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2008年5月31日 (土)

記事供養

ブログ「ブラームスの辞書」を立ち上げてから今日まで、公開した記事は1145本。備蓄記事が約500あるから1600と数十の記事を下書きしてある。その一方で、一旦記事として下書きをされながら、削除された記事が12本ある。今日は公開3周年の節目にそれらの記事を思う日としたい。

削除の原因は、あれこれ推敲するうちにタイミングを逸してしまったことが一番多い。その次は、推敲するうちに別の記事と統合するほうがいいと判断したケースだ。

頭の中で芽が出て、裏付けの調べをしてから記事にする。時間をかけずにサッと書く。そして少し時間を置いてから推敲するのが通例だ。中にはあれこれいじっているうちに、焦点がぼやけてしまったり、データの堀り下げが甘かったりで廃棄となることがあるのだ。筆者の私の脳味噌がもう少しキレていたら削除にならずに済んだ記事もある。

「アカンものはサッサと廃棄」はブラームスのモットーであるが、今日ばかりは陽の目を見なかった記事に黙祷である。

2008年5月30日 (金)

記事50本

ブログ「ブラームスの辞書」は本日開設3周年を迎えた。開設が5月30日になっているのには訳がある。

本当はブラームスの誕生日5月7日にしたかったが、準備が間に合わなかった。

ブログの立ち上げに当たっていろいろ情報を収集した。「三日坊主にならない工夫」をあれこれ考えていた。それほどブログが続かないという実例が多いということだ。ネットで情報を集めても気が滅入るばかりだった。ブログを立ち上げてから放置するのはカッコ悪い。立ち上げた以上続けねばならない。

こうした観点から達した結論は、「記事を50本思いつくまでブログを立ち上げない」という自主規制だった。

つまり5月30日にブログを開設出来たのは、ネタを50本思いついたからなのである。「家族ネタ」「アクセスネタ」「記念日ネタ」を含めずに記事が50本に達した日が、イコール開設日となった。今と違って記事を書いてしまって公開を先日付にして保存するという技を使っていなかった。記事のネタを50思いついたということだ。ブログ「ブラームスの辞書」は2ヶ月分弱のネタを保有して立ち上がったということだ。今思えば取り越し苦労もいいところだが、当時は真剣だった。

あれから3年、ネタの備蓄は開設当初の10倍を超えた。もちろん開設当時に思いついた50本は、既に全てが公開されている。公開済みの記事1144本に加えネタの備蓄が約500だ。2033年5月7日まで継続するには、あと約8630本の記事を思いつかねばならない。今まで思いついた記事数のざっと5倍だ。

数は驚くにはあたらない。問題はネタの濃さだ。

2008年5月29日 (木)

リストの復元

4月24日の記事「禁則」や4月28日の「5度ハンター」でブラームスが先輩作曲家が犯した「禁則違反」つまり「平行5度」や「平行8度」をリスト化していたと述べた。

さらに5月27日の「マッコークルの守備範囲」を調べていてお宝情報を見つけた。先輩作曲家が犯した禁則違反のリストが「自筆の筆写譜」の中に収録されていた。ドイツ語の記載を辞書片手に無理やり読むから勘違いも起き易いがどうやら間違いない。

ブラームスはジンクアカデミーや楽友協会の芸術監督を歴任したから、膨大な古楽譜の蔵書を見放題だったと思われる。過去の作曲家たちの自筆譜も相当数含まれていたと解するのが自然だ。それに目を通しながら「禁則違反」を含む気になる部分を自ら筆写していたのだ。五線紙にして11ページの筆写譜とそれに先立つ目次で出来ている。パソコン無き時代の整理として上等である。それらが「自筆の筆写譜」という章の中でまとめて言及されているのである。マッコ-クル「ブラームス作品目録」728ページだ。

マッコークルの記載は、筆写譜そのものの画像こそ無いものの、全貌を伺わせるには十分な細かさだ。

  • 作曲家
  • 作品名
  • 小節

という具合に問題の箇所の特定が出来るようになっている。小節は譜例としてブラームスが筆写した小節の始まりと終わりが記されている。もちろん譜例そのものは掲載されていないから、その小節のうちのどこの音符が禁則違反なのかは特定できない。またそこで起きているのが「平行5度」なのか「平行8度」なのかもわからない。

しかしそれでも相当なお宝だ。ブラームスが見ているのが作曲家自身の手稿譜だというのが何よりだ。印刷譜であったら校訂者が禁則箇所を修正してしまっているかもしれないからだ。ブラームスが参照可能な蔵書としての楽譜が、ある種の偏りを持っているかもしれないが、それでもお宝度はいささかも減じられることは無い。

少しでもブラームスの気分を味わうためこれからそれらをエクセルに取り込むことにした。「5度ハンター」ブラームスの「獲物リスト」の復元を試みる。

2008年5月28日 (水)

オリジナリティ

誰の真似でもないこと。独創性。

何の補足もいらないくらいクリアな定義である。オリジナリティが人々の賛同を得るかどうかはまた別の問題である。賛同を得るためには一定の説得力を伴っている必要がある。誰の真似でもない主張に説得力が備わるための一つの条件に、「単なる風変わりとの区別」がある。世の中誰の真似でもない個性を発揮したいと願う人は多い。そう願うあまり「単なる風変わり」で終わってしまうケースも少なくないのが現実である。

作曲の世界でもこの匙加減が難しい。他者の模倣は当然批判の対象になる。だから作曲家は他の誰とも違う作品を残したいのだ。一部の天才を除けば皆この点に苦労する。たとえば、誰も確認しようがない「未来の音楽」などというコメントを発してみたりするのだ。思うに誰とも同じでないことより、単なる風変わりに堕落しないことの方が数段難しいと感じる。

