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2008年10月31日 (金)

網羅

漏れが無いことくらいの意味か。目的になる事項が有限であることが前提の言い回した。整数を網羅するとは言えないことからもそれと判る。人間は網羅することが好きだ。食べるために必要以上の種類を集めたいのだ。それはしばしばコレクションと呼ばれて、人間の趣味のうちの相当な領域を占める。

無限個存在するものは網羅とは言わないと述べたが、無限か有限かわからないものはとりあえず網羅の対象になる。いわば瞬間有限のものも立派な対象という訳だ。たとえばブラームスが既に死んでしまっている以上ブラームスの作品は有限個だ。これに対してブラームスの作品を録音したCDは、今この瞬間に存在するCDは有限だが、今後出現することをやめないだろう。これが瞬間有限だ。

ブログ「ブラームスの辞書」について最近感じ始めていることがある。本の宣伝媒体として始まったブログだが、このところ自分の中で位置づけが変化してきている。

私という人間の頭の中に去来したブラームスネタを全て文書にして残したいと思うようになった。同じネタを繰り返し思う場合は別として、脳味噌にチラリとでも浮かんだブラームスネタは全部書留たいのだ。この先生きている間は新たなブラームスネタを思いつく可能性がある。これはまさしく「瞬間有限」だから網羅の対象である。

気をつけねばならないのは、死ぬ瞬間に新たなブラームスネタを考えていると、それは文書に出来ないということだ。死ぬ瞬間を迎えるまでに全てのブラームスネタを思いつき終えていなければならない。

2008年10月30日 (木)

行動範囲

地名辞書では「ドイツ」「オーストリア」「イタリア」などの国名については収集の対象にしていないと述べた。今日の記事はその埋め合わせである。

ブラームスが生涯のうちに行ったことのある国々を現在の地図に基づいてリスト化してみた。

  1. イタリア ブラームスのイタリア好きは有名。生涯で8回イタリア旅行を試みているが、演奏旅行は一度もないのが不思議である。
  2. オーストリア ウィーンに定住していたから当然。
  3. オランダ 作品の熱狂にはブラームス本人もありがたいと感じていた。
  4. サンマリノ イタリア旅行のついでに立ち寄っておみやげに切手をかった。 
  5. スイス 友人も多く、避暑に最適だった。
  6. スロヴァキア ブラチスラヴァでタウジヒと酔っぱらった記録がある。
  7. チェコ プラハにドヴォルザークを訪ねたことがある。
  8. デンマーク 舌禍事件も起こした。
  9. ドイツ そりゃあ当然。
  10. バチカン 素通りはあり得ぬ。
  11. ハンガリー ブダペストの「ドンジョヴァンニ」がお気に入りだ。
  12. ベルギー 演奏旅行で立ち寄っている。
  13. ポーランド 大学祝典序曲のブレスラウは現在ポーランド領だし、ダンチヒで演奏会をした。
  14. ルーマニア ヨアヒムとトランシルヴァニアを訪れたことがある。
  15. ロシア ペテルブルクとケーニヒスベルク現在のカリーニングラードを訪れた。

確認が出来ていないが、ひょっとすると通過するくらいはしていたかもしれないのは以下の通りである。

  1. アルバニア
  2. エストニア
  3. スロヴェニア
  4. ブルガリア
  5. ベラルーシ
  6. モナコ
  7. ラトビア
  8. リトアニア
  9. リヒテンシュタイン
  10. ルクセンブルク

やっぱりイギリスは嫌われていたのかもしれない。また海を渡らねばならないと言い訳が出来るイギリスはともかく、フランスの空白も目立つ。普仏戦争の当事国だからかもしれない。イタリア旅行のついでにコルシカ島あたりに行ってはいないか興味がある。惜しいのはノルウェイ。晩年のブラームスをグリークがノルウェイに誘っているが実現しなかった。

2008年10月29日 (水)

祝15万アクセス

本日夜8時15分頃、ブログ開設以来のアクセスが15万に達した。

  •  10000アクセス 2006年 3月 8日 283日目
  •  20000アクセス 2006年 8月30日 458日目(175日)
  •  30000アクセス 2006年12月30日 580日目(122日)
  •  40000アクセス 2007年 3月28日 668日目( 88日)
  •  50000アクセス 2007年  6月21日 753日目( 85日)
  •  60000アクセス 2007年 9月 7日 831日目( 78日)
  •  70000アクセス  2007年11月 8日 893日目( 62日)
  •  80000アクセス 2008年 1月 4日 950日目( 57日)
  •  90000アクセス 2008年 2月13日 990日目( 40日)
  • 100000アクセス 2008年 4月 3日1040日目( 50日)
  • 110000アクセス 2008年 5月21日1088日目( 48日)
  • 120000アクセス 2008年 7月 5日1133日目( 45日)
  • 130000アクセス 2008年 8月15日1174日目( 41日)
  • 140000アクセス 2008年 9月22日1212日目( 38日)
  • 150000アクセス 2008年10月29日1249日目( 37日)

1万アクセスに要する日数が2度続けて40日を切った。そうかと思うと10月13日(月)から7日間のアクセスが初めて2100を超えた。つまり一日平均300アクセスを頂戴したことになる。順調にアクセスが伸びている。いっそう底堅くなった感じである。

年間10万アクセスに間もなく手が届くペースだ。ブラームス神社にお礼をしようと思う。

2008年10月28日 (火)

マイニンゲンのバッハ

10月25日の記事「リヒャルト・シュトラウス」で、第4交響曲がマイニンゲン宮廷管弦楽団によって初演されたと述べた。

ハンス・フォン・ビューローはここの指揮者だ。宮廷楽団の全権を掌握していた彼が、ブラームスの友人だった縁で、ブラームスにこのオーケストラの機能を提供していたのだ。

マイニンゲンの宮廷楽長の先輩にヨハン・ルードヴィッヒ・バッハ(1677-1731)という人がいた。このポストがだだちに楽団の指揮者をも意味するかは不明だが、作曲家としての活躍は確認出来る。実はこの人ヨハン・セバスチャン・バッハの親戚だ。そういえばマイニンゲンという街は、バッハの故郷アイゼナハの南わずか50kmのところに位置する。いわば隣町の8つ歳上の親戚だ。

長らくバッハ最古のカンタータと思われていた「汝我が魂を冥府に捨て置きたまわざれば」BWV15が、二十世紀前半の研究でバッハの作品にあらずという結論に至った。古くからバッハの作品の割には稚拙という評価もあった作品だが、バッハ本人の自筆譜の存在が決め手となって真作とされてきた。このカンタータの真の作曲者が、ヨハン・ルードヴィッヒ・バッハであることが証明された。

この人は10月21日の記事「バッハの家系」で述べたリストには現れない。3番のリップス・バッハの子孫としてひとまとめにして言及されていて独立の番号を与えられていない。血筋が遠過ぎるからなのか、腕前のせいなのかは定かではない。

