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1868年4月10日ブレーメン大聖堂。ドイツレクイエム初演の時と場所だ。ブラームスの作曲家としての位置づけを磐石にした出来事である。
この演奏会にはブラームスの知人がほとんど顔を揃えたという。父ヨハン・ヤーコプ、ヨアヒム夫妻、シュトックハウゼン夫妻、アルバート・ディートリヒ夫妻、そして真打ちはクララ・シューマンだ。めぼしい関係者では恩師マルクセンだけが病気を理由に姿をみせなかった。ブラームスが開演までクララの到着を気を揉みながら待っていたと友人たちも証言している。クララは遠来の客だったのだ。
このときクララの住まいはベルリン。バーデンバーデン郊外のリヒテンタールに別荘もあったから、そのどちらかから駆けつけたのだ。ブラームスの気の揉み方から察するに、クララは約600km離れたリヒテンタールから駆けつけたのではあるまいか。600kmと言えば東海道新幹線なら東京から明石の少々先、東北新幹線なら二戸までだ。
現在、特定のアーティストの公演ならどこにでも出没する層は珍しくないが、当時新幹線も飛行機もない時代であることは考慮されねばなるまい。
結果クララは間に合い、ブラームスにエスコートされて入場したとされている。
そのクララの反応は感動的だ。夫ロベルトの予言が実現したと涙にくれるのだ。600kmを呼び寄せたとしても、お釣りが来る反応である。
ブラームスには第6交響曲はない。もちろん弦楽六重奏曲は2つあるから、このような言い回しでは個体識別が出来ない。だから私にとって「ブラ6」とはもっと別の意味である。
本日の記事のカテゴリー「協奏曲」「ヴィオラ」「バッハ」を見れば答は自ずと明らかである。私にとっての「ブラ6」はブランデブルク協奏曲第6番を意味する。2つの独奏ヴィオラがガンバやチェロやコントラバスを従えての協奏曲である。底光りするような渋い編成である。「協奏曲」とは言うものの華やかさとは無縁だ。
大学4年間ヴィオラの個人レッスンに通っていた。最後の半年間の課題としてブランデンブルク協奏曲第6番を習った。3月最後のレッスンで先生に独奏ヴィオラの2番を弾いていただいて全曲を通した。現在使用中の巨大ヴィオラを買う前のヴィオラだから40cmなのだが、大変だった。暗譜は勘弁していただいてなんとかカッコをつけた。
特に第2楽章が気に入っていた。先生とハモっていることが腹の底から実感出来た。いつか次女にヴィオラを弾かせて私の「ブラ6」に挑戦したいと密かに考えている。性格的にもあっているような気がする。
「ブランデンブルク協奏曲」はバッハ器楽曲の代表作だが、このネーミングにバッハ本人は関与していない。ブランデンブルク辺境伯に献呈されたためにこう呼ばれているに過ぎない。1873年に高名なバッハ研究家フィリップ・シュピッタが命名したという。この人ライプチヒ・バッハ協会設立の立役者だ。約100年忘れられていたバッハは、このロマン派の時期になって鮮やかにリバイバルを果たす。メンデルスゾーンによる「マタイ受難曲」の再演とともにバッハ復興の象徴となる出来事だ。同協会によるバッハ全集をブラームスも収集していた。
何のことはない。このシュピッタという人物はブラームスのお友達だ。現在でもバッハ関係の書物をめくっているとしばしば名前の出てくる超一流の研究家である。
少年時代のマルクセンといいシュピッタといいバッハネタをキチンと提供してくれる人が回りにいたのだ。
学生時代、始めて取り組んだバッハの作品がこのブランデンブルク協奏曲第5番だった。もちろんヴィオラのパートだ。この曲編成が風変わりだ。ヴァイオリンが一部なのだ。これには実に現実的な意味がある。バッハが作曲した当時、ケーテンの宮廷楽団では、バッハ本人がヴィオラだった。ところがこのブランデンブルク協奏曲の第5番には独奏チェンバロがある。独奏者はもちろんバッハ自身だからヴィオラがいなくなってしまう。仕方なく第二ヴァイオリン奏者がヴィオラに回ったために、ヴァイオリンが一部になってしまったという。このタコ足的対応にはほほえましいものがある。
バッハは自分が弾かないヴィオラパートもちゃんと面白く書いてある。
ブラームスの活発な演奏活動が鉄道の発展によって支えられていたことは既に述べた。ところが、ブラームス自身その鉄道に文句たらたらのエピソードがある。
1894年民謡研究の集大成「49のドイツ民謡集」が刊行された。友人のホイベルガーはこれに先だってブラームスと意見交換をした。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻108ページだ。
ブラームスはそこで自らの民謡集にはライン地方の民謡が収録されていると明言している。数年前まで鉄道も通っていなかった地域だとも言っている。ニュアンスとしては「だから価値がある」とも受け取れる表現だ。続けて、最近は鉄道が発達してしまったおかげで、どこの民謡も同じようになってしまったと主張する。民謡の素朴な味わいを尊重する立場から、ここでは鉄道は厄介者扱いされている。
鉄道どころか飛行機が世界中を飛び回っていることを知ったら何と言うだろうか。
結婚披露宴で祝電が披露されることは珍しくない。私が司会をした披露宴23回は全てそうだった。祝電の束を新郎新婦に渡して、全文読んで欲しいものを選んでもらっておく。まあ5つ以内がいいところだ。お決まりの文面が多いので退屈してしまうこともあるからだ。時間の都合を長短いずれにもつけやすいので司会進行の上では重宝なイベントだ。
