブラームスネタは20年後に読まれても「なるほど」「ふむふむ」ということになるだろう。ブラームスの音楽が急速に廃れることはあるまい。ブラームスの作品がバッハの作品と同等の永続性を既に獲得していると断言しても、ブログ炎上のキッカケにはなるまい。つまりクラシックとはそういうものだ。

「のだめカンタービレ」がコミック界のクラシックになってくれることを祈りたいが、ひと様のコミックの心配より、ブログ「ブラームスの辞書」が20年続くかどうか心配をするべきかもしれない。

2008年3月19日 (水)

さらば小学校

本日次女が小学校を卒業した。

卒業式は幼稚園3回、小学校2回、中学校1回を経験しているが、何度でも感動する。特に次女がらみは数段感慨が深い。末っ子である次女の区切りは我が家の区切りでもあるのだ。我が家にオムツがなくなったのも、幼稚園児がいなくなったのも、チャイルドシートが無くなったのも、みな次女が一区切りだった。いつも味噌っかす扱いの次女は、兄姉含む家族全員から手厚く守られてきた。朝玄関で記念写真を撮っていて驚いた。身長が年齢の割には低くない祖母に、ほとんど追いついている。

卒業式の中で最も時間が割かれるのが「卒業証書授与」だ。それは時間にして30分。担任の先生が一人一人の名前を呼び生徒が返事をして証書を受け取る。これが183回繰り返される。感動的なやりとりの背景にかすかに音楽が流れていた。音楽の先生がピアノを弾いてくれていたのだ。巣立ち行く生徒たちへの慈愛にみちた音だ。30分一瞬たりとも途切れなかった。タッチがどうのペダルがどうのという世界を超越していたと思う。ダイナミクスで申せば紛れも無い「ピアニシモ」なのだが、会場の雰囲気の形成において決定的な役割を担っていたと感じる。その音色は場の雰囲気をけして邪魔することなく体育館の隅まで届いていた。年に何回も聴くことの出来ない極上のピアニシモだ。

「本当に心のこもったピアニシモは演奏会場の隅まで届く」とブラームスも言っていた。「極上のピアニシモ」の効果は凄いということだ。

凄いといえば奇遇が一つ。私好みの奇遇だ。今日次女を送り出してくれた担任の先生は、一昨年担任として長女を送り出してくれた。さらに長男もまた小学校の最後の2年間をともに歩んでもらった。つまり3人の子供たちの小学校5、6年の担任が同一人物なのだ。1学年4クラスあるからかなりな奇遇である。彼はいつも手書きの色紙を卒業生に贈る。書かれる言葉は生徒一人一人みな違う。

  • 長男 「素直一番」
  • 長女 「気配り上手」
  • 次女 「実直」

3人のキャラが見事に現われている。

そして今日長男の入学から10年、我が家から小学生がいなくなるのだ。お世話になった先生と今日で本当にお別れになる。

2008年3月18日 (火)

pesanteは遅くなるか

「pesante」は何かと話題を提供してくれる。印象的な使われ方をしている言葉だ。一般に「引きずって」と解される。「leggiero」の反対概念とも思えるが、使用頻度は「leggiero」よりも遙かに低い。

ばんえい競馬を思い出す。馬がとても重いソリを引いて走るレースだ。一般の競馬を見慣れていると、馬の速度の低さには面食らう。重いソリを引きずるのだから当たり前である。競走馬の王様であるサラブレッドに引かせたら一歩も動けないという。つまり「引きずる」というのは、速度が落ちて当たり前なのだ。

「pesante」自体に直接速度を落とす意味合い・機能はないものの、演奏に反映させる手段としては、結果的にテンポダウンを採用せざるを得まい。

「pesante」の単独使用例は生涯で17回だ。使用時期が前期後期の2つに割れている。前期は作品10のバラード以前で9回、後期は第一交響曲以降で8回だ。前期9回のうち8回はピアノソナタの中に現れる。前期の特色は「pesante」の効果が切れる場所に「a tempo」や「in tempo」等のテンポリセット記号が置かれることが多いのだ。特に下記2例は興味深い。

  1. ピアノソナタ第1番第1楽章172小節目
  2. ピアノソナタ第2番第1楽章135小節目

「pesante」が「a tempo」によってリセットされている。つまり「pesante」にテンポ変動効果があるとブラームス自ら認めていることになる。

一方第一交響曲以降の後期では、「pesante」がテンポリセット記号を伴う例が現れなくなる。「pesante」がテンポを直接いじる指図ではないから、テンポリセットを必要としないという正論で貫かれているのだ。

「animato」と同じく、「pesante」もニュアンスを演奏に転写する手段として、結果的にテンポをいじっているだけで、本来テンポをどうこうする指図ではないということだ。最初期のピアノソナタではその点徹底されていないが、中期以降終始一貫した姿勢が見て取れる。