それだけなら、「へー」で終わりだが、この人の作品を調べていてぎょっとした。「Die mit Tranen saen」(赤はウムラウト)というカンタータがある。「涙をとともの種を蒔く者は」と訳される。何とブラームスのドイツレクイエム第1曲の第2部のテキストと一致しているのだ。

ブラームスは知っていたのだろうか。

2008年10月27日 (月)

小ロンドン版

ブラームスは自身の出世作「ドイツレクイエム」を自らの手で2台のピアノ伴奏版に編曲している。後にヴィクトリア女王の前で初演されたことから、この編曲が「ロンドン版」と通称されている。これは2台4手だ。

既にCDもいくつか持っているのにまた買ってしまった。今度のお宝は伴奏が、1台4手つまり連弾なのだ。マッコークルにもちゃんと記載されていた。ピアノが一台少ないから、さしずめ「小ロンドン版」だ。元々大好きな曲だから話題版を発見するとどうにもこらえ性がない。

演奏は「The sixteen」とある。ソプラノ、アルト、テノール、バスの各パートが4名ずつという趣旨だ。完全平方数大好きなブラームスにぴったりのコンセプトだ。コーラスのメンバーの名前が全てジャケットに記載されているというのが大変珍しい。作品の華ソリストも、このメンバーとして記載されている。ソロの出番がない時は合唱に加わっている。ソリストといえどもあくまでもコーラスの一員という位置づけで貫かれているのだ。実際にはソプラノとバスのメンバーがそれぞれ7名と6名となっていてキッチリ16名にはなっていない。増強されているのがソプラノとバスというところがまたブラームスっぽいが、ソロが入る曲でのアシスト要員という現実的な措置である可能性もある。大管弦楽の伴奏でないところが、高校のサークルでも歌えそうで心地よい。

演奏を聴いて思い出した。ドイツレクイエム初演を控えた練習のエピソードが残っている。合唱団の練習の後、誰かが今歌い終わったばかりの箇所をピアノで弾き始めた。すると帰り支度をしていたメンバーが次々とピアノの回りに集まって歌い始めた。とうとう最後まで通してしまったという話だ。ソリストたちはとっくに引き上げてしまっているから、ソロの部分は合唱のメンバーのうちの一人が歌ったに決まっている。

各パート4人の醸しだす雰囲気は、バッハのカンタータの標準的演奏とされる規模に近い。こうして聴くとこの曲合唱曲なのだと改めて感じた。第2曲の凄絶なフォルテシモさえ透明感が維持されている。合唱曲として純粋に楽しむ場合、ピアノ伴奏版は有効な選択肢の一つだと思う。

じんわりと癒される演奏だ。

2008年10月26日 (日)

国名が無い

1863年10月26日ロンドンでFootball Assosiationが発足した。イングランドサッカー協会である。ブラームスがまだ30歳だった頃だ。もちろん世界最初のサッカー協会だから、名称に国名が入っていない。現在でも「The F.A.」.と言えば「イングランドサッカー協会」を指す。国名抜きには元祖本家の誇りが込められている。

世界最初に切手を発行したのも英国だ。だから英国の切手には、たしか国名が入っていない。最初は無くても判るからだったハズだが、時を経て無いことが目印になり、やがてある種のステイタスに変わって行くのだ。

「ブラームスの辞書」では本でもブログでも、特段の事情が無い限りブラームスの作品を指す場合「ブラームスの」という言い回しをしないよう心がけている。文の流れを妨げないことが優先ではあるが、黙って第一交響曲といえば「ブラームスの交響曲第1番」に決まっているからだ。他の作曲家の作品に言及する場合のみ、作曲家名を付加している。偶然ブログ「ブラームスの辞書」にたどり着いた人は、少し面食らうかもしれない。

私のブログではブラームスは断固特別扱いされねばならない。

2008年10月25日 (土)

リヒャルト・シュトラウス

1864年にミュンヘンで生まれた作曲家、指揮者。ワーグナー派、ブラームス派という言い回しをするならワーグナー派かもしれない。オペラ、歌曲、交響詩の分野で活躍した。個人的には「メタモルフォーゼン-23の独奏弦楽器のための習作」が好きだ。

ところが、ブラームスとの接点が無い訳ではない。

Rシュトラウスは、ブラームスと親交が深い指揮者ハンス・フォン・ビューローに師事していたのだ。ビューローは当時マイニンゲン宮廷管弦楽団の指揮者だった。19世紀後半の欧州楽壇を2分した論争の中にあって、反対派の妨害に嫌気がさしたのか、ブラームスは第4交響曲の初演を、当時けして都会とは言えなかったマイニンゲンのオーケストラに委ねたのだ。このときRシュトラウスが「丁稚奉公」にはいっていたという因縁である。

1885年10月25日つまり123年前の今日、マイニンゲンでの第4交響曲の初演にあたり、ブラームスの指揮の下でトライアングルを担当したという。第3楽章にしか出番のないトライアングルだ。他の楽章を演奏する間ステージ上でじっと控えていたのだと思う。ほほえましいものがある。しかし舐めてはいけない。茂木大輔先生はご著書「音大進学・就職塾」の中でこのトライアングルを取り上げている。4分の2拍子がアレグロで疾走する中、16分音符とトレモロが書き分けられていると指摘する。なるほどこの楽章でのトライアングルの最初の出番32小節目には「tr+波線」が書かれているが、95小節目は16分音符で刻めと書いてある。同じ打楽器でもティンパニには「16分音符で刻め」という指示は現われないから、トライアングルにのみ「16分音符」と「トレモロ」の区別を求めていると解し得る。

Rシュトラウスはこれを叩き分けたのだろうか。

2008年10月24日 (金)

歌枕

古来短歌に引用された地名のことだ。神仏ゆかりの地や歴史的な出来事のあった土地の名前などがたびたび引用されているうちに地名のイメージが定着定型化して堆積したものと解される。もちろん地名は短歌に限らず俳句や詩歌への引用も見られる。現代演歌と呼ばれる歌謡曲に「ご当地ソング」と呼びならわされる一群がある。これらにおいて、地名が聴き手に特定のイメージを想起させることを念頭に置いている。歌枕の伝統は生きている。

万葉集は4519首の歌集だが、そこで言及されている地名も膨大な数に上る。それだけで一つの研究分野になっているほどだ。俳句の世界で知らぬ人のない「奥の細道」も地名がわんさか現われる。音韻の数に制限のある俳句や短歌において地名が登場することは、制限の強化とも受け取れるが臆することもない。

ブラームスに関連する地名をリスト化するプロジェクトを進める過程でポッツリと湧いた疑問がある。

ブラームスの声楽作品のテキストにはほとんど地名が出現しないのは何故だろう。地名が歌枕として尊ばれる短歌とは対照的だ。

作品103のジプシーの歌に少々の地名が現われる他は、山川の名前と国の名前がポツリポツリと観察されるだけだ。両手の指でも余る数だ。テキストの出典は民謡であることも多いから、その場合~地方という言い回しの中に地名は現われる。しかしテキスト本文での出現はほぼ皆無だ。