23回のうちの後ろ半分くらいから、あるいたずらをすることが恒例になった。新郎新婦に頼まれた電報の披露の最後に有名人からの電報を読み上げるのだ。実際には届いていないのに、適当な文面と差出人を考えて読み上げてしまう。現実に届いた文面が月並みで退屈しかけた参列者が「おやっ」という顔をするのが楽しい。
たとえば以下の通りだ。
という具合だ。もちろんすぐに、「最後の一通だけは私のアドリブですが、そのほかは正真正銘お二人のために届けられたものです」とやると大抵は拍手喝采だ。
実は、このいたずらは単なるお遊びではない。BGMをするために控えている、楽団員たちへの合図となっている。つまり「これで祝電披露が終わるから、次のプログラムの準備にかかれ」という暗号なのだ。会場の前方にいることも多い司会者から、楽団への合図があまり目立つとカッコよくないのだ。合図をしたように見えないのに、ピタリのタイミングで音楽が始まるという美しさにこだわった結果だ。祝電披露は進行の関係で時間が伸び縮みすることが多いので、楽団への合図は必須なのだ。差出人も電文も完全に私のアドリブなので、楽団員たちはいつしかこれを楽しみにするようになった。2005年8月16日の記事「千葉披露宴サービス」で言及した演出の一環だ。
披露宴の2次会では、この電文も含めて当日の演出の善し悪しが話題になったものだ。
事前に会場を訪れて新郎新婦の足取りで歩くことさえあった。入場から着席までの時間を計るためだ。オケの仲間や当日の楽団員は皆、こうした準備を知っているから、後であれこれ盛り上がれるのだ。音程やアンサンブルの乱れが話題になることなど全くといっていいほど無かった。
こうして演出のノウハウが次々と積み上げられていった。私の披露宴ではこれらのノウハウを全部注ぎ込んだ。
私の時の祝電の差出人がブラームスだったかどうか記憶にない。時間の関係で新郎新婦がお色直しで退場中に祝電披露をしたせいだ。
中心たる地域から遠く隔たった場所。領土の辺縁の意味。もっと平たく単に「田舎」という意味の遠回しな表現だったりする。
問題は「中心たる地域」という概念だ。厄介なことにこれは時代によって遷移する。小学生時代から不思議だったのは東海道新幹線だ。東京を起点に南あるいは西に延びるのに何故「東海道」なのか疑問だった。あるいは京浜急行の最初の駅はどう見ても品川駅の真南なのに「北品川」なのか。これらの現象は中心となる地域が遷移したことが原因だ。千年の都・京都を中心に考えれば「東海道」は不思議ではない。「北品川」の「北」は東海道線の品川駅ではなく東海道第二の宿場・品川宿を基準に考えるべきだと教えてくれる。
バッハが6曲の協奏曲を献じたことで有名なブランデンブルク辺境伯は田舎の領主という語感がそれとなく漂う。現在のドイツの土地勘からすれば首都ベルリンを取り囲むこの地域はけして田舎ではない。この場合の辺境とは、神聖ローマ帝国の領土にとっての辺境なのだ。
一方ブラームスは1890年代になって刊行されたエルク・ベーメの民謡集を以下のように批判する。
本日の文脈からすれば上記のうちの2は興味深い。
ブラームスはブランデンブルク地方を「民謡の収集にとっては不毛の地」と位置づけている。これに対して自らの「49のドイツ民謡集」はライン地方の民謡だとして違いをアピールする。「あのあたり(ライン地方)は最近まで鉄道も通らなかった地域だ」と田舎ぶりを強調する。この場合「田舎ぶりの強調」は自慢だ。鉄道に頼らず足で集めたという意味も含んでいよう。大事なことがある。ここで言う「ブランデンブルク地方」は田舎たる「ライン地方」の対極として位置づけられているのだ。神聖ローマ帝国からドイツにものの見方の中心が遷移していると解したい。
ジョージ・ヘンシェルという人がいる。声楽と指揮をするらしい。なんでもボストン交響楽団の初代指揮者だとか。彼はブラームスとの交流をいきいきとした語り口で残してくれている。ブラームスはヘンシェルには心を開いていたようである。
ある日ブラームスは、ヘンシェルに切り出す。「D・スカルラッティのソナタからカッコいいフレーズを拝借して歌曲を書いたンだが、それをスマートに披露するうまい手はないだろうか?」という具合だ。
ヘンシェルは答える。「楽譜のその部分の下に、スカルラッティの名前でも書き込んでみては」と。気を許しあった友人同士の小気味のいい会話がしのばれる。
この作品は「Unuberwindlich」op72-5として現在に伝えられている。「とてもかなわない」と邦訳されている。2個目の「u」はウムラウトである。ピアノ伴奏が2分の2拍子のVivaceで走り出す冒頭に「D.Scarlatti」と書かれて、このフレーズがスカルラッティからの引用であることが明示されている。2分音符にしてわずか4拍分の短さだが、キビキビ感溢れる主題である。四分音符2個がアウフタクトに出ていることもあって、少々ガヴォット気味にも聴こえる。
作詞はゲーテである。ブラームスがゲーテの詩に曲をつけた5曲のうちの一つだ。モーツアルトのバリトンのためのアリアといった感じの曲だ。フィガロが歌う「もう飛ぶまいぞこの蝶々」か「ドンジョヴァンニのアリア」といった感触だ。我が家のCDでは、男性4人が歌っているだけで、女性が誰も歌っていない。数少ない「男歌」の一つである。
ココログではユーザーが任意のカテゴリーを創設出来る仕様になっている。何気ないがこれはきわめて重宝だ。調子に乗ってカテゴリーを新設しまくっていることは19日の記事「カテゴリーメイキング」で述べたとおりだ。