聴くたびに「いつかどこかで聴いたような」感じ、ほっとした感じに浸ることが出来るのに、けして誰かの真似ではないブラームスは、独創性と風変わりのバランスという点において抜きん出た存在だと思う。過去の音楽の痕跡や先輩作曲家への敬意を色濃く反映させながら、今を生きる生身の人間の感情を過不足無く盛り込みきっている点において他の追随を許さない。風変わりに堕落させない歯止めは、もちろんブラームス自身の強い意思だが、それを実現するためのツールが音楽作品の諸形式だと思われる。ソナタ形式、和音進行、変奏曲、対位法などなど、歳月を超えて伝えられてきたこれらのルールを厳格に守ることが、ほとばしる感情の吐露を節度ある範囲にとどめてくれているように見えてならない。表出する感情が強いものであるほど、あえてルール・制約を厳密に守っているかのようだ。

ブログ「ブラームスの辞書」もそうした存在でありたいものだ。他の誰の真似でもなく、単なる風変わりでもないブログになりたい。記事一つ一つが私自身の感情の素直な反映であること、結果としてそれらの堆積が誰の真似でもないブラームス論になることを切に願っている。

2008年5月27日 (火)

マッコークルの守備範囲

2005年6月12日の記事でマッコークルの著書「ブラームス作品目録」について述べた。世界最高のブラームス本だと確信している。800ページを超える大著の全貌を語ることなど私には荷が重い。おおよその輪郭を以下にまとめてみた。

  1. 導入 ここにはマッコークルに先行する「作品目録」やブラームス作品の「出版の歴史」や「手稿譜の歴史」が語られる。
  2. 作品番号を有する作品 作曲年、初演日、初版発行日、テキスト、編成等基礎情報
  3. 作品番号無き作品 同上
  4. 他作曲家作品のブラームスによる編曲 同上
  5. 他作曲家作品のブラームスによる演奏記録(指揮のみ)
  6. 失われた作品
  7. 他作曲家作品のブラームスによる編曲のうち失われたもの
  8. 断片およびスケッチ
  9. ブラームス作か疑わしい作品
  10. 自筆の筆写譜 他の作曲家の作品や民謡をブラームス自身が筆写したもの
  11. ブラームスが校訂した他作曲家の作品
  12. 参考文献
  13. ジャンル別作品名索引
  14. タイトル&歌い出し索引
  15. テキスト出典索引
  16. 作曲年代順索引
  17. 編曲者別索引
  18. 献呈者リスト
  19. 出版社リスト
  20. 筆写者 ブラームス作品を筆写した人
  21. 手稿譜所在地 なんと日本にもたった一箇所ある。WoO23とop44-9の自筆譜だ。
  22. 人名索引

ざっとこんな具合である。はっきり言って凄いのだ。つくづく日本語でないのが恨めしい。

マッコークルの偉大さに敬意を表して、カテゴリー「69マッコークル」を創設し関連記事を集約する。

2008年5月26日 (月)

暗譜からの教訓

5月18日の記事「大人の暗譜」で、バッハのハ長調のプレリュードを暗譜したことを報告した。暗譜したことで景色がすっかり変わってしまったと書いた。

全長35小節の小品ながら飽きることがない。全部で34回和音が移ろうのだが、その移ろいこそが味わいの根幹である。もちろん1個1個の和音に意味も機能もあるのだとは思うが、やはりその移ろいこそが肝であると感じる。

私のブログもそうありたいものだ。

1個1個の記事に十分な意味を持たせることは当然だが、それに加えて公開される記事の順序にも特段の配慮をする。後で振り返った時に、記事の羅列に必然性が宿っているのが好ましい。つまりこれが「移ろい」に相当するというわけだ。ブラームスに関係したネタに限定するという自主規制を、和音進行の決め事に見立てることも出来る。

きれいな和音といえども、ただ行き当たりばったりに羅列しただけでは、飽きられるのも早いというものだ。

2008年5月25日 (日)

Posaune

「Posaune」(ポザウネ)はドイツ語でトロンボーンのことだ。ブラームス作品にも「Posaune」つまりトロンボーンの出番があることは既に記事「トロンボーン」で述べた。

実はブラームスの出世作の誉れ高いドイツレクイエムop45のテキストに「Posaune」が現われる。第6楽章69小節目のバリトン独唱だ。実際には「letzten Posaune」という語句として用いられている。大抵の解説書では「最後のラッパ」と訳されている。ここを「最後のトロンボーン」と訳している解説書にはお目にかかったことがない。語呂もよくない。

そういう目でみるとこの使われ方は興味深い。第6楽章はラテン語による通常のレクイエムにおける「怒りの日」に相当すると言われている。ドイツレクイエム全曲を通じての山場でもあるのだ。68小節目からのバリトン独唱が「letzten Posaune」と歌う。実はこの部分、管弦楽の中にいる本物のトロンボーンが、第3楽章以来の沈黙を破って復帰する場所にもなっている。やがて合唱が76小節目で「Posaune」を「ff」で引き伸ばすことを合図に音楽の様相が激変するのだ。82小節目から「Vivace」に突入してわずか2小節後、合唱が再び「Posaune」と歌う。ソプラノ、アルト両パートに当てられた3連符がそれを強調する。

ドイツレクイエムの聴き手がくぐり抜けねばならない最後の激情だ。

つまりここでいう「Posaune」は「最後の審判」という重要な場面を象徴するツールになっているのだ。

次女がトロンボーンを選んだというだけで、広がり始めた世界の奥行きを思い遣る。おそらく全ての楽器の後方に同様の広がりがあるのだろう。だからオーケストラは面白い。

2008年5月24日 (土)

抜かれた

今日、長男の身長が私の身長を抜いた。家族全員で入念に確認したが間違いない。

私が父を身長で抜いたのは中学3年のときだった。高校2年の初夏は遅いとも思えるが、父は173cmだった。今私は180cmあるから良いペースだ。

体重2700g、身長48.6cmで生まれてから今日で5914日目である。

思わずブラームスネタを押しのけて記事にしたくなるくらいの嬉しさである。遠い昔父がアキレス腱を切って病院から家に帰ってきた日、エレベーターの無い社宅の3階まで、高校生だった私が背負って階段を昇った。そのときの父の嬉しそうな顔を思い出した。今私もそういう顔をしているのだと思う。

今後我が家で身長の逆転が起きるのは、次女が祖母と姉を抜く可能性だけだ。最近の次女の成長振りを考えると実現する公算が高い。きっとまた記事にしてしまうに違いない。

2008年5月23日 (金)