考えられる可能性を挙げる。

  1. ドイツリートの対象となった一群の詩に、元々地名が含まれていない。
  2. ブラームスが地名の入った詩をテキストに選ばなかった。

上記1は、ブラームス以外のドイツリート作曲家が採用したテキストを調べれば判るハズだが、言うは易しでなかなか手間とお金がかかる。その結果他の作曲家のテキストに地名が頻繁に出てくれば上記2は自然に証明出来そうだ。

来年の夏は「ブラームス・リート作品に見る歌枕集」でも作ってやろうかと思ったがアテがはずれた。

2008年10月23日 (木)

編曲物ハンター

「編曲物」という言葉にはある種の悲哀がこもっている。作曲者本人の手による編曲ならば大威張りなのだが、別人の手による編曲となると「どうせ編曲だし」という後ろめたさがついて回る。展覧会の絵は例外だ。

オリジナルが名曲として人気が高い場合、作曲者が指定した編成では、演奏することが出来ない人の強い憧れが編曲物を生み出すエネルギーになっていると考えられる。

ブラームスにもある。特に有名なのはハンガリア舞曲だ。ヴィオラソナタも名高い。管弦楽作品や室内楽作品にはピアノ連弾版が鈴なりである。

ところが編曲物の層の厚さという点ではバッハが圧倒的だ。そういうジャンルが形成されている観がある。バッハが想定したオリジナルの編成と違うという意味ではピアノ曲全てが該当してしまうが、それらは編曲物の取り扱いを受けていない。少なくともバッハ作品をピアノで弾いたり、その演奏を聴く人が、その種の後ろめたさを感じているとは思えない。

先週も見つけた。Henrik Frendin というスウェーデンのヴィオラ奏者が出している。スウェーデン製のCDだが、曲目が凄い。

  1. 半音階的幻想曲とフーガ BWV903 幻想曲はヴィオラ独奏でフーガはチェンバロとヴィオラ
  2. リュート組曲ハ短調 BWV997 ヴィオラ独奏
  3. ヴィオラ協奏曲ホ長調 BWV1049 原曲はチェンバロと弦楽合奏

ヴィオラ協奏曲は、元々何らかの楽器のための協奏曲だったのだと推定されるが、原曲が失われて編曲版のチェンバロ協奏曲のみが伝えられているという代物だ。

CDショップでは編曲物コーナーの発掘が楽しみの一番手になっている。

2008年10月22日 (水)

避暑の中身

毎年5月が近づくと「今年の大型連休は」という話題が増える。暦の関係で9連休になったりすると大騒ぎになる。

ブラームスの伝記を読んで改めて驚くのは、一年のうちウィーンにいるのは秋から春までで、夏の間はもっぱら避暑地である。早ければブラームス自身の誕生日5月7日頃から9月いっぱいウィーンを空けるのだ。5月の連休が9日だ10日だというみみっちい話ではないのだ。4月になると、いや早ければ3月には「今年の夏はどうするのだ」という内容の手紙を友人たちと交換するようになる。夏の間のすみかを確保するための下見も盛んになる。

そして向かう先は名だたるリゾート地ばかりだ。地名調べの段階ではもちろん地図が役に立つのだが、スイスやオーストリアの観光ガイドがなかなか参考になった。地図の索引にないような地名がガイドブックにひょっこり載っていたりするのだ。さらにきれいな写真も満載だから手軽にブラームス気分を味わうことが出来る。観光ガイドブックのメインのような場所に毎年4ヶ月間滞在するという生活を30年続けていたと考えてよい。

避暑地でブラームスと交友した友人たちの手紙は地名の宝庫である。

  • トゥーン スイスネタはヴィトマンに限る。
  • バーデンバーデン リヒテンタールネタはクララの娘とフロレンス・メイだ。
  • イタリア これもヴィトマンだ。
  • リューゲン島 ヘンシェルだ。海水浴とカエルの音程の話だ。
  • イシュル ホイベルガーやビルロートだ。
  • ミュルツシュラーク フェリンガー。
  • ウィーン近郊 これはホイベルガーだ。
  • クララの行くところ全部 クララの演奏旅行先は全部暗記していたのでは。

手紙を読む限りではこれらの人々と遊ぶ話ばかりという感じだが、本当は作曲もしていた。むしろ作曲は夏にしかしていないくらいだ。となるとむしろ保養というより作曲のかき入れ時ということになる。ブラームスが保養地にこだわるのは、そこの居心地が作品の出来に影響するからに決まっている。

2008年10月21日 (火)

遊んで暮らす

庶民の憧れ。これをやりたくてやれない人は多い。だから5月や年末年始の連休が9か10で大騒ぎになる。キリギリスの話を持ち出すまでもなく古来やっかみも含めてこれを戒めることわざも多い。

ブラームスの伝記を読んでいると、1875年に楽友協会の芸術監督を辞してから22年間定職についていない。本人は日記を残していないから、伝記の情報ソースは廃棄を免れた手紙か友人知人の証言しかないが、それらを読む限り遊んでばかりであるかのように見える。5月から9月は避暑地だ。それ以外はウィーンを根城にしながらも演奏旅行に忙しい。ウィーンにいる時ですら、郊外へのハイキングには頻繁に出かけている。

考えれば当たり前で、友人や知人が証言出来るのは作曲をしていない時のブラームスの姿だ。人生から寝る時間と作曲の時間を除いた余暇の証言者であるに過ぎない。作曲の過程を明らかにしなかったブラームスだから、見かけ遊んで暮らしていたように思えるのは当然だ。いつ降って湧くかわからない楽想に備えているというのはきっとそういうことなのだ。

作曲工房の中身に深く言及することは無いけれども、一日の時間配分については、一部の友人が証言している。朝早く起きて散歩、その日やるべきことは大抵午前中にすませてしまったという。午後から夜にかけては演奏会やパーティや遠足なのだろう。こうしたパターンが規則正しく繰り返されたらしい。午後だけ見ている人には遊んで暮らしていように見えても仕方がない。

ある意味でブラームスの思うつぼだ。作曲の過程などひと様に見せる物ではないと考えていたに違いないからだ。遊んで暮らしているように見えるのは、遊んで暮らしているように見せている結果だと感じる。

毎日こんなブログを書いている私も、遊んで暮らしていると思われたい。

2008年10月20日 (月)

バッハの家系

バッハの生きた時代。音楽家は大工などの職人と同様にその職能は父から子に代々次がれて行くものだったらしい。そんなことが延々と積み重ねられて行くと膨大な音楽家を生み出す一族も出てくる。

バッハ一族はそういう一族だった。もっとも有名なヨハン・セバスチャン・バッハもそのことは十分意識していて、50歳の頃に「音楽家系バッハ一族の起源」と銘打った系譜を自ら作成した。一族の中の音楽家を古い順に列挙して、通し番号とともに簡単なコメントを付与した代物だ。