2008年3月17日 (月)

アンサンブルの謎

音楽に関連して最近私が感じている疑問がある。

「アンサンブルは何故楽しいのだろう?」

これである。この問いに正確に答えれられる人がいるなら一度話がしてみたい。3月2日の記事「インヴェンション」で述べたようにバッハの「2声のインヴェンション」の室内楽版の楽譜を買い、娘たちと練習するようになってつくづくとこのことについて考えている。

娘も私も下手だ。でも楽しい。少なくとも私は楽しくて仕方がない。多分相手が娘であることが楽しさを増幅させているのだろうが、きっと娘相手でなくても楽しいに違いない。何故楽しいのだろう。

ちっとも考えがまとまっていないので箇条書きにする。

  • アンサンブルは何も室内楽にだけ存在するのではない。大管弦楽にも存在するが、より具体的に実感するなら室内楽に限る。
  • 全てのパートが見渡せる楽譜を見ているだけでも楽しい。
  • 先のインヴェンションを例に取れば、オリジナルの鍵盤楽器用の楽譜より、ヴァイオリンとヴィオラ用の楽譜を見る方が楽しい。実際に音を出さずとも楽譜を眺めているだけでもワクワクする。
  • 娘とのアンサンブルに備えてヴィオラを一人で練習するだけでも楽しい。ヴァイオリンのパートも記された楽譜だから、音を出しながら相手の動きも想像出来ることが楽しさの原因に違いない。
  • 音がハモる時、掛け合いが決まった時、欲しい音を欲しいタイミングで娘が出してくれたとき、娘がこちらの音を聴いていることが判った時言いようもなく楽しい。
  • 音出しの合間に娘にあれこれ指示し、結果として望み通りの音になるのは至福である。
  • 恐らく「インヴェンション」という作品自体の楽しさも相当貢献していると思う。

訳もなく楽しいと落ち着かない。因果な性格である。

2008年3月16日 (日)

カノン

何と言っても代名詞はパッヘルベルだ。

同じ旋律が異なるタイミングで開始される曲とでも申し上げればいいのだろうか。音の高さが同じでないこともある。先のパッヘルベルや「カエルの歌」などは音の高さまで同じである。小学校の頃に輪唱という言い回しを習った。バッハの「ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲」ニ短調の第2楽章の独奏ヴァイオリンとオーボエがカノンになっている。他に有名なところではフランクのヴァイオリンソナタの終楽章だ。

バッハの時代に隆盛を極めるが、ホモフォニーに押されて下火となるも、曲の一部としてカノンの手法が採用されることも少なくない。

さてブラームスにもカノンがある。よく目立つところでは下記の通り。

  1. 宗教的な歌曲op30 9度の音程差で追いかける「9度のカノン」しかも2つの旋律がからむ2重カノンだが、屁理屈は邪魔なだけの美しさだ。
  2. 女声合唱のための13のカノン op113
  3. ミサカノニカ WoO17およびWoO18。

実は、1曲丸々カノンの作品よりも、曲の一部にカノンの手法が取り入れられているケースの方が多い。

  1. 「愛の誠」op3-1 冒頭からいきなりのカノン。ピアノの左手が歌のパートに1拍だけ先行するカノンになっている。
  2. チェロソナタ第1番第1楽章第2主題57小節目。チェロのパートをピアノの右手が1拍遅れて追いかける。
  3. ピアノ四重奏曲第3番第1楽章の177小節目。先行するヴィオラを追うヴァイオリンは、3拍、2拍、1拍と差を詰める緊迫のカノンだ。いわゆる「Tail to nose」である。
  4. 交響曲第4番第1楽章冒頭。ヴァイオリンの主旋律に2拍遅れて弱拍に和音を差し挟む木管楽器をカノンと申しては行儀が悪いだろうか。
  5. 「4つの厳粛な歌」の3番目「死よ何と苦しいことか」op121-3の6小節目。葬列が粛々と歩みを始める場所。ピアノが歌のパートに4分音符2個分先行するカノンになっている。ダイナミクスはとっておき感溢れる「mp」だ。

注目すべきは上記の1と5だ。リート作曲家ブラームスはキャリアの最初の歌曲をカノンで始め、最後もカノンで締めくくっていることになる。リートにおけるピアノを声と対等の位置まで引き上げる試みを始めたのはシューベルトだという。その正当な後継者たる自覚に溢れたブラームスが示した回答の一つがこれだ。ピアノと声がカノンの声部を形成するとは、これ以上ない対等振りではないか。

なかなか出来ることではない。

2008年3月15日 (土)

新郎父の心配事

昨年の11月25日結婚記念日の記事として「新郎父挨拶」を掲載した。

あれからかれこれ4ヶ月。ブログへのアクセス増に想定外の貢献をしてくれた。「新郎父挨拶」というキーワードでブログ「ブラームスの辞書」がアクセスされるケースが半端でなく多い。毎日5人6人は必ずという感じである。

