遊んで暮らす
庶民の憧れ。これをやりたくてやれない人は多い。だから5月や年末年始の連休が9か10で大騒ぎになる。キリギリスの話を持ち出すまでもなく古来やっかみも含めてこれを戒めることわざも多い。
ブラームスの伝記を読んでいると、1875年に楽友協会の芸術監督を辞してから22年間定職についていない。本人は日記を残していないから、伝記の情報ソースは廃棄を免れた手紙か友人知人の証言しかないが、それらを読む限り遊んでばかりであるかのように見える。5月から9月は避暑地だ。それ以外はウィーンを根城にしながらも演奏旅行に忙しい。ウィーンにいる時ですら、郊外へのハイキングには頻繁に出かけている。
考えれば当たり前で、友人や知人が証言出来るのは作曲をしていない時のブラームスの姿だ。人生から寝る時間と作曲の時間を除いた余暇の証言者であるに過ぎない。作曲の過程を明らかにしなかったブラームスだから、見かけ遊んで暮らしていたように思えるのは当然だ。いつ降って湧くかわからない楽想に備えているというのはきっとそういうことなのだ。
作曲工房の中身に深く言及することは無いけれども、一日の時間配分については、一部の友人が証言している。朝早く起きて散歩、その日やるべきことは大抵午前中にすませてしまったという。午後から夜にかけては演奏会やパーティや遠足なのだろう。こうしたパターンが規則正しく繰り返されたらしい。午後だけ見ている人には遊んで暮らしていように見えても仕方がない。
ある意味でブラームスの思うつぼだ。作曲の過程などひと様に見せる物ではないと考えていたに違いないからだ。遊んで暮らしているように見えるのは、遊んで暮らしているように見せている結果だと感じる。
毎日こんなブログを書いている私も、遊んで暮らしていると思われたい。
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