ブレス再び

昨年7月23日の記事でブレスは大切だと書いた。その記事の主人公は次女だったが、ブラスバンドでトロンボーンを始めた彼女は、そのことを改めて実感しているようだ。

今にして思えば「後に続くフレージングを考えて息をしなさい」と教えても小学生の次女には実感を伴って伝わっていなかったと思う。

トロンボーンを始めた次女は、改めてブレスの大切さが判ったと言っている。いい加減なブレスで吹き始めてしまうと息が続かないことがあるからだ。ヴァイオリンでは音を出しながら息を吸うことだって出来るが、トロンボーンだとそれは直ちにフレーズの切断を意味する。もっと具体的に言うと先輩に叱られるのだ。極端に申せば音楽的に見て息継ぎをしても自然な場所をあらかじめ考えていないと怖くて吹き始めることも出来ないのだ。この手の実害が伴うという点においてヴァイオリンよりも数段深刻だ。

どこでどの程度の深さで息を吸うのか楽譜に即して考える。あるいはアンサンブルの全体像に即して考える。自らこれに気付いたことはヴァイオリンの演奏にもきっと還元し得る。

何だか嬉しい。

2008年5月22日 (木)

欧州チャンピオンズリーグ

クラブチームのヨーロッパ王者を決める大会。今年は今日未明からモスクワで決勝が行われた。マンチェスターユナイテッドとチェルシーというイングランド勢どうしの戦いだった。雨中のPK戦できわどくマンチェスターの勝利に終わった。

昨年の決勝は5月23日。アテネオリンピックスタジアムでイタリアのACミランとイングランドのリヴァプールの対戦だった。思えば長男は英国研修中で、この決勝戦をカレッジの宿舎で見た。残念なことにインザーギの2ゴールでリヴァプールは敗れた。さらにその後すぐに行われたブラジル対イングランドのテストマッチは、ホームステイ先のテレビで観戦した。これがホームステイ中の大切な思い出になっているという。言葉は通じなくても一緒にイングランドを応援出来た。終了間際に同点に追いつかれて悔しがるのも日本人と同じだったらしい。ホームステイ先のお宅はレノンさん一家だ。そして何とそこのご主人の名前はジョンである。長男にはこれがどれほどすごいか判っていない。チャンピオンズリーグ決勝ではこの一家はきっとリヴァプールを応援していたに違いない。

毎年チャンピオンズリーグ決勝戦が来るたびにきっと思い出す大切な記憶。私はブラームス断ちの真っ最中だった。

2008年5月21日 (水)

11万アクセス

今朝10時頃ブログ開設以来の通算アクセスが11万に到達した。

  •  10000アクセス 2006年 3月 8日 283日目
  •  20000アクセス 2006年 8月30日 458日目(175日)
  •  30000アクセス 2006年12月30日 580日目(122日)
  •  40000アクセス 2007年 3月28日 668日目( 88日)
  •  50000アクセス 2007年  6月21日 753日目( 85日)
  •  60000アクセス 2007年 9月 7日 831日目( 78日)
  •  70000アクセス  2007年11月 8日 893日目( 62日)
  •  80000アクセス 2008年 1月 4日 950日目( 57日)
  •  90000アクセス 2008年 2月13日 990日目( 40日) 
  • 100000アクセス 2008年 4月 3日1040日目( 50日)
  • 110000アクセス 2008年 5月21日1088日目( 48日)

順調に短縮してきた1万アクセスに要する日数が、ここ2回ほど足踏みとなっている。5月12日の記事「春休みモード」でも言及した春休みのアクセス停滞を裏付ける数値となっている。

そんなことより、11万アクセスが5月20日のクララの命日になるのではないかとハラハラしていた。10万アクセスが見事にブラームスの命日4月3日にヒットしていたから、もしやと思ったが1日ズレだ。公開する記事のやりくりが大変なのである。

2008年5月20日 (火)

クララの絶筆

クララ・シューマンは日記をつけていた。1853年10月1日のブラームスによるシューマン邸訪問の日から、ブラームスに言及されることも少なくない。ブラームスの登場を歓迎したロベルト・シューマンや、若き日のブラームスの様子の貴重な証言になっている。

生涯にわたって綴られた日記は、1896年3月24日をもって途絶えている。この世を去る約二ヶ月前のことである。体力が衰えてこの先、物を書くことが出来なくなったという訳だ。

ところが、これはクララ・シューマンの絶筆ではないのだ。最後の日記を綴ってから、約40日後、1896年5月7日ヨハネス・ブラームス63歳の誕生日を祝う手紙こそが、この世でクララ・シューマンが書き記した最後の文字だと推定されている。たどたどしく途切れがちな短い手紙を読んだブラームスは、クララの最期が近いことを悟って悲嘆にくれた。

何と言うことか、これがブラームス自身にとってもこの世で迎える最後の誕生日となった。

今日はクララの命日だ。

2008年5月19日 (月)

瞬間型マルカート

マルカートは「marcato」と綴られて「はっきりと」と解される。疑問を差し挟む余地はない。

マルカートに限らず音楽用語は一般に効き目が持続する。効き目が終わる場所に標識がある場合と無い場合に分かれるが、効き目の持続はお約束でさえあるのだ。

本日話題の「marcato」も同様だ。記された場所からしばらく効き目が持続する。効き目の終わりが明記されないタイプなので、どこまでマルカートにするかは、演奏者のセンスに委ねられることになる。「はっきりと」弾かれることを期待されるが、ただちにダイナミクスの増大を意味する訳ではない。ブラームスにおいては「p marcato」や「pp marcato」が少なからず出現することからも明らかである。

さてさて、もしもブラームスが音符1個をはっきりと演奏させたいと思った場合、用語としては何を使うのだろう。持続型の「marcato」では使い勝手が悪い。効き目の終わりを表す用語が存在しないから、marcatoからしばらくは自動的に「はっきりと」弾かれてしまう。