図らずも新郎父という役回りを演ずることになってしまったお父さんたちが、挨拶の文案を求めてネット上を東奔西走している様子が目に浮かぶ。挙げ句の果てにたどり着くのが我がブログ「ブラームスの辞書」では時間の浪費もいいところだ。気の毒という他はない。

たどり着いた先ブログ「ブラームスの辞書」の記事「新郎父挨拶」には、当日の父の挨拶文が掲載されているわけではない。確かに名スピーチではあったが、あの場面、あのメンバー、あのBGMの中、あの声量、あの抑揚、あのテンポで語られてこそ意味がある。全文掲載したところで何の役にも立たないだろう。同じ楽譜を見て弾いているのに、全部が名演奏になる訳ではないことと同じだ。父は挨拶文の最終稿を毛筆で書いた。当日それを会場に持ち込んだが、内ポケットにしまったまま、何も見ずに話したのだ。つまり暗譜だ。けれどもただの丸暗記、棒読みではなかった。魂のこもった演奏と一緒だ。だから、あの日の挨拶全文を読んだとして、誰もがあの挨拶を出来るわけではないのだ。

当の本人である父は、司会なら約10回、媒酌人挨拶なら3回、主賓挨拶2回の経験者だ。そのたびに挨拶は全て自分で考えていた。彼のモットーは気持ちを込めることだ。気持ちがしっかりこもっていれば少々しきたりからはずれてもいいと考えていた。だから文案なんかを参考にしているのを見たことがない。当時ネットがあっても検索すらしないだろう。

ブログ「ブラームスの辞書」が「新郎父挨拶」でアクセスされると、父があの世で私のことを考えてくれているような気になる。ブログのアクセスが増えるようにせっせとアシストしてくれているに違いない。

いつか私を「新郎父」にしてくれるハズの長男は今日16歳になった。

2008年3月14日 (金)

Allegro molto moderato

生涯で唯一ヴァイオリンソナタ第1番の第3楽章冒頭に鎮座する。

解釈をする上でさっそく壁に突き当たる。真ん中に置かれた「molto」は何を修飾するのかということだ。この問いを要約すると以下の通りである。

  1. Allegro molto + moderato
  2. Allegro + molto moderato

ブラームスにおいて「Allegro」を煽る表現があまり多くないことから上記の2番、つまり「molto」は「moderato」を修飾するという直感が働く。日本語訳をするなら「快速に、くれぐれも程よく」くらいな感じである。「ブラームスの辞書」の結論も2番支持である。

この楽章は「雨の歌」というニックネームの元となった歌曲「雨の歌」op59-3から旋律が丸ごと転用されている。「molto」の修飾相手や意味を考える際の重要なヒントになると感じている。歌曲側の「雨の歌」の冒頭には「In massiger,ruhiger Bewegung」とドイツ語で書かれている。「適度に穏やかなテンポで」という程度の意味だ。この中の「massig」(aはウムラウト)が「適度な」という意味なのだ。ヴァイオリンソナタ側の用語「moderato」が「massig」と呼応しているように思える。「massig」と「moderato」の呼応には他にも例がある。op105-4を背負った歌曲「墓地にて」の冒頭だ。歌のパートに「massig」とある一方で、ピアノ側には「Andante moderato」が置かれている。

歌曲「雨の歌」の旋律をこのフィナーレで引用していることを仄めかす意図がなかったかと想像する。声楽の混じらない作品にドイツ語の発想用語を置かないという原則に照らして、「massig」を「moderato」に転写したのだ。だから「molto」を奉って「くれぐれも」と念を押すのだ。

単純な「Allegro moderato」の変形だと捉えては音楽を見誤ると思う。

2008年3月13日 (木)

のだめの中のブラームス【28】

コミック「のだめカンタービレ」第20巻の発売日だ。

118ページにブラームスが出現する。オクレール先生の課題曲を見せろと千秋に言われて応じるシーンである。左上のコマに楽譜の表紙が描かれている。「ブラームスの小品集」であることは確かだが、なんだかじらされる展開だ。118ページだから作品118かもといけない想像をしてしまう。

次は142ページ。課題に追われるのだめの姿をみて、過去の自分の経験にダブらせる場面だ。当然これは第一交響曲だ。

あーあ結局じらされて曲はわからずじまいかと諦めかけた後半ロスタイム、182ページにお宝が出現する。右下のコマに開いたままの楽譜だ。のだめは楽譜を逆さに見る位置にいる。その曲は紛れも無くブラームスだ。ズバリ、ラプソディー変ホ長調op119-4の冒頭である。のだめが手を置いているのが1ページ目で、見えているのが2ページ目だ。中ほど左のコマの中に手書き風の文字で「4つの小品」とあることとも一致する。作品119は4つの小品で出来ている。あいかわらず芸が細かくて感心した。こんなに小さな楽譜なのに手を抜いていない。