ブラームス生誕200年を目指す我がブログは、せっせと記事の補充をしなければならない。1つ1つコツコツと思いつくのが基本だが、最近別ルートでよく思いつく。記事を直接考えるのではなく、記事がいっぱい書けそうなカテゴリーを考えるのだ。その意味で「71 地名探検」は大ヒットの企画だ。カテゴリーの新設は直ちに記事が5本書けることが最低条件だが、「71 地名探検」はその基準の10倍に届く勢いだ。
一方で、公開日を先日付にした記事に付与したカテゴリーは、実際に公開日が来るまで左サイドバナーのカテゴリーに表示されない。既に10本以上記事が貯まっているカテゴリーがあっても、公開の日まで読者にはわからないのだ。これが隠しカテゴリーだ。
現在隠しカテゴリーは2つある。タイトルは内緒だ。記事の順番や公開の時期を検討中だ。時間を置いて読み直すと良い推敲が出来る。生煮えがないようじっくり火を通しているようなものだ。
音楽之友社刊行「ブラームス回想録集」第3巻92ページだ。ブラームスの友人でスイスの詩人ヴィトマンの記述に感動的な話が載っている。
ブラームスとヴィトマンは愛犬アルゴスを連れてインターラーケンに程近いグリンデルヴァルトに出かけた。アイガーをバックに雄大な氷河を望むアルプス有数の名所だ。ハプニングはここで起きた。愛犬アルゴスとはぐれてしまうのだ。泣く泣く捜索を諦めてヴィトマンとブラームスはベルンのヴィトマン邸に帰った。金曜日のことだ。
週明けの月曜日の朝。ブラームスはクララのいるバーデンバーデンに向かうために身づくろいをしていると、ドアをひっかく音。何とアルゴスがベルンに帰還したのだ。一家総出の大騒ぎの中、ブラームスは自分の出発も忘れてアルゴスをくしゃくしゃにした。「そこいらの忠犬物語じゃないんだぞ」と叫んだという。
ヴィトマンは回想録の中で具体的な地名を挙げてアルゴスの苦難の道のりを思い遣る。
という具合だ。これを先に買い求めた地図上でトレースした。これはイーターラーケンからの登山鉄道の西回りだと判る。ここに出た地名は現在の観光ガイドでは欠かされる事のない景勝地ばかりだ。4番ラウターブルンネンまでは上記のルート通りにアプト式鉄道が走っている。つまり下りとはいえ相当な勾配だということがわかる。ブラームスが訪ねた当時もこのアプト式鉄道があったが、飼い主とはぐれた犬が乗車出来たとは思えない。だからこのルートはヴィトマンの推定でしかないのだ。インターラーケンからトゥーンの間に横たわるトゥーン湖の北岸を進んだのか南岸をたどったのかさえわからない。
現代のスイスの観光ガイドを読む限り、犬が単独でインターラーケンに下山するならグリンデルワルトからツヴァイリュッチネンに直行する東回りの方が現実的と感じる。あるいはアルゴス号が主を乗せた列車が西回り線を走り去るところを見ていた可能性もある。だから線路をずっとたどったと考えると西回りという可能性も残る。
いずれにしろ総延長60kmは下るまい。金曜日にはぐれてから、3昼夜でベルンに帰還したのだ。さらにヴィトマンの記述にはアルゴスが子犬であったことが仄めかされている。これを犬の嗅覚は鋭いからとか、単なる帰巣本能でと論評するのは容易いが、地図上でトレースしてみてアルゴス号の凄さがわかった。もしかするとアルゴス号は主人ヴィトマンに連れられて何度かグリンデルワルトを訪れたことがあるのかもしれない。そう考えねばにわかには信じられない。東京から東海道線に乗れば平塚くらいで、大阪からなら明石の少し先までに相当するが、行程のアップダウンはそれらの比ではあるまい。
ブラームスはその後の手紙でアルゴス号に言及している。「パン切れなんかじゃなく、肉を与えてくれ」「きっとブラームスからの挨拶だと思ってくれるはずだ」とある。
地図は楽しい。
ワイン製造に関わる用語だ。果実を搾る工程の前に重力によって自然にしたたり落ちる果汁を指す。フリーラン果汁を回収した後、果実を搾ることで得られる果汁とは区別される。これを原料としたワインは一般に苦味を伴わないピュアなワインになるため大変珍重されるという。
ブラームス自身が知人に語ったところによると、楽想が湧いたらメモにとってしばらく放っておくと、いつのまにか自然に形が出来て行くという意味のことを言っている。また「大抵は最初に思いついたものが最善で、あれこれいじり回すと悪くしてしまうことのほうが多い」とも言っている。ここでも「フリーラン」が珍重されているようだ。この文脈でうっかり第2交響曲を例に挙げると、第1交響曲が相対的に地位を下げかねないが、何だかあのニ長調はフリーランの香りがする。
ブログの記事も同じだと思う。自然にほとばしり出るネタが一番だ。ネタを搾り出すようでは、記事の質も怪しいと思わねばなるまい。
フリーラン果汁だけから作るワインもいいが、時にはしっかり搾って、じっくり寝かせた記事も欲しいところである。推敲しておかしくしてしまわないのもテクのうちだと思う。万が一おかしくしてしまったら、有無を言わせず廃棄というブラームス風の潔さとセットならば問題はあるまい。月並みな結論だが、要はバランスと見た。
5月27日に創設したカテゴリー「69 マッコークル」への記事のアップは順調に進んだ。さらにココログのモニターに当選して降って湧いたような「70 ブログ出版」も同様だ。そして今「71 地名探検」も急ピッチである。