この問いに対してブラームスが用意したと思われる用語がある。

「rf」(リンフォルツァンド)がそれである。大抵の音楽用語事典には「rf」と「sf」の区別が書かれていない。どちらも「その音を特に強く」と説明している。しかしブラームスは明らかに書き分けている。「ブラームスの辞書」は「rf」の全用例から「sf」よりは、お宝度、とっておき度、繊細度が高いと断じている。

本日はさらにこれを深めて「rf」の機能として「瞬間型マルカート」を提案する次第である。ブラームスの作品においてということは譲れぬ前提だが、定義は簡単だ。「marcato」と全く同じ概念の瞬間型だ。周囲の中で抜きんでて大切な音に対するマーカーとでも言い換えられよう。ただちにダイナミクスの増強を意味しないことも「marcato」と同様だ。

「rf」の解釈に詰まった際の、打開策の一つとして提案する次第である。

「sf」と同じと説明されるより、数段収まりが良い。

2008年5月18日 (日)

大人の暗譜

4月26日の記事「96分の1」でバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻から、ハ長調のプレリュードの暗譜に挑戦すると述べた。あれから1ヶ月。どうやら暗譜にこぎつけた。それでも弾けるとは限らない。頭に次の音が浮かんでいても、指がその音がする鍵盤にたどり着けないことあるからだ。このところまずまず止まらないようになった。

連休中に暗譜出来てしまうとタカをくくっていたのだが、手こずった。たった35小節が思うに任せなかった。ピアノの演奏経験ゼロとはいえこれほど苦労するとは思わなかった。毎回軽々暗譜できてしまう娘たちとは脳味噌が違うのだ。理屈抜きに楽譜を丸々脳味噌あるいは指にコピーするかのような子供のやり方ではだめだ。連休中盤からあきらめてやり方を変えた。

作品の構造や和音の移ろいを把握するようにしたのだ。

全35小節、毎小節和音が変わり全部で30通りの和音で構成されている。それら30個の和音はただ行き当たりばったりに並んでいるのではない。和音から和音への「うつろい」にこそバッハの音楽性が込められているのだ。暗譜することは後回しにして、そうした和音の「うつろい」や「ストーリー」を記憶しようと考えた。結果としてそれが正解だった。

第1の段落は11小節目までだ。11小節目で「G」の和音に収まるまで、左手は穏やかな動きに終止する。10小節目のDA以外、左手は3度以内の音程になる。この間の見せ場は5小節目のA。コードネームで言うと「Am」である。左手が「CE」のまま、右小指で触れる「A音」の可憐さにしびれた。次いで8小節目の左手の「HC」がおいしい。次の9小節目では右手が変わらぬまま、Aに降りる。

第2の段落は、11小節目の「G」が減七和音によって崩落して始まる。左手は「GH」「GB」「FA」「FAs」「EG」と進み19小節目の「C」に至る。この「C」は、冒頭の「C」のオクターブ下だ。つまり響きの底のような感じである。

第3の段落は、29小節目までで私にとっては最大の難所。面白い和音が頻発する。25小節目の「C/G」は一段落の踊り場だ。ここからソプラノが「E→F→Fis→G」と進む山場。26小節目の多分sus4が心地よい。

第4の段落は、残り6小節。オリジナルの段階では存在せず後から加えられた部分だ。

この要領でストーリーを意識することで、暗譜が格段に進んだ。

しかし、先ほど「正解だった」と申したのは単に暗譜が進んだことだけを指す訳ではない。バッハが繰り出す和音の羅列に酔ったと申し上げるべきだろう。何度も聴いていた曲なのに景色が全く変わってしまった。

2008年5月17日 (土)

お心当たり

世の中いくつになっても判らぬことはあるものだ。どなたかお心当たりの方はいないだろうか。

かれこれ4週間前からブログ「ブラームスの辞書」に「ユーリエ・シューマン」というキーワードでたどり着く人が激増している。昨年11月10日の記事「ユーリエ・シューマン」が釣られているのだ。

誰か有名人がテレビやネットで「ユーリエ・シューマン」に言及したのか、はたまた来年のラフォールジュルネのお題にでもなったかなどと愚考するが、説得力ある理由にたどりつけない。それ以前も「ユーリエ・シューマン」というキーワードで釣られることが無かった訳ではないが、今回の激増振りはその量において群を抜いている。

私のブログは見ての通りブラームス偏重のブログだ。だから唐突なキーワードだとのけぞりもするのだが、今回の「ユーリエ・シューマン」は微妙だ。検索する人々に悪意は無かろうが単にのけぞるにはあまりに切ない。

2008年5月16日 (金)

異端のインテルメッツォ

作品118-1のイ短調のインテルメッツォのこと。あるいは作品10-3も加えることが出来るかもしれない。

ブラームスは生涯で21曲のインテルメッツォを作曲している。これには、作品10-3やピアノソナタ第3番の第4楽章、さらにはピアノ四重奏曲第1番の第2楽章も含まれている。

この21曲のインテルメッツォのうち、問題の作品118-1は16番目に相当する。元々劇音楽の幕間に演奏される作品の意味だったインテルメッツォを独立した作品に昇格させ、独自のニュアンスを付与してきたブラームスだが、16番目に至って、自らが営々と築いてきたイメージを取り崩しているようにも見える。

  1. ゆったりとしたテンポ
  2. marcato不存在
  3. 弱めのダイナミクス

「f」で開始されるインテルメッツォは他に1例があるばかりだし、冒頭指定に「appassionato」を持つインテルメッツォはこれだけだ。さらに「Allegro」というテンポも異端である。かろうじてmarcatoの不存在」だけは守られているが、全体の印象は「カプリチオ」そのものだ。

「ブラームスの辞書」本文では、作品117の3曲、そして作品118-2という世界遺産級の珠玉のインテルメッツォに挟まれているので、気分を変えてとでも思ったのかもしれないと、苦し紛れの解釈も試みられてはいるが、何の解決にもなっていない。

作品116の最後を飾る7番ニ短調のカプリチオを最後に、カプリチオがパッタリと姿を消している。作品116以前は、小品のタイトリング面において、「インテルメッツォ」と「カプリチオ」が数の上で均衡するような配慮がされていたと思われるが、作品117以降では、インテルメッツォが極端に優勢になる。インテルメッツォを3つ並べた作品117はいたし方ないにしても、従来の基準ならば「カプリチオ」のタイトルを奉られてもいい作品にさえ、「カプリチオ」のタイトルが巧妙に回避されている。たとえば作品118-1、118-3、119-3である。