ここで感心してばかりいないのがブログ「ブラームスの辞書」だ。

119-4のラプソディは後期の小品集のラストを飾る曲だ。どんな出版社の楽譜でも大抵最後に載っている。コミックに描かれた楽譜を見る限りでは、op119-4より後ろのページが厚過ぎる。ラプソディーは後期の小品の中では規模の大きい曲だが、楽譜のページにすれば7ページに過ぎない。開いているのが、1、2ページだから、後ろに残るのは5ページ、紙にすれは3枚だ。描かれた残りページの厚みは3枚には見えない。楽譜だから上製本ということはないハズで、この厚みは不自然だ。考えられる落としどころは、巻末に解説か注釈がついているのかもしれない。

ここでのだめが千秋の練習を拒否するとは残念だ。うまくいけばブラームスについての千秋クンのアナリーゼが聞けたかもしれないからだ。

オクレール先生からの課題になっているショパンやベートーヴェンのソナタに、コミックのだめ風なアナリーゼが施されているので、この先ブラームスでもそこはかとなく期待が持てる。21巻の楽しみにとっておこう。

2008年3月12日 (水)

BWV797

「インヴェンション」と「シンフォニア」は「平均律クラヴィーア曲集」と並びバッハの教育的作品の根幹を形成する。

ブラームスがピアノを教える際の教材に「平均律クラヴィーア曲集」を用いていた話は既に書いた。同じ教育的作品であるインヴェンションやシンフォニアも教材にしていたのだろうとは思っていたが、このほどその証拠を見つけた。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第一巻のフローレンス・メイの文章の中である。

本日のお題「BWV797」を背負ったト短調のシンフォニアの冒頭から数えて3小節目と4小節目の小節冒頭に発生する不協和音についてのブラームスの見解が証言されている。

本作を形作る3声のうちの最上声が、作品冒頭から1小節毎に「G-F-Es-D」と順次下降して来る。問題の3小節目冒頭は「Es」、4小節目冒頭は「D」である。これらの音が中声部によって直前の小節からタイで引き延ばされた「D」や「C」と衝突するのだ。それら小節の冒頭における衝突は、当該小節の末尾でその都度解決する。

小節の冒頭から「衝突→解決」の連続になる。その流れを意識して打鍵せよというのが、ブラームスの見解だと証言されている。

実際に聴いてみる。チェンバロやピアノによる演奏では、あまり衝突という感じがしない。もっと過激な和音に慣れてしまっているせいかと思っていたら、先般入手した室内楽版だとくっきりと聞こえる。衝突と解決という概念が弦楽器の特性のおかげでより具体的に実感できる感じだ。ピアノを弾きながらこうした和音進行の聴かせ所に注意を喚起するとは、何だかしみじみありがたい。

おそらくこれはほんの一例だ。ブラームスのレッスンはきっとこの手の指摘に溢れていたのだろう。

娘たちと3声のシンフォニアに取り組むとしたら、真っ先にこのBWV797を選びたい。3小節目と4小節目の冒頭の衝突は、上2声を担当する娘たち2人のパート間で起きるはずだ。そのときに私が、ブラームスに成り代わって講釈をたれるのだ。

2008年3月11日 (火)

Tail to nose

カーレース系の用語。抜きつ抜かれつの大接戦のことだ。先行車の後端に、追い上げ車の先端がくっつかんばかりの状態を「尾と鼻」になぞらえたと思われる。日本語で言うなら「つばぜり合い」といったところか。

著書「ブラームスの辞書」の中でこの言葉が使われている。ピアノ四重奏曲第3番第1楽章177小節目から始まる一連のフレーズだ。全体を引っ張るのはヴィオラだ。同じ旋律をヴァイオリンが1小節つまり4分音符3個分遅れて模倣する。8小節後またヴィオラが同じ旋律を、まるで追いつかれまいと逃げるかように放つと、続くヴァイオリンは何と4分音符2個分遅れて追いすがる。つまり4分音符一個分差が詰まったということだ。3度目にはその差が4分音符一個になる。そして、ヴァイオリンがヴィオラに追いつく瞬間に、ピアノ、チェロまで全て動員して3連符の連打になる。196小節目のことだ。

繰り返すごとに追う側のヴァイオリンが4分音符1個分ずつ差を詰めて行き、やがては追いつく様子を「Tail to nose」と表現した。ブラームスの対位法的技法の粋を集めた見せ場である。追われるヴィオラ、追うヴァイオリンがこの部分のこうした構造を知っておくことは有意義である。フレーズの切れ目でピチカートの合いの手を差し挟むチェリスト氏にだってこのデッドヒートを味わう権利がある。もちろんピアニストまでもが、この理屈を知った上でこの曲に挑むべきである。

