ジーメンス事件
大正時代の日本海軍を揺るがした疑獄事件。海軍の機器調達に関してジーメンス&ハルスケ社から海軍高官にリベートが支払われていたとして内閣総辞職にまで発展した。
ジーメンス&ハルスケ社は1847年創業で現在まで続くドイツの多国籍企業だ。世界最初の電車製造の栄誉は同社に属する。1887年東京に事務所を開設して日本進出を果たしたくらいだから、欧州には各地に支社があった。ウイーンにはオーストリア・ハプスブルグ帝国支社があった。1879年オーストリア・ハプスブルグ支社長としてウイーンに赴任したのが、リヒャルト・フェリンガーだった。第一級超一流のビジネスマンだが、一方で彼は大変優れたピアニストだった。さらにさらにその妻マリアは相当な美声の持ち主で、夫の伴奏でブラームスの歌曲をほとんど歌いこなしたという。1878年クララ・シューマンの仲介でフェリンガー夫妻はブラームスと知り合った。ウイーンに赴任する前の話である。クララがシュヴァーベン地方を演奏旅行する際には、フェリンガー夫妻の屋敷を定宿にしていたという縁なのだ。
晩年のブラームスの室内楽作品のいくつかが彼の屋敷で私的に初演されている。さらに妻マリアは当時ようやく普及し始めたカメラを器用に操った。頻繁に屋敷に出入りするブラームスは格好のターゲットだった。居心地のいい屋敷でくつろぐブラームスは、無数のシャッターチャンスを提供し、巨匠晩年の夥しいスナップが後世に残されることとなる。一家の主婦が当時まだもの珍しかった写真や、声楽に打ち込むことが出来るほど家事から解放されていたということになる。この一家は相当なセレブなのだ。
さらに父と同じくリヒャルトと名付けられたこの夫婦の長男は、両親とブラームスの心温まる交流を回想録に残した。作曲者本人が次から次へと惜しげもなく披露する珠玉の室内楽の数々にうっとりと聴き入っている様子が描かれる。
父といい母といい、息子といい何と言う家族なのだろう。つまりジーメンス&ハルスケ社の支社長という地位は社会的に見て相当なレベルだったのだ。ベートーヴェンの時代でいうと貴族と同等かそれ以上かもしれない。つまりこれが産業革命の所業なのだ。英国に端を発した産業革命が、ドイツに届いていたということだろう。それにより財を蓄えた市民層が貴族に代わって音楽を支えた。テオドール・ビルロート、エリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクといいこのフェリンガー夫妻といい、技も心も、そして懐も豊かなアマチュアの名前がブラームスの伝記には数多く現れる。
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