栄えある1番はファイト・バッハという。1577年に没した人で、ルーター派の信仰のためにハンガリーを追われてドイツ・テューリンゲン地方ヴェヒマルに住み着いた。ツィターの演奏に通じたパン屋だったらしい。バッハのひいおじいさんの父だ。

どん尻の53番は、バッハの5男の一人息子ヨハン・ハインリッヒ、つまりバッハの孫だ。

4番にヨハネス・バッハがいる。ブログ「ブラームスの辞書」的にはおめでたい名前だ。バッハの祖父の兄。そうかと思うとバッハの父の兄にはヨハン・ヤーコプ・バッハ、つまりブラームスの父と同じ名前の持ち主もいる。

欧州の人々の命名は聖書由来の名前が多い。現代日本の感覚よりは選択の幅が狭く、同名の出現する可能性が高くなるのだと思う。

2008年10月19日 (日)

進路相談

長女中3の秋。来春の高校進学に向けて志望校選びが佳境である。自分の現在の学力と、希望校の難易度の綱引き。最悪のケースに備えた次善校の選定もせねばならない。何校か説明会や文化祭にも行った。通学の利便にも増して制服のデザインも無視出来ぬ要素だ。彼女の中で入学金授業料定期代などの位置づけは不当に低い。

今中1の次女は、お姉ちゃんを横目で見ている。この夏以降2人で進学情報誌とにらめっこというシーンも増えた。

まだ時間がある次女が何もそんなにと思っていたら、凄いことが判明した。お姉ちゃんに教わりながら、オーケストラがある高校を探していたのだ。通学可能でオケのある学校だ。公立で6校程度見つかった。通学の利便や学力を考慮に入れれば、このうち3校くらいが候補になろう。

「高校ではオケやってみたい」という。「オケに入って何弾くの?」と恐る恐る尋ねた。

「ヴァイオリンやってみたい気もする」

そういえばと思える出来事があった。ブラスバンドで簡単なアンサンブル大会が控えている。定員は4名だが、たったひとりの初心者である次女はそのメンバーから漏れたのだ。ショックが無いはずがない。今はまだいい。来年下級生が入ってきて、自分より上手い奴が来るリスクが現実味を帯びている。内心穏やかではないのだ。かといって彼女がそのメンバーに入れば経験者一人がショックを受けることになる。補欠に回った次女の潔い姿勢はパートの結束に影響するのだ。毎日欠かさず部活に通い落ち込んだ様子はない。これからも「落ちても腐らない、入っても威張らない」子だと思う。

だからこそ10年のヴァイオリン経験者として高校オケの門を叩いてみたいのだ。ヴァイオリンのレッスンに欠けているのは同年代の友達とのアンサンブルだ。その経験はトロンボーンに挑むブラバンが補ってくれる。たった一人の初心者としての心細い気持ちと、それでも声をかけてくれる先輩の暖かさも大切な経験になる。

高校オケに入って、現在のブラバンと同等以上の熱意でヴァイオリンに打ち込んだら、相当上手くなると思う。しかも「弾けない者、吹けない者」の気持ちを思い遣れる心も期待出来る。

日程をやりくりしてブラバンとレッスンをともに継続させてやることは私の義務と感じる。高校進学時にヴァイオリンにもトロンボーンにもブランクを作らないことが大切だ。

お姉ちゃんの進路選びに乗じた他愛のないお遊びだと思うが、地の底からわき上がるような嬉しさを押し殺してこの記事を書いている。

2008年10月18日 (土)

新米

秋の楽しみの一つ。その年にとれたお米のことだ。新米を丹念にといで、炊きたての状態で食べるのは大きな喜びだ。みそ汁に漬物、焼き海苔でもあれば他に何もいらない。

むかしは、新米を食することはカッコ悪いとされたこともあるようだ。つまり、新米を待ちかねたように食べるのは、「今年とれた新米を食べねばならないほど、米の備蓄が少ない」ことを意味したらしい。米が経済の中心だったころのお話だろう。米の備蓄イコール金持ちという概念だ。米の味より見栄優先と見た。

新米の味には抗しがたい魅力がある。貧乏と思われてもいいから新米を食べたい。

ブログの記事に関しては、見栄を張りたい気持ちも理解できる。今日公開の記事を今日あれこれ考えるというのは、危ない。今日突発して起こったはずせぬブラームスネタは、今日の今日ということもあるが、あらかじめ考えておいた複数のネタの中から、今日にふさわしい記事を選ぶという意味からも、豊かな備蓄は必須である。

ブログを始めて3年半、そろそろ新米ブロガーから脱却しなければならない。

2008年10月17日 (金)

ショパン全集

ショパンの楽譜の話である。

現在ショパン楽譜の全集と言えば、パデレフスキー版がポピュラーだ。ピアニストでポーランド首相でもあったパデレフスキーの編集。ショパン没後100年記念事業の一環として国家の威信をかけて刊行された。

他にショパンコンクールご用達のエキネル版やウイーン原典版も存在する。

この話、実はブラームスに関係が大ありだ。

1878年だから、今から130年前にもショパン全集が刊行された。このとき何とブラームスは校訂者として参画していた。お茶濁し程度の参画ではなくてほとんど編集主幹のノリだ。

  • 第 3巻 マズルカ
  • 第 4巻 ノクターン
  • 第 8巻 ソナタ
  • 第10巻 その他
  • 第11巻 ピアノと弦楽器
  • 第12巻 ピアノと管弦楽
  • 第13巻 遺作

上記計7巻を担当するという活躍ぶりだった。その気になれば「ショパンの辞書」でも書けるくらいだったのではあるまいか。

1863年完成の「パガニーニの主題による変奏曲」以降、遠ざかっていたピアノ独奏曲の作曲に戻ってきたのは「8つのピアノ小品」op76で、何を隠そう1878年の作品だ。ショパン作品の校訂により創作欲が刺激されたとも思われる。偶然の一致として一笑に付せない重みがある。

2008年10月16日 (木)

思わぬ余禄

ココログ出版のモニターに今年当選したのは私を含めて10名だ。ココログのモニターになって自分のブログが本になった喜びの表現も10通りである。そのことを紹介する記事がお知らせココログに掲載された。ココログ管理画面へのログインページからもリンクされている。

実際の記事はこちらからどうぞ。

当選者10名の喜びの声を一堂に集めた記事だ。本を手にしての感想記事を紹介してもらえることは最初から仄めかされていたが、実際に記事が掲載されるのは嬉しい。他の当選者がどんな記事にしているのかよくわかる。もしかして私は異常かもしれない。それも望むところである。そうした異常振りまでもが鑑賞の対象である。

そして何よりも凄いのは、その影響力だ。記事は一昨日14日夜に公開されたようだが、そこを経由したアクセスがとても多い。お知らせココログに掲載されることの威力は素晴らしい。