味わいが数段深まることをお約束する。全員が参加する3連符強打の意味が身にしみるはずである。

2008年3月10日 (月)

フィナーレからの逆算

ブラームスの多楽章制器楽曲のうち、第一楽章にソナタ形式を採用しながら、発想記号に「Allegro」が掲げられていない作品が以下の通り3つある。つまり今日の記事は3月7日の記事「謎のVivace」の続きである。

  1. ピアノ協奏曲第1番 Maestoso
  2. ヴァイオリンソナタ第1番 Vivace  ma non troppo
  3. 弦楽四重奏曲第3番 Vivace

原因は不明でほとんどお手上げなのだが、もしかしてと思い当たる節が無い訳ではない。そのキーワードが本日のお題「フィナーレからの逆算」だ。このうち室内楽2曲2について申せば第1楽章のテンポを把握するヒントが終楽章に隠されているのだ。

ヴァイオリンソナタ第1番は、「8分音符-16分休符-16分音符」というリズムが第1楽章と第3楽章の冒頭で共通する。いわゆる「タッカ」というリズムで曲が滑り出すのだ。第3楽章は歌曲「雨の歌」op59-3からの丸ごとの引用だ。フィナーレのこの旋律こそが作品全体のキーだ。タッカのリズムはそれを象徴していると解したい。同じく「タッカ」のリズムで始まる第1楽章が、見当違いなテンポで始まるハズがないのだ。

弦楽四重奏曲第3番は、もっとシンプルだ。フィナーレ第4楽章の結尾で第1楽章の冒頭主題が丸ごと回帰する。そのことを考慮すれば第1楽章をあさってのテンポで始めることは出来まいというブラームスの仄めかしだ。

方程式で不明な数を表す「X」が作品の冒頭に来ているのだ。この「X」が第4楽章の冒頭に据えられているのがクラリネット五重奏曲であることは3月4日の記事「方程式Con moto」で述べた通りである。

それでも、「フィナーレからの逆算」を促す際に用いられるのが何故「Vivace」なのかは依然謎だ。「X」で始まる音楽用語が無いから、アルファベットで一番近い「V」で代行したのかもしれない。「苦し紛れの」上塗りである。

2008年3月 9日 (日)

熊亭

リヒテンタールにおけるブラームス行き付けのレストラン兼宿屋の名前だ。ここの女将はブラームスの気さくな人柄の貴重な証人の一人になっている。

原語では「Baren」(aはウムラウト)というそうだ。熊の複数形である。おっとそういえば著名な楽譜出版社の「ベーレンライター社」のシンボルマークは熊だった。一応納得なのだが、ささやかな疑問がある。シンボルマークの熊は1頭である。ベーレンは複数形なのだから少なくとも2頭居てもらわねば困る。

きっとどこかに逃げ出したのだ。

逃げ出したもう1頭はどこにいるかって?

そりゃブライトコップフのシンボルマークになっているに違いない。

お後がよろしいようで。

2008年3月 8日 (土)

シンフォニア

3月2日の記事「インヴェンション」でバッハの「クラヴィーアのためのインヴェンション」にヴァイオリンとヴィオラの二重奏編曲版の楽譜を発見したと書いた。時を経ずしてそのCDも発見して「こりゃたまらん」と驚喜した。CDには3声のシンフォニアも収録されているので、「はてさて3声の楽譜は」とショップをあさっていてお宝を発見した。3声のシンフォニアの編曲物だが、編成が2本のヴァイオリンとヴィオラになっている。我が家の編成にピタリとはまる。こちらは、校訂者の意図が相当混入していて発想記号や、ダイナミクス、スラーがてんこ盛りである。どうせ言われた通りに弾けるハズがないから無視しまくる予定である。

不思議なことに2声用と同じ編曲者なのに、こちら3声用はあれこれと指示が書き込まれているのだ。2声用のすがすがしさにくらべると一言多い気がする。こちらは米国の某有名出版社だ。

2つのパートが上下2段で書かれていた2声用と違って、3つのパート譜が別々に印刷されているから、演奏中に他のパートを覗けないのが残念だ。我が家のCDはヴァイオリン、ヴィオラ、チェロという編成だ。CDではチェロが弾いているパートがヴィオラの楽譜に反映しているから気合いを入れて聴いていないと混乱する。

これがそこそこ楽しめるようになるためには2声版でトレーニングを積まねばならない。超絶技巧ではあるまいが、何はなくても音程だろう。

2008年3月 7日 (金)

