新米
秋の楽しみの一つ。その年にとれたお米のことだ。新米を丹念にといで、炊きたての状態で食べるのは大きな喜びだ。みそ汁に漬物、焼き海苔でもあれば他に何もいらない。
むかしは、新米を食することはカッコ悪いとされたこともあるようだ。つまり、新米を待ちかねたように食べるのは、「今年とれた新米を食べねばならないほど、米の備蓄が少ない」ことを意味したらしい。米が経済の中心だったころのお話だろう。米の備蓄イコール金持ちという概念だ。米の味より見栄優先と見た。
新米の味には抗しがたい魅力がある。貧乏と思われてもいいから新米を食べたい。
ブログの記事に関しては、見栄を張りたい気持ちも理解できる。今日公開の記事を今日あれこれ考えるというのは、危ない。今日突発して起こったはずせぬブラームスネタは、今日の今日ということもあるが、あらかじめ考えておいた複数のネタの中から、今日にふさわしい記事を選ぶという意味からも、豊かな備蓄は必須である。
ブログを始めて3年半、そろそろ新米ブロガーから脱却しなければならない。
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