本件作品118-1は、その最初の兆候と捉えるべきであろう。

2008年5月15日 (木)

パートの絆

次女がブラスバンドの先輩から修学旅行のおみやげをもらった。トロンボーンは3年生が2人いるが、その2人が後輩全員にお土産を買って来たらしいのだ。キーホルダーとティッシュケースだ。他に「皆さんで召し上がって」という意味のお菓子があったという。たいそう喜んでいる。

そうだ。その通りだ。パートというのはそういう絆が大切なのだ。パートの仲間とは文字通り寝食を共にする。演奏会には全員出番が回ってくるわけでもない。演奏会に出られる出られないという点から見ればライバルなのだが、部活動が楽しくなるかどうかはパートの仲間とのコミュニケーションにかかっている。

私も大学で感じた。入部当日にヴィオラのパートリーダーが部室にいたという偶然でヴィオラを選んだベートーヴェン好きの新人を、ヴィオラの先輩たちは弟のようにかわいがってくれた。娘らが先生について習得した弦楽器のイロハは、全部先輩に教えてもらった。もちろんベートーヴェンからブラームスへの乗り換えはその過程で起きた。特に1つ上の先輩は火木土はオケの公式練習があるから、空いている月水金に必ず1時間を割いてくれた。彼女の根気が無ければきっと挫折していたと思う。彼女は後日私をヴィオラに引き入れた先輩と結婚し、私は生まれて初めて披露宴の司会を引き受けた。

そして当然私も後輩の初心者を教えた。それが部の伝統なのだ。連綿と続くオケの活動の中でヴィオラというパートの水準を維持向上させるためには、後輩たちの育成は必須だ。特定の学年に人材が集中したり、その逆に特定の学年に空白があるのは好ましくないのだ。もちろん時代により濃淡はあるが、私の所属した4年間ヴィオラはそういう絆を感じさせる集団であり続けた。というより今も続いていると申し上げたい。

同じ事が中学生のブラスバンドで起きるのは当然でもある。娘は思いがけずおみやげをもらうことで初めてそれに触れた。2年後自らが修学旅行に出かけたら後輩たちにしてあげればいい。

2008年5月14日 (水)

バッハ伝

1873年5月、19世紀最高のバッハ研究家フィリップ・シュピッタのライフワーク「バッハ伝」の第1巻が刊行された。

それまでの研究の成果を一瞬で霞ませてしまうその時点でのバッハ研究の金字塔であった。バッハのみならず、その後に続く作曲家研究の方法論的規範ともなっていった。現代の最先端の研究成果に照らせば、修正が必要になった部分も少なくないが、一個人の著述としてシュピッタの「バッハ伝」を凌ぐ研究は現代に至るまで出現していないという。

シュピッタは135年前の今日1873年5月14日、刊行されたばかりの「バッハ伝」第1巻を、意見を求める手紙を添えてブラームスに献じた。ブラームスの反応は感動的だ。8つ年下の気鋭の研究家に対し、暖かなまなざしと敬意に溢れた手紙を送って労をねぎらった。「独りよがり」を懸念するシュピッタに対して「出版は万人にとっての収穫となるでしょう」と激賞した。

ブラームスはこのときまでに、バッハ研究や演奏の分野で、第一級の研究者が一目置く存在になっていたのだ。そして年下の研究者の成果に対しても素直に敬意を表するという度量をも持ち合わせていたことになる。シュピッタとブラームスの交流は生涯続く。

1880年に刊行されることになる「バッハ伝」第2巻執筆の大きな励みになったことは申すまでも無かろう。

シュピッタの喜びが目に浮かぶ。何しろブラームスのお墨付きである。

シュピッタは幸せだ。私だって「ブラームスの辞書」をブラームスに見てもらいたかった。たとえ、コテンパンに酷評されても本望である。

2008年5月13日 (火)

Alla breve

一般の音楽辞典には「2分の2拍子で」と書かれていることが多い。他に2分音符や全音符などの白玉系の音符だけで構成される、古い様式を指すこともある。バッハのオルガン作品BWV589は「Alla breve」がタイトル代わりになっている。白玉系の古式ゆかしい作風だ。

注意しなければならないことは、2分の2拍子の全てに「Alla breve」と書かれているわけではないのだ。

ブラームスの作品番号ありの作品の中で2分の2拍子の楽曲が50曲ある。この中では男声4部合唱の「私は角笛を苦しみの谷間に鳴らす」op41-1が「Andante (alla breve)」とされている以外、「alla breve」は一切現われない。この作品の楽譜を見て驚いた。いわゆる白玉系になっている。実はこの同じ曲がop43-3にも独唱用となって現われるが、こちらには「Alla breve」という記載は無い。

つまり、2分の2拍子なら何でもという状態からは程遠いということだ。

私が生涯で初めて出会った「Alla breve」はベートーヴェンだった。英雄交響曲の第3楽章381小節目である。スケルツォだから元来4分の3拍子だが、この瞬間4小節だけが2分の2拍子になっている。1小節の長さを変えずに2分の2拍子を挟み込む意図は明白だ。スケルツォ第3楽章も押し詰まった印象的な場所である。

ブラームスがこの英雄交響曲を密かにトレースしたのではないかと感じている曲がある。

ホルン三重奏曲だ。その第2楽章スケルツォはAllegroの4分の3拍子だが、13小節目からの4小節間、実質2分の2拍子になる。例によってブラームスは断固として拍子を変えないが、英雄交響曲のスケルツォの381小節目の効果と同じである。ベートーヴェンはこのからくりを楽章中でたった1度用いることで意外性を演出したが、ブラームスにおいては、このリズムの錯綜こそがスケルツォ主題の肝になっている。