無料で2冊も作ってもらえて、言いたい放題した上に、アクセスも増えた。今日のこの記事で関連記事は13本に達した。ブラームス生誕200年まで継続するには1万本以上の記事が必要だが、このことで0.1%強を稼ぐことが出来た。この手の小さな喜びを実直に拾い集めること無しに1万本の記事は実現しない。

2008年10月15日 (水)

脱字

有るべき文字が脱落すること。出版ではこれをなくすために校正を重ねるが、何度やっても無くならぬという言い伝えもあるらしい。

10月14日の記事「ドイツ広場」を書くために、先般「ブラームスの辞書」op200をドイツに送った際の伝票を見ていて唖然とする間違いを見つけた。

ドイツ国立図書館の住所を間違えていたのだ。

正しくは「Deutscher Platz」なのだが、赤文字で示した「c」が抜けていた。既に「ブラームスの辞書」op200は、ちゃんとドイツ国立図書館に届いているのだから、大した物だ。本当は「ドイツ/ライプチヒ/ドイツ国立図書館」で届いてしまうに違いない。きっとドイツから送れば「日本/東京/国会図書館」で届くのだと思う。

きっとブラームスとバッハのご加護だ。

2008年10月14日 (火)

ドイツ広場

「ブラームスの辞書」op200が、無事にドイツ国立図書館の蔵書になったことは7月15日の記事「泣きたいくらい」で述べた。

ライプチヒのどこかにそのドイツ図書館はあるはずである。手がかりは発送伝票に書いた住所だ。「Deutscher Platz 1」つまり「ドイツ広場1番地」である。

8月18日の記事「地図集め」で述べたFALK社の地図帳の中の都市地図にライプチヒがあった。ドイツ広場がありはしないかと探した。この都市地図は索引の対象外なのでひたすら探すしかない。バッハゆかりのトマス教会やヴァイオリン協奏曲を初演したゲヴァントハウスは旧市街中央にすぐに発見出来た。観光のスポットだから地図上でも配慮されている感じである。

そのトマス教会から南東に直線距離で2200mの場所にDeutscher Platzを発見した。さらにそこドイツ広場の北側に「Musseum Deutscher Bucherei」と書かれている。おそらくここだろう。「Deutsche Nationalbibliotek」とは書いていないがBucherei(uはウムラウト)は図書館の意味だからほぼここで間違い無かろう。

この街にはブライトコップフ本社やエリザベート・フォン・ヘルツォーゲンベルクの家もあるはずだ。

なんだか実感が湧いてくる。

2008年10月13日 (月)

交響曲の中のトロンボーン

次女がトロンボーンを始めたせいで、私もこの楽器に興味を覚えるようになった。ブラームスを論じる際の切り口が一つ増えたという感じがする。

ブラームスの交響曲には4つ全てにトロンボーンの出番がある。しかし全部の楽章でべっとりと出番のある弦楽器と違ってトロンボーンの出番は限定的だ。

  • 第1番 第4楽章のみ。待っただけのことはある47小節目のコラール。
  • 第2番 第1楽章、第2楽章と第4楽章。第4楽章の353小節のコラールはヴィオラの3連符の刻みとのからみが絶妙だ。ラストの1番トロンボーンに現れるハイノートも心地よい。
  • 第3番 第1楽章、第2楽章と第4楽章。
  • 第4番 第4楽章のみ。113小節目からのコラールは世界遺産級。273小節目もカッコいい。

見ての通り出番が第4楽章に集中している。それから第3楽章には一切用いられない。

トロンボーン奏者のモチベーションは、ブラームスの交響曲においてどう保たれるのか興味がある。後期ロマン派には出番満載の曲が多いから、吹き甲斐という意味でブラームスは分が悪いのではないかと推察する。ヴォオラ弾きの立場からすれば満を持して現れて、おいしいコラールを決めて行くように見えるが本当のところはどうなのだろう。少ない出番がおいしいというのは心構えとしてどうなのか興味がある。

次女がやがてオケに転じてブラームスを吹くようになったら訊いてみたい。けれども出番のない楽章でヴァイオリンを弾くなどということは許されざるわがままである。

2008年10月12日 (日)

地名登場ランキング

ブラームス関連地名リスト作成の準備段階として、音楽之友社刊行の作曲家◎人と音楽シリーズのブラームスに登場する全地名をエクセルに入力した。エクセルデータ化出来たことで興味深いことが判るようになった。

伝記作家は、対象とする人物の生涯を手際よく読者に伝えようとして文章を書く。その目的に照らしてもっともふさわしい言葉を選んでいるはずだ。だからブラームスの生涯をトレースした書物に現れる地名の頻度を分析することはブラームスという作曲家の人生を辿ることになると思う。

以下に音楽之友社刊行の「作曲家◎人と音楽シリーズのブラームス」に登場する地名のランキングを記す。ドイツ、プロイセン、イタリア等の国名は除外している。

  1. ウィーン124回 ハプスブルク帝国の首都。1862年に定住以来1897年に没するまで35年間ブラームスが過ごした街だけのことはある。
  2. ハンブルク85回 申すまでもなくブラームスの故郷だ。ドイツ最大港町。ウィーンでの活躍はハンブルクで定職を得られなかったことへの反動と見ることも出来る。
  3. ライプチヒ49回。ある意味で固い1位2位だが注目の3位がこことは興味深い。ピアノ協奏曲で煮え湯を飲んだ街でありバッハの街でもある。大きな出版社もありドイツ最大の音楽都市といってもいいだろう。煮え湯を飲まされても無視できないのだ。
  4. イシュル29回。オーストリアの保養地。3年のトゥーン滞在を挟んで晩年の夏は決まってここだった。重要な作品が生まれたことも順位を押し上げる要因だ。
  5. デトモルト24回。シューマンの死後、クララの紹介でここの宮廷に勤務した。ブラームス初めての就職先だ。
  6. ハノーファー22回。シューマン投身の知らせをここで受けた。ヨアヒムの本拠地だったこともあり、一時ブラームスが居を構えた。有名になった後演奏旅行で何度か立ち寄ったことも大きいが、弦楽六重奏曲第1番の初演地として記憶に残る。
  7. マイニンゲン22回。ハノーファーと同数だから本当は6位。ここの宮廷楽団を盟友のビューローが率いていたこともあって数が伸びる。不世出のクラリネット奏者ミュールフェルトとの出会いも印象的だが、第4交響曲初演の栄誉がまばゆい。
  8. デュッセルドルフ18回。主無きシューマン一家を助けた街。
  9. トゥーン18回。スイスの保養地。詩人ヴィトマンとの友情により1886年から3度の夏を過ごす。
  10. ペルチャッハ18回。もっと高いと思った。第2交響曲を生んだ街だ。ここで生まれた作品の濃さからすれば不当に低い順位だ。