謎のVivace

まずは話をソナタに限定する。交響曲4曲と協奏曲4曲に室内楽24曲、さらにピアノソナタ3曲を加えて35曲ということになる。その上で以下のリストをじっと眺める。

  1. ピアノ協奏曲第1番op15
  2. ホルン三重奏曲op40
  3. 弦楽四重奏曲第3番op67
  4. ヴァイオリンソナタ第1番op78

これが何を意味しているかスグわかる人とは、是非一献傾けたいものだ。第一楽章が「Allegro」になっていない作品だ。何かにつけ異質なことが多いホルン三重奏曲は、ここでも異例である。第一楽章がソナタ形式になっていない。逆に言うと第一楽章が「Allegro」になっていないことも「ソナタ形式でないからである」とすんなり説明できる。第四楽章にソナタ形式が据えられて、そこにはまばゆいばかりの「Allegro con brio」が置かれているからだ。「ブラームスの辞書」の提案した「Allegroはソナタを指し示す代名詞機能」という仮説を支持補強してくれている。

問題は残る2作。弦楽四重奏曲第3番とヴァイオリンソナタ第1番だ。両者とも第一楽章にソナタ形式の楽曲を配備しながら「Allegro」の表札を掲げていない。前者が「Vivace」で後者が「Vivace ma non troppo」になっている。脱落した「Allegro」の代わりに差し込まれているのが両者とも「Vivace」だというのが全くもって不思議である。ブラダスによればブラームスは生涯で「Vivace」を38箇所で使用しているが、他にチェロソナタ第2番の第一楽章冒頭が「Allegro vivace」になっている。第一楽章冒頭つまり曲頭における「Vivace」使用はこの3例だけだ。

何故この2者では「Allegro」と書かれないのか、そして「Allegro」の代わりの置かれるのが「Vivace」に限られるのか、調性、拍子などに規則性も見当たらず難解という他はない。

単なる気紛れならそれでもOKなのだが。

2008年3月 6日 (木)

みんなどうしているのだろう

一昨年8月26日の記事「松葉のマーク」に関係がある。作品116-1のカプリチオに松葉のマーク「<>」の特異な用例がある点に言及した。同じ作品116の中の4番のインテルメッツォにも奇妙な用例がある。44小節目、46小節目64小節目、65小節目だ。各々の小節の3拍目の4分音符の下に話題の松葉のマーク「<>」が付与されている。4分音符1個に付いてる。「<>」を「クレッシェンドしてただちにディミヌエンドする」と解する立場からは具合が悪い。4分音符1個ではディミヌエンドはともかくクレッシェンドがどうにもなるまい。ピアノという楽器の特性から一旦発せられた音は減衰するしかないのだから、発音後のクレッシェンドは決定的に困るのだ。左手側をアルペジオ気味に弾くようになっているので、それで何とかクレッシェンドの雰囲気だけを確保出来る可能性は残るが、難儀なことだ。

我が家の楽譜はヘンレ社発行のものだ。素人の私が考え付くようなことはとっくにわかっていて書いているに違いない。インテルメッツォホ長調作品116-4は演奏不能というそしりを受けていないから、みんなこれを何とかしているのだろうと思う。

一昨年8月26日の記事「松葉のマーク」でも述べたように「<>」は、単に物理的な押し引きを求めているのではなく、特定のニュアンスの付与を意図していると考えたほうが何かと辻褄が合う。

そういえばというような話がある。音楽之友社刊行の「ブラ-ムス回想録集」第1巻、クララ・シュ-マンの弟子の一人であるファニ-・デイビスの回想だ。ピアノ三重奏曲第3番の論評の中で、問題の「<>」を指して、「暖かな感情を盛り込みたいときに付与される記号」と記述している。単なるダイナミクスの増減ではないことが伺われる。

2008年3月 5日 (水)

こりゃたまらん

3月2日の記事「インヴェンション」では、2声のためのインヴェンションの弦楽二重奏版の楽譜があることを述べた。娘らのヴァイオリンの教材に使えそうだということにも興奮気味に言及した。楽譜があるならCDになっていないかと考えるのが自然だ。探したところ呆気なく発見できた。即買いである。

バッハのクラヴィーアのためのインヴェンションとシンフォニアの室内楽版だ。2声のインヴェンションはヴァイオリンとヴィオラ、3声のシンフォニアはさらにチェロが加わる。シンプルな編成が心地よい。

聴いてみてはまった。先般買い求めた楽譜とは微妙に違うが編曲の指向性は一致している。オクターブの上下以外何もいじっていない感じだ。

もちろんオリジナルのチェンバロ版も大好きだが、この編成捨てがたい。特に2声のヴァイオリンとヴィオラの二重奏は病みつきになりそうだ。同じ弦楽器版でも「フーガの技法」ほど突き詰められた印象がないせいか桁違いの楽しさだ。楽譜を見ながら聴くとさらに楽しい。この曲集は、声部の動きの妙が売りだが、オリジナルより数段くっきりと聴き取れる。