この場所にさえ「Alla breve」と書かぬくらいだから、ブラームスとって「Alla breve」は「古式ゆかしい白玉系」に限るということなのだろう。

この他にもホルン三重奏曲には、ベートーヴェンの英雄交響曲との繋がりを感じさせることが多い。

  1. ソナタ形式の楽章が「Allegro con brio」になっている。
  2. ホルンinEsが活躍する。
  3. 4つある楽章のうち3つが変ホ長調。4つのうち3つまでが同じ調になるのは、この他ではピアノ協奏曲第2番だけだ。

ホルン三重奏曲を「英雄トリオ」と呼びたいくらいだ。第3交響曲を「ブラームスのエロイカ」と呼ぶのにくらべれば、ずっとエレガントである。

2008年5月12日 (月)

春休みモード

ブログへのアクセスの話だ。立ち上げから丸3年が過ぎようとしていることもあって、ブログへのアクセスの年間の傾向がおぼろげながら判ってきた。当初、盆と正月のアクセス日照りが目立ったが、最近ではどうも春休みが深刻だと感じる。盆も正月も確かにアクセスが激減するのだが、停滞するのは長くても10日だ。

本日話題の春休みはどうも停滞の息が長い。3月中旬過ぎから始まって、最終週に底を打つ。以降だらだらと4月いっぱい続き、5月の大型連休明けに回復する感じだ。ここ1週間でどうやらトンネル、つまり「春休みモード」を脱した感じである。年度末は人事異動や引っ越しのシーズだからだと思うが、この長い春休みはどうも大学生のライフスタイルと一致するような気がしている。4月はオリエンテーションが多くてまともな授業は大型連休明けだった。

何やら嬉しい。

その仮定が正しいなら、それはつまり大学生にも読まれているということだ。

2008年5月11日 (日)

カプチーノ

一昨日、少々遠回りをして3rd noteで昼食をとった。ランチセットの飲み物はカプチーノにした。「豚バラ肉の煮込みトマト風味」が相変わらず美味であった。

食後にカプチーノが運ばれてきて驚いた。

Img_4947_2

ご覧の通りである。

元々この店のカプチーノはホームページにもある通り、泡の上にイラストが描かれるのが定番だ。それだけでもなかなか手が込んでいると感心していたが、「ブラームスの辞書」の作者が現われたと気を使ってイラストをブラームスに差し替えたのだ。とっさの機転が心地よい。BGMもいつしかオールブラームスになっていた。若いのに芸が細かいママであった。それにしてもブラウンと白の色合いがブラームスに対する私のイメージと合っている。

難を言うともったいなくて飲めない。帰りがけにイラストを崩さぬようそっと飲んだ。上手に飲むと最後までイラストが崩れないそうだ。

2008年5月10日 (土)

平均アクセス100

ブログ開設から何となく目標にしてきた数値「一日平均アクセス100」にひっそりと到達した。

たとえば10万アクセスが開設1000日で達成出来れば、それがつまり「平均アクセス100」だ。開設当初は一日のアクセスが10件にも満たないことも多いから、平均アクセスが100になるのはなかなか大変なのだ。

本日はブログ開設から1077日目だ。本日19時26分頃ブログ開設以来の通算アクセス数が「107700」となった。107700÷1077=100となる。この瞬間平均アクセス100に初めて到達したことになる。偶然にも長女が修学旅行から帰宅した時刻である。

ブレークしているブログにとっては、意識することもなくクリアしているのだろうが、「ブラームスの辞書」のような中小ブログにとっては重要な節目だ。

2008年5月 9日 (金)

異端のソナタ

ブラームスの多楽章器楽曲は、いわゆるソナタ形式を採用している。「ソナタ形式」や「ソナタ」の定義は難解だ。専門書では大抵大きなスペースを割いて解説が試みられているが、困ったことに例外が大変多いのだ。どのような角度から説明を試みても少々の例外が発生してしまうのだという。

「ソナタ形式」を採用したソナタ楽章が、緩徐楽章、舞曲楽章を従える形をとり、最後はロンドか変奏曲かフーガで締めくくられる。しばしば緩徐楽章と舞曲楽章の位置が交代する。ごくまれに緩徐楽章か舞曲楽章のどちらかが省略される。ひとまずこのあたりをソナタ楽曲の外観上の定義と位置付けておく。

上記のような超大雑把な定義でも、さっそく例外が存在する。ソナタ形式の楽章自体が省略されているケースだ。モーツアルトの「トルコ行進曲」で名高いイ長調のソナタは、ソナタ形式の楽章が省略されている。

ブラームスにおいては、ほぼ外観上の例外は無いといいたいところだが、一つだけ鮮やかな例外が存在する。ソナタ楽章→緩徐楽章→舞曲→ロンドという一般的な楽章配列になっていない作品が一つあるのだ。それはホルン三重奏曲変ホ長調作品40だ。楽章配列はロンド→舞曲楽章→緩徐楽章→ソナタ楽章になっている。通常のソナタの楽章配列を逆さから並べた形になっているのだ。ベートーヴェンでもソナタ楽章を最終楽章に持ってくる例が無いわけではない。弦楽四重奏曲14番と月光ソナタがすぐに思い浮かぶ。どちらも「第14番嬰ハ短調」だというのが不気味だ。ベートーヴェンにおいて嬰ハ短調のソナタはこの2つだけだったと思う。楽章配列の錯乱と嬰ハ短調に相関があるのかもしれない。

さてさてブラームスのホルン三重奏曲は、いろいろな意味で異例の出来事に満ちたソナタである。まずは楽章配列なのだが、これらの調性も変ホ長調→変ホ長調→変ホ短調→変ホ長調という具合だ。4楽章中3楽章が変ホ長調だということだ。しかも残る楽章も同主調になっている。ブラームスの作品では例が無い。4楽章中3楽章の集中は、ベートーヴェンの第三交響曲が緩徐楽章を除いて変ホ長調だ。緩徐楽章はハ短調だからこちらは調号フラット3個にこだわった結果だ。ブラームスは主音Esにこだわっているのだろう。Es管のホルンに配慮したのかもしれない。

ホルンとヴァイオリンとピアノという編成も異例だし、楽譜上に散りばめられた用語にも、ここだけのケースが多い。とてもおいしいソナタである。

2008年5月 8日 (木)