以下13回にボンゲッティンゲン、12回にヴィンセンベルリン、11回にカールスルーエ、10回にケルンが続く。なんだかこれだけ見てもブラームスの生涯をいきいきと思い浮かべることが出来る。

クララが1位に決まっていてつまらぬといえばつまらないが同じ事を人名ですると交友ランキングが出来るだろう。ちょっと詳しい書物には巻末に人名索引が載っているから、お宝度が落ちるのが難点だ。あるいは、そのうちどうしても記事に困ったらバッハでやってみるのも悪くない。 

2008年10月11日 (土)

アルペジオ

「分散和音」と訳されて違和感がない。本来同時に発せられるべき和音の構成音を、時間差を持って鳴らすことと解される。9月24日の記事「伴奏ルネサンス」の中で3大伴奏パタ-ンの一つとして挙げている。ベ-ト-ヴェンのスプリングソナタの冒頭に気持ちのいいアルペジオがある。鍵盤楽器以外の楽器にとって、複数の音を同時に発することは多少の困難を伴うから、和音を表現しようと欲した場合しばしば「分散和音」が指向される。

上記のような意味合いに加え、鍵盤楽器にはもう一つの意味でのアルペジオがある。音は同時に発する和音として記譜されているのだが、音符の左側に波線が縦に付与されているケ-スだ。和音構成音が同時に鳴らされないから、これをアルペジオと称する場合がある。この手のアルペジオは手軽に「キラリ感」を演出出来るのだが、濫用は逆効果だ。ブラ-ムスはピアノのレッスン中、弟子が楽譜の指示のない場所でこの手のアルペジオ奏法をすることを戒めたという。安手の感情表現は必ず指摘されたと弟子の何人かが証言している。

また分厚い和音を好むブラ-ムスのピアノ作品では、和音の両端の音が開きすぎているために、手のサイズによってはしぶしぶアルペジオに逃げ込まざるを得ない場合もあって悩ましい。

がしかし、3大伴奏パタ-ンに挙げてはいるのだが、残りの2つ「後打ち」「刻み」とは少々位置づけが違う。「アルペジオ」が伴奏声部に出現することは確かなのだが、構成音の出現の順序に工夫が凝らされることで、しばしば旋律との境界が曖昧になる。ブラ-ムスのヴァイオリン協奏曲の第一楽章の136小節目、独奏ヴァイオリンを支えるヴィオラのアルペジオは、単なる伴奏の域を超えた有り難みを感じる。

2008年10月10日 (金)

ブラーム湖

地名リストを作成する過程で、ドイツの地図を眺めることが多かった。いろいろと面白い発見もあった。

その内もっとも興味深い発見について書く。

ハンブルクの北約70km。港町キールの南西約20kmの場所に小さな湖がある。その湖の名前こそが本日のお題「ブラーム湖」だ。ドイツ語の綴りは「Brahmsee」となる。私の熱狂の訳がわかってもらえると思う。ドイツ語で湖は「See」だから、「ブラーム湖」だ。本ブログが崇め奉る作曲家ブラームスの綴りの後ろに「ee」を添えたかのようである。

我が家にあるブラームス関連本で、この湖への言及は観察出来なかったので、残念ながら地名リストには掲載していない。ヨットやキャンプのマークがあるからきっと観光地なのだと思う。湖畔のドライブインで「名物ブラームスポテト」でも売っていそうである。

2008年10月 9日 (木)

あったらいいな

ココログ出版のモニターに当選して手にした「ブラームスの辞書」の出来映えが素晴らしいことは既に述べた。自分の保存用にするなら何の不足もない。

一方、これを自分の保存用の他に他人様に配布するという観点から眺めたらどうなるかというのが本日の話題だ。ましてや配布と引き替えにお金を受け取るとなるともっと真剣に議論されねばならない。まず大切なのは必要冊数の決定だ。2なのか、10なのか、50なのかあるいは100なのかで最善策が変わってしまう。部数が増えることによって自費出版との比較検討が視野に入ってくることもあろう。

本の作成に必要なパラメータは全部著者が決めねばならない。原稿を書くことの他にもすることは多いのだ。ココログ出版では、まるでアンケートにでも答える手軽さで出来てしまう。あらかじめ設定されたいくつかの選択肢から著者自身がネット上で選ぶ。ここを著者にさせることで打ち合わせの発生を最小限に抑えているのだと思う。つまりコストの抑制だ。

配布や販売が目的の本となると若干の課題も出てくる。つまり「あったらいいな」である。ココログ出版のレギュレーションをよく読めば書いてあることが混じっていたらごめんなさいだ。

  1. 事前に概略のページ数が手軽に判る仕組みが欲しい。今回記事1本1ページという目安が判ったので一段落だが、心や費用の準備のためにも是非。
  2. 原稿はサーバー上のデータそのままでOKだが、タイトルやプロフィールは出版用に手直し出来る方がいい。有料オプションでもいい。
  3. 簡易なものでいいから索引は欲しいところだ。これも有料オプションでOKだ。
  4. 特定のカテゴリだけを本にする機能や、特定のカテゴリーだけを除いて本にする機能があると便利だ。ブログ記事を書く段階でそれを意識したカテゴリー付与が出来るからだ。
  5. 「あとがき」だけを別に付与できるとなおいい。書籍版のための書き下ろし「あとがき」だ。もちろん有料オプションでいい。
  6. 実は意外とこれが深刻だったりする。数字とアルファベットの字配りがぎこちない。全角も半角もバランスが悪い。アルファベットに関して申せばフォントも貧弱だ。
  7. 深刻と言えばもう一つ。本を開いたままで置いておけないのが難点だ。これはたぶんに製本の問題。綴じ目を糸でかがっていないせいなのではないか。「ブラームスの辞書」本体では綴じ目に糸が見えるが、こちらでは見えない。たとえばコピーとしようとして無理矢理ページを押し広げると製本が壊れる可能性がある。ある程度の以上のページ数になると心細い。ブログ記事1年分400ページともなると、これは深刻だ。
  8. 日本語のフォントも出来れば明朝体が読みやすい。
  9. コミュニケーション。出版社と著者のコミュニケーションのことだ。ココログ出版では、申し込みはネット上で送信ボタンや決定ボタンをクリックすることで行える。その後の諸確認もメールで済ませている。打ち合わせが面倒だという人や、打ち合わせに時間が割けない人も多いことを考えれば、優秀な仕組みとも言えるのだが、私には物足りない。私の自費出版は出版社との緊密なコミュニケーション抜きには語れないからだ。メールや電話を上手に使いながら肝心なところは直接会って決めた。このことはとても重要だ。出版社にとってはコスト増を意味するから困難が伴うハズだ。本が自分の保存用にとどまる場合には問題はないが、自費出版との比較になった場合にはクローズアップされることになる。
  10. 今回の納本は9月4日だった。ココログ出版のお知らせによれば、当初納本は「8月中の予定」と謳われていた。たった4日とはいえ予告無く連絡無く遅れるのは、不安だ。「諸般の事情により遅れます」「すみません」のメール1本で済む話だ。今回の4日の遅れは私が無償のモニターだからの可能性もあって悩ましい。価格を低く抑えるためにコミュニケーションを最低限にとどめるという理屈は理解出来るが、納期が遅れる連絡くらいはほしいところだ。

