ブラームス神社

  • 道中安全祈願

おみくじ

  • テンプレート改訂しました

独逸日記

  • ドイツ鉄道博物館のおみやげ
    2012年3月28日から4月4日まで、次女の高校オケのドイツ公演を長男と追いかけた珍道中の記録。厳選写真で振り返る。

ビアライゼ

  • Schlenkerla
    自分で買い求めて賞味したビールの写真。ドイツとオーストリアの製品だけを厳選して掲載する。

カテゴリー

« 家計簿の担い手 | トップページ | ウイーンフィル »

2009年3月 6日 (金)

家計簿の後継ぎ

昨日の記事「家計簿の担い手」で、シューマン一家の家計簿の記入者について述べた。元々の担当はロベルトだった。そしてエンデニヒの病院に収容されて後、約1年の間ブラームスが記入していたことは確実である。

新たな疑問がある。

1854年12月30日をもって終わったブラームスによる記入の後、誰がシューマン一家の家計簿をつけていたのだろう。

その後シューマン一家は家計簿をつけなかったということになれば、この疑問は消えてなくなる。やはり家計簿はつけられていたという前提だ。

一番の候補者はクララだ。演奏会で留守にする時だけ誰かに代わりを頼んだかもしれないが、主体はクララだ。もしブラームスが関与していたのなら記録に残るはずだ。ブラームスは1854年12月30日を最後に関与していないと見るのが自然だ。あちらドイツでは家計簿記入は男の仕事だったとしても、亭主が入院とあれば女性の出番もあろう。

私なりのささやかな候補がいる。1855年9月には14歳になる、シューマン夫妻の長女マリーだ。1854年の暮には、20歳のブラームスから13歳のマリーへのかわいい申し送りがあったと想像するのは楽しい。「クララの留守中だけ」という条件付きであることは十分考えられるが、マリーは有力な候補だと感じる。ブラームスが1856年10月にデュッセルドルフを引き払ってハンブルクに戻るまでは、不明な点を前任者ブラームスに尋ねることも出来たはずだ。

1856年春ライプチヒの学校に通うようになるまでの短い期間になるハズだが、マリー・シューマンはそれだけの器だ。

« 家計簿の担い手 | トップページ | ウイーンフィル »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 家計簿の後継ぎ:

« 家計簿の担い手 | トップページ | ウイーンフィル »

フォト

ブラームスの辞書写真集

  • Img_0012
    はじめての自費出版作品「ブラームスの辞書」の姿を公開します。 カバーも表紙もブラウン基調にしました。 A5判、上製本、400ページの厚みをご覧ください。
2019年6月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