あをによし

今日から長女が2泊3日で京都奈良へ修学旅行に出かけた。朝5時に駅まで送った。

自分の持ち物の準備もテキパキと手際がいい。こういう段取りの良さは私に似ている。3人の子供たちの中では一番だ。今回の旅行は私服でOKということもあって、ファッション命になっている。まさにつま先から頭のてっぺんまで練りに練ったという感じだ。こまごまとした小物までも長女らしいセンスが満ち満ちている。昨日はブラームスの誕生日だというのに最後の点検に余念がなかった。

駅での車からの降り方、集合場所への近づき方にも自分なりの形があるような感じだ。年頃の女の子特有の微妙な見栄の張り方と見た。

初日の今日は奈良でクラス行動。東大寺と法隆寺だ。クラスの修学旅行委員になったので訪問先について調べ物をしていた。バスの中で次の訪問先についてのレポートを読むと言っている。「玉虫厨子」「百済観音」「救世観音」「止利仏師」「斑鳩宮」などにフリガナを打っていた。さり気なく手伝ったがなかなか周到な準備ぶりで感心した。

子供たち3人のうち誰かがいないととても寂しい。特に明るい仕切り屋の長女は、我が家のムードメーカーだから灯が消えたようだ。いつも喧嘩が絶えない兄と妹が暇を持て余し気味である。

3日間、バドミントンもヴァイオリンも忘れて古都を満喫してほしい。

あをによし奈良の都は咲く花の匂うが如く今盛りなり

2008年5月 7日 (水)

ドン・ジョヴァンニ

モーツアルトの3大オペラの一つ。「フィガロの結婚」のヒットにより受注した作品。初演は依頼元であるプラハで1787年10月29日に行われた。ウイーン初演は1788年5月7日つまり220年前の今日だ。ブラームスの誕生から遡ることきっかり45年である。

ブラームスがそのことを知っていたかはともかく、グスタフ・マーラー指揮のブダペスト王立歌劇場の「ドン・ジョヴァンニ」を絶賛したことが記録に残っている。「完璧なドン・ジョヴァンニを聴きたければハンガリーの首都に行け」と述べたとある。

マーラーの作品への評価については微妙である。ドヴォルザークへの手放しの賞賛とは一線を画するが、指揮者マーラーについては別物であったような感じである。

あんな記事こんな記事ばかりでは身が持たない。

だから肩の力を抜いた誕生日ネタである。

2008年5月 6日 (火)

シェメッリ賛美歌集

バッハの作品一覧を眺めていると、「シェメッリ賛美歌集」という名前に突き当たる。Georg  Christian Schemelli(1676?~1762)という人が、当時ライプチヒ、トマスカントルの座にあったバッハに協力を依頼して賛美歌集を編纂した。全部で900を超える賛美歌の歌本だと思えばいい。このうち69の作品に通奏低音が施されている。BWV番号で申せば439から507までの番号が付与されている。つまり69曲全てがバッハの作品として取り扱われているのだ。

最近のバッハ研究によって、この69作のうちバッハの真作はわずかに3曲であることが判明した。BWV452、BWV478、BWV505である。こうなると冷たいものでバッハ作品の解説書でも、この3作にしか言及していないことが多い。CDもほとんど無い。

「真作にあらず」と判定された66曲のリストを眺めていてお宝を見つけた。BWV454を背負った「Ermuntre dich,mein scwacher Geist」というコラールだ。「元気を出せ我が弱き心よ」とでも訳すのだろう。ブラームスの第一交響曲第1楽章の232小節目、展開部のクライマックスでこのコラールが引用されているのだ。元はドイツの古い賛美歌だともいう。現にBWV454とブラームスの第一交響曲のその場所はちっとも似ていないのだ。強いてこじつければ5小節目からの4小節が似ているように見えなくもない程度だ。ブラームスが引用したのはシェメッリ讃美歌集に収められたのとは別の「Ermuntre dich,mein scwacher Geist」かもしれない。

ずっとCDを探していたが、このほどついに入手出来た。

2008年5月 5日 (月)

我が母校

昨年11月24日の記事「県大会」において、私自身の中学時代の部活動の最後の大会が開催された同じ場所で長女のバドミントンの県大会が行われるという奇遇に触れた。

そして4月に行われた市大会で団体2位になったので、今日県大会があった。連休の人出でにぎわう東京ディズニーランドの隣の体育館が会場となった。

当然応援に行った。

なんとそこには前回を上回る奇遇が待っていた。千葉市の代表として私の母校が参戦していたのだ。ジャージの胸には見覚えのあるエンブレムがあった。娘の試合が始まる前に母校を応援することが出来た。ダブルス2組、シングルス1組を行い2勝した学校の勝ちだが、我が母校はあっさり2連勝し、第2ダブルスの出番を待たずに1回戦を突破した。見ず知らずの子供たちが妙に頼もしく見えた。

すると会場のアナウンスが入った。たった今母校が勝利したコートで、長女が第一試合を戦うことになったのだ。これは縁起がいい。

結果は惜しくも負け。長女は第1ダブルスのメンバーとして第1戦を戦い、第1セットを取られながら続く2、3セットを連取しての逆転勝ちだった。ところがシングルスはフルセットで破れ、第2ダブルスも惜しいところで届かなかった。

夏にもう一度チャンスがある。

2008年5月 4日 (日)

出世作

音楽、文学、美術等の創作系諸分野で、制作者が世の中に確固たる地位を築くキッカケとなった作品のこと。デビュー作が出世作になる人がいるかと思えば、出世作以降パッタリという人もいる。出世が本人死後のことさえある。もちろん一度も出世作を発することが出来なかった人が一番多いことは言うまでもない。

さてさてブラームスの出世作は何だろう。ハンブルグの貧しい家庭に生まれたブラームスが音楽一本で皇帝から勲章をもらったのだから、出世したと考えることに異論はあるまい。ブラームス程度では出世と呼べないとなると本日の記事そのものに意味が無くなる。

作品1のピアノソナタ第1番はデビュウ作ではあるが出世作とまでは言えまい。ロベルト・シューマンのセンセーショナルな紹介のおかげで認知度だけは急激に上がっていたと思われるが、作曲家としてただちに広く認知されたとは思えない。中には「お手並み拝見モード」の人もいたと思う。