本を無料で2冊も貰っておいて、これだけ言いたい放題ではバチがあたりかねない。ブラームス神社でお賽銭を奮発せねばなるまい。

2008年10月 8日 (水)

刻み

「後打ち」「アルペジオ」と並ぶ伴奏音形の典型。一定の律動を伴っていても、音が乱高下するような場合は「刻み」とは言わない気がする。正確な定義は大変難しいから、実例を列挙することでお茶を濁す。

何と申しても第一交響曲の冒頭、大地のような低い「C」音の拍動が有名だ。聴かせどころではあるが、フォルテシモではないことに意義があると思っている。ベートーヴェンやモーツアルトに特有のアレグロの疾走感を規定する刻みとは程遠い。

一方作品の冒頭に低いところで延々と主音が刻まれるという意味では、ドイツレクイエムも同類である。スラーで数珠繋ぎになった「F」音が「p」で延々と続く。両極端のダイナミクスではあるが、何だか地の底で第一交響曲と繋がっているような気がする。

室内楽に目を移す。ピアノ四重奏曲第3番第1楽章にヴィオラの見せ場がある。142小節目だ。松ヤニの煙立ちこめんばかりの渾身の刻みである。しかも151小節目まで全ての瞬間が重音になっているばかりかシャープが5個も鎮座するので開放弦も使えない。テクニックの都合でよく重音の片側をはしょることの多い私だが、ここだけはそれをしてはいけない。一生懸命に弾くとご褒美がある。164小節目からまた同様の見せ場が訪れる。今度はシャープが1個になっている。重音を強いられることに変わりはないが、開放弦を使える分だけストレスは低い。この刻みを伴奏だと思って弾いたことなど一度もない宝物である。

それからヴァイオリン協奏曲の第1楽章にもある。353小節目、ここのヴィオラの三連符の刻みはカッコよさにおいて比類がない。独奏ヴァイオリンのシンコペーションの向こうを張る決然たる刻みだ。伴奏だと思って弾くのは罰当たりである。

2008年10月 7日 (火)

注意事項

地名リストの作成自体が楽しい作業だったが、その途中で思いがけない発見という副産物もある。今日のネタはその一つだ。

ブラームスの伝記を読む場合、たくさんの地名に遭遇するが、漫然と読み流していると大きな誤解の元になる地名がある。

  1. リヒテンタール Lichtental  ロベルト・シューマンの死後クララが小さな家を買った場所だ。ドイツ屈指の保養地バーデン・バーデン郊外だ。ところが、ウィーンの郊外にもリヒテンタールがある。こちらはシューベルトの生地としても名高い。この両者は当然別の場所なのだが、漫然と読み流していると混同する。
  2. バーデンバーデン Baden-Baden 前述の通りドイツ屈指の保養地。この地名が伝記の中ではしばしば単にバーデンと呼ばれる。こうなるとウィーンの南約30kmやチューリヒ北西20kmにあるバーデンと大変紛らわしい。
  3. バート Bad オーストリアや一部スイスを含むドイツ語圏において湯治場のある地名の前に冠詞的に添えられる。ブラームスが愛した保養地イシュルは本来バート・イシュルBad Ischlだ。あるいは地図の索引にはBad入りで載っている地名が、伝記の本文ではBad抜きの記述になっていることさえある。クロイツナーハやゴイザーンでは苦労させられた。
  4. フランクフルト Frankfrut 「フランク人の渡し場」くらいの意味だろう。なるほどマイン川のほとりだなどと言っている場合ではない。ベルリンの東、ポーランド国境近くにもフランクフルトがあるのだ。これはオーデル川のほとりである。

なかなか奥が深い。

2008年10月 6日 (月)

トロンボーン四重奏

これはまさしく次女がトロンボーンを始めた影響だ。CDショップのトロンボーン売り場を散策していてお宝CDを発見した。

ウイーンゆかりの作曲家たちの作品をトロンボーン四重奏に編曲したものだ。ウイーンゆかりと言われても今いち実感が湧かないシューマンの他、シューベルト、クライスラー、ベートーヴェンに混じってブラームスも取り上げられている。

大抵こういう場合はハンガリア舞曲が選ばれてお茶が濁されてしまうことが多いのだが、今回は違った。何とピアノ五重奏曲の第3楽章だ。原曲もちろん大好きなので、我慢は不可能だ。怖い物見たさも手伝って即買いしてしまった。演奏はウイーントロンボーン四重奏団である。

昨日次女を連れてゆくレッスン往復の車中で聴いた。次女の反応は「おおお凄い」というものだ。「こんな高い音出ない」「これってテナーじゃない」とか目を輝かせている。

2008年10月 5日 (日)

選考基準

ココログ出版のモニターに当選しブログ「ブラームスの辞書」が本になった。

その話題でずいぶん記事の件数を稼ぐことが出来た。

さて、当選者10名の全国キャンペーンに当選するなぞ夢のような話だから、すっかり舞い上がった記事が続いてしまった。ここに素朴な疑問がある。

約20000円相当の本を無料で進呈してもらえた私は単に喜んでいればいいのだが、私のブログに約4万円も投じたココログ出版の思惑はどうなっているのだろう。慈善事業ではないのだから単なる気まぐれなどということはあり得まい。事業としての算盤をキチンと弾いていることは疑い得ない。

私以外に当選した9名の方のブログを眺めていて、共通点を2つ見つけた。ずっと以前に気付いていたが、書籍自体の出来や喜びに言及する記事が一段落するまで待っていた。

  1. 私のブログはむしろ大きな例外だ。皆様のブログには写真やイラストなど画像がてんこ盛りだ。読んで楽しいという側面ばかりではなく見て楽しい作りになっている。画像がほとんど無い私のブログがモニターに当選したことをブラームス神社で感謝しなければならない。
  2. 私のブログも含めて当選したブログにはアフィリエイトが少ないと感じる。昨今のブログ隆盛の時世ではあるが、中にはアフィリエイトや広告目的のブログも多い。特定のサイトへの誘導を目的としたブログもある。本来の記事よりもアフィリエイトや広告、アクセス誘導が幅を利かせているブログはけして少なくない。ココログ出版の選考基準の中に、こうしたブログを排除するような一項があると考えたいがいかがだろう。8月29日の記事「アフィリエイト」で述べたように、ブログ「ブラームスの辞書」にはアフリエイトは無い。ココログ出版のモニター選考基準など知るよしも無いまま、自らの方針としてアフィリエイトを避けてきたことが、プラスに作用した可能性もあると思っている。

2008年10月 4日 (土)

後打ち

10月1日の記事「伴奏ルネサンス」の中で述べた「3大伴奏パターン」の一つ。拍頭に休符を据え、裏拍に音を出すことだ。1拍だけでは成り立ちにくい。複数拍継続することでより効果が鮮明となる。

ハンガリア舞曲のヴィオラパートに多い。「ブラームスの辞書」でもブラームス作品に出現する後打ちを全部数えるなどということは試みていない。罪滅ぼしに印象的な箇所をあげる。

まずは室内楽。ピアノ三重奏曲第1番第4楽章の64小節目。第二主題とともにチェロとピアノの左手に現われる。ここから87小節目まで何らかの形で後打ちされる。特に「f pesante」と記されたチェロのカッコ良さは並ではない。伴奏という言葉を寄せ付けぬ凄みがある。この第二主題は1854年の初版には全く現われない。

続いて交響曲。第4交響曲第2楽章41小節目からの第1ヴァイオリンだ。この場所いわゆる第2主題である。旋律はチェロだからこの第一ヴァイオリンは伴奏だなどという認識は罰当たりの対象でさえある。雄渾なチェロを縁取る繊細な刺繍である。特に42小節目の後半の後打ちは言葉になりにくい魅力がある。

最後に厳密な後打ちとは呼べない掟破りな場所を一つだけ。第2交響曲第3楽章22小節目だ。2小節前からシンコペーションを吹いているホルンは、一足先にフェルマータに流れ込んだ木管楽器とチェロに遅れてD音を差し込む。これが後打ちに聴こえるのだ。しかもこの場所が再現部になるころ、つまり218小節目ではヴィオラがホルンになり代わって受け持つことになる。

2008年10月 3日 (金)

鉄道

8月27日の記事「宿題完成」で地名リストの作成は「地名好き」と「ブラームス好き」のコラボレーションであると書いた。実はもう一つプロジェクトを後押しした要素がある。それが鉄道だ。私は鉄道も好きなのだ。鉄道マニアかというと遠く及ばないが好きであることは間違いない。

ブラームスの時代。ドイツの鉄道は飛躍的に発展した。ドイツ最初の鉄道の完成は1835年だ。世界最初の鉄道は英国において1830年に完成を見ているから、わずか5年遅れである。ブラームスがハンブルクで生を受けた2年後である。それが1870年には驚くべき鉄道網が完成する。おまけに当時のドイツ領は現在のポーランドの一部からロシアにまで及んでいた。現在でこそ陸上輸送の主役を自動車に譲っているとも聞くが、ブラームスの精力的な演奏活動を支えたのは間違いなく鉄道である。鉄血宰相ビスマルクの富国強兵策の賜ともいえるのだ。

地名リストの作成のために入手したのは道路地図だった。地名情報の量という点では、素晴らしいが、鉄道路線の表示が貧弱で困る。幹線だろうがローカル線だろうが同じ太さで描かれている。トラベルガイドと照らし合わせながら運行系統を再現した。このあたりの手続きは実は難儀でも何でもない。それどころかマニアには堪えられない作業だ。地図だけでは物足りなくて当時の時刻表がありはしないかとエスカレートするのだ。

ブラームスの伝記には欠かすことが出来ない演奏旅行の記述は、大抵立ち寄った都市が列挙される。この列挙の順番は鉄道の路線網を意識することでよりリアルになる。

2008年10月 2日 (木)

特別扱い

毎年受験のシーズンになると、間違えて乗車した受験生のために、緊急停車した話が報道される。軽い議論を惹き起こすこともある。あるいは急に産気づいたご婦人を救うための緊急停車もある。どういう場合に対応し、どういう場合に無視するのか悩ましいと感じる。

体調不良を訴えてカルルスバートに転地療養に赴いていたブラームスだが、めぼしい効果が見られず、1896年10月2日ウィーンに戻ることになった。道中は列車である。体調の思わしくないブラームスに配慮して友人たちは鉄道当局に車内暖房を入れることを交渉した。規則では、車内暖房は10月16日からと決まっていたが、半ば強引に認めさせたという。いくら病人とはいえ、10月中旬で車内暖房が議論の対象になるのだから、さすがドイツは寒いなどと感心している場合ではない。

普仏戦争に勝ちドイツ帝国が成立した後だけれど、このときにはまだ現在のドイツ国鉄は成立していない。だからもちろん「国鉄粋な計らい」などと報道されてはいない。あるいは「甘やかし」という批判で火だるまになったのかも定かではない。

ブラームスの命はあと半年余りに迫っていた。

2008年10月 1日 (水)

伴奏ルネサンス

「伴奏」のようなポピュラーでシンプルな言葉の定義が何かと厄介な場合が多い。複数の楽器またはパートが参加するアンサンブルにおいて、その重要性に差が生じていることがある。このとき、より重要性の低いパートを伴奏と呼ぶことがある。おそらく最も頻度高く伴奏に回る楽器はピアノだ。これは断じてピアノという楽器の地位の低さを意味しない。むしろその類希な機能性ゆゑに伴奏を任されると解したい。

バッハに代表されるポリフォニーの反動として、旋律と伴奏の区分がより明確になった作品が数多く現われた。この動きと楽器としてのピアノの発展普及の時期が一致したことも伴奏楽器としてピアノが多く用いられることと関係があるかもしれない。

旋律と伴奏の分業化が進むと伴奏のパターンも整えられてゆく。

  1. 刻み
  2. 伸ばし
  3. 後打ち
  4. アルペジオ

何を隠そうヴィオラは、オーケストラの中では「伴奏班」の班長格である。特に古典派と呼ばれる時代にはその傾向が強い。ベートーヴェンのエロイカ交響曲の第一楽章冒頭、ヘ長調のラズモフスキーカルテット第一楽章の冒頭、モーツアルトのト短調交響曲の冒頭などその代表格だ。この周辺の刻みを美しく奏することは、それはそれで楽しみの一つだ。特にモーツアルトのアレグロ作品における「一陣の風が通り過ぎるような」疾走感の表現には、欠かせない。

その一方で「後打ち、刻み、アルペジオ」という言葉には「旋律にありつけぬ」というある種の自嘲が含まれている。

ブラームスは、古典への敬意だけはそのままに、ヴィオラにありがちなこの手の呪縛を取り除く。ポリフォニーへの回帰とまで断言する自信は無いが、旋律と伴奏の分業という現象に歯止めをかけたという表現までなら理解も得られよう。

協奏曲の管弦楽側も同様の恩恵を受ける。独奏楽器の伴奏という無惨な位置付けからの脱却だ。しかもそれが独奏楽器の地位の低下には断じて直結しないのがブラームスの真骨頂だ。あるいは二重奏ソナタやリートにおけるピアノの位置を見るがいい。従来伴奏と呼ばれたパートの復興が指向されていると解したい。

ブラームスはいわゆる「伴奏」という言葉がもっとも相応しくない作曲家だと感じる。

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