楽譜を見ながら聴いた感想を以下に記す。

  • 1番ハ長調 「楽しい」「弾けそう」「美しい」の三冠王だ。さっそく次女と練習を開始だ。
  • 2番ハ短調 これまた弾けそうだ。短調に特有の臨時記号が心地よい。その臨時記号こそが味わいの源泉である。こちらをお姉ちゃんと練習することにした。
  • 3番ニ長調 バッハ特有の軽快な8分の3拍子。弾けそうだがスラーが厄介。
  • 4番ニ短調 これまたご機嫌だ。「B-Cis」の7度がやけに心地よい。
  • 5番変ホ長調 楽しい。がしかしCDと同じテンポでは難しい。特に頻出するDesが厄介だ。16分音符の連続には音楽的持久力が試されよう。
  • 6番ホ長調 聴いている分には楽しいシンコペーションだが、弾くとなると厄介。かといってテンポを落としては元も子もない。
  • 7番ホ短調 弾ける。次はこれかもしれない。どうもホ短調というだけで鼻の下が伸びる感じである。
  • 8番ヘ長調 聴いた限りでは難しいが、きっと弾ける。私のヴィオラがネックになる予感だ。テンポ手加減でなんとか。
  • 9番ヘ短調 恐らく弾ける。「ハ短調」「ニ短調」に比べると魅力の発掘には時間がかかる見込み。CDよりテンポ上をげたい気もする。CDの演奏は意気消沈な解釈だがキビキビと弾きたい。
  • 10番ト長調 8分の9拍子は弓のやりくりが厄介。アンサンブルを楽しむより自分のパートで精一杯になりそう。
  • 11番ト短調 弾ける。しかもヴィオラに超美しく装飾されたラメントバスがある。
  • 12番イ長調 難関。テンポ落としても相当難しい。C線の4で取るGisがどうにも厄介。ハーフポジションの練習に最適だがしばらくお預け。
  • 13番イ短調 いやいや、ひょっとするとこの曲集中最高の曲だ。美しい上に弾けそうだ。
  • 14番変ロ長調 最難関。ほぼ無理。
  • 15番ロ短調 やれそう。品良くトリルが入るかどうかは別問題。

身の程をわきまえながら、粛々と取り組んで行きたい。もしかすると一生楽しめそうだ。

2008年3月 4日 (火)

方程式「Con moto」

もっぱら「andante」を修飾して若干のテンポアップを志向する「con moto」は、しばしば気紛れな振る舞いをする。「andante」を修飾する限りにおいては単なる「煽り系」なのだが、厄介なことに無視しえぬ数の「con moto」単独使用例が存在する。ブラームスは、しばしばベートーヴェンとの類似性が指摘されるのだが、この「con moto」単独使用例は、ベートーヴェンには一例もない。

「con moto」単独使用例は生涯で15回。うち13回が声楽曲だから、ブラームスの声楽曲に親しむ人々にとっては、なじみの表現だけれど、器楽奏者にとっては唐突感がある。

クラリネット五重奏曲ロ短調の第四楽章に問題の「con moto」単独使用例が出現する。モーツアルトのクラリネット五重奏曲に挑戦するかのような変奏曲が、「f espressivo」で立ち上がる。楽曲冒頭に「f espressivo」が置かれるというのも、他に「Nachtigall」op97-1に見られるだけの貴重なケースだ。

異例ずくめのフィナーレは、「はたして正解のテンポは?」という疑問が解決しないまま淡々と進んでゆく。途中161小節目で8分の3拍子に変化するが、テンポを変える表示は一切現れない。そして193小節目、第一楽章第一主題が8分の6拍子で回帰する。8分の3という拍子が、布石であったことが明かされる。同時に楽章中はじめて「un poco meno mosso」という速度転換系の指示が置かれる。これは「いくぶんテンポを落として」と解される。

ここが謎解きの瞬間である。第四楽章冒頭の謎のテンポ「con moto」は、「un poco meno mosso」されることで第一楽章冒頭のテンポになるということなのだ。

「Con moto」=「Allegro」-「un poco meno mosso」という式が成り立つことに他ならない。「Con moto」は「un poco meno mosso」分だけ「Allegro」より遅いと解しうる。

第四楽章161小節目8分の3拍子からの1小節は、第一楽章冒頭の付点4分音符1個より少し速いテンポという解が求められる。161小節目のテンポを作るのはヴィオラであることは、何にも勝る喜びである。同時にここ161小節目は、一旦ロ長調に転調していた音楽が、ダブルバーを合図にロ短調に復帰するところであり。旋律的にも気分的にも第四楽章冒頭が強く暗示される場所である。

この161小節目をどう弾くかを予習してから、第四楽章冒頭のテンポを決めるべきであるというブラームスからのメッセージが、「むき出しのCon moto」の意味であると思われる。ブラームスに頻発する「初見じゃ無理」のパターンだ。