一般には1868年のドイツレクイエムによって作曲家ブラームスが地位を確立したとされている。伝記を紐解けば一応納得できる。実はドイツレクイエムから1年遅れて出版されたハンガリア舞曲も出世作と呼ぶに相応しいと感じている。世間一般への浸透が進んだという意味では、こちらが上とさえ思える。CDもipodも無い時代、音楽を気軽に楽しもうと思えば家庭でのピアノ演奏が主流だった。ピアノ連弾用のハンガリア舞曲は、楽譜の売れ行きという面でセンセーショナルな成功をブラームスにもたらした。曲の規模、内容、出来映えにおいてドイツレクイエムに何等のケチをつけるものではないが、だからといってドイツレクイエムの楽譜がガンガン売れまくるということは考えにくい。

1868年頃から作曲家としてのステイタスが上がったことは間違いないのだろう。そのキッカケをドイツレクイエムの初演成功に求めるのは自然なことだが、1869年のハンガリア舞曲の出版も無視出来ない要因だと考えている。ドイツレクイエムの功績はしばしば強調されるが、ハンガリア舞曲の貢献が相対的に無視されていると思えて仕方がない。

欧州の平均的な家庭への浸透度を高めたという意味では、ハンガリア舞曲の貢献度は偉大である。

2008年5月 3日 (土)

トロンボーンがやってきた

次女ブラバン入部から3週間、毎日熱心に練習している。5月から朝練も始まった。これにより平日は朝45分、放課後に2時間半の練習となる。土曜日は8時30分から12時30分までの4時間だ。1年生は先輩についてひたすら基礎トレだそうだ。これで上手くならぬはずがない。「いやいや1日30分」のヴァイオリンとは雲泥の差だ。ヘ音記号にも既に親しんでいる様子である。

連休の初日を、次女のトロンボーン購入に充てた。

大学時代の知り合いの金管楽器のメンバーからトロンボーンについての情報を事前に仕入れた。大変なご無沙汰というのにいきなり電話して相談すると、みな快く教えてくれた。「耳で聴いて音程を作る」という意味でトロンボーンはヴァイオリンと同じだといって励ましてくれた。

学校の備え付けの楽器でしばらく様子を見るべきという意見もあり迷ったが、「3年間続ける」という本人の意思が固く思い切って購入に踏み切った。自分の楽器を持つと練習に気合いが入るのはヴァイオリンと同じだろう。ヴァイオリンへの熱意を冷ますことになりはしないか少し心配もある。が8年間のヴァイオリンの経験は必ずやトロンボーンの習得にもプラスだと信じる。音楽経験ゼロから大学生になってヴィオラを始めた私よりも良い位置からのスタートになるハズだ。8年間のヴァイオリンの経験がどう消化されるのか、はたまたヴァイオリンの練習にはどんな影響があるのか楽しみである。

店頭で試奏し、お店の人のアドバイスももらいながら決定した。トロンボーンの品揃えの中では安い方だが、実際に財布からお金が出るとなると痛い。バドミントンのラケットよりは数段高くつく。

ケース、譜面台、チューナー、グリス、楽器拭きなど付属品をオマケにつけてもらい意気揚々と帰宅。

帰宅して楽器を取り出す次女の顔を見て、迷いが吹き飛んだ。

さっそく吹かせてみた。私にはトロンボーンの巧拙はわからぬが、ピチピチとした希望の音がしたような気がする。まだまだたどたどしい音がする。それを聴くとヴァイオリンの8年の積み上げの厚みを改めて実感することが出来た。

降って湧いたような娘の「ブラバン入部宣言」に遡ってカテゴリー「68 トロンボーン」を新設する。

2008年5月 2日 (金)

ウイーン万国博

何でもブラームスに結びつける妙な癖が直らない。本日のネタもその系統だ。

1873年5月ウイーンで第6回万国博覧会が開催された。日本の遣欧使節団が見学したのが1862年の第4回ロンドン、1867年第5回のパリには幕府や薩摩藩の出品があったものの、この年のウイーンには日本政府初の公式出品の栄誉が刻まれている。

1871年にウイーン楽友協会の芸術監督に就任したブラームスは1875年までその職にあったから、ウイーン開催の第6回万国博覧会を見学していた可能性は高い。夏には避暑と称してウイーンを離れるブラームスだが、会期は10月末までなので可能性は十分だ。開会式や閉会式でウイーンフィルは演奏したりしなかったのだろうか。もししていれば縁浅からぬ楽友協会芸術監督が無関心でいられるハズはない。

日本政府の公式出品を見たかもしれない。会場に日本のメロディでも流れていれば、きっと感心を持ったに違いない。

2008年5月 1日 (木)

senza ritardando

「リタルダンドなしで」と解される。「senza」は「con」の反対語だ。英語でいうところの「without」に相当する。

楽想から判断して放置すると遅くされかねない場所、しかもそれでいて遅くされては困る場所に「なりませぬ」とばかりに鎮座している。ブラームスは生涯で一箇所この語句を用いている。

「8つのピアノ小品」op76の中の2番ロ短調のカプリチオの81小節目に「diminuendo (senza rit.)」として出現する。まるで潮が引くようなディミヌエンドを、テンポを落とすことなく実現せねばならない。2小節後に始まる主題再帰の準備の一環である。まったくテンポを落とさずに主題を再現させる意図が込められていると考えたい。放置するとテンポが落とされかねないと危惧していたと思われる。

「diminuendo」にテンポダウンの機能があった証拠となりかねないが、その観点からは、「senza rit」を囲むカッコが重要である。ブラームスはやはり、「diminuendo」にテンポダウンの機能を認めていないと思う。「diminuendoにはテンポダウンの機能はないけれど、念のため」というニュアンスがこのカッコから透けて見える。

一方でこのカッコが「自筆譜には無いけど」の意味だったら少しがっかりだ。出来れば自筆譜で確かめたいものだ。

もし自筆譜にもあるならここでテンポを維持することは、それほど重要だということだ。

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