順調にアップ出来る見通しがあったから、カテゴリーを新設したとも言える。既存のどのカテゴリーでもジャストフィットしない記事が多数書けそうな時、カテゴリーを新設することにしている。大体の目安は5本だ。記事の固定リンクにアクセスすると、末尾に同一カテゴリー5件が表示される。記事の堆積が少ないとこれが5本未満になるのですぐ判る。カテゴリーを新設する以上、すみやかに5本になるのが望ましい。
これから興味を持って調べようとしている事柄がある場合、先行してカテゴリーを立ち上げることもある。いわば自分への激励だ。最近では単独の記事を考えるというよりも、記事がたまりそうなカテゴリーがありはしないかと考えることが多い。「71 地名探検」はその好例だ。
記事の配列に工夫をすることがブログ「ブラームスの辞書」の譲れぬ方針だが、カテゴリーの配置もそれと似ている。読者の利便というより自分の都合だ。私自身の「意識の向き」の縮図になっていると感じる。
クララの訃報を受け取ったブラームスが取るものとりあえずフランクフルトに駆けつける際、不手際があって大幅に遅れたエピソードが大抵の伝記に載っている。例によって音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第2巻176ページに詳しい言及がある。ホイベルガーの証言だ。
せっかく詳しい地図帳を買ったのでこのときの手違いを地図上で追いかけてみる。
ブラームスはウィーンから回送されてきた電報をクララの死の2日後5月22日にイシュルで受けた。そしてその日に出発したとある。出発に際して翌朝つまり5月23日午前4時にフランクフルト着という見込みを打電している。
ブラームスがいたイシュルから見て目的地フランクフルトはほぼ北西である。イシュルからザルツブルクに向かえばよさそうだが、ここには鉄道が引かれていない。北東30kmにあるグムンデンに向かわざるを得ない。トラウン湖畔のグムンデンからまたさらに北東に進む。約30kmだ。ここで間違いが起きた。ヴェルスという駅で乗り換えねばならないところ、車掌が起こすのを忘れてリンツまで乗り過ごしたのだという。
なるほどヴェルスという駅で北西に向かう鉄路が交差している。ヴェルスで乗り換えに成功していればそこからパッサウPassuへと向かうことが出来た。やむなく23日午前3時まで待ってリンツからヴェルスまで引き返しパッサウPassuへ向かったと思われる。この時点で打電しておいた到着予定時刻は60分後に迫っている。
パッサウからはドナウ川沿いに走ってレーゲンスブルクRegensburgに向かう。ここでドナウの流れとは分かれるが、ニュルンベルクNurnberg→ヴュルツブルグWurzburg→フランクフルトという具合に辿ればほぼ一直線だ。これでフランクフルト着が23日夜の11時。19時間遅れだ。さらにそこで買った新聞によってクララの遺骸が既にボンへ回送されたと知り、そこで下車せずにマインツ、コブレンツを経てライン川沿いを北上したと思われる。ボン着は翌24日朝の5時であったという。ほぼ丸1日のロスである。
また、ホイベルガーの証言では仕方なく鈍行列車に乗ったことが仄めかされる。これは鈍行の他に優等列車が走っていることを暗示する。ウィーン-フランクフルト間は現在特急が運転されている。ブラームスはヴェルスで何らかの優等列車に乗り換えるつもりだったのだと推定出来る。
ドイツの鉄道事情に疎い上に、現在の鉄道路線に基づいて推測を重ねたから実態とは違うかもしれないが、地図の上で辿ることで憔悴したブラームスの旅路をよりリアルに感じることが出来た。イシュル-ボン間は約750kmの行程だ。新幹線やICEなどの高速鉄道の無い時代一昼夜というのは現実的な値だ。
故人が遺した作品のうち未発表のものとでも定義されよう。
発表を前提とした芸術作品でなければならない。プライベートな文書や遺書、あるいは書き置きは含まれない。マニアにとってのお宝度、骨董的な価値とは関係がない。「発表を前提とした」というところがミソだ。故人が発表の意思を持っていたということが前提だ。本人は発表に値しないと考えていた作品が、ひょんなことから廃棄を免れて、死後発表されるケースを含めてはいけないのだ。
このような定義を厳密に適用するとブラームスには遺作が無いということになる。
父が11年前に亡くなった時、遺品の中から自作の俳句集が見つかった。俳句が晩年の父の生活を豊かに潤していたこと疑う余地はない。句作のメモに混じって一冊の句集が見つかった。タイトルは「初孫」だった。父にとっての初孫つまり私の長男の誕生から1年間、折に触れて作った句から孫に関するものだけを抜き出して、簡単な詞書きとともに書き記した物だ。孫といっしょの泣き笑いが活写されている。「孫に名句無し」と自嘲していた父が、言葉とは裏腹に初孫の句集を残したのだ。
3人の子供に残してやる記録について、我が家には方針があった。「記録が年長の子供ほど手厚いという状態に断固陥らない」というものだった。初めての子供である長男が誕生したとき、日記、写真の残し方を決めた。「第2子以下にもやってあげられることしかやらない」という観点から熟考した。だから我が家の子供たちの日記や写真は皆同等の濃さであり分量なのだ。
しかし、父の句集「初孫」は、大きな例外になった。3人の子供たちの中で長男にだけ、おじいちゃんの句集が残っているのだ。父が亡くなった時、5歳だった長男にとっては宝物だ。
厳密な遺作の定義とははずれるが、私にとっては十分に遺作である。
発表会が終わってから最初のレッスンだった。
発表会後の最初の課題がグノー=バッハの「アヴェマリア」に決まっていた。発表会から2週間また次への歩みが始まる。先生の意図はヴィブラートだ。ゆったりたっぷりと歌いたい曲だ。指回しやハイポジションは一旦棚に上げて、ヴィブラートを深めたい。
しめしめでもある。5月18日の記事「大人の暗譜」でも述べたとおり、バッハの平均律クラヴィーア曲集の1番ハ長調のプレリュードを暗譜したから、もう少しがんばれば「アヴェマリア」の伴奏をピアノでしてあげられるのだ。
単なる丸暗譜だから、ヴァイオリンとあわせるとなると、もう少し鍛錬が必要だ。次女のヴィブラートの歩みと競争だ。
11月13日の記事「調の名で呼ぶ習慣」の続きである。というよりもむしろこちらが本題だ。作品を呼ぶ際の個体識別に「ジャンル名と調の名」がセットで用いられていると書いた。
ブラームスの器楽曲でも同一ジャンルに複数作品が存在しているが、標題音楽から距離を置いていたため、それらが標題もなく雑魚寝している感じがする。実は「交響曲」などのジャンル名に調名を添える言い回しをブラームスが強く意識していた形跡がある。曲種別に第1楽章冒頭の調性をリストアップした。
<ソナタ>
<トリオ>
<カルテット>
<クインテット>
<ゼクステット>
<セレナーデ>
<交響曲>
<協奏曲>
見ての通り、「曲種名+調性名」で作品の特定が出来ないのは赤文字で記した「ヘ短調ソナタ」と「ハ短調カルテット」の2種しかない。この2種にしてもシューマンの助力の甲斐あって若い頃から大出版社から作品が刊行されていたブラームスは生前からキチンとした作品番号を体系的に付与出来ていたから極端な不便は感じない。「ヘ短調ソナタ」は「ピアノソナタ」「クラリネットソナタ」と通称されることを考えると実用上の差し障りはない。この2例の他は、カプリチオやインテルメッツォなどのピアノ小品を例外として全て「曲種名+調性名」で作品が特定出来ることになる。
「ハ短調カルテット」は悩ましい。偶然にもこの2曲、作曲の着手から出版までにかなり時間を要した作品である。このあたりの調性選択あるいはネーミングに悩んで時間がかかったのかもしれない。ピアノ四重奏曲第3番は当初ハ短調ではなく、「嬰ハ短調」であったという言い伝えが重要な意味を持ってくるように思われる。
さらに真贋論争のあるイ長調の三重奏曲は、他の三重奏曲にイ長調が無いのでひとまず合格といえる。あるいは「2台のピアノのためのソナタ」ヘ短調が、最終的にはピアノ五重奏曲という形態に落ち着いたのは「ソナタヘ短調」のままだと作品5のピアノソナタと重複することにも起因しているかもしれない。
ブラームスが自作の調を選択するに際して、このあたりの事情を考慮していた可能性は否定できまい。偶然だとすると出来過ぎている。
野球用語だ。ヒットを打った率のことだ。1シーズンを終えて、そこそこ打席(規定打席数)に入った者の中で最も打率が高かった者を首位打者という。
「率」というからにはこの数値には分母と分子がある。率を上げようと思えば、分子を増やすか分母を減らすかすればいい。「分子」はこの場合ヒットの数だから単純だ。ヒットの数を増やす以外に出来るのは「分母」を減らすことだ。打率計算の「分母」は打者がバッターボックスに入った数ではない。そこから、犠打、四死球、打撃妨害の数を除いた数値が分母になる。犠打や四死球が多いと分母が少なくなるから結果として打率が上がる。だから首位打者争いには四死球や犠打が多い方がいい。打撃妨害やデッドボールは意図して獲得出来ないから除外するが、四球・フォアボールは意図して獲得することができる。
この数値が3割なら名選手だ。4割打てば伝説になれる。
古今の大作曲家といえども全作品に占める名作の率はべらぼうに高い訳ではない。いわゆる「つまらん曲」も相当あるのだ。古典派までの作曲家は多産だった。先ほどの例で申せば「分母」が多い状態だ。結果として打率は下がるが、当時はそんなことは気に掛けてはいなかった。率を残せばいいという程、話は単純ではないし超名曲1つで永遠に記憶されるというのも悪くない。ワールドシリーズでの完全試合一つで殿堂入りという選手もいるそうだ。
ブラームスは少し事情が違う。作曲家のモノグラフィが定着していった時代に生きた。作曲家が死後、愛好家や研究家からどのように取り扱われるかを目の当たりにした。結果として自らの死後に残す作品群の全体像に気を配っていた可能性がある。楽譜の出版が一般化された結果、出版さえしなければ作曲しなかったも同然という時代が到来したのを巧妙に利用した。作曲されながら気に入らぬ作品を片っ端から廃棄したのだ。つまりこれが「分母」の圧縮に相当する。犠牲フライを打ったり、フォアボールを選んだりすることと同じ効果がある。ボール、ストライクの判断をクララやヨアヒムにも相談した。
その結果彼の「分母」つまり打数は122になった。もしこのうちの50が名曲なら彼は4割打者だ。名曲の定義は人により違うから打率の判定はここでは控えるが、相当な高打率だと感じる。
バッハさんからは「規定打席数に届いていない」とクレームが入るかもしれない。
音楽愛好家同士の会話や、音楽関連書物の中で頻繁にお目にかかる表現がある。特定の作品を指し示すときに調の名前を添付する言い回しのことだ。「ハ短調の交響曲」「ニ長調のコンチェルト」「Bdurのカルテット」という類の表現である。その時に使われるのは、決まって第1楽章冒頭の調の名前だ。
何故こうした言い回しが発生定着しているのだろう?何故決まって第1楽章冒頭の調なのだろう?
名前を付けるという行為は人類に特有の行為である。その機能は個体の識別と、存在の認識にあると思われる。製造や物流の品質管理においてよく用いられるの後者だ。製造工程といってもそれは、膨大な数のアクションの集合体だ。それを一山いくらののりで「製造工程」と総称しているのだが、品質管理をつきつめる際には、一個一個のアクションに名前を付けることから始まるという。名前を付けることで人々は個々のアクションを意識するようになるらしい。これがつまり存在の認識である。
音楽作品に名前を付けるという行為は多分に前者だということは明らかながら、後者も無視し得ないと思っている。話は「標題音楽」がもてはやされるずっと前にさかのぼる。作曲家は、貴族の求めに応じて次々と作曲した。同じ編成同じジャンルの作品が消耗品の如く生み出された。もちろん作曲順に並べて早い順に付番する「作品番号」の概念など存在しない。作品がたまたまいたく気に入られた場合でも、ただディヴェルティメントと言っただけでは、どれを指すのか判らなかったに違いない。仕方なく作品冒頭の調の名を付けて個体を識別したのが作品命名の起原ではないかと想像している。名前が付いてみると、好きだ嫌いだ、良い悪いの議論がより盛り上がることになる。存在の認識がより進むことになるという訳だ。
昔の仲間と久しぶりに会う。あるいは電話で話をする。
「元気かぁ」とお決まりの会話が弾む。最近これに新しいパターンが加わった。相手から「ブログ読んでっからそっちの様子は知ってるけど」という反応があるのだ。つまりその旧友はブログ「ブラームスの辞書」の読者になっていたのだ。
こちらは旧友との久々の会話で盛り上がろうかというのにこっちの話は全部筒抜けだったのだ。ブログのアクセスが増えたことを無邪気に喜んでいるが、ほとんどこの手の身内というオチは十分あり得る。
「ブログいつも読んでるよ」「んならコメントぐらい入れろよ」「いやあ、あんまりバカなんであきれてたところッス」という具合に会話が進むのだ。
「内容はともかく暇が真似出来ん」と言いかけて呑み込んだに違いない。
大学祝典序曲のタイトルは「ヴィアドリーナ序曲」になっていたかもしれなかった。
ブレスラウの大学から博士号の授与の返礼として作曲された「大学祝典序曲」のタイトリングにブラームスがあれこれ腐心した様子が記録に残っている。
当時も今もブレスラウはけして田舎ではない。現在はポーランド領となっており、ポーランドではブレツワフと呼ばれているが、ブラームス存命中はドイツ領だった。ポーランド西部を北流し北海に注ぐオーデル川のほとりに開かれた街がブレスラウである。そしてそのオーデル川の古い呼び名が「ヴィアドリーナ」だったという訳だ。いかにもドイツっぽい「オーデル川」という名称に対して「ヴィアドリーナ」はイタリアの香りに満ちている。ローマに起原を遡れそうな感じである。
結局ブラームスは「ヴィアドリーナ」を採用しなかった。イタリア好きのブラームスではあるが、ドイツの学生歌が頻繁に現れる作品にイタリア風の命名をためらったのかもしれない。
作品を特定する場合、ジャンル名に調性の名前を添えるケースが多い。
「ハ短調の交響曲」「ハ長調のソナタ」という具合である。
このとき添えられる調の名前は作品の冒頭の調であることが普通だ。作品の冒頭でいきなりガーンと主和音が鳴らされる場合は世話無しなのだが、楽譜に書かれた調号と、実際に鳴る調が違っている場合がある。このとき調の名前としてはどちらを採用するのだろう。あるいはその採用に決まりがあるのだろうか。
どうも楽譜上の調号が優先されているような気がする。個体識別が出来ればそれでよしという立場なら問題は無いが、私のように作品の調性の数を調べようと言う段になると途端に悩ましい。調の微妙なうつろいが売りのブラームス作品で、調を数えるのは無謀な試みだ。せめて作品の冒頭の調性を数えることでお茶を濁したいのだが、実際にはそれさえも難しいケースが多い。
しかし、それは私のブラームスラブの妨げにはならない。むしろブラームス節の根幹だという位置づけだ。
ドイツの地名を調べているとガッセ(Gasse)とシュトラーセ(Strasse)という言葉が頻繁に出てくる。一般に「Gasse」は「小路」、「Strasse」は「通り」と解されているが、日本人には実感を伴いにくい。
ちゃきちゃきのドイツ語ユーザーのブラームスさえこれを混同していた形跡を見つけた。音楽之友社刊行の「ブラームス回想録集」第1巻64ページに興味深い記述がある。親友アルバート・ディートリヒにウィーンの居所を伝える手紙の中に「ポストシュトラーセ6番地」とある。ところがここに注がふられ「ポストガッセ」の誤りだとの指摘が踊っている。引っ越したばかりで混乱していたと思われるが、次の手紙からは直っているとある。
ブラームスがガッセとシュトラーセを取り違えていた実例である。郵便局の近隣であることから派生する命名だから似たような地名はどんな街にでもあるのだろう。
さてここからが本題。ブログ「ブラームスの辞書」名物「お叱り覚悟の深読み」に入る。
このときのブラームスの勘違いには深い理由があると感じる。
1854年2月27日ロベルト・シューマンはライン川に投身した。シューマン一家を案じてブラームスがデュッセルドルフ駆けつけたのが3月4日か5日。その後の献身ぶりはつとに名高い。最初シューマン邸に起居したブラームスだが、献身が長期戦になることを見越して近所に部屋を借りた。シューマン邸のあったビルカー通りから1本西側の通りにある。その通りの名前が「ポストシュトラーセ」だったのだ。このときにシューマン一家への献身のために借りた部屋の住所がブラームスの先入観に深く刻み込まれたことは想像に難くない。あるいはウィーンでの住居決定の際にこの地名の類似が気に入った可能性さえ想像してしまう。アルバート・ディートリヒはデュッセルドルフのブラームス宅の住所を知っていたに違いないから、ウィーンでの新住所を読んでブラームスの洒落っ気を感じたかもしれない。
引っ越し間もないブラームスの勘違いというよりは、シューマン一家と苦楽をともにした記憶のためと解したい気分である。
単なるうっかりミスと考えるよりロマンティックである。
「びせんこう」と読む。出典は三国志だ。主人公劉備玄徳と義兄弟の契りを交わした関羽雲長のニックネームだ。
三国志の登場人物の中では諸葛亮と並ぶ人気者だ。武勇と知略を兼ね備え義理堅く信義に厚い。目上の者や同輩には横柄だったが、部下には優しく接した。一方敵方の曹操からも手厚く遇された。臨沮で敗死した関羽の遺骸を諸侯に準ずる儀礼をもって葬ったという。正史の記載でもその英雄ぶりは明らかだが、羅貫中の三国志演義における活躍ぶりは群を抜いている。その人気は現代にまで及び、商売の神様ととして華僑たちの守り神になった。世界各地のチャイナタウンには関羽を祭った祠つまり関帝廟がある。
その関羽はアゴと頬に見事なヒゲをたくわえていた。だから美髯公といわれているのだ。髯というのは頬のヒゲのことだ。アゴヒゲは鬚と書くらしい。関羽は髯に加えて鬚も自慢だったという。
晩年のブラームスの肖像にも見事なひげがある。アゴヒゲとホホヒゲの境界もわからぬくらいだ。つまりブラームスも豊かな鬚と髯を持っていた美髯公である。
武勇と知略を兼ね備え義理堅く信義に厚いという関羽となんだかキャラが重なって見える。当時「天下二分の計」によってワーグナーと論争していたという訳ではない。
話題の映画のせいで三国志の注目度が上がっているから、こういう記事をアップしておくとアクセスが増えるかもしれないという「苦肉の策」である。
2007年11月3日の記事「ハンブルクから」で「ブラームスの辞書」op122がハンブルクのブラームス博物館に届いたことを報告した。
本日のお題「ペーターシュトラーセ39番地」は、そのブラームス博物館の住所だ。
手許のパンフレットには付近の詳細な地図が載っている。それによるとハンブルク旧市街を取り巻く大通りHutten Pilatuspool に面している。ブラームス広場から南西に500mの位置である。ブラームスの生家跡にも近い。
ブラームス博物館の所在地であると同時に、ハンブルク・ブラームス協会の所在地でもあるらしい。
何より大切なのはここに、「ブラームスの辞書」が一冊あるということだ。
数えるという行為は、おそらく人間だけのものだ。物を数える動物はヒトだけという認識は誤っていないと思う。おそらくは「網羅」の次に来る動作だ。網羅出来た後に数えることで、完璧になる。
無意識に置かれた物を数える。その結果が無意識の裏に隠された意図や法則の反映であることも少なくない。人々はそれを知っているから統計が成り立つのだ。人々は数えるという行為が人間に固有の知的な行為であることを無意識にせよ知っているから、統計が好きであるし、時にはそれに騙される。あるいは昨今はやりのランキングも数える事抜きには成立しない。
実は「ブラームスの辞書」は書籍もブログも数えることで出来ている。エクセルの助けを借りることは多いが、数えるという本質は動かない。
10月12日の記事「地名登場ランキング」が最近の事例だ。ブラームスの伝記一冊に登場する地名全てを数えた。「ブラームスの辞書」はブラームス作品の楽譜上の音楽用語を全部数えることが出発点になっている。
このように私は何かというと数えるのだ。
数えることが億劫にならない限り、記事のネタに困ることはない。
ブラームス通りと訳せばいいのだと思う。これだけの人気作曲家だから、世界的に見れば相当たくさんあるのだと思う。
このうちの一つにフランクフルトのブラームスシュトラーセがある。街の北寄りにあるフランクフルト・ドイツ国立図書館の南東約400mに聖マリエン教会がある。教会の北側から環状道路に向かって伸びる200m程の通りがブラームスシュトラーセだ。このブラームスシュトラーセはその北端でリヒャルト・ワーグナーシュトラーセとぶつかっているのだ。出会い頭の衝突事故が多発しそうな感じがしてしまう。
そのつもりで周辺に目をやると、ヘンデルシュトラーセやグルックシュトラーセも見つかって退屈しない。
そうかと思うと、フランクフルト中央駅から北北西1.4kmのあたりにベートーヴェン広場があって、その周囲にベートーヴェンシュトラーセ、シューベルトシュトラーセ、メンデルスゾーンシュトラーセ、シューマンシュトラーセが密集している。
実際に訪ねてみたい。
神仏に物事をお供えすることだ。金品ばかりではなく、行為動作が対象となることもある。舞踊や音曲、土俵入りなどが奉納されることもある。生き物の命を捧げる場合には特に「いけにえ」と呼ばれ、昔はそれが人間の場合さえあって「人柱」などと称されていた。
今年8月30日にブラームス神社を創建した。通算15万アクセスの達成を感謝したばかりだ。さらに昨日11月3日の記事「最少目盛」で、20万アクセスが来年のブラームスの誕生日に間に合うように願をかけた。
ところが、お恥ずかしいことにこのブラームス神社に「ブラームスの辞書」を奉納するのを忘れていた。創建からもう2ヶ月以上経過してしまったが今日、「ブラームスの辞書」op250を奉納することとし、op250を販売用の在庫から引き落とす。
どうも今まで願い事の効きが悪かった。これで少しは持ち直すかもしれない。
ブログの管理人にとって自分のブログが人に読まれるのは嬉しいものだ。その意味でアクセス数にはいつも目を光らせている。時を経てアクセスがじわじわと増えて行くのを見守るのは、「キャラ育て系ゲーム」の醍醐味に似ている。アクセス系の記録が更新されるとついはしゃぎたくなるのだ。ブログが自らのブログの成長記録でもあるから、アクセス系のエポックには必ず言及したいのだが、あまりその頻度が増えるとブログの緊張感が低くなることもある。バランスが大事だ。
ブログ「ブラームスの辞書」では、アクセスネタが過剰にならないよう自主規制を設けている。定点を決めて、その間に起きたアクセス系のニュースを集約しているのだ。現在その定点は「10000アクセス」だ。アクセス1万ごとにトピックスに言及するというわけだ。昨年の今頃は1万アクセスの所要時間が2~3ヶ月だったからちょうどいい頻度だと思っていた。
このところ1万アクセスの所要時間がもっと短くなる傾向にある。1万だった最小目盛を2万あるいは5万に増やさないと、アクセスネタの頻度が上がってしまいかねない。つまりブラームスネタの濃度が下がるのだ。嬉しい悲鳴の一種である。
15万アクセスに達していながら、まだ16万には届かない今の時期がチャンスだ。
これを機会にアクセス数お祝い系の記事を5万アクセス毎にする。同時にこれはささやかな願掛けだ。20万アクセスが来年のブラームスの誕生日5月7日までに実現するようにブラームス神社にお願いする。そのためには毎日平均270のアクセスが必要だ。年度末のアクセス日照りを考えると簡単ではない。
パンパンパパン。
長く続いているコミックがある。単行本にして100巻を超えているという場合も少なくない。コミックには2つの系統があると感じている。「登場人物が歳を取るコミック」と「歳を取らないコミック」だ。歳を取るコミックの場合、1巻と100巻で主人公の顔が違うのが普通だ。時間の経過を描くことが主眼だから主人公の顔も変わって行かねば不自然だ。
「歳を取らないコミック」だと何年たっても主人公は小学校5年生だったりする。それをとりまく登場人物も歳を取らない。だから、顔も変わらないのだ。ところが、コミックの1巻と100巻を比べると明らかに顔が違っていることがある。1巻を書き始めた頃は、100巻も続くことなど想定していなかったのに、読者の厚い支持を得て超ロングセラーになったような場合、主人公や登場人物の顔が練れてくるということが実際にあるのだと思う。あるいは漫画家が歳を取ったということなのだろう。
ブログ「ブラームスの辞書」はこの記事が開設以来1300本目の記事である。ここ最近の記事の文体と、2005年5月開設当時の記事の文体を比べると変わったことがあるかもしれない。出来るだけ文体のブレを少なくするよう心がけているが、完全に排除することは難しい。昔の記事を読むとそれが判る。そうした文体の微妙な変化は、歳を重ねた印だと考えている。ブログという器に盛ることでひと様に読まれることを通じて洗練度を増すのならむしろ歓迎せねばならない。中心に鎮座するブラームスへの思いは昔も今も変わらないが、それを伝える文体はゆっくりと変化する。
同じことがブラームスの作品でもきっと起きているのだと思う。
「Kuyawiak」と綴る。ヴィニエフスキーの作品だ。ヴァイオリンとピアノのためのマズルカという感じの小品である。リピートを全部忠実に守っても5分程度の長さだ。
ピチカートとアルコの急速な交代、重音、ヴィブラート、グリッサンド、フラジオ等ヴァイオリンならではの小技がちりばめられている。極端なハイポジションが無いことが特長か。
今日、ヴァイオリンの発表会で次女がこれを弾いた。中学生になって初めての発表会だ。初めて制服で出演した。
5月にお姉ちゃんがヴァイオリンのレッスンをやめた後、中学でのブラスバンドの傍らコツコツと実直にレッスンを続けてきた成果を存分に発揮出来た。部活との両立に配慮した先生が選んでくれた曲だ。対照的な表情の弾き分けが肝だ。短い曲だが見せ場が満載である。部活で忙しい9月が終わり10月になってから気合いが入った。暗譜は軽々だった。最後の2週間で表情に磨きがかかった。油断をすると汚い音になってしまう点がトロンボーンより難しいと言っていた。やはりレッスンは発表会に出て何ぼである。
しかし、今日のハイライトは別にあった。
メンコンだ。第一楽章だけだがメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が演奏されたのだ。もちろんピアノ伴奏だ。驚くべきは弾き手。男子高校生のペアだ。独奏ヴァイオリンもピアノも男子高校生だった。聞けば2人は高校オケのヴァイオリン仲間らしい。キビキビ感あふれる清潔な演奏で感心した。サークル仲間の2人の演奏だけあって呼吸はピタリだ。これを人前で弾くとはヴァイオリンもピアノも只者ではないのだが、それを微塵も感じさせぬ爽やかさだった。彼らの未来の広さは計り知れない。次はブラームスが聴きたい。
その演奏を次女も聴いていた。期するところ大であろう。
この子が続けてくれているヴァイオリンが、楽しみの一つになっている。やはりいつかブラームスを。
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