次の展開
これが作品の受け手に読まれると、「マンネリ」「月並み」という類の批判を受けかねない。音楽や文学など「流れ」が重要な芸術において顕著である。いわばクラシック音楽の諸形式は古来から積み上げられた経験の堆積だから、少しクラシック音楽に慣れて来ると曲の流れが判るようになる。ソナタ形式、ロンド形式、フーガ、メヌエットなどなどだ。
だから形式に捉われないことを信条とした作曲家たちは、次々と既存の形式に従わない新機軸にトライした。「次の展開」を読まれてしまうことがないから、「マンネリ」「月並み」という批判をかわすことが出来る。
ブラームスの行き方は少し違う。聴衆が「次の展開」を読みきっていることを前提に、その読みの裏をかくのだ。だから「読んでください」とばかりに既存の形式にどっぷりと浸かった作品を出し続けた。交響曲、協奏曲、ソナタ、変奏曲など標題を与えないことで、ある程度のレベルの知識や耳を持った聴衆が「次の展開」を読むことを想定している。そうしておいて「次の展開」が読まれていればいるほど効果がある「微妙なひねり」を連発してみせる。連発してはいるのだが、大所高所に立って眺めれば、やはりそこには確固たる形式感が備わっている。どんなに美しい旋律にも論理の裏づけがあり、どんなに堅固な変奏曲にも美しい旋律がある。
もちろんその「微妙なひねり」も味わいの中心の一つではあるのだが、「読みの通りに」展開するというのも実は快感だ。毎回「この紋所が目に入らぬか」とクライマックスを迎える時代劇が、長寿番組になっているのもそのせいだ。肝心なのはバランス。ブラームスはその匙加減が絶妙なのだ。
「次の展開」が読めるようになればなるほど、「微妙なひねり」に感嘆することが出来る。ブログ「ブラームスの辞書」は書籍版とともに、「次の展開」をより豊かに読むための助けになりたいと思う。
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