あさってのテンポで開始できるわけが無いというニュアンスが感じられる。

2008年3月 3日 (月)

身から出たバッハ

私の作曲家のめり込み歴を思い返すと、ベートーヴェン、ブラームス、バッハになる。何かとドイツ音楽が偏重された学校教育の思う壺といった感じだ。もちろんこれ以外の作曲家の作品でも単発的には素晴らしいと感じるものもあるが、作曲家をまとまりとして「好き」と感じたことがあるのは、この3人だ。中学高校とベートーヴェン命の少年だった。

大学入学後に始めたヴィオラ演奏を通じて、ブラームスが台頭した。伝記の上ではブラームスはベートーヴェンの後継という位置付けが何かと強調されもするが、わが私的受容史にあっては、ブラームスはベートーヴェンラブとは別に台頭したのだ。一生このままベートーヴェンオンリーではないかと思われるのめりこみがわずか半年であっけなくブラームスにとって代わった。以来29年、ブラームスは私の脳味噌に君臨している。第2位に控える作曲家をいろいろ代えながらも、ブラームス優位は微動だにしなかった。

今、その第2位にバッハがいる。進境著しいバッハだが、ブラームスが台頭したときと事情を異にする。ブラームスは当時首位にいたベートーヴェンとは全く別個に、ヴィオラ演奏の中から台頭したのに対し、バッハは現在君臨するブラームスへの興味をいっそう深めるという知的興味の副産物として台頭した。いわばブラームスの「バッハラブ」に便乗した形だ。ブラームスへの興味が深まると同時にベートーヴェンへの愛が冷めてしまったのとは違って、バッハへの深まる理解は、一層ブラームスラブを推し進めることになる。

身から出たバッハとはそういう意味だ。

2008年3月 2日 (日)

インヴェンション

「インヴェンション」はバッハの教育的作品として名高い。説明不要の風格が漂っている。一般に2声のものを「インヴェンション」、3声のものを「シンフォニア」と呼んでいる。もともとクラヴィーアの教育用にと考えて、常用される15の調で書かれた小品の集合体だ。

このうち2声用のインヴェンションが、ヴァイオリンとヴィオラの二重奏に編曲された楽譜を見つけた。編曲者としてフェルデナンド・ダヴィッドと書かれている。もしかしてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲初演で独奏をしたあの人のことだろうか。

ヴィオラのパートを一人で練習していたのだが、今日の娘たちのレッスンのときに持参して先生に見せた。

娘たちの練習の一環に取り入れてはもらえいないかと考えたのだ。興味深そうに楽譜をご覧になっていた先生は、賛成してくれた。どの曲もシンプルで極端に高い音も無い。じっくりと弾きこんで相手のパートの音を聴くのにもってこいだとおっしゃる。とりあえずBWV772のハ長調を練習することに決めた。

さすがにブライトコップフだ。上段にヴァイオリン、下段にヴィオラが書かれ15全ての作品が見開き1ページに収まっている。とても見易いので意欲が湧いてくる。インヴェンションのオリジナルにとても忠実で、オクターブの上げ下げ以外には手が加えられていない。ダイナミクスやアーティキュレーションを勝手に加えることも控えている。

さっそく次女と試した。両パートが上下2段に書かれているから、弾きながら相手のパートがとてもよくわかる。

しばらく楽しめそうだ。

2008年3月 1日 (土)

コーヒーカンタータ

BWV211を背負ったバッハの世俗カンタータ。父と娘の他愛のないやりとりだ。当時の欧州におけるコーヒーの流行を物語る。

コーヒーを題材にしたコミカルなオペラの雰囲気が漂うが、そこはさすがにバッハで「CAFFEE」が主題として現れるらしい。「ド・ラ・ファ・ファ・ミ・ミ」だと思うが、どこにあるのか現在探索中である。

さてさてブラームスの伝記をひもとけば、ブラームスもコーヒーを愛飲していたことがわかる。避暑地では毎朝早起きして自らコーヒーを立てていたという。普段から食事の後にコーヒーを飲んでいたとの証言もある。ウインナコーヒーではなくて相当濃いブラックがお好みだったようだ。麦茶みたいなアメリカンコーヒーに慣れた人たちから見ればコールタールみたいな代物かもしれない。

さてさて例によって荒唐無稽な想像がある。

第4交響曲の第2楽章の終結部の和音進行が何だか怪しいのだ。個人的に「コーヒー終止」と名付けていることは既に述べた。「ド・ラ・ファ・ファ・ミ・ミ」のようなテーマそのものの反映ではなくて、和音進行だからこじつけもここに極まる話だけれど、第4交響曲とバッハの関係を思うと、見過ごすわけには行かない。そんじょそこらにゴロゴロ転がっている進行ではないので目立つのだ。

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    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
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