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2009年3月 6日 (金)

家計簿の後継ぎ

昨日の記事「家計簿の担い手」で、シューマン一家の家計簿の記入者について述べた。元々の担当はロベルトだった。そしてエンデニヒの病院に収容されて後、約1年の間ブラームスが記入していたことは確実である。

新たな疑問がある。

1854年12月30日をもって終わったブラームスによる記入の後、誰がシューマン一家の家計簿をつけていたのだろう。

その後シューマン一家は家計簿をつけなかったということになれば、この疑問は消えてなくなる。やはり家計簿はつけられていたという前提だ。

一番の候補者はクララだ。演奏会で留守にする時だけ誰かに代わりを頼んだかもしれないが、主体はクララだ。もしブラームスが関与していたのなら記録に残るはずだ。ブラームスは1854年12月30日を最後に関与していないと見るのが自然だ。あちらドイツでは家計簿記入は男の仕事だったとしても、亭主が入院とあれば女性の出番もあろう。

私なりのささやかな候補がいる。1855年9月には14歳になる、シューマン夫妻の長女マリーだ。1854年の暮には、20歳のブラームスから13歳のマリーへのかわいい申し送りがあったと想像するのは楽しい。「クララの留守中だけ」という条件付きであることは十分考えられるが、マリーは有力な候補だと感じる。ブラームスが1856年10月にデュッセルドルフを引き払ってハンブルクに戻るまでは、不明な点を前任者ブラームスに尋ねることも出来たはずだ。

1856年春ライプチヒの学校に通うようになるまでの短い期間になるハズだが、マリー・シューマンはそれだけの